月島聖公会

今週の聖書のお話

小さなもののひとりを

マルコによる福音書9:38〜43、45,47~48
2021年9月26日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 
 礼拝を見たこともなければ、キリスト教に興味を持ったこともない人々と話していると、(聖書ではなく)神話に出てくる天使の名前が出てくるアニメを語り出し、「だから自分はキリスト教をけっこう知っている」とのたまう大人がいることに正直驚きます。そんな時は「あ、そうなのね」と流しますが、その方々にとっては超越的な力を武器にした戦闘シーンが感動的らしく、この怪物はキリスト教で一番えらい!などと強調されると、多少複雑な気持ちになります。
 
 一方、直接宗教に関わったことのない一般的な日本人にとって、「宗教とはお金目当ての活動」というイメージもあるようです。目に見えない「希望」や「信念」を言葉にするのは、何かを誤魔化すためであり、「その背後に何かある」はずなので、人の弱みにつけ込んで金銭的な搾取をするような「宗教団体」の全貌が明らかになると、逆に、変に納得したりもするようです。いずれにせよ日本で宗教/信仰と呼ばれるものは綺麗事であり、心の弱い人や非科学的な思考の持ち主が飛びつくもの、と相場が決まっています。

 こうなってしまった原因のひとつには、1995年の地下鉄(日比谷線、千代田線、丸の内線)サリン事件があると思います。「宗教」に洗脳され思考停止した人々はお金のためなら何でも実行、そして反社会的な行動や破滅も厭わないというイメージを広げた事件なのだろうと思います。そして、あのような酷い事が再び起きないためには、宗教や信仰に近寄ってはならず、ある種の自己防衛からか、目に見えない世界を茶化し、心や精神の存在を軽んじるのが安全、という風潮に繋がっているのかもしれません。

 でもだからこそ、なのだと思います。イエスさまは徹底して、声の小さな人、社会の果てに押しやられている人、切り捨てられている人のところに身を置きました。何が得か、役に立つかという話ではなく、徹底して「痛み」を共有し、神の愛こそがわたしたちを解放し、人生を美しくするものだと伝え続けました。お弟子たちの中には、そんなわかりにくく、まどろっこしいことを言っていないで、早く人々を唸らせたいと急いだ人もいましたが、それこそが「小さな者のひとり」をつまずかせる入り口であることを、イエスさまはご存知だったのでしょう。キリスト教の玄関の中にいるわたしたちもまた、効率と結果に心を奪われるとき、玄関の外にいる「小さな」人々をつまずかせる危険を持つものです。もしわたしたちが神さまの愛に信頼していなければ、イエスさまのメッセージをうわべだけで捉え、まちがって伝える危険があります。神の愛によって生かされていることを、まずわたしたちが心から信じているかどうか、自身に問うことから始めていきましょう。

こどもとイエスさま

マルコによる福音書9:30〜37
2021年9月19日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 聖書の記録によると、イエスさまが人々の間で活動したのは、たった3年間でした。その短い生涯に、貧しい人や病気の人の悲しみに寄り添っただけではなく、女性やこどもたちを軽んじたりもせず、何か用事がある時も、誰かに指示して伝えるのではなく、イエスさま自ら話しかけました。「こどもにも人権がある」という意識があたりまえではなかった時代に、あたたかな視線を注ぎ、ひとりの人間としての子どもに、尊厳をもって接したことが記されています。今よりずっと危険だったにもかかわらず、出産は「女/子ども」の範疇にとどまる「穢れ」という理解だったので、男の子が生まれない限り、あまり外からの関与はなかったと思います。しかも無事こどもが生まれても、病気になったり怪我をしたり、幼いうちに亡くなるのは珍しくなく、さらに小さくて力もない「おとな」なので、うるさくて手がかかり、労働力にはならず、途中でいなくなるかもしれない存在。だから成長するまでは、まともに話しかけたり相手にするような対象ではない、というのが常識的な理解でした。お弟子さんたちも、そんな慣習の範囲で行動しようとしたのでしょう、聖書の他の箇所では、近寄ってくるこどもたちを、お仕事の邪魔になってはいけないと追い払い、イエスさまにたしなめられています。

 イエスさまのこどもに対する処遇と対極を成す様子が、お弟子さん内での「誰が一番えらいのか」論争です。お弟子さんたちも、こういう話題を熱心に語るのを知られるのは恥ずかしい、と知っていたのでしょう。何を議論していたのか聞かれると皆、黙ってしまいます。損を避け、効率的で、しかも人より一歩も二歩も先んじることが「優秀なおとな」という妄想に取り憑かれるのは、現代ばかりではないようです。物事を効率的にすすめるには、組織やヒエラルキーが便利ですし、そこに私利私欲が加わると、目先の益が先に目に入ります。そういう人々にとっては、「こども」に象徴される様々な便利でない存在は、ペースを乱す障壁以外の何ものでもなくなり、少なくとも自分は「こども」などではない、という主義主張が始まるのでしょう。

 するとイエスさまは、ひとりの子どもを抱き上げて、「わたしの名によって、このこどもを受け入れる者は、神さまを受け入れる者だ」と言います。でも「受け入れる」内容は、ペットのように可愛がることではなく、要求を無条件に聞き入れることでもなく、親切な行為を多発することでもないでしょう。それは、小さなこどもの中に坐する神さまを見ること。どんなに力なく見える人の中にも、すでにその存在と共に生きて、その人の中で働かれている神の存在に、尊厳をもって対峙すること。そんな心の準備が出来た時に、わたしたちは神さまと出会うことができる、と言っておられるように思うのです。

 わたしたちが神さまに出会うために、こどもたちが目の前に用意されているわけではありません。でもその人々は、わたしたちの計り知れない神のミッションを担う人々。その方々からこぼれる一つの恵みとして、わたしたちが今日、「神さまと出会う」ように助けてくださっているのだと思います。わたしたちも驚きと尊厳を持って、日々こどもたちの中で働かれている神さまと出会いたいと思います。

十字架を背負う

マルコによる福音書8:27〜38
2021年9月12日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 皆さんにとって「自分の十字架」とは何だろうか。自分のことを振り返ると、子ども時代、20代、そして司祭按手までの20年間は、神さまから無理矢理背負わされた「十字架」を負ったつもりになっていた。とにかく何もかも手一杯と信じていた自分は、他者のことなどまるで視野になく、自己中心そのままのような生き方だった。しかも家族が負えないから私が負うしかない、くらいの横柄な気持ちでいたと思う。

 しかし当時、不満たらたらで負っていた十字架は、私を支配していた。そこから自由になろうともがくほど、支配の力は増していた。でも私はきっと、様々な節目に恵まれ、無駄にしなかったのだろう。強大な支配力で私を圧迫していたそれらは、気がつくと栄養の一部として消化され、浅薄さと軽率さで勝ち越したつもりが実は逃避であったことを認められるようになると、それらは内省への手がかりとなっていたことに気づく。

 だからと言って、今は仙人のように悠々、マイペースで暮らしているとは到底言えない。教会と施設の中を右往左往し、しょっちゅうあちらとこちらを取り違え、緊急の電話がかかってくるかもと怯えつつも、薄氷を踏みながら外出する。鍵と携帯電話があるべきところになくてうろたえ、紛れた書類やメールを発見できず探し物ばかりする。何か頼まれ事をすると、なんだか出来そうな気がして大風呂敷を広げ、それがいくつも同時多発的に重なると、だから言わんこっちゃないと後悔する。もはや自分の十字架が何であったかさえ、見えなくなっている。
 
 できることなら解決して終わりにし、二度と同じ目に遭わないようにしたいような出来事、しかもその重さと圧力に押し潰されそうになりながらも、とりあえずは背負うほかはないような事柄を、人は「自分の十字架」とよぶのかもしれない。そんな十字架は、一刻も早く捨ててしまいたいし、離れてせいせいしたい。またそれがあるから、自分の人生がうまくいかないのだとも思う。しかしそれが本当に「自分の十字架」であったなら、いくら目をそらしても無視しても、存在そのものを消すことはできないし、逃れようとすればするほどあなたを支配する圧力をかけてくるものだ。逃げても、「大したことじゃない」と虚勢を張っても、自分ではなく他の誰かが悪いのだと唱えても、それは相変わらずそこに居る。それが一体なんのためにそこに在り、いつまで居座るつもりなのか、聞いても答えはない。そしてそれがいつまで続くのかもわからない。でも、逃れようとする気持ちに向き合って、本当のところ、自分はそれをどうしたいのかと心を落ち着けて問うとき、流れは変わってくるように思う。すぐに「正解」は出せなくても、逃げるのを辞めた時、何かが変わる。そのように信じたい。

み言葉を行う人

ヤコブの手紙1:17~27
マルコによる福音書7:31〜37
2021年9月5日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 人の心の根底には、ほんとうは正しい行動を選びとりたい、という望みがあるように思います。それは、人から後ろ指をさされたりしないようにうまくやりたいという、やや短絡的な欲望も混じっているかもしれませんが、不条理に傷つけられたり自分の弱さや限界に気落ちしたりしながらも、とにかくひとりの人間として、この世に生まれてきたからには真っ当な人生を歩みたいという、純粋で根源的な望みを、誰しも持っているように思うのです。

 ところが、このような素朴かつ崇高な望みを、常に尊重しているとは言い難い現実があります。それは「青くさい」と片付けられたり、現実的ではないと決め付けられた体験がそうさせるのかもしれません。また、正しさを「比較の問題」とし、他の人の基準によっていくらでも変化するものだとする考え方もあるのでしょう。そして、目の前に立ち塞がる日常的な問題解決の役にはたたないと、「望み」に蓋を被せ、存在しなかったことにしているときもあるでしょう。一方、今日の使徒書に登場する「み言葉を行う人」とは、正しい事を完璧に実行する人ではなく、あくまでも正しさを望み見て「諦めない人」のことではないかと思うのです。

 特祷では、悪魔の誘惑に打ち勝つ恵みを願い求めます。また使徒書では、自分の心をあざむき世の流れに身を任せる危険に対して警鐘が鳴らされますが、神の正しさに寄り添おうとする生き方は、口で言うほど簡単ではなく、答えのない問いにずっと向き合うことになります。どうしたらいいのか、何が正しいのか、その正解は簡単には得られず、困惑することも、苦しむことも多く、時には投げ出してしまいたくなることさえあるでしょう。そんな時こそ、今日の聖書日課で語られる「悪霊」や「悪魔」の出番です。こんな自分は無価値だと思い込みたくなる誘惑へと背中を押す隙を狙っている存在です。そしてこの誘惑は、外の知らない世界からやって来るのではなく、どっちつかずの自分の中から出て来るのでさらに複雑なのでしょう。

 今日の福音書の物語は、聴覚障害のある人のところにイエスさまが近づき、なんとも泥くさい方法で、この人の生き方の軌道修正をします。喋ることも聴くことも出来ないのは不便ですが、ひょっとしたらわたしたちは、このガリラヤ湖畔でイエスさまと出会った人よりさらに、神さまの声が聞こえず、神さまに伝えることができないでいるのかもしれません。いや、むしろ、不都合なのでわざと「聞かず」、そして「話す」資格はないと思い込んでいるかもしれません。そんなわたしたちをも、イエスさまは見捨てず軌道修正をしてくださいます。「エファッタ」(=開かれよ)と呼びかけ続けていてくださいます。

見下すことへの警告

マルコによる福音書7:1〜8、14、15、21~23
2021年8月29日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 昨年の2月以来、コロナ禍は生活をすっかり変えてしまいました。だんだん慣れてきたわたしたちではありますが、手を洗うのも生活の一部となりました。買い物から戻ったら、冷蔵庫に食品をしまう前にまず手洗い、着替える前に手洗い、という毎日です。ウィルスに晒されたかもしれない手や持ち物の表面に、それらを長居させないという衛生上の理由から、一生懸命手を洗うのが当たり前のわたしたちですが、今日の福音書に登場するユダヤ人たちが「当たり前」とした手洗いは、また少し意味が違うようです。

 話は逸れますが、イエスさまを「十字架につけよ」と叫んだ群衆を止めることが出来ず、ローマ総督のピラトは手を洗います。彼は死刑執行を許可する権限がありますが、(たとえ死刑は間違いであっても)「自分は無関係」というあかしとして、群衆の目の前で手を洗いました。ピラトにとってこのパフォーマンスは、万が一の場合の自己保身に役立つと考えたのでしょう。一方、福音書のユダヤ人たちは「昔の人の言い伝えを固く守」り、外出から戻った時に、念入りに手洗いをしていたようです。出かけ先と、自宅との境界線をはっきりさせる意味で、手を洗っていたようにもとれますが、衛生概念というよりは、しきたりを守る常識人としての、公衆の目前で行ったパフォーマンスだったのかもしれないと思うのです。

 聖書の時代の人にとっても、現代のわたしたちにとっても、共同体の中で生きている以上は、そのようなパフォーマンスに無関係ではいられないでしょう。本当に大切だと信じているから一定の行動を続けているとは限らず、多少の迷いはあっても、「常識のない人」と決めつけられ、困ったハメに陥らないために、一生懸命無理をして、続けていることもあるかもしれません。心にもない美辞麗句を並べたり、嫌だなと思いながら必要以上の犠牲をはらったり、買いたくないものをお付き合いで購入したりなど、避けられないでいることもあるのでしょう。

 でもイエスさまが非難しているのは、常識人としてのパフォーマンスそのものではなく、パフォーマンスを他者に強要したり、その「正しさ」に倣わない人を「非常識」と決めつける人々に対して向けられています。そしてそれは、自分の立場が「上」だという前提がないと、おきないことです。

 そんな時、イエスさまは心配します。尊敬されている律法学者の中にも、地道なファリサイ派の中にも、自らを義とし、他の人を見下す輩は結構いたようで、現代でもその識別はなかなか難しいかもしれません。常識的に生きようと努力する人々が、そのように実行出来たことを感謝するのではなく、見下す視線で他の人々を見はじめた時、イエスさまは警告を発されるのだと思います。きっと誰にでもその可能性はあるのでしょう、もしファリサイ派の人々のような態度で何かを決めつけ、異なる人々を「見下し」目線で見ている自分に気がついたら、ハッとするわたしたちでありたいと思います。

多くは離れていった

ヨハネによる福音書6:60〜69
2021年8月22日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 8月に入ってからずっと(ただし、今週まで)、ヨハネによる福音書を続けて読む段取りとなっているため、4週間続けて「いのちのパン」のイメージが繰り返し出てきました。わたしたち人間は、食べ物なしでは生きられないのはわかっているとはいえ、神さまからいただく「いのち」のパンとはいったい何を指すのか、ますます謎は深まり、皆が頭をひねるという展開になっています。さらに今日の箇所では、「いのちのパン」も重要だが、誰がイエスさまを裏切り、誰が天国に行くのかはもう決まっているし、神から声がかからなかった人は残念でしたねとも聞こえ、こんな話には耐えられないと、たくさんのお弟子が離れ去っていきます。

 わたしたちからすると、じかにイエスさまと一緒に行動し、その働きや言葉に触れたにもかかわらず、イエスさまに見切りをつけて離れていくとは、なんだか「もったいない」気がしますが、離れて行った人々にとっては、期待とは何かが違ったのでしょう。イエスさまと一緒にいれば「奇跡」を起こせるようになり、社会変革ができると期待していた人もいたかもしれません。あるいは、イエスさまがこんなに頼りない人とは知らなかったと、落胆のうちに離れた人もいたでしょう。また、イエスさまの言われることが今ひとつ理解できず、これ以上一緒に居てもラチがあかないと思った人もいたでしょう。それよりもっと重要なことがあると、そちらへ心を切り替えた人もいたかもしれません。

 イエスさまから離れた人=神さまから離れた人と置き換えるのは、少し乱暴な気もしますが、でも「今はそれどころじゃない」と、神さまを一旦脇に置いて、「もっと重要なこと」を最優先するような行動をとり、心を神さまから離してしまうような状態は、日常生活では頻繁に起こっているのかもしれません。そういう意味で、イエスさまを見捨てて離れていった元お弟子さんたちの行動は、ひょっとしたら他人事ではないのだと思います。

 しかしながら、イエスさまの言葉を聞いて離れて行った人々が、それぞれの機が熟して、恵みと希望に満ちた言葉を再び聞こうと立ち返ってきた時に、その人を拒絶するような神さまではないと、イエスさまは別の場所で伝えておられます。つまりキリスト教の神さまは、わたしたちに「ふられて」も、ひるむような方ではなく、自己都合で離れていった人に、二度と戻って来るな、などと言う神さまではありません。多くの人々がご自分から離れていっても、離れたという事実だけを拡大解釈しないように努めましょう。また、ご自身が神さまから離れても、神さまは見守り続け、待ち続けておられることを心に留めていましょう。

パンを食す人びと

ヨハネによる福音書6:53〜59
2021年8月15日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 皆さんもご存知のように、イエスさまの生き方に共感し、神さまの示す愛を大切なことの中心に置いて生きようとする人が、洗礼を受け教会の構成員となります。もっとも、洗礼を受けても受けなくても、教会の仲間のひとりであることに変わりはないのですが、洗礼を受けると、聖餐式で(頭に手を置いて祈る)祝福ではなくて、「パンとぶどう酒」を受け取ることになります。でもこれは、「会員になると与えられる特権」というよりは、責任の再確認に近く、繰り返しパンとぶどう酒を受けて、イエスさまに倣って生きる決断をしたことを繰り返し思い起こす、という目的を含んでいます。

 月島聖公会では現在、聖餐式をお休みするという異常事態ですので、パンとぶどう酒について語れば語るほど、信徒の皆さんは切ない気持ちになるかもしれません。でも今は聖餐式を行うことが出来ないからこそ、そこに込められた意味を想い起こす必要があるのでしょう。そして、どんな状態に在っても、イエスさまはわたしたちと共に歩んでくださると確信することにより、今日も立ち上がり顔を上げて前に進むことができるのだと覚えましょう。また、こんなふうに恵みを受けている者は、目には見えない恵みを、自分ひとりのために消費し完結させるのではなく、ひとりでも多くの人々と分かち合うために、一時的にお預かりしているに過ぎないという点も忘れてはならないことでしょう。一時預りをした恵みを分かち合う機能として、「教会」が存在するということも、心に留める必要があると思うのです。

 イエスさまが言っておられる「パン」は、米を主食とするアジアでは「ごはん」と訳した方が良いのかもしれません。(韓国の金芝河という詩人は、聖書に登場するパンを「飯」(めし)と言い換え、「飯が天国だ」という詩を書いています)。物質的な「ごはん」は、食べてしばらくすると、また食べなければならず、そしてそれは何らかのかたちで死ぬまで続きます。一方、イエスさまがくださる天国の「ごはん」も、一回食せば一生やっていけるというものではないのでしょう。それは天国の「ごはん」に力がないからではなく、自分の弱さや情けなさ、あるいは腹黒さと共存しながら、この世で生きているわたしたちには、繰り返し目視確認できる「天国のごはん」が必要だからなのでしょう。でもそれは、欲望に駆られ中毒的に「天国のパン」を欲するということとは異なります。この世で生きて愛して、公共の善のために働くために、わたしたちは繰り返し、神さまの愛に支えられていることを、触れて見えて確認できるかたちを通じて思い出し、心が支えられる、それが命のパンなのだと思います。

自分の心に聴かない人々

ヨハネによる福音書6:37〜51
2021年8月8日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 コロナ禍と並行して、何がほんとうで、何がごまかしなのかを、わかりにくくする病気が流行っているようです。もっともその病気は前からありましたが、コロナ禍の広がりとともに、その姿が見えやすくなってきたのかもしれません。この病気にかかると、その場限りの言い訳で切り抜ける技が上達し、あとで辻褄が合わなくなっても一向に心は痛まなくなります。実際は自分と他人をだましながら生きているのですが、自分では「うまくやっている」という思い込みを駆使して切り抜けることができます。

 先日、少し遠くへ出かけた帰りに嫌な光景を目にしました。時刻は夕暮れ。信号が青に変わるのを待ちたくさんの人が交差点で待機していましたが、やがてそこに救急車のサイレン音が近づいてきたのです。救急車は、信号がすでに黄色になりかけていたこともあり、減速しながら交差点に差しかかりました。すると歩行者側の信号がパッと青になったとたん、自転車に乗った中高生の群れ、数組の子ども連れの家族、そして左折を待ってウインカーを出していた車が、一斉に飛び出しました。まるで「青だから私に権利がある」と主張するように。結局、救急車はしばらく停止し、道路を渡り切った人々や車がはけてから走り去って行きました。

 この話は嫌というよりは、悲しい話なのかもしれません。こういった行動をとってしまう人々の中には、救急車と自分は一生無縁と決めているか、道路交通法について知らない人もいるのでしょう。また他者の命を危険に晒しても道路を渡る必要があったのかもしれません。悪意なく救急車を止める遊びをしていただけかもしれません。そんな個々の背景は別として、私が気になるのは、「みんな渡っているから」「自分は咎められない」と、救急車の活動を集団で遮ることに躊躇しなかった人たちの心の中です。救急車を止めても、大人のそんな行動を子どもたちが見ていても、「たいしたことじゃない」と自分に言い訳した人たちの将来です。

 今日の福音書で「つぶやき合う」人々は、物事の本質ではなく、枝葉に言及することにより、自分も周りも言いくるめることで、その場を乗り切ろうとしています。イエスさまが信仰にかかわる話をしているのに、非難の対象にはならないことを見越して「そもそも大工の息子だし無学なはず」と言う。何の話をしているのか自分の心や頭では受け止めず、無学なイエスから教えを聞くのは不快だし、それを口に出しても、皆の賛同を得られると確信しての言動です。イエスさまから聞く必要はないと判断したのなら仕方がないと思いますが、身の安全を確保した上でのみ、このような言動に至る姿は、夕暮れの中で救急車を止めた人々と重なります。救急車の中ではどんな苦しみや痛みと闘っている人がいるのか、それを想像できないような生き方は、イエスさまは望んでおられないと思います。

欲望と望みの識別

ヨハネによる福音書6:24〜35
出エジプト記16:2〜4、9〜15 

2021年8月1日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 「幸せになりたい!」これは、万人の望むところなのでしょう。こうしたい、こうなりたいという、自分が幸せになる具体的な事柄を思い描く渇望もあれば、今、苦しんでいる事柄が過ぎれば、今、抱えている辛い問題が解決すれば自分は幸せになれるのに、といった消去法のような望みを持つこともあるのかもしれません。あるいはさらに直接的に、もっとお金があれば、もっと時間があれば、もっと体力があれば幸せになる、と考える時もあるでしょう。

 しかし、達成すれば幸せになると信じていた事柄が手に入ってしまうと、急にそれらが色褪せてきて、それでも心は満たされないという現実に直面することになります。それはまさに、以下の本日の旧約聖書の出エジプトの物語そのままです。

 イスラエルの人々が元々住んでいた土地がありましたが、そこに大飢饉が襲ったため、食糧のある外国に移住して400年の月日が流れました。当初は外国人であるイスラエル人を快く受け入れていた人々も、何世代も経つと、助け合った歴史や経緯を理解できなくなり、言葉や文化の異なる人々を疎ましく思うようになります。やがて彼らに対する強制労働や嬰児殺害なども法令化され、イスラエル民族は抹殺の危機に晒されます。たとえ生きていても、代々奴隷以外にはなれないことを知った時、皆でエジプトを出ていく「出エジプト」を決断します。

 ところが、追手に捕まり逮捕され虐殺される危険が去ると、すぐに人々はこのように言い始めます、「奴隷でいる方が良かった、肉もふんだんに食べられたから」「パンを腹一杯食べられるエジプトで死んだ方がマシだった」と。このあとも長い旅は続き、にんにくや玉ねぎが手に入るエジプトへ戻りたいと不満を訴える場面や、神さまの代わりに拝みたいと、金で仔牛を鋳造させるなどまでして、なんとかして「幸せ」になろうとあがく人々の姿を、聖書は赤裸々に記します。しかし的はずれの欲望は、いくら満たしても幸せに至ることはありません。

 わたしたちが「幸せになろう」と努力するのは、決してまちがっていないと思います。こうしたい、ああしたいと尽力することにより、社会や周りの人を助けられることもあるでしょう。ただ、とりあえず心の中にある欲望を満たすことと、これだけはどうしても譲れないという真の望みとを、はっきりと識別する必要があると思うのです。真の望みは、本人でさえまだ気がついていないこともあります。また、気がついてしまったら、社会生活を送る上で不都合なので、なるべく気がつきたくないという場合もあるでしょう。そして、イエスさまが「命のパン」と呼び、決して飢えることがないと約束される「パン」を得ることこそが、わたしたちの真の望みであり、「幸せ」に生きる道であるとも聖書は記します。その「パン」とは何か?イエスさまが教えてくださった道、つまり神さまに信頼し、徹底して愛に生きる生き方を最後まで全うすること。それが真の望みであり、「パン」の中身ではないかと私は思います。

お祈りの目的

マルコによる福音書6:45〜52
2021年7月25日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 今週の「特祷」(日曜日〜土曜日に用いるその週の祈り)で、「〜全能の神よ、あなたは常にわたしたちの祈りに先立って聞き、わたしたちが願うよりも多く与えようとしておられます」と祈ります。神さまはわたしたちを理解しておられ、お願いした内容を越えてはるかに豊かな恵みを与えてくださると言っています。でもそれは、わたしたちがいちいち祈らなくても、神さまはお願いの内容をご存知なので、あえて祈る必要はありません、と言っているのではないでしょう。「祈り」の果実は、神さまがこちらの願いどおりに何かをしてくれたかどうかで測るのではなく、わたしたちがおそれおののきつつ、つたない祈りの言葉をもって神さまのみ前に立つ時初めて、自身が抱える痛みと望みに真に向き合うことができる、ということで測るべきなのではないかと思うのです。

 またまた自分の子ども時代の話で恐縮ですが、家族や親戚一同けっこう身の周りに、病いを持つ人が多くいました。医者へ行っても不調の原因はわからない、ずっと治らないのかもしれない、とりあえず薬を飲み続けても一向に良くはならないという重圧は、時には人を不機嫌にします。皆が集まった時、病気についての言い争いに加え、「誰が病人の世話をするか」を押し付け合う場面も、幾度となくありました。また、トバッチリはこちらにも飛んできて、「子どもは気楽でいいよね」「どうせ人にはわからない」などと愚痴は続き、その締め括りは「まあ、あなたにはわからないよね」です。真剣に聞いていた(つもりの)自分がバカみたいでとても悔しく「あの人たちの気持ちがわかるようにしてください」などと祈ってもみました。でもこれは、彼らを理解したい、痛みと苦しみに寄り添いたい、などという気持ちとはかけ離れたものであって、頭に来た言葉に一矢報いたかっただけなのです。そして、あれからとても長い時間を経て、人々の心の奥に沈んでいる深い悲しみと痛みに向き合いたいと願うようになり、それは同時に、澱のようによどむ、ひとりではとても手をつけられない自身の傷と向き合うことにもなりました。祈りの出発点は、仕返しのような幼稚な動機でしたが、神さまはわたしを真の願いへと導いてくださいました。

 今日の福音書では、イエスさまが「湖の上を歩いた」ことばかりが気になったお弟子さんたちの姿も垣間見えますが、ある意味そのような見当違いの驚きの中にいる、困り悩んでいるお弟子たちの元へ、イエスさまから近づいて行かれたことを記しています。お弟子さんたちが、真の願いや祈りに至るのはまだ先のようですが、イエスさまは諦めることなく、一緒におられました。きっとわたしたちも同じです。たとえ間違った方向で祈り続け、勘違いの願いにしがみつき、神さまにああしろこうしろと迫っても、わたしたちを愛で包み、諦めずに導いてくださる神さまに信頼し、自分の言葉で真摯に祈ってみましょう。

五つのパンと二匹の魚 

マルコによる福音書6:30〜44
2021年7月19日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 イエスさまについて来た5千を越える人々が、5つのパンと2匹の魚をみんなで分けて食べたら満腹になり、余ったパンと魚を集めたら、「12のカゴにいっぱいになった」というこの不思議な物語は、4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)すべてに登場します。「たった5つのパンと2匹の魚だけで、5千人もの人を満腹させた、すごいイエスさまを信じましょう」と言っているような圧も感じますが、でも福音書全体から伝わってくるイエスさまの人柄からすると、特別な力を誇示したり、奇跡を行って皆を唸らせたりすることを目的に、何かをしてみせる人物とは思えないのです。さらに言うと、「深いあわれみ」をもって関わり、彼らのどうすることもできない悲しみや痛みを受け止めたイエスさまなのに、数時間後には再び飢えることを知りながら、この人々のおなかを一時的に満たすことで、結局何をしようとされたのか、そしてそれがどのように現代に生きるわたしたちにとっての「良い知らせ=福音」となりうるのか、よくわからない気持ちになったりもします。

  皆さまにとっても、読むたびにいろいろなメッセージをいただく箇所だと思いますが、今回は、私は数字が気になりました。まず「5つのパンと2匹の魚」に登場する「5」と「2」ですが、いずれも「不完全さ」や「何かが足りない状態」のシンボルなのだそうです。ことに「5」は、人間の肉体の持つ限界、またいつか終わるいのちも暗示させます。さらに、「キリストの傷」という意味もあるとのことです。また「2」は、「争い」や「大地」を表す数字。いまだに戦乱に苦しむ国々はありますが、他国の支配に翻弄され、部族間の戦闘に巻き込まれる苦しみが、当時もあったことを思い起こさせます。一方「12」というと、旧約聖書のイスラエル12部族を思い起こすように、「完全に満たされた」状態や、「完成」「自然世界の完成」を表すとのこと。

  こんな数字の目をもって、今日の福音書をもう一度おさらいすると、こんなふうに見えてきました。まずイエスさまについて来た「5」千人の人々がいます(人数の表現ですが、ギリシア語ではその場に女性がいても、全体を男性に代表させて「男性が何人」という言い方をします)。この人々は、いろいろな目的で来ていたことでしょう。生きる意味を失った人もいたし、家族の病気を治してほしいと願っている人もいたことでしょう、また単に興味本位の人もいたかもしれません。いずれにしても、手放しでは喜べない現実を抱えたまま、自分の弱さや情けなさ、そして悲しみや痛みを持ったまま、イエスさまの元に集まってきた人々です。

 どこから急に出てきたのか、マルコによる福音書には書かれていませんが、当時の庶民が食べる「5」つの大麦のパンと、「2」匹の干した魚が、お弟子さんたちによって確認されます。集まった人々が草の上に座って落ち着くと、イエスさまはパンと魚を手にとり、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」配るように言います。まるで聖餐式です。人々が落ち着いて座るだけでも、かなりの時間がかかったでしょうし、さらに分配にも時間がかかったことでしょう。5千人の群衆の端っこにいた人々には、何のために待たされているのか、ほとんど伝わらなかったかもしれません。中には、「パンと魚を配っている」ことがわかっても、自分のところに回ってくるはずがないと諦めていた人もいたことでしょう。しかし、驚くべきことに食べ物の奪い合いもケンカも起きず、すべての人が食べ物を分かち合い、身も心も満たされ、しかもその恵みは、完全数である「12」のカゴを満たすほどだったと記されています。

 わたしたちは、5や2が示す限界を持った存在です。そして、どのように言い訳をしても、取り繕っても、自分の弱さや不完全さは常について回ります。でもイエスさまは、そんなわたしたちの5や2を切り捨てるのではなく、認めてくださり、そしてそれらを祈って、愛で包んでくださる。するとわたしたちの存在は、自分の努力ではどうにもならなかった限界を超え、想像もしなかった豊かな恵みでいっぱいに満たされる。つまり神さまは、不完全さの象徴である「5つのパンと2匹の魚」を用いてでも、わたしたちに愛を伝えてくださろうとしている、という話ではないかと思うのです。そんなわたしたちに出来ることは、草の上に落ち着いて座り、必要以上に不安になったり心配したりせずに、神さまは必ずわたしの心と身体を養ってくださると信じること。そしてそれは、わたしたちが想像する以上に豊かな恵みであること。そんなことを伝える物語なのではないでしょうか。

宣教と言うこと

マルコによる福音書6:7〜13
2021年7月11日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 今日の福音書は、ずばりキリスト教の「宣教」について。宣教の理念やヴィジョンといったことではなく、イエスさまがお弟子さんたちに具体的な指示を出した、まさに「マニュアル」そのものです。旅行の現実的装備に始まり、一人ではなく二人で出かけること、村に到着したらあちこちの家を渡り歩かないこと。一方、聴く耳のない村では「足の裏の埃を払い落として」出ていくようにといった簡潔な内容ですが、旅の理念や目的をも示す素晴らしいマニュアルです。しかしながら、便利で安全な生活に慣れ過ぎたわたしたちにとっては、あり得ない内容です。

 旅の行き先は、はっきり決まっていない。村に着いても誰に会えばいいのかわからない。困った時にどこに助けを求めたらいいのかもわからない。そもそもお金も食料も水も持ち歩いてはならず、たとえ何かを盗られてもスペアの下着すらない。そして、自分の身を守るものと言ったら、履物と杖のみ。旅じゃなくて肝試しですかと問いたくなるくらい、不安は募ります。

 物質的には何も持たないという、その無防備さの一方で、お弟子さんたちは、汚れた霊に対する権能と、人々を悔い改めへと導く言葉と祈りを与えられています。彼らは、この2つだけを握りしめ、イエスさまへの信頼を唯一の手がかりとして、多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒すという果実が与えられたと、聖書は記します。

 わたしたちが「宣教」という言葉を心に思い浮かべる時、聖書の言葉をたくさん使い、ひとりでも多くの人が洗礼を受けたいと思うように道を備える、というようなイメージがあるかもしれません。それはそれで一つの方法なのでしょうが、宣教とはこのように、非常にシンプルなものなのではないでしょうか。イエスさまの言われた言葉をまさに心の真ん中に置き、世界の事柄すべては神さまが治めておられると本気で信じて、人々の真の必要に応えていくこと、それに他ならないのではないでしょうか。イエスさまの言葉を信じるなら、お弟子さんたちと行動を共にするなら、悪霊や病気から解放してあげよう、という交換条件付きの活動ではなく、何のメリットもないのに、感謝さえされないのに、人々が生きていくために尽力するという行動こそが、イエスさまが示される宣教なのではないかと思うのです。杖と履物以外は何も持たずに、神さまに信頼し従っていく。その姿勢が人を変え、状況を変えていく力になっていくのだと思います。

過小評価の難

マルコによる福音書6:1〜6
2021年7月4日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 自分の話で恐縮ですが、手土産を持参して相手に渡すとき、「つまらないものですが」という言葉を添える大人の情景に、違和感を感じていた子どもでした。本当に「つまらないもの」と思っているなら、相手に差し上げるのは失礼だと思う一方、贈り物について相手が過剰な期待を持たないための配慮?とも思いましたが、でもそれはそれで自己防衛の一環。自分を貶めることにより、相手をいい気持ちにさせたのだとする慣習は、果たして真の「謙譲の美徳」なのかどうか疑問もあり、いまだに不得意分野のひとつです。

 そんな「過小評価」の場面は、聖書の中にもしばしば現れます。例えば、旧約聖書の「私は雄弁ではありません。本当に口の重い者です」と何度も食い下がり、神の命令を頑なに拒もうとするモーセの話があります。自分は口下手だからその務めに相応しくない、と言っていたのかもしれませんが、それよりは、神が言ったことを皆に伝えて、「そんなとんでもないことを!」と、馬鹿にされるのを避けたい気持ちがあったのではないかと思うのです。民衆からの「過小評価」が怖くて、先に「私は口の重い者なので」と神さまにお断りすることで、部分的過小評価で済まそうとする自己保身を感じます。一方、今日の福音書では、「この人は大工ではないか。マリアの息子ではないか」(直訳=この人は、石工でもマリアの子でもないって言うのか?!)という言い方がありますが、石工でありマリアの私生児である「イエス」が、知識や見識に優れているはずはないと決めつける、イエスさまが育った村の人々による過小評価の姿が描かれています。

 問題なのは、社会的地位のない人や声の小さい人に対しては、あまり考えもせず簡単に「過小評価」をするのに、自分より強い立場にある人と対峙した途端、相手を「過大評価」することで、自分を守った気分になることなのではないかと思うのです。言葉を変えれば、「過大評価」をする人は簡単に「過小評価」もするし、それは相手ときちんと出会わない常套手段にもなります。他人に対しても、自分に対しても過大評価と過小評価を繰り返し、目の前に居る人をそのまま、まるごと受け止めようとしない在り様は、イエスさまの生き方と対極を為すものでしょう。口で言うほど簡単ではないかもしれませんが、わたしたちも、過大評価と過小評価のはざまで、オロオロするだけではなくて、神さまによって創られた唯一無二の存在である自分と他者を、まるごと受け止められるようになりたい、と願っています。

「タリタ、クム」

マルコによる福音書5:22〜24、  35b~43
2021年6月27日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 「少女よ、あなたに言う、立ち上がれ」という意味のこのアラム語は、イエスさまが実際に言われたとされる、聖書に残る言葉の一つですが、ギリシア語を話す人には、そのままではわからなかったらしく、原語とギリシア語が併記されています。またこの少女の話は、サンドイッチのパンの部分で、真ん中の具に当たる部分には、「長血を患う女性」の話が存在するのですが、今日の日課からは省かれています。一番大事なエピソードを、作品の中盤に据え、前後を別の挿話で挟むというスタイルは、度々聖書にも登場しますが、それにしても、病気が治り、少女が生き返るなど、現代に生きるわたしたちにとっては、かなり非科学的な箇所。どうしてこれが「良い知らせ」となり得るのか、頭を抱える難所でもあります。

 本日の聖書日課から「長血の女性」の物語を省く理由はさて置き、記者は、「治った/生き返った」ことに驚嘆しているのではなく、絶対的に守らねばならなかったはずの「律法」の垣根を、あっさり越えるイエスさまの行動を、伝えたかったのかもしれないと思うのです。亡くなった少女の遺体は、「穢れ」なので、触れてはいけないと「律法」に書かれています。生理中の女性も「穢れ」とされ、触れてはならない対象です。そしてこの女性は、12年間ずっと出血が止まらなかったとあるので、論外の「穢れ」とみなされてきたことでしょう。律法を大切なものとして守り、我こそは神のみ旨に添って生きてきたと自負する人々にとっては、穢れた女性に自分の服を掴まれても全然平気なばかりか祝福まで与え、息を引き取った少女の遺体の両手を直接つかみ、語りかけるといった行動は、ユダヤ人男性としてあるまじき行動に映り、今まで守ってきた文化や秩序を破壊されたと感じたかもしれません。

 わたしたちが住む社会でも、こんな「律法」のような働きをする掟が存在すると思います。苦しむ人の存在を知っても、掟を破ると厄介なことになるので、その人とかかわらないことを選ぶことがあります。孤立している人がいても、掟によると自分は非難されないと確認できると、気がつかなかったフリをすることもできます。でもそんなときにこそ、イエスさまだったらどうしていただろうかと、少しだけ考えてみたいのです。それは、言葉を変えれば今日の特祷にもあるように、神がこの世を治めていることを思い出したいのです。いろいろな決まりや掟は、最初は理由があって作られ、人々を守るためにスタートしたはずなのですが、時は流れ流れ、「人を守る」よりも、掟そのものが優先される常識に凝り固まった社会で、イエスさまはその垣根を越えて、本来の目的、つまり「人を守る」ところへ立ち戻られたのでしょう。自分の無力さに絶望することの多い昨今ですが、この世を見守っているのがどなたなのか、忘れないでいたいと思います。

あらしの中でも

マルコによる福音書4:35〜41
2021年6月20日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 40年ほど前、東京教区主催の第一回小笠原キャンプに参加したことがあります。竹芝桟橋から出航、船中2泊を経てやっと東京都小笠原村に到着しました(今はもっと速くなりました)が、伊豆諸島を過ぎたあたりからひどい揺れが始まり、まるで急上下するエレベーターに乗っているよう。夜も眠れないだけではなく、一同はひどい船酔にかかり、大広間で横になることも出来ず、それこそトイレから離れられないような、なかなかの船旅となりました。帰りもまた同じ船で2泊3日を過ごし、東京に戻らねばならないことを思うと、その時はキャンプに参加したこと自体を後悔していました。

 距離は全然ちがいますが、イエスさまとお弟子さんたちにとって、活動の拠点だったガリラヤ湖の村々を訪ねるには、徒歩に加え船も移動手段だったようです。周りを山々に囲まれた盆地という地形のゆえ、今でもガリラヤ湖では急に突風が吹き、転覆する船もあると聞きました。それにしても船がひどく揺れ、波をかぶって水浸しとなった船内では、お弟子さんたちは眠るどころではなく、沈むかもしれない心配と、真っ暗な波間に突然放り出される不安とで、パニック状態だったのかもしれません。

 嵐のような天候の中で、お弟子さんたちは非難するかのように「私たちが溺れてもかまわないのですか」と言って、眠っているイエスさまを起こします。「危ないですから起きてください」ではなく、わたしが溺死しそうなのに眠っているなんてひどいですよ、ともとれるセリフです。危機的状況に直面した時に、その人の本性が出るとは、よく言われることですが、この発言をしたお弟子さんも、自身の一番弱い面が露呈し、呑気に眠っているなんて!とイエスさまを非難する口調になってしまったのでしょう。

 わたしたちも、こんなふうに他人や自分自身を非難の対象にしてしまうことがあると思います。そして、危機的な渦のまっただ中にいるとき、何が問題だったのか、何をこれから変えていくべきなのかを、冷静に判断するのはとても難しいことを知っているのに、なんとか理屈をつけて短絡的に何かのせいにしようとします。でもそれは、自分の小ささの裏返しと、小ささを認めたくないという気持ちの表れなのだと思います。

 わたしたちの小ささは、わたしたち自身の弱さです。でもそれを自分だけでなんとかしようとするところに、まちがいの分岐点があるのではないでしょうか。わたしたちの弱さを無きものにするのではなく、神さまは、弱さをも含めてわたしたちを愛してくださることを想い起こし、嵐の中でも大風の中でも、必要以上に慌てふためくことのないように、心を整えたいと思います。

からしだね

マルコによる福音書4:26〜34
2021年6月13日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 月島聖公会の教会報の名称でもある「からしだね」は、新約聖書に登場します。現在の黒ガラシ(マスタード)の種と関係があると言われ、種の大きさは0.5ミリ程度、息を吹きかけると粉のように飛ぶほど小さいとされています。そんな小さな種であるにもかかわらず、成長すると茎がするすると伸びて5mに達することがあり、黄色の可憐な花が咲いた後に採取される種は、絞ると良質の油がとれ、残った茎と殻は家畜の飼料に使用された、そんな便利な植物だったようです。でも聖書は、マスタードの利便性ではなく、指先でつまめないほどの小さな種が、5mもの藪を形成する生命力に目を留め、それを「神の国」にたとえています。

 ではいったい「神の国」とは何なのでしょうか。「神の国」は、神さまが清く正しいと認めた「選ばれし者」だけが市民権を得られる国家のようなもの、と考える方もおられるかもしれません。またあるいは、この世の生涯を終えたら、わたしたちを迎え入れてくれる「天国」のようなもの、という感じ方もあることでしょう。何しろ誰も目で見たことがないので、こうだ!と言い切れないところがありますが、私が気になるのは、この吹けば飛ぶような「からし種」が、綺麗な箱に丁重に納められ大事に保管されるという話ではなく、土に植えられて初めて真価と生命力が発揮されるという点です。地面には、動物や虫の死骸や腐った植物、それに人間の排泄物さえ混じっていたかもしれません。また、種が無事に発芽する保証はなく、芽が出ても踏み潰されたり、動物に掘り起こされたりして、その命が断たれる危険にも満ちていたことでしょう。それでも残った種が、土の中で奇跡を起こしていきます。

 つまり「神の国」は、はるか遠くの清浄な場所に存在するのではなく、捨てられたものや、人々が不要となったもので構成される、まさに泥の中で、目に見える生命へと転身していきます。それはわたしたちが「清く正しくなったら」近づいてくる国ではなく、まさにわたしたちの混沌と無秩序と的はずれに満ちたこの日常のまっただ中に、神さまは諦めることなく種を撒き続けてくださる。わたしたちが踏み潰しても蹴散らしても、種の命をないがしろにしても、何百倍もの豊かな実を結ぶ生命を播き続けてくださる、ということなのではないかと思うのです。言い方を変えれば、わたしたちが目をそむけたいこと、自分ではとても受け止め切れないような痛みや苦しみ、無かったことにしたいような辛い歴史も、神さまはすべて愛をもって受け止め、それらすべてを用いて、わたしたちが想像もしなかったような豊かな実を結ばせてくださるということなのではないでしょうか。それに対してわたしたちが出来ることは、からし種の存在を認め、その成長を邪魔しないことなのではないでしょうか。

識別するちから

マルコによる福音書3:20〜35
2021年6月6日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 イエスさまは、当時の社会の中でしばしば「気が変な人」「汚れた霊に取り憑かれている人」と噂されていたようです。それは、正規の教育を受けたわけでもないのに、その道のプロである律法学者や祭司たちと議論したり、神さまはこういう方だと反論したりする行為は正気の沙汰ではないとみなされていたからだと思います。生まれ育ったユダヤ教の文化に順応できる人が「人として能力が高い」とみなされ、順応できないかあるいは違うことを言い出すような人々は、伝統と文化を破壊する「汚れた霊」に属する者と考えられていたことも関係しているのでしょう。イエスさまは、「人として能力が高い」どころか、親戚が身柄を拘束しにくるほどの「気が変になっている人」とみなされていたことを聖書は記しています。

 少し話はちがいますが、昔、ある病院のチャプレンをしていた時、内科や外科に加え、精神科病棟も担当していました。週に一回60分くらいのセッションを担当し、聖書の物語をグループで読みながら絵や詩で表現し、それをお互いに分かち合うという時間をもっていました。通院ではなく、入院されている皆さんですから、それなりの精神疾患を背負う方々なのですが、セッションの中の絵や詩で表現された様々な気持ちは、とても共感できるものでした。一方、一般社会の中で特段の不便も感じずに、しかし自分の心をねじ曲げて生きている人々のことを思い浮かべると、いったいどちらが「より健康」なのか、だんだんわからなくなっていきました。たとえば、洗礼は受けたけれど愛のない言葉を発して平気な人々、神さまを信じていると言いながら人を欺いても恥じない人々を見ると、幻聴や幻覚に過ぎない「人の評判」を神とし、真実から目を逸らして生きている人のように思えてくるのです。もちろん、医学的診断による幻聴幻覚はとても苦しいもので、きちんと識別するのは大前提でしょう。でも、ひょっとしたら、この社会に生きるのには不便だから、この社会の秩序にケチをつけたと言われたくないから、都合よく目に見えない魂を捻じ曲げて、これで一生やって行けると思い込んでいるとしたら、それはイエス様を拘束しにやってきた親戚たちと同じ穴のムジナだと思うのです。

 「見かけ」や人の「評判」に振り回されずに生きることは、とてもむずかしいかもしれません。でもイエスさまの生き方そのものが、あらゆる事柄の「見かけ」ではなく、本質を見るように、わたしたちを促します。そこには簡単なこたえはありませんが、地に足のついた生き方があります。わたしたちが目に見えない本質を見据えようと心を決めるとき、道なき道もずっと一緒に歩いてくださっているイエスさまの姿に目を開かれることでしょう。

聖霊降臨日を祝う

ヨハネによる福音書14:8〜17
2021年5月23日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 クリスマスやイースターのお祝いはなんとなくわかるけれど、ペンテコステは聞いたことがない。イエスさまお誕生の「クリスマス」、亡くなったけれどよみがえる「イースター」は、お祝いとして認知しやすく(サンタとエッグハント?)ても、ペンテコステは何を祝っているのか、今ひとつわからない。そして、この世界を創造した「父なる神」という設定は理解できるし、イエス・キリスト(子なる神)も聖書を読めばどんな活動をしたのかわかるけれども、「聖霊なる神」は何のために必要なのかよくわからない。広く一般の方々と「聖霊なる神」について話題になると、こんな感じの展開が多いです。

 それにしても「聖霊なる神」は何処にいるのやら。お祈りをする時も「イエスさまのみ名によって」と締めくくるので、特段に「聖霊なる神」の助けを借りる必要もなし。更に聖霊なる神は、「父と子から出られ」(ニケヤ信経)と唱えられることからも推測できますが、父なる神と子なる神と同時的に「最初から」存在していたわけではない。そして「聖霊が人々に注がれた」という使徒言行録の記事となると、幻覚だったのではないかと疑うほどの不可解さに満ちています。

 誌面が限られているので、一足飛びに結論だけ書きたいと思いますが、聖霊なる神のひとつの特徴は、わたしたちの存在と切り離したところにあるのではなく、誤解を恐れずに言えば「すでにわたしたちの一部として今生きている」存在だということです。わたしたちはもれなく「土の器」ですが、神の息を吹き込まれて命を与えられ生かされ、この地上での役割を果たそうと日々闘っています。そして時には、限界を越えるような状況に直面し、とても自分には無理だと思うような課題が立ち塞がることがありますが、マジックでも魔法でもなく、「自分の力」では到底あり得ないような事柄へと導かれ、「こんなことがなぜ出来たのだろう」と驚嘆するような、いわゆる自分が「所有していない」能力が何処からか湧いて来て、本当にびっくりすることがあります。「わたしたちに必要なものはすべて、神さまは与えてくださる」という表現がありますが、それらはわたしたちが「所有する」ために与えられるのではなく、わたしたちの中で働かれる聖霊なる神を阻害しなければ、必要なことはすべて為されるということなのだと思います。

 このあと、イエスさまに従う人々は、ほぼ三百年に亘って迫害されます。逮捕され処刑され家族が引き裂かれる、そんな過酷な時間を耐え忍び、イエスさまの生き方が伝え継がれました。今、わたしたちが「神さまの愛」を知ることができること自体、聖霊なる神の働きなのではないでしょうか。

祈ることについて

ヨハネによる福音書17:11b〜19
2021年5月16日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 あまりにも疲れていると、「休んだ方がよい」ということを思いつかないことがあります。また、ひどくがっかりしたり悲しかったりすると、これからどうしていきたいのか、よくわからなくなります。そして、これまで経験したことのない状況に追い込まれると、神さまに何と申し上げたいのかわからなくなり、祈りの言葉さえ失います。じっと座って祈ろうとしても、お祈りの言葉が何も出てこない、という苦しさも体験します。他のプロテスタント教会に比べると、聖公会の教会では「自由祈祷」をする機会があまりなく、しかも『祈祷書』という強い味方があるので、心が整わなくても気持ちがついてこなくても、とりあえずかたちだけ祈ることができてしまいます。しかしそこに依存し過ぎて、かたちばかりを整えることが優先され、淀みなくスラスラと祈祷書を読み進めることでお祈りをしている気分になったりもします。でもそんな時は、どうしたら本当に祈れるのでしょうか。

 今日の福音書は、イエスさまがお祈りをしている場面です。教会の暦の上では、イースターと昇天日が過ぎ、まもなく聖霊降臨日を迎えようとしている季節なので、あたかもイエスさまが復活後にしばらくお弟子さんたちと過ごした後、天に戻るという「昇天日」に因んだ場面のようにも見えますが、実際は十字架刑への逮捕直前の聖書の箇所です。イエスさまご自身は、これから裏切られ磔にされ殺されていくということなのに、ご自分の心配ではなく、残された人々を守ってくださるようにと、神さまに切々と訴えます。わたしには、イエスさまがこれから起きることを想い迷いながら、どう祈ったらよいのか苦しみながら、神さまへの言葉を捜しているようにも思えます。つまり、何を言いたいのか最初から明白で、終始一貫した祈りというよりは、あちこちに引っかかりながら、心に重くのしかかっている事柄を拾いながら、そして紆余曲折しながら、イエスさまにとって「これだけは外せない」こと、つまり、お弟子さんたちだけではなく、貧しい人々、社会的に捨てられた人々を「悪い者から守ってくださる」ようにと、神さまに託す祈りになっています。

 わたしたちは祈るとき、先に言葉を選びかたちを整えることを気にし過ぎ、祈祷書に頼り過ぎることに、陥りがちかもしれません。でも、だから駄目なのではなく、それは祈りの入り口なのでしょう。わたしたちは本来「どう祈ったらよいのかわからない」ものではありますが、神さまとお話し(祈り)しているうちに、何を祈りたいのか、何を祈ることを選ぶのか、少しずつ整えられていく気がします。すぐにはイエスさまのように祈れないとしても、迷ったり回り道をしたりしながら、「これだけは外せない」祈りに至りたいと思います。

いのちをかけて伝えられた「愛」

使徒言行録11:19〜30
2021年5月9日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 「ステファノの事件をきっかけにして」云々と、今週の聖書日課は始まりますが、ステファノの事件って何でしたっけ、ということになると、そこから前へ進めない気持ちになるかもしれないので、お手元に聖書がない方のために、まずは解説からスタートします。使徒言行録6:1〜7:60にその物語があります。
 ステファノは旧約聖書を引用しながら、神の愛のわざを無視し、人間的な欲と野望に従ってきたユダヤ教内の歴史を批判、(イエスの説く愛の福音に耳を貸さなかっただけではなく)ユダヤ教の律法さえ守らなかったと、指導者と民衆に公言します。すると人々は怒り、一斉に彼に襲いかかり殺してしまった。しかしステファノは今際の際に「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで息を引き取ります。
 この叫びは「神さま、自分を殺そうとしている人々の罪を赦してあげてください」ということだけではなく、旧約からイエスさまの十字架までずっと、神の愛を悟らず無駄にしてきた「罪」、神の大きなふところを受け止めようともせずに、彼らの思う「伝統」に固執し、その枠に合わないものは排除してきたという「罪」を、これ以上彼らに「存続させないでください」と祈りも含まれていると思います。つまり、神さまが何よりもわたしたち人間に望むことは、お供えものや日々間違いのない生活を守ることではなく、また、人に誇れるような地位や名誉を重んじることではなく、「神に愛されている」という呼びかけを心の底から信じる生き方であり、また、人々の間で愛を実践して生きることをすべての行動の基礎に据えることを、神のみ心として悟れるようお導きください、ということではなかったかと。
 
 今日の日課に話を戻しますが、そんな背景の「ステファノの事件」の後、不思議なことにまるで時を待っていたかのように、あちらこちらの地方で迫害がおき、人々は分断され連絡がとりにくくなります。一方、同時に「福音を語る人々」もあちこちで広がっていきます。しばらくの間、人々は大混乱と先の見えない困惑の中で苦しみ、不安を増大させ、時には何もかも投げ出してしまいたくなる誘惑とも戦い、そして実際に諦めてしまった人もいたことでしょう。でも、その混乱の中で「キリスト者」という概念が生まれてきたと、聖書は記します。それは、イエス・キリストに従う人、愛に生きようとする人、という意味と考えていいでしょう。愛がすべてに優先することに気がつき、それを実践して生きる人々が連帯した時、流れは大きく変化していきます。私利私欲を越えて、人々はお互いに助け合います。このようなプロセスを経て伝えられた神さまの愛。わたしたちはどのように、それを実践しましょうか。

イエスと共に歩む道は

ヨハネによる福音書14:15〜21
2021年5月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 人生を歩む姿を、山登りにたとえることがあるようです。美しい大自然の中に居ながらも、それを愛でる余裕がないほど傾斜が激しい場所もあり、危険や怪我とも隣合わせ。時には人に助けられたり、思いがけない出会いや別れがあったりしますが、粛々と真理や幸福に象徴される「山頂」を目指すものであると。そして才覚があれば、広くて歩きやすい道を見つけることもできるし、不運に見舞われれば予定外の藪漕ぎで時間を浪費したと感じることもある、でも頑張って登り続けるのが人生、といったところなのでしょう。

 一方、この山登りのたとえを、一定の宗教を信じる人々に置き換えて語られることがあると思います。神や信仰といった山頂を目指し、それぞれが信じる宗教を唯一の登山道と思い込んで山登りをしていると。どの道を選んでも、結局は同じ場所に着くのだから、いずれも似たり寄ったりなのではないか。言い方を変えれば、何を信じてもあまり変わりはないのだから、ひとつの立場に固執するよりは、適当な距離を保ちつつみんなと仲良く過ごして、上手に行動すれば目的地に到着できるものだ、とも聞こえます。

 生きている中で様々な出来事が起こり、判断ができないほど疲れ果ててしまうこともあるし、迫りくる危険を未然に防ぐために、常に気を張り詰めているのもくたびれます。そんな時、偶然出会った人や集団と一緒に行動することで、慰められたり、癒されたりすることもあり、なんという親切な人たちだろうと、感動することさえあるでしょう。なりゆきにまかせてしばらく身を置き、その主張を受け入れるかどうかはわからないけれど、元気を回復するまでしばらく一緒に歩んで様子を見ようとするのは、自然なことかもしれません。

 少し強引かもしれませんが、わたしたち教会は、このような「とりあえず」の人々を迎える側なのだと思います。心や魂が乾く苦しみ、日常の様々な疑問あるいは突破口をさがす方々を迎えた時、心の糧になるものを分かち合うお手伝いをして、やがて再び元気を回復して立ち上がる姿を見る。それだけで充分に嬉しいですが、でも、その先が必要なのだと思います。わたしたちは、仲良く和やかに過ごすための集団ではなく、イエス・キリストというルートを選び、イエスさまが示された道を歩もうと、決意しているものです。何故、わたしたちにとってその生き方が大切なのか、元気を回復した人々には伝わらなくてはならないと思うのです。イエスさまご自身は、山を登ろうとした人ではなく、地に降りて来て、社会の中で底辺を這いずり回っている人と一緒に過ごし、痛みを分かち合おうとする人生を選ばれました。イエスさまとともに歩む道へ招かれているわたしたちもまた、いわゆる頂上を目指す道ではなく、地に降りて痛みを分かちあうお手伝いの道を選び続けることができたらと思います。

囲いに入っていない羊

ヨハネによる福音書10:11〜16
2021年4月25日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

  今年に入ってからずっと礼拝は行われていないので、「礼拝を休止したまま」でいる事への様々な不安が蓄積していると思います。礼拝をしていない教会はまるで呼吸が止まったようだし、聖餐にしばらく与っていない自分の心や魂は枯渇しているし、それにしても教会に連なっていた皆さんはご無事だろうかと心配です。一方、政府の方針もワクチン接種予定も不透明、中途半端な「待機」状態もどれだけ続くのかわからない、そんな言葉にならない不安が大きくわたしたちを覆います。ご商売、殊に飲食/観光等に携わるお仕事をされている方々にとっては不安や枯渇どころか、具体的な危機に直面しておられることを知ると、祈りの中で覚えずにはいられません。またこの隙を利用して利権のための暴挙に出る、命を踏付けにする、といった動きを知ると、自分の身を守り外出を控えているだけでよいのか、と心が痛みます。
  まとまりのない前置きでしたが、今日の福音書は「よい羊飼いであるイエス・キリスト」がテーマです。当時の羊飼いという職業は、賃金は安く社会的なステータスも低い「子どもの」仕事。しかしその反面、都市の喧騒を離れ、大自然の中で詩的生活を送るという憧れもあったようです。羊という動物は元来、勝手で頑固で臆病もの。自分勝手な行動をするわりには身を守れず、危険な行動をしても状況を認知せず、指示に従うのを渋り、でも自分が困った時は助けてもらって当然と思っている。まるでわたしたちそのものです。羊飼いは重労働だし割りも合わないのですが、羊のために「命を捨て」「心にかけ」「自分の羊を知る」、そんな「よい羊飼い」たるイエスさまを、聖書は記します。
  ここで終わるなら「イエスさまが全部何とかしてくれるから、面倒を見てもらう羊でいよう」ということになりかねないのですが、まだその先があります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも先導していかなければならない」と。「囲いに入っていない」とは、「教会の信徒ではない」とも読めますが、実はもっと広い意味で、民族や宗教や信条を超えた「全ての羊」を示していると言えます。つまり羊がイエスさまを信じても信じていなくても、その羊を知ろうとされ、安全かどうか見守り、たとえ無視されても心にかけ、必要なら命を捨てる、とイエスさまは言います。囲いの中に入りたくない羊や、囲いを認識しない羊も良く知り、心を砕き、時には命を捨てると言われているイエスさまの前で、囲いの中にいるわたしたちが、「わたしたちの面倒だけを見てください」とは言えないのではないでしょうか。礼拝によって励まされる羊は、囲いの外にもおられます。イエスさまは囲いの外の羊も大切にされます。教会は、そのことを伝える責任があるのではないでしょうか。

神様の必死さ

ルカによる福音書24:36b〜48
2021年4月18日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 先週の聖書では、「(亡くなったイエスが現れたなんて)わたしは決して信じない」と言い切るトマスが登場していますが、「信じない」トマスに対するアフターケアとして、イエスさまは再度現れ、「手を伸ばして(十字架上で傷を負った)わき腹に触ってみるように」とうながします。そして今週の聖書では、亡霊が出たとうろたえる弟子たちに、目の前で焼いた魚を食べてみせます。自然科学では説明のつかないことではありますが、「わかってもらえるためなら、何でもする」一連のアクションのようにもみえます。わたしたちに、愛に生き救いの中で生きてほしい、と願う神さまの必死さは、友の傷に「手当て」する、魚を食べる、といった生活の中にある何気ない行動の方が、かえって見えやすいのかもしれません。

 十字架の上で亡くなったイエスさまは、他のお弟子さんのところにも、様々なかたちで現れます。他の福音書でもいくつかエピソードがありますが、今日の特祷にある「パンを裂くみ姿」のイエスさまは、ルカによる福音書に登場します。十字架の後、暗い顔をして道を歩いていたお弟子さんは、途中で合流した知らない人に、エルサレムではいったい何があったのですか?と聞かれ、知らないなんておかしいとは思いながら、十字架の出来事をひととおり話します。日が暮れたのでそのまま共に宿泊し食事を始めたところ、その「知らない人」が、実はイエスさまだったことを、パンを裂いて(当時は、包丁で切らずに手で裂いてみんなで分けて食べました)いる時に気がつきます。それは、イエスさまと行動を共にしていた時、毎日繰り返された光景であり、時には多く、時には少なかったパンを皆で分かち合ってきたからです。そしてそれは、生きていらした時も、そして亡くなった後も、いつも共に居て、生きるのに必要なパンを、わたしたちのために常に裂いてくださる「しるし」でもあったと思います。

 この世に生きるわたしたちは、ひとりひとりが神の最高傑作であり、神と人とを愛するために、そして愛されることを学ぶために、この世に送られてきました。そういう本来の意味では、わたしたちは「神を思い起こさせる存在」ですが、神そのものではないので、不完全さもたくさん備えています。失敗も繰り返すし、とてもじゃないけれど、自分が「神の作品」とはとても思えない時の方が多いです。でも神さまは、わたしたちをとても大切にしていること、そして特に困難や苦しみの中にある時にこそ心を砕いていること、を伝え続けてこられました。わたしたちが(ラクで得する人生ではなく)真に「幸せ」な生涯を送ることを望み、そのためにずっと呼びかけてこられました。十字架や復活は、神さまがわたしたちと「どんなときでも、今も共に居る」約束のしるしなのだと思います。その神さまの必死さに、わたしたちが少しでも心を向けることができますように。

信じる者になりなさい

ヨハネによる福音書20章19節~31節
2021年4月11日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 何をどうすると、キリスト教を信じていることになるのでしょうか。人によっては、聖書の中の奇跡物語や、病気が瞬時に治った癒しの話などを、文字通り実際に起きた史実として、受け入れることが「信じる」ことだと思う方もおられると思います。また、マリアの「処女降誕」や、イースターの出来事である「死んだイエスさまが生き返る」ことについても、事実だと断言できることが「信じる」証のように感じる場合もあるかもしれません。聖書に書いてあるし、そもそも素直に受け入れられる、という方には、心からの敬意を払いたいと思いますが、「マリアは処女(乙女)だった」とか、「心拍停止していた人が回復した」といった議論については、私はある意味どっちでもよいと思っています。
    様々な奇跡は、イエスさまの時代は神秘のベールに包まれていましたが、自然科学的な視点を持つことが一般的である現代においても、論理的に解決しえない事は起き続けています。だから、説明できないことは聖書の時代にあったし、現在も存在するだけのことだと、思考停止するのも一つの手かもしれません。しかしながらもしそこで、論理的説明の難しさを、神さまを神格化するための言い訳にしてしまうと、実はどんどんキリスト教から離れていくのではないかと思うのです。つまり、イエスさまが命がけで伝えようとした神の存在は、わたしたちの理解を超えたスーパーパワーを持ち、何がおきても瞬時に解決してくれるような、支配感あふれ力を振るう神ではないからです。お弟子さんたちも、十字架前夜に至るまで、イエスさまを祀りあげ、支配者権力者のイメージと重ね合わせようとしていた形跡がありますが、わたしたちはそのような間違いを繰り返してはならないと思います。
  キリスト教では何を信じているのか、という最初の問いに戻ります。
 わたしたちはもれなく「神のイメージを、この世に現わす姿」として造られました。それは疑いもなく神の最高の作品であり、愛すること愛されることを使命の中心に据え、深い喜びと生きることの素晴らしさを分かち合うため、この世に生まれてきました。ところが次第に傷つくことを最も怖れ、それを避けるためなら何でもするようになります。傷つく前に手を打つのが賢いし、そのためには他者を傷つけてもかまわないと思うようになり、人によく思われた方が安全で、一目置かれると安全が保証されるとも思い込みます。このような生き方の問題点は、他人と自分を比較した物差しで「より強くより早くより多く」を目指すため、やがて生きる意味がわからなくなることです。キリスト教の「信じる」とは、何でも鵜呑みにするという意味ではなく、わたしたちは本来「神を現す存在」であり、愛すること愛されることが生きる意味の中心にあると「信じ」ています。それを感じ100%納得する、というのはかなりハードルが高いことでしょう。でも難しいからこそ、ご一緒に考えてみる価値があると思いませんか。

イースター

マルコによる福音書16章1節~8節
2021年4月4日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 こんなことは前代未聞でしょう。2年続けてイースターの礼拝が行われないとは、本当にびっくりです。静まりかえった礼拝堂は、まるでイエスさまが甦ったあとの空っぽのお墓のようでもありますが、でも、意気消沈し、茫然と立ち止まっているわけにはいきません。

 今、わたしたちそれぞれが、しなければならないことがあると思うのです。それは、神さまが「ひとり子を十字架に架けてまで、伝えようとされた愛と救い」のメッセージが、わたしたちの心と魂に確かに届き、迷うことなく生きる基となっているかどうか、改めて各自がご自身に問うことです。なぜなら信仰とは思考停止ではなく、常にその内容を問い続けられるものであり、神への信頼とは、依存する相手を人から神に置き換えることではないからです。イースターを行事のひとつとして「思考停止」してしまうと、何とかしてわたしたちを救おうとされる、神の切実な想いが埋もれてしまう危険があります。イースターをお祝いするとき、楽しく過ごすことを優先するあまり、茹で卵やご馳走や飾り付けやイベントが「イースターの準備」になってしまっていたとしたら、本末転倒です。

 そこで、まずはイエスさまの十字架の意味をもう一度考えましょう。一番優先したいのは、生き難い人、悲しみ苦しんでいる人、自分の辛さなど誰にもわかってもらえないと思っている人々に、神さまのメッセージが届くために、十字架があったということです。自分が苦しみ悶えなくても済むように、遠く離れたところから正論を主張する神ではなく、心の奥深くの痛みを一緒に担おうと、地上に降りて来て、同じ目線に立とうするアクションです。自分には、苦しみが襲ってこないようにと、不幸にして苦しんでいる人を「何かを間違えた人々」というレッテルを貼って遠ざけるのではなく、イエスさま自身が、当時の政治犯に対するのと同じ刑罰を受け、最下層の人々と同じレッテルを貼られ、家族もさんざんな目に遭うことになっても、人々の心の闇まで降りて来て、「あなたのことが大切だ」と告げようとされました。

 次に大切なのは、他でもないわたしたちの心の闇に届くメッセージでもあったということです。様々な行き詰まりや困惑は日常茶飯事ですが、いろいろと大人の都合をつけ、毎日がなんとか回っています。ただし、そのために少し目をつぶっている部分、つまりズルをしたり、本当のことを言わなかったり、愛のない行動をしたり、欲にかられたりと、ちょっと神さまには顔向けできないような生活の場面は、大概の場合「無かったこと」にして生きています。もう少し言うと、弱さや情けなさにまみれている自分は切り落とし、そういう自分は存在しなかったことにして、自慢できることや人より優位に立てる部分のみ、陽のあたる場面に置こうとします。そんなわたしたちに、イエスさまはこう言われます。「あなたの全部、まるごとを愛している」

 何がおきても、どんなに情けない自分になってしまっても、またたとえ神さまに背を向けたとしても、わたしたちは揺るぎなく、イースターに招かれています。それは、どこか遠くの清く正しい美しい人にだけ用意された救いのプランではなく、自分は清くも正しくもないから、そんなこととは縁がない、と思い込んでいる人々にこそ届けたい、そんな神さまの意志をひしひしと感じます。イエスさまの十字架は必要だったのか。いえ、神さまにとっては必要なかったのです。でもわたしたちが、神さまの愛を知るためには必要でした。イエスさまの復活は不可欠だったのか。いえ、神さまにとっては復活してもしなくても大丈夫でした。でもわたしたちが神さまの愛を信じるには不可欠でした。そうまでしても、わたしたちに幸せに生きてほしい、それがイースターのメッセージの真髄ではないでしょうか。

ゲッセマネ

マルコによる福音書14章32節~15章47節
2021年3月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 今日の福音書はとても長いですが、イエスさまが十字架にかかる直前の最後の晩なのに、まったく緊張感のないお弟子さんたちの様子がまず描かれています。常に行動を共にし、大事なお話も一番身近で聞いてきたはずなのに、いつか社会の構造をひっくり返してくれるはずと期待しているお弟子たち。イエスさまの最も親しい存在として活動してきたはずなのに、十字架の苦しみの意味と使命については、ぼやけた理解しかないお弟子たち。その晩も、苦しみながら祈っているイエスさまを放置し、眠気に勝てず途中で寝落ちしてしまうお弟子たち。その脇で、これでよかったのか、これが神のご意志なのかと苦しみながら、凍りつくような孤独の中でイエスさまがひとり祈った場所が「ゲッセマネ(の園)」です。

 こういう聖書の箇所が続くと、キリスト教は夢も希望もないのか、という気持ちになるかもしれません。十分につらい世界で生きているのだから、聖書くらいせめて明るい話にしてほしいと。でもキリスト教の神さまは、楽しく嬉しく人生がうまくいっている人よりは、生きにくさや不条理さ、辛い目に遭う人や苦しんでいる人、困っている人、悲しんでいる人に、どうも特別の思いやりがあるようなのです。人の助けは不要、自分の力で十分!と信じている人々にとっては、イエスさまの十字架は、励まされ生きていく力を与えられるようなメッセージには、なりにくいのかもしれないと思います。

 本日の旧約聖書では、その十字架の本質が語られているようにも感じます。「彼は軽蔑され人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」(イザヤ書52:3)「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」(同52:4)イエスさまは、犯罪をおかしたわけではなく、陰でコッソリわるいことをしていたわけでもないのに、多くの人に誤解され、権力者に利用され、愛を届けてきた人々にさえ憎まれ、寄り添ってきた貧しい人々から遠ざけられ、当時の重罪人が裁きを受ける十字架刑(窒息死)によって、いのちを落とされました。でもこれは、「イエスさまってかわいそう」という話ではなく、わたしたちがたとえ近しい人に誤解され蔑まれ利用され、そして憎まれ孤独のうちに放置された時も、「その痛みを知る神」というメッセージに他ならないのではないでしょうか。本当に辛い時は、自分とかかわりあいになりたい人がいるはずはないと感じます。誰にも言いたくないし、言ったところでわかってもらえないとも思います。多くの場合はそうかもしれませんが、わたしたちの苦しみを高みから見下ろし眺めているのでは神ではなく、自分自身なのかもしれないとも思います。心の暗闇の中を這いずり回っているわたしたちさえ、ひとりぼっちにしない神は、十字架の出来事を通じて、ずっと呼びかけておられると思うのです、「わたしはあなたと共にいる。さあ、ここから一緒に歩もう」と。

回帰不能点

ヨハネによる福音書12章20節~33節
2021年3月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 「これを過ぎるともう元には戻れない」という、ギリギリの地点あるいは時刻を指す言葉らしいのですが、回帰不能点に来てしまった時に、思わず心が支配されそうになるのは、「この決断は大間違いだったのでは」という、逃げ出したいような恐怖ではないでしょうか。かく言う私も少し身に覚えがあり、忘れもしない三十数年前、「女性は司祭にはなれない」という壁を乗り越えるべく(当時の私としては)あらゆる手を尽くしたのち、弓折れ矢尽きる思いで日本を脱出。皆が気がつく前に逃げ出さないと、誰かが捕まえに来そう(な訳ないのですが)と焦る気持ちと、私の決断に対する非難轟々の嵐はさて置き、「本当にこれでよかったのだろうか」という不安だらけの、いわば“出エジプト”のような出来事がありました。(「出エジプト」記→旧約聖書の最初の方にあります)

 その私の体験とは全く比較になりませんが、十字架へと向かう大斎節の聖書箇所は、週を追うごとにイエスさまご自身の意思で、この回帰不能点へと近づいているような印象を受けます。しかも、その先には「一粒の麦として死ぬ」というシナリオしかありません。

 先週は「魔法を使ってパンを増やすようなことはしない」神さまのことに触れましたが、不正や悪事を行う人々を、片っ端から退治してくれるような神さまを、もし求めているならば、それはパンを増産する神さまを求めることと、あまり変わらないのではないかと思うのです。つまり漠然とした「ふつうの平和」を求めつつも、何もしなくとも待っていれば、「わるい」人々を征伐してくれるような神さまは、一時的には「平和」をもたらすかもしれませんが、人間の自立を疎外し、自分さえ満足すれば他のことは気にならない、というような人の生き方を増長してしまうのではないでしょうか。私たちが信じようとしているのは、そんな残念な神さまではないはずです。

 しかし、聖書の物語を繰り返し読んでみると、イエスさまのお弟子さんたちが軒並み、イエスさまについて思い違いをしている様子が描かれています。イエスさまは繰り返し、ご自分の使命を述べますが、お弟子たちは聞いていないどころか、否定さえしてしまいます。また、十字架の目的を一生懸命分かち合われても、結局のところ、そんなことはあってはならぬ、とさえ思っています。「栄光」の意味も取り違え、いつかきっと、すべての権力を蹴散らして王座に着くような栄光を、イエスさまがもたらし、自分たちもその社会的権威に与れると信じています。それが、イエスさまを信じることだ、とさえ思っています。イエスさまは、弟子たちにも理解されず、孤独のうちに回帰不能点をやがて迎えます。これで本当によかったのだろうかと、不安がなかったはずはありません。お弟子たちを置き去りにしなければならない苦悩もあったことでしょう。それでも、粛々と神さまの計画の中を歩んでいかれます。

「奇跡」の意味

ヨハネによる福音書6章4節~15節
2021年3月14日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 5つのパンと2匹の魚しかなかったのに、イエスさまが祝福のお祈りを唱えて分かち合うと、数千人の人がたっぷり食べて満腹し、しかもあまりまで出た、という今日の聖書は、実にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書に登場します。書き手にとって、どうしてもはずせないエピソードだったのでしょうが、このヨハネによる福音書だけが、パンと魚を提供したのは少年だったと記しています。

  おなかの空いている人々に食糧が分配されて、みんなが満たされて良かった!とは思えても、イエスさまの「ミラクルパワー」によってパンが増えた、だから神さまはすごい!という論法では、およそ「福音」にはならないでしょう。都合の良い時に世界のあちこちに出現して、パンを増量し回ったりするイエスさまは、なんだか怪しいし、増量されたパンは、その時は口に入るでしょうが、食べたら終わりです。さらに「自分は何もしなくても、パンはやって来るから」というような依存も高めてしまうかもしれません。神さまがそんなひどいことをなさるようには、私には思えないのです。

  このお話の理解の仕方は諸説あります。パンが増量されているが、これはパンの話ではなく神の国の話なのだ、とか、この少年はイエスさまを表しており、皆が思いもよらない方法で救いが始まるということだ、とか、親切や慈しみ、思いやりは、分かち合えば合うほど減るものではなく、さらにゆたかになっていくものだ、など。他にもいろいろあって、この限られた誌面ではご紹介にも限界がありますが、皆さんにとってはどういう解釈がストンとおなかに落ちますでしょうか。

 私にとっては、この物語のメッセージは、以下のように感じています。

 イエスさまのお話を聞こうとついてきた人々もだんだん疲れておなかも空いてきた。でも周りには屈強な大人もたくさんいて、しかも五千人以上。自分が食料を持っていることがうっかり知れたら、取り上げられるか、奪われるか、最悪の場合殺されるかもしれない。暗くなってから、コッソリ自分の腹だけを満たす方が安全と考え、皆、何も持っていないフリをしていた。ところがイエスさまのお弟子さんが困っている様子を見て、純真な一人の男の子は、自分のお弁当を差し出す。それをみんなの真ん中に置いたイエスさまが感謝の祈りを唱え、その小さな食事がどこからやってきたかを紹介すると、大人たちは皆、自分が恥ずかしくなり、持っているものを喜んで差し出し始めた。それを分かち合うと全員が満腹しただけではなく、余りまであった。私たちは皆、必要なものはすでに与えられているのに、それを出し惜しみ、自分だけのために役立てようとするところから悲劇は始まる。私の預かりものは、必要としている人々と分かち合うために、神さまが備え、神さまが授けてくださったものなのではないかと。

かたちと「中身」

ヨハネによる福音書2章13節~22節
2021年3月7日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
 
 本日の聖書(ヨハネ2:13〜)に登場するイエスさまは、穏やかで心優しく、悲しんでいる人や苦しんでいる人にそっと寄り添う、そんな安心できるイメージとは、だいぶかけ離れています。「過越祭」という特別のお祭りゆえ、人がたくさんいた神殿の雑踏の中で、「(商品である)羊や牛を(勝手に)追い出し」「両替人の金を撒き散らし」「台を倒し」、鳩を売っている人にも「出て行け」と言った、と書いてあります。まるで暴徒のようなイエスさまです。

 ところで聖書の時代は、神殿に詣でるには、何かとお金がかかりました。日常使う硬貨ではなく、境内で特別な両替をしなければ、献金もできませんでした。家で動物を飼っていても、境内の売店に並べられた動物を生贄として捧げるのが、お約束でした。それらは当然割高でしたから、生活の苦しい人々にとっての神殿詣は高嶺の花、礼拝したくてもとても無理というような構造がありました。しかし、この困った構造も、最初からお金儲けを目的にしたのではなく、「神さまに捧げるならなるべく綺麗なコインで」「傷や病気のない最高の家畜をお捧げしたい」といった気持ちから出発したにちがいないのです。それがいつのまにかエスカレートし、当初の純粋な気持ちは忘れて、「かたち」ばかりがひとり歩き。経済的にも余裕のある階層だけが信仰深いとみなされる、そんなことに対するイエスさまの怒りだったのではないかと思うのです。
 
 「かたち」に囚われ、「かたち」が先行する時に、一番大事なことを忘れたまま進んでいく困った構造が作られるのは、聖書の時代だけではありません。心を込めた本気のお祈りは世界を変えることもありますが、神さまへの信頼なく人前でスラスラ唱えるだけの「かたち」では、人を支えることはできません。何十年も礼拝に欠かさず出席できることは大きな恵みですが、それを“修行達成”のように感じるなら、それは「かたち」への満足感かもしれません。もし“偉い先生”が親戚や知人にいたら、それなりに役に立つかもしれませんが、もし自身の霊的成長に結び付かないのであれば、その方が近くに居ることは「かたち」だけです。

 しかしながら、「かたち」がいけないということではありません。かたちがなければ、本質に通じる「中身」は保存しにくく、また客観的に人と分かち合うこともままなりません。福音という、イエスさまが私たちに託した素晴らしい世界、人と人とが尊重しあい、大切にしあう世界の構築を共に担いあうためには、教会という「かたち」を必要としました。聖書は難解で誤記もありますが、神さまが私たちにおっしゃりたい中身を、時空を超えて保つためには、聖書という「かたち」が必要でした。イエスさまは、「かたち」だけで満足してしまうのではなく、その中身に目を向けられるようにと、私たちを招いておられるのではないでしょうか。

「苦しみ」の存在

マルコによる福音書8章31節~39節
2021年2月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 「もしも神が存在するなら、世界中で起きている様々な苦しみを、どうしてゆるしておくのか」と聞かれることがあります。つまり、あなたが信じる「神」は、人が不幸になるのを止められないような不甲斐ないものであり、そんな非力な神をまだ信じているのか、という意味も含まれているのでしょう。私たちの住む東京にも、そしてもっと近くでも、悲嘆の中で生きざるを得ない人、生きる気力を失いかけている人、あるいは孤独のうちに途方にくれている人、その様々なうめきで、満ち溢れているように感じます。また、貧しい人々の手から食料を取り上げるような社会構造から外れては生きられない罪悪感、暴力に晒されている人がいてもそれを阻止できない無力感もあります。耳を塞がない限り、苦しみの叫びがあちこちで満ちている社会で生活している、そんな現実があるのかもしれません。
  一方、聖書にもたくさんの苦しみや悲しみが登場しますが、ひょっとすると現代社会と似ているのかもしれないとも思うのです。それは、苦しみを抱える人は自業自得。「本人や先祖がわるい」のであり、「神の恵みや愛を受けるのにふさわしくない」証拠なので、それらの不幸が自分にも“飛び火”しないよう、困難や悲しみの中にある人々とは関わらない、という風潮です。そして、重荷を抱える人はますます孤立し、さらに困難のハードルが上がっていきます。

 しかしながら、イエスさまの行動をみると、困難の中にある人にわざわざ会いに行きます。苦しんでいる人のそばに居て、辛さを分かちあおうとされます。つまり、想定しない災いに遭うのは神からの罰ではなく、その人が苦痛に相応しいわけでもない、というメッセージなのではないでしょうか。わたしたちは素晴らしい出会いをしたら、辛い別れもあることを知っています。喜びがあれば苦痛もあることに対し、「神は、なぜ喜びだけを与えないのか」という問いには、残念ながら説得力のある答はありません。また、苦痛や悲しみに蓋をしても、それが消えて無くなるわけでもありません。でも困難の中にある人々に、イエスさまがあえて寄り添ったように、わたしたちもまた、人々が抱える孤独と辛さを分かちあおうとすること、そして心の底から、恵みと慈しみを受けるのにふさわしい「神さまにとって大切な人」だと信じること、そして、それらを伝え続けることはできるのではないでしょうか。「自分の十字架を負う」と、今日の福音書には記されていますが、たったひとりで、孤独のうちに十字架を担ぐようにとは書いてありません。イエスさまがそばにいて、一緒に重荷を担ってくださるという約束を信じ、辛いことを分かち合いながら、助け合いながら、わたしたちも生きていくことができますように!

「洗礼」を受けたイエスさま 

マルコによる福音書1章9節~13節
2021年2月21日更新

司祭 ロイス 上田 亜樹子

 先週の水曜日から大斎節(レント)に入りました。復活日(イースター)を迎える前に過ごす「日曜日を除いた40日間」の始まりです。レントは、イエスさまが40日間「荒野でサタンから誘惑を受け」たことにならい、わたしたちは荒野に行かないまでも、お肉や高価な食材を避けたり、あるいはチョコレートや嗜好品を断つなどして(人によります)、改めて自分のいのちの根源に目を向け、生き方について内省する期節ということになっています。大斎節最初の日曜日の福音書の箇所は、イエスさまが「洗礼」を受けるシーンですが、それにしても、「洗礼」とは何なのでしょうか。洗礼を受けると何かよいことがあるのでしょうか。洗礼の前と後では何が変わるのでしょうか。『祈祷書』を見ると、「洗礼を受ける人に必要なこと」は、「罪を悔い改めて悪の力を退け、イエスを救い主と信じ、自分自身をキリストに献げることです」(263ページ)とあります。なんだか大変そうだし、とても自分には無理!と感じるかもしれません。それにイエスさまは、そもそも「罪を悔い改める」必要があったのか?などという疑問も浮かび、アウェイ感(ちょっと古い!)は増すばかりです。

 「洗礼」という分岐点を通過した人と、通過していない人を「区別」するための儀式として洗礼をとらえてしまうと、そのアウェイ感は絶大な力を持ちます。そのような誤解を与えてきた教会の責任はありつつも、でも実際は少しちがうのではないかとも思うのです。

 イエスさまが洗礼を受けて水の中から上がると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が天から聞こえてきました。これは、イエスさまが神のひとり子なのだから「愛する子」と呼ばれるのは当たり前!と思ってしまいそうですが、実はわたしたちひとりひとりは、生まれる前からずっと「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と呼ばれ続けている存在なのではないかと思うのです。生まれた時から、そして成長する過程で、そして「良い子」でいる時も「わるい子」の時も変わりなく、ずっと「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と呼ばれている。でも、「罪」(=まとはずれ)な生き方をしているとその声は聞こえず、「罪」の中にいると自分なんて価値がないと追い詰め、「罪」を意識しなくなると何が「まとはずれ」なのかも分からなくなる。「まとはずれ」な生き方のサンプルには事欠かないですが、重要なのは「洗礼を受けるか否か」ではなく、わたしたちは神さまに愛され大切にされ心にかなって生きている存在なのだという事実を知ることなのではないでしょうか。洗礼を受けた「から」愛されるのではなく、いのちが生まれた時からずっと愛され続けてきたことを認めることにより、心の耳が開かれ、そのことを認知していくプロセスを「天からの声」として聖書は記しているのではないでしょうか。洗礼はマジックではなく、自由意志によるひとつの認証ではないかと私は思うのです。

 洗礼を受けると自動的に「教会の信徒のメンバー」のひとりになります。そして、今までは「信施」という、教会の外(一般NPOなども含め)の働きを支える献金しかお捧げできませんでしたが、洗礼を受けて信徒になると、教会の運転資金である「月約献金」に参加する権利が生まれ、その他の運営や構成についてかかわる権利が生まれます。洗礼の目的は、「教会のために奉仕する」人を養成することではなく、「教会を通じて世の中の人のために奉仕する仲間」を養成することだと思います。何十年も前に洗礼を受けた人と、受けたばかりの人、そして考え中の方、また洗礼を受けることは予定していない方もご一緒に、教会というツールを通じて、さらに自由で解放された人生へと招かれていきましょう。

栄光から栄光へと、主と同じすがたに

マルコによる福音書9章2節~9節
2021年2月15日更新

司祭 ロイス 上田 亜樹子

 1959年に発行(改訂)されたいわゆる「文語」祈祷書の聖餐式の中では、「聖なるかな」を歌った後に、「感謝・賛美・栄光・知恵、ほまれ・ちから・いきおい、世々限りなく全能の父なる神にあらんことを」と唱えて、パンとぶどう酒を聖別する祈りへと進んでいきました。(現在用いている祈祷書では、174ページ「天の父よ、〜わたしたちの感謝賛美をお受けください」というあたりです)

 わたしたちからの感謝と賛美を、神さまにお受けいただく、という内容のお祈りなら、わかる気がするのですが、何故「栄光」だの「ほまれ」を祈るのか、不思議に思っていました。神さまが、いわゆる栄光や知恵をもっと必要とされていたとは思えないし、ちからや勢いを要求してくるような方にも思えなかったからです。15〜16世紀に活躍したマルチンルターという神学者がいましたが、彼は何人も到達し得ないような遥かかなたの光輝く存在になることが「神の栄光」ではなく、イエス・キリストの受難と十字架が、神の栄光であると説きました。つまり、成功物語としての栄光ではなく、何もかもが無駄だったと後悔するような死、人々に誤解され裏切られ、さらに弟子たちからも見捨てられるという十字架こそが「神の栄光」であると。

 今日の福音書では、この「神の栄光」に向けてエリヤやモーセと相談しながら準備を始めたイエスさまに、ペトロはわけのわからないことを言い出します。眩しいほどに光輝いていくイエスさまを見たペトロは、普段聞いている神の栄光ではなく、成功物語のような一般的な「栄光」をイメージして、「すばらしいこと」と口走ります。毎日一緒にいるのに、貧しい人々の痛みを分かち合うイエスさまではなく、理解されなくても小さな人々に仕えるイエスさまではなく、エルサレムに凱旋し、人々をうならせ、支配階級や指導者たちの頂点に立つイエスさまに祀りあげようとします。そして、そういうイエスさまと一緒で良かった、自分にも「おこぼれ」があるかも、という欲さえ見え隠れします。しかし、そういうペトロを、イエスさまは叱りもせず、「今見たことは、皆にふれて回ることではない」とだけ言います。お弟子さんたちが、イエスさまの使命を全く理解できていないばかりではなく、そもそも、この世の名声や地位を求めて自分を見上げていることを感じたとき、イエスさまは寂しかったことでしょう。

 もしわたしたちが、「主と同じすがた」へと変えられていくことを、この世での成功物語として望み見ているなら、ペトロと変わりはないでしょう。皆に受け入れられやすい自分を目指すのではなく、神さまが用意されている真の栄光へと向かいましょう。そんなとき、わたしたちもまた「主と同じすがた」となり、輝くような光をはなつのではないでしょうか。

病いといたみ

マルコによる福音書1章29節~39節
2021年2月8日更新

司祭 ロイス 上田 亜樹子


 イエスさまによって病気が癒された話、またはその人が生きる希望を再び見出した話を読むと、「イエスさまが病気を癒したのは二千年前。現代ではない」と思ってしまうことがあります。どのおうちでもそうだったかもしれませんが、私のこども時代、家族や親戚の中に結構な数の病人がおり、どよ〜んとした暗く重い空気が支配していました。痛みや苦しみを負っている本人はもちろんつらいのに、その人がいることによって周りがどれだけ迷惑しているか、負担に感じているか、という感情を隠さない大人たちもいました。病気になったのは、本人の悪事か先祖の悪行のゆえ、つまり神の祝福から漏れている証という「聖書の時代」の概念そっくりだったのです。そういう方々の多くは、「人間死んだらおしまい」という恐怖の念も持っていて、病気の話や体力が衰えていく兆候なども、なるべく話題にするのを避けていたように思います。


 そんなときは、「神さまは私たちを愛してくださっているのに、なぜ病気になるのだろう」「人はなぜ死んでいくのだろう」「苦しい思いをして生き、死んでいくのは何故だろう」という疑問が浮かびます。たとえ、それに対する素晴らしい(?)正解があっても、心身の病いの苦しさや痛みは相変わらず存在しますが、聖書の時代は、痛み止めも気管支拡張剤もなかったので、人々は亡くなるまでの時間をじっと病いに耐えることに加え、天の国で神さまの腕に抱きとめられ、すべての苦しみから解放されることを望むことすら許されませんでした。「神の祝福から漏れている人たち」だったからです。

 この世に滞在する時間の長さに大小はあっても、私たち人間はいずれは役割を終え、神さまの国に迎え入れられるものです。イエスさまによって病を癒され、いのちを取り戻した人々が、何事もなかったようにこの世での「役割」に再び戻る。これはいわゆる「奇跡」を誇張する物語ではなく、「今、生きていること」と「役割を終えてあちらへ行くこと」の間には、私たちが不安になるほどの距離や隔たりはないのです、という話ではないかと思うのです。お別れはもちろん悲しいし寂しい。しかし必要以上に恐怖を感じたり、死を否定することによって、今生きているいのちを見逃しにしてしまう、その方がよっぽどもったいない、そういうメッセージなのではないでしょうか。辛さはあっても希望を見出すことのできる私たちでありたいと思います。

魔がさすとき

マルコによる福音書1章21節~28節
2021年2月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
 
 聖書には、「悪霊」に取り憑かれた人々が、イエスさまによって解放され、病気その他の問題から癒される物語がしばしば登場します。今のような概念の「医学」が一般的ではなかった時代は、悪霊がその人にとりついたとき、心や身体の不調がおきると考えられていたようですが、それは単に「迷信的」な常識とはあなどれないところがあります。現代でも、西洋医学の発達により様々な症状はかなり取り去ることができますが、根本的な問題が解決されていないと、またいつかは元の木阿弥、というのはよくあることです。聖書の物語は、私たちにあまり分かりやすいようには書かれていませんので、実際にどういう病気が癒されたのか、その人にどういう変化が起きたのかなど、正確なところはわかりませんので、「奇跡を起こせるから、イエスさまはすごい」というような解釈が独走する一方で、「だまされやすい人たちがペテンにかかっただけ」など、眉唾物の話として片付けられてしまったりもします。

 でも例えば、甘いものを食べ過ぎるのは身体に良くないと分かっていても、睡眠や生活に必要な時間を削って仕事を続けるのはまずい!と分かっていても、身体を壊すまで止められないときがあります。むくむくと物欲にかられ、美味しい話に乗って大損をすることもあります。手痛い代償を払ったあと、二度とこういうことに心惹かれなければ問題ないのでしょうが、もし何度も同じ失敗を繰り返していたなら、それは「甘いもの」や「物欲」をほどほどに控えたところで、実は何も解決していないのだということがわかります。せっかく我慢してきたのに、目の前に置かれたケーキがわるい、金儲けの話をささやいた他者がわるい、のではなく、それらに手を出さなくてはいられない、私たち自身の心の中の渇きというか痛みが1番の原因です。痛みの存在を認め、渇きに手を差し伸べなければ、苦しみは続いてしまうのでしょう。

 そんな時こそイエスさまに心の癒しを必死に求めるときなのに、「こんな自分なのだから、イエスさまに助けを求める資格などない」「耳を塞ぐ方が簡単だ」という声が、案外、内側から聞こえて来ます。それこそが、「魔がさす」声です。思わずその声に聞き従いたくなるときもありますが、とりあえず「黙れ、私から出て行け!」と叫んでみましょう。心を尽くし言葉を尽くして「あなたを救いたい」と言い続けて来たイエスさまを、改めて心に迎え入れられるよう全身で祈りましょう。聖書のいう「悪霊」は、私たちの外からやって来るのではなく、実は内なる「魔がさすとき」の自分の声なのかもしれません。


人間あいての漁師

マルコによる福音書1章14節~20節
2021年1月24日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 昔々、まだ10代だった頃、専門分野の異なる学生で定期的に集まり、勉強会のような集まりを自主的にやっていたことがあります。グループのメンバーはバラエティに富み、物理や文学、建築や栄養学までいましたが、「今、これが面白い。自分はこんなことに興味を持っている」ということをテーマに、交替でプレゼンをするような会でした。面白い話も、全然面白くない話もありましたが、思い返せば、他のどんな専門分野の話を聞いても、どこかで自分の分野(当時の私は音楽)のモノサシに当てはめて、理解しようとして(あるいは「利用しよう」と頭を思い巡らして・・・)いた気がします。

 今日の福音書の話は、漁師という専門分野の登場です。「どうやって魚を獲るか」という専門家として、生涯その仕事にたずさわってきたシモンとアンデレに対し、イエスさまが「私と一緒に人間をとる漁師になり、手伝ってほしい」という表現を用いたのは、それがシモンとアンデレにとって「わかりやすい言葉」だったからかもしれないなと思うのです。もっとも、「人間をとる漁師」というと、人間を商品化し売買して利益を得るような気味の悪い商売を連想してしまう、という方もおられましたが、原語を見ると「人の漁師」「人間相手の漁師」という言葉が使われています。そういう意味では、イエスさまや福音書の記者にとって「人間という個体を利用して、ひと儲けしよう」という意図ではなかったように思います。

  魚をとる漁師は、当時の職業的ヒエラルキーの中では相当下積み。そして完全な肉体労働でした。怪我をしたり、体調を崩したりすると途端に困る、身体が資本の職業だった(それはどんな職業でもそうかもしれません)一方で、「人間相手の漁師」はというと、貧しく虐げられた人々の生活とまさに向き合う仕事、ということになります。関わりたくないと思ってもイエスさまと共に人の情けなさや弱さ罪深さと真正面から向き合わざるを得ない、そして人々の痛みに触れる、やっぱり身体が資本の肉体労働でしょう。「人間相手の漁師」もきれいごとでは収まらず、「お弟子」となったシモンもアンデレも、できれば知らずに済ませたかった自分の弱点や認めたくないような腹黒さとも向き合うことになります。教会に連なる私たちは皆、「人間あいての漁師」として、イエスさまに招かれました。大切なのは、自分の弱点や腹黒さや情けなさに埋没するのではなく、イエスさまと共に、人々の痛みに触れることなのではないでしょうか。

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」 

ヨハネによる福音書1章43節ー51節
2021年1月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
 「モーセの律法にも書いてある『救い主』、預言者たちも口々に語っている『あの方』に、なんと私たちは今、出会っているのだ。しかもその人は、ナザレから来ている」と、いわば万感の想いを込めて語ったフィリポに対し、ナタナエルという人は、「ナザレなどから良い人物が出るはずがない」と返事をしたのが、今日の福音書にある表題の言葉です。フィリポが言いたかったのは、イエスがナザレ出身かどうかということよりも、「永い間待ち望み、神さまが約束してくださったあの方と今、自分たちは一緒に居る!」という感動を分かち合いたかったように見えますが、ナタナエルは何に引っかかったのか、「出身」についてのみ反応をしています。

 スレ違いのようなこういったやりとりは、現実の生活の中では、結構多いかもしれません。家族の中や職場の人間関係でも、「伝えたかったこと」と「聞いたこと」がボタンのかけ違いのようにずれてしまい、なんだかザラザラした空気のまま、収集がつかなくなることがあります。そんな時、相手に伝えることをあきらめたり、伝わらないのは自分のせいではないと切り捨てたり、ついには相手のランク付けまでしてしまうこともあるかもしれません。

 それは、神さまと私たちの間にもあるように思います。神さまは、あの手この手で、愛の素晴らしさや、「あなたが大切」であることを伝えようとされますが、私たちは聞きたいことや、聞きやすいことしか受け止めず、都合の良いことは全面的に受け入れても、耳が痛いこと、面倒くさいと思うことについては耳を塞ぎます。しかし、私たちがいくらボタンのかけ違いをしても、神さまは、決してあきらめたり、自分のせいではないと切り捨てたり、私たちをランク付けしたリはなさらないのです。興味深いのは、ナタナエルのこの態度について、イエス様はたしなめるどころか、「この人は正直な人だ」と言っています。

 私たちは、自分の無知や不信仰、そして先入観や不安をなかったことにするのは、とても得意です。また、そうしないと現実の世界では身を守れないこともあるでしょう。でも、神さまの前で「わかったフリ」をするのは、私たちにとって障壁となります。事実を隠したり、自分にウソをついたりして自身を傷つけることは、神さまをとても悲しませます。ずっと以前から、そしてこれからも私たちを丸ごと受け止め、愛して止まない神さまが一緒に居てくださることに信頼し、勇気を持って前に進みたいと思います。

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