聖霊を受けなさい
2023年5月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまは息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。「聖霊を受ける」とは、すでにわたしたちと共におられる聖霊なる神の存在を認め、その働きに支えられていると、信じることではないでしょうか。
「私の民よ、私があなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」 (エゼキエル書 37:13)
この大斎節第5主日の旧約聖書は、いつ読んでも不思議な物語です。谷を埋め尽くす「甚だしく枯れた」(=命と真逆の状態)「人骨」というのも奇妙な光景ですが、神の言葉が放たれると、やがて骨は組み立てられ、筋肉や皮膚組織に覆われて人間のかたちになる。さらにそこに、神の霊が吹き込まれると生きた人となり、自らの足で立ち上がる。しかもおびただしい数の人の群れとなると。
かつては川が流れ、田畑を潤し、人々が活き活きと生活していたかもしれない谷なのですが、それは過去のこと。昔の谷を懐かしがる人さえいなくなった地。命が生まれる希望はなく、抜殻だけが悲しくころがっているような谷。それは誰が見ても、いのちのきざしを感じられない情景です。
しかしながらこれは、「神なら骨も人間に戻せる」ことを伝えるための話ではないでしょう。ある本に、エゼキエルのこの箇所のディスカッションのお題として「あなたにとって、この『骨』は何を意味しますか?」「あなたの教会が命を得るには、どのような望みが必要だと思いますか?」「神の霊が、あなたの教会に新たな命を吹き入れてくださるよう、お祈りを作ってみましょう」などと書いてありました。
つまりこの物語は、わたしたち個人個人に起きることを示唆しているのではなく、教会や共同体などの「神さまが与えてくださった人と、神さまからお預かりしている能力とを持ち寄り、神の国を実現しようとする」営みについて語っているのではないでしょうか。望みがあるとは到底思えない状況に、神がその霊を吹き込んでくださる時、人は自分の足で立ち上がるようになり、神の存在を心の底から知るようになる、と言っているのではないでしょうか。
教会が「枯れた骨」のようになること。それは目には見えるけれども中身のない「かたち」と化し、血も涙も流れないけれど、そして痛みや苦しみを排除できているけれども、もはや「命」が存在しないという状態なのでしょう。「命」がないのは、本当に残念なことですが、しかしその現実を認めること無しには、枯れた骨は、枯れた骨のままなのだと思います。
わたしたちにとっての大きな課題は、「我々の骨は枯れ、望みは失せ、滅びる」(37:11)とは、まだ認めていないことかもしれません。どこかで「まだ何とかなる」「誰かが何とかしてくれる」「自分が生きている間だけ今のままなら、あとはどうなってもいい」等という気持ちが少しあるとき、「滅びるだけだ」という現実を直視する覚悟は、できていないのだと思います。
神さまは、その覚悟がない人々をも見捨てられませんが、神さまの霊を受けたとき、それに気がつかないわたしたちでは、もったいないと思います。墓場のようなわたしたちの心を開き、霊を送り続けてくださる神さまは、わたしたちのかたくなさにまで降りてきてくださいます。
イエスさまのお弟子さんたちでさえ、「生まれつき目が見えない」のは罪と関連していると思っていました。また、「罪の子だ」と片付けてきた近所の人々も、その人が急に一人前の「男性」に見えてきたので不安になり、ファリサイ派の人々のところに連れて行き、顛末の解明を求めます。しかしファリサイ派の人々も混乱し、彼の両親に説明を求めたりしますが、彼らは本人に聞いてくださいと返します。仕方なくユダヤ人たち(いつのまにかファリサイ派の人々だけではなく)は、再び本人に聞くことになりますが、彼は最初から一貫して全く主旨を変えてはいません。最終的にはユダヤ人たちはこの人を理解することができず、エルサレム市街地から追い出します。それを聞いたイエスさまはこの人と会い、彼からの「主よ、信じます」という言葉を聞きます。
この物語を振り返ってみると、お弟子たちにしても、近所の人々にしても、そして両親も(息子に物乞いをさせている両親というのも悲しいですが)、またファリサイ派・ユダヤ人たちも、何かしら「失うもの」の多い人々です。それは必ずしも物的な事ではなかったとしても、イエスさまとかかわることによって、生活の安定や社会的地位が揺さぶられることを恐れたのでしょう。そして何よりも恐れたのは、彼らが信じる価値観が破壊されることだったでしょう。理解できないことが起きている、しかも自分たちは神のみ恵みの中にいることが保証されており、そうではない人々は別世界に位置していたはずなのに、立場が逆転してしまう。「罪」ある人を排除することが正義だと信じてきたが、実はそこには“?”が空中に浮かんでいる。でも、人を裁き、上から目線で決めつける事(うっかりやってしまうことはあるかもしれない)の危うさに気づいたら、勇気を持って物事の本質を「見る」。イエスさまが望んでおられるのは、無条件の服従ではなく、真実を見ようとするそんな謙虚さではないでしょうか。
コロナ前のある夜、非常に混んだ地下鉄の車両の床に、ころっとしたピンク色の財布が落ちているのが目に止まった。人々はそれに気がつきながらも横目で眺めるだけで次々と降りていく。そして新しい人々が乗り込んでくる。拾う人がないままに、財布は床に座っている。やがてわたしは、自分の降りる駅を迎えてしまったので、手を伸ばして財布をつかみ、立ち上がった。ところが驚いたのは、(誰かが拾ってくれて)「ホッとした」ではなく、一部始終を見ていた人々が「あ〜あ、あいつ拾いやがった」という、突き刺さるような視線を、一斉に向けてきたことである。つまり落ちている財布を「自分のものにする」という誤解をされないために、この人々は財布を放置していたのだ。他人の財布を盗る人と思われたことはさて置き、「人にどう思われるか」がこんなにも大切な人々の世界観に驚いていた。
しかしながら、「人にどう思われるか」という視点が培われるのは、実際に受けた、人からのリアクションに加え、自分の中にも行動チェックをする別の自分がいて、むしろそちらの方が強烈な力があるように思います。無意識のうちにしかも素早く「人にどう思われるか」を察知して、身を護るよう警鐘を鳴らしてくる、そんな別の自分です。
今日の福音書のサマリアの女性にとって、イエスさまの行動は、最初は警鐘だらけだったに違いないのです。サマリア人を軽蔑しているユダヤ人の、しかも男性が話しかけてきて、さらに下手に出て何かをお願いする、この女性が不審に思っても何ら不思議はありません。親切に水を呑ませても、絶対に何か別ストーリーがあり、はめられて自分が恥を晒すだけではなく、サマリアの共同体からほれ見たことかと言われるかもしれない。そもそもこの男性と話をしていて、自分は安全なのか、と気が気ではなかったに違いありません。ところが、信じられないことが次々とおきていきます。その町のサマリア人の多くがイエスさまの言うことに耳を傾け、神さまの愛を信じるようになります。ユダヤ民族としては切り捨てた人々なのに、イエスさまはサマリア人の家に泊まり、2日間も一緒に過ごされます。民族や常識や宗教を超えて、また「人にどう思われるか」を超えて、最も優先すべきことを大切にしていくよう、人々が変えられていく、そんな奇跡の物語ではないでしょうか。
今日登場するニコデモという人は、自分の無知や限界をさらけ出してでも、イエスさまから真実を聞こうとした人なのではないかと思うのです。ニコデモは、ヨハネによる福音書では3度登場します。
7章50節では、多くの人々がイエスさまの言葉に耳を傾けるようになっていったとき、伝統的ユダヤ教の存亡の危機を感じたファリサイ派と大祭司の指導者層は、イエスさまを逮捕しようと人を送ります。結果的には逮捕には至りませんでしたが、ニコデモは議員仲間からの反発を受けながらも、闇雲に断罪するのではなく、まず事情聴取が必要だと主張し、その場は収まってしまいます。
19章39節では、ニコデモは議員身分の剥奪や、ユダヤ支配層からの追放も覚悟の上で、十字架刑で亡くなったイエスさまを葬るために、大量の没薬と香料を準備し、そして遺体の引き取りを申し出たアリマタヤのヨセフとともに、丁重にイエスさまを墓に納めます。
ところで今日の福音書では、誰にも知られないよう闇に紛れてイエスさまを訪ねるなんて少し狡い、とする考え方もありますが、イエスさまの解き明かす話には、耳を傾けざるを得ない何かがあると感じているニコデモの姿を伝えています。彼は最高議会の議員であり、ユダヤ社会の指導者の一人でした。ユダヤ教の伝統や習わしを擁護する側にとっては、それらをないがしろにする(ように見える)イエスさまを潰すために行動しても、また真実を知る恐怖から逃れるためにイエスさまを否定しても不思議はないのに、イエスさまに教えを乞う。これだけですでにニコデモは「新たに生まれて神の国を見る」人生が始まりかけているようにも思います。何歳からでも、どんな立場にあっても、何かを失う可能性があっても、イエスさまの助けにより、真実に目を向けることを選んだニコデモです。
2月22日から大斎節(イースターを迎える準備の季節)に入りました。イー スターを迎えるまでの40日間を「大斎節」と呼びます。イエスさまが、荒野で、さまざまな誘惑を退 けたことに倣い、美食や気晴らし事を斥け「自身の弱さに向き合う」期節として 過ごす習慣がありました。昔は「娯楽」や「贅沢」がごく限られていましたので 自分の弱さと向き合うためには、そんな習慣も役立ったのかもしれませんが、 今や、娯楽や贅沢でないことを見つけるのが大変なほど、日常生活は様々な雑音 で満ちています。この現実の中では、40日間だけ何かを我慢したところで、自己満足や達成感を味わうだけとなってしまう危険もあります。具体的な過ごし方 については、個人の判断と考え方にお任せしていますので、まずは、イエスさま が遭われた誘惑について注目したいと思います。
一つ目は、「石をパンに変える」誘惑でした。災害が起きた時に、水や食料 を届けるのは必須ですが、それで「何かやってあげた」という気分になる誘惑も 含むのでしょう。当時、イエスさまだけではなく、多くの人がお腹を空かせていましたが、そんな人々の前で石をパンに変えて見せれば、身体が満足しただけで はなく、神さまの力を信じる人も出てきたかもしれません。しかし、イエスさま が紹介する神さまは、都合よく「物をくれる神」ではなく、また「自立を阻害 する神」でもなく、「愛」の神でした。
2つ目は、「神を試してみる」誘惑でした。目に見えず手で触れることもできない神さまを、悪魔は旧約聖書を引用し、心身が納得する方法で試すよう誘います。イエスさまは神殿の屋根まで連れて行かれましたが、人間の弱さを忘れていませんでした。「試し」た直後だけ神の存在を感じることができるかもしれませんが、 1秒後にはまた試したくなる。それは、いくら飲んでも喉が渇く塩水を呑むのと同じです。永遠に神を試し続け、そして不安しか与えられないというジレンマをよくご存知でした。
3つ目は「世界のすべてを支配する」誘惑でした。でも、神さまの国は、支配や秩序やルールによって守られる国ではなく、「愛」が基盤となり、人々が自由意志と、喜びと自らの責任において生き方を決める国です。そう最終的に心を決めたイエ スさまの道は、ここからはまっすぐ十字架に向かうことになります。
今日の特祷でわたしたちは「自分の十字架を負う力を強められ、〜主と同じ姿に変えられますように」と祈ります。「主と同じ姿」になることが、十字架にかかって死ぬことではないと思いますが、では何をもって「主と同じ姿」になるのか。それは、「わたしの愛する子」と呼びかける神さまの声を、イエスさまのようにわたしたちも聞けるようになることではないかと思うのです。
「わたしの愛する子」とイエスさまが告げられているのは、「神の息子」だからではなく、神の愛を信じている「子」という意味ではないでしょうか。それはわたしたちに対しても語られ、しかも常に注がれている言葉なのに、わたしたちは聞けないことも多い。ことに辛い目に遭っているとき、「ほかの人は愛されているのに、わたしはその中に入ってはいない」と疑う。たとえそうでなくても、にわかには信じがたいと思ってしまっているわたしたちがいます。それは、傷ついた心にとって「愛されている」と信じることは、再び裏切られるかもしれないという不安がよぎることだからです。負いたくない十字架、人々からの愛のない言葉、親しい人々の無理解の中で生きなければならないとき、「神さまは、本当にわたしを愛されているのだろうか」と、神への信頼はぐらぐらします。
それでもわたしたちは、「神さまの心にかなって」造られました。目に見えない神さまは、わたしたちを目に見えるいのちとして造り、それぞれ個性溢れる人間として創られました。自分で自分の「個性」が気に入らないときもありますが、それは神さまの目にはすべて尊いもの。「自分がなんとかしなければ」と、りきんでいるときには感じにくいですが、溢れるばかりの愛と慈しみ、そして必要な勇気が与えられていることに心の底から信頼するとき、わたしたちは主と同じ姿に変えられていくのではないでしょうか。
ユダヤ人社会でも、律法に照らして「間違い」とは認識されないものの、神さまの「愛」に反する行為は見過ごしにされてきました。密かに心の中でつぶやいたり、周りにばれることはないと思って、こっそり考えたり妄想を抱いたりすることは、律法に反したとは明らかにされないので許容されてきたのでしょうが、イエスさまはこういったことに対し、「神さまの目に、だめなことはダメ」とおっしゃいます。
しかも具体的な例を挙げ、心の中で人を罵倒したり、欲望を満たす対象として人を眺めたり、たとえ口に登ることはなくても、神さまの目にはどちらも同じ罪(=的はずれ)であるとおっしゃっています。
しかし「裁きを受け」ないために、何一つ間違うな、とイエスさまが言っているわけではありません。重箱の隅をつつくような詮索をして、何ひとつ悪さをしないように、わたしたちを縛りつけるのが目的ではなく、こっそりと心の中で描いた「悪事」は、他人は気づくことはなくても、実は本人の心と身体と魂の健康を少しずつむしばみ、愛に基づかない判断や自分を絶対化する傾向、そして最終的には神さま不要の生活になってしまう。しかもそれに気がつかない恐ろしさを、心からの憐れみをもってイエスさまは心配してくださっています。神さまの望みはただひとつ。喜びと感謝とともに、十全に与えられたいのちを、わたしたちが健全に生き切ることです。イエスさまを通して示された「愛」が、すべての行動の基盤となるように、日々努めていきましょう。
今日の福音書もまた、内容てんこ盛りです。文中に登場する「地の塩」「ともし火」「律法を廃する」と、それぞれ別のお話が出来てしまいそうです。でも今日は、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようにしなさい」という、なかなか危険とも思える聖句に注目したいと思います。聖書の常識的なイメージとしては、人に知られなくても、神さまはわかってくださるのだから、人から「立派」という評価を得ることは期待せず、ひたすら善い行いをしなさい、と勧めるのがふつうな気がします。ところがこの聖書の言葉は、「ひっそりと立派な行いをするのではなく、みんなに見えるように実行しなさい」とも聞こえるフレーズ。これではファリサイ人が言ったりやったりしていることと同じではないか。果たしてイエスさまは、こんなことを本当におっしゃったのだろうか、と疑問に思います。
ところで、あるシェフが書いた本によると、コックの長い下積み時代、彼はひたすら鍋を磨く仕事を言いつけられたそうです。彼がどんなに心を込めて鍋を洗っても、料理をつくる調理方は、ただ単に「洗ってあるから使える」としか思わない。しかし、鍋を丁寧に洗い、磨き続けていると、何がどのような影響を及ぼしたのかはわからないけれども、自身も仲間も、何かが少しずつ変化してゆく、そしてそれは体感として、100回繰り返したあとの、とても不思議な変化だ、という話でした。
鍋を洗う事と立派な行いを一緒くたにするのは少し気が引けますが、イエスさまがおっしゃるのは、「人にわかるようなパフォーマンス」をしようという話ではなく、皆が変えられ、自身も変えられるような繰り返しの努力の背後には、100回繰り返された工程がある、ということなのではないかと思うのです。それはつまり、すぐに結果が出なくても、諦めずに神さまに信頼し続けましょうという呼びかけであり、何かが変わるための、日の目を見ない99回の努力は、決して無駄にはならない、ということなのでしょう。
まもなくわたしたちは、大斎節を迎え、自分自身を顧みる季節に入ります。何かがすぐに変わらなくても、その100倍、神さまに信頼し続けましょう。
(あとで)慰められるのだから、(今)悲しむ人々は「幸いである」と言われても、正直なところ納得はできない。あとで慰められるのならば、もったいつけずに、今すぐに慰めてくださいと言いたい。あるいは、悲しみの渦中にある人々に対し、貧しくも悲しくもない人が気休めとして、「あとでね」と誤魔化されているような気にもなる。
しかしながら、この「幸い」リストは、実はもっと普遍的なもので、「どうしたら人間は幸せに生きることができるか」という、永遠に繰り返されてきた問いに対して、イエスさまがこたえられたのではないか、と思うのです。
旧約聖書の世界にも、「幸せな人」のたとえが出てきますが、幸せになる大前提として「律法」の存在があります。つまり「律法」を順守することが幸せの鍵で、律法を守れる人は幸せな人、守れない人(病や怪我を負う人、「罪」と定められた生活を余儀なくされる人)は幸せにはなれない人、ということを差別化するために使われていた、と言っても過言ではありませんでした。そして、悲しみや貧しさは、律法を守れない=罪ある人に対する「罰」と考えられていました。
ところがイエスさまは、貧しい人こそ、悲しむ人こそ、神さまの祝福を受けると語ります。挙句の果ては、「あなたがた」と二人称で語り出します。つまり悲しんだり貧しかったりすることは、神さまから見捨てられている証拠ではなく、むしろそういう人々のために、天の国が用意されていることを、そしてそれは一般論ではなく、他でもない「あなたがた」にわかってほしいと語ります。
「幸いである」という表現は、ともすると「よかったね!」と、現状肯定とも捉えられるニュアンスを感じることがありますが、「貧しい」「悲しい」状態が幸いだからそこに留まるように、と言っているのではなく、貧しくても悲しくても、また社会が「罪の存在」と決めつけてきても、「あなたたち」は紛れもなく神さまの国の住人なのだと告げておられるのではないでしょうか。
それは一旦置いておいて、「天の国は近づいた」という言葉を最初に問題にしたいと思います。もしこれを「この世の終わりが近づいている。審判の時がすぐそこに迫っているから、今のうちに良い人になって、天国に入る準備をしておいた方がよい」というふうに読んでしまうと、その情報を手に入れることが出来た「早い者勝ち」のように聞こえてしまいます。しかし原文を見ると、「天国は(すでに)近くにあるのだから、考え直しなさい」とも訳せます。イエスさまから声をかけられたから天国が近づくのではなく、「あなたには関係ない」とされてきた貧しい庶民や社会的地位の低い人々に、「他ならぬあなたの近くに、天の国はある。だから、自分は関係ない、なんていう考えは変えなさい」と、イエスさまが言っておられるように思うのです。
さらに追い討ちをかけるのが、「人間をとる漁師にしよう」という言葉です。読み方によっては、食べるために魚を捕まえるように、商品のように人間を捕まえる、という話に聞こえてしまいますが、こちらも原文を見ると、「私はあなたを人間の漁師にしよう」とあるだけで、狩のように「人間を獲る」とは書かれていません。この方がわかりやすいだろうと言葉を添えたのかもしれませんが、イエスさまがおっしゃりたかったのは、人を獲るという意味ではないように思います。
つまり、社会的に一人前の大人の仕事とも認められていなかった職業の一つである漁師に対し、職業を変えるのではなく「あなたはあなたのままで、すでに一人の人間として神さまから尊重されている。そういう者として生きなさい」とイエスさまは告げておられるのではないでしょうか。
アドベントに度々「バプテスマのヨハネ」が登場しましたが、顕現節に入り再びの登場です。水による洗礼のことも、「鳩のように霊が天から降った」ことにも言及していますので、イエスさまに洗礼を授けた後の展開のようです。興味深いのは、ヨハネはイエスさまのことを二度も「神の子羊」と呼んでいることです。
「世の罪を除く神の子羊よ」と、わたしたちは聖餐式のたびに歌いますが、そもそも何故、イエスさまを「子羊」に喩えているのでしょうか。旧約聖書のレビ記には、人が罪をおかしてしまった時、罪を償うために自分で何かするのではなく、「欠陥のない」羊をつれてきて、その頭に手を置き、自分の身代わりにする。そして、その羊をいけにえとして捧げると、人間の方は「罪を赦された」ことになると書いてあります。人間の罪の大きさや種類によって、雄牛や雌羊、あるいは鳩だったりしますが、いずれにしても罪のない動物に罪を負わせて自分が赦される、という展開は、現代のわたしたちには、とうてい理解し難いものでしょう。
しかしながら、動物の犠牲を捧げることは、なかなか大きな負担です。貧しい人ではなくても、牛をまるまる一頭、いけにえとして捧げるのは、とても痛い出費でしょう。しかしもし「牛一頭分と同等の、大きな罪を犯してしまった」ときちんと認めることからしか、再び立ち上がることはできないのであれば、そんな方法も仕方ないのかもしれません。牛を犠牲にする前に「罪を犯した」という認識が持てれば、出費を抑えられたのに、とも考えてしまいますが、痛い思いをしないと真実に出会えない、それが人間なのかもしれません。
わたしたちが神さまの愛を疑わず、自分ではなく神さまによってゆるされ、生かされていることを信じ、喜びと感謝で満ちた生涯を全うしているならば、イエスさまをわざわざ十字架にかけて死なせなくてもよかったのでしょう。使者や預言者を何度送っても、同じ間違いを繰り返す人間に対し、神さまはスッパリと諦めるのではなく、牛や羊とは比較にならない大きな犠牲を払ってでも、あなたに再び立ち上がってほしい、幸せに生きてほしい。そう言い続けておられるがゆえの「神さまの子羊」なのではないでしょうか。
前にもお話ししたかもしれませんが、中世のキリスト教会では、亡くなる直前まで「洗礼を受けること」を引き伸ばす習慣が流行していました。洗礼を受けることによって、それまで犯した「罪」が全部帳消しになると信じていたので、確実に天国へ行く「ノウハウ」として、洗礼によって清廉潔白となる必要があると考えたからです。
しかし、今日の福音書では、罪のない「神の子」イエスが洗礼を受けています。うろたえるバプテスマのヨハネに対し、「今は止めないでほしい。正しいことだから」と答えるイエスさまですが、「罪を帳消し」にされる必要があったとは思えません。また、洗礼の場面なので、つい「水」のことばかり記憶に留まってしまいますが、イエスさまご自身は洗礼を受け、そして続いて「神の霊が鳩のように降っ」たと書かれています。つまり、「水で洗うこと」と「神の霊が降ること」はセットであり、本来は1つの出来事なのですが、さまざまな経緯により、前半を「洗礼」、そして後半を「堅信」とみなすようになりました。
でも、「神の霊が降った」からといって、別にビビビッと電流が流れた訳ではないでしょう。イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、神の霊が降って「愛する子」と宣言されたように、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けたすべての人々は、実はすでに神さまの「愛する子」と宣言されているのではないかと思うのです。それを受け入れるのには、とても大きな勇気を必要とするかもしれません。なぜなら、目に見える確証はなく、音としても聞こえないからです。
現代のわたしたちにとっての洗礼は、これからの人生を神さまと共に歩きたい、イエスさまが示してくださった「愛」に信頼して生きていきたい、その決断を公表することであり、このための努力を自分も続けられるよう、教会の皆さんに祈って支えていただきたいと公言することでもあるでしょう。
しかも洗礼は、依存の対象を人間から神へ転換する、ということではありません。間違えても失敗しても、迷っても怠けても、あるいは良い子でいても悪い子になっても、決して見放すことのない方が、自分をしっかり支え続けてくださる、神さまは自分を「わたしの愛する子」と呼びかけておられる、と信じることなのでしょう。それが、わたしたちが洗礼を受ける時に、神さまと交わしたお約束なのではないかと思うのです。そしてその模範を示してくださるために、イエスさまはわざわざ洗礼を受けてくださったのかもしれないなと思います。
ところでイエスさまのお名前は、当時どこにでもいる一般的な「イエス」(「ヤハウェは救い」という意味を持つ、ヘブル語の「ヨシュア」のギリシア語音訳)。特別感はひとつもありません。しかも、父親や親戚の中にいる男性の名前をもらってそうなったかというと、そうではなく、天使がイエスと付けるようにと言ったから、この名前になったということになっています。この特別感のない方は、旅の途中の両親が宿に泊まれなかったゆえ、家畜で足の踏み場もないような不衛生な洞窟で生まれ、そして7日目に「イエス」と名付けられました。教会では、クリスマスも入れた8日目に当たる1月1日を「主イエス命名の日」として記念しています。
イエスさまは、誰が見ても「神の子だ」とわかるような、きわ立つ人生が与えられたのではなく、まったく普通の人間としての、短い生涯を全うされました。目立つ存在でもなく、麗しい外見の輝きもなく普通の人として、この世界を生きました。それは、言い方を変えれば、本来神さまが創ってくださったそのままの「人」としてのいのちを、忠実に生きたことに他ならないのではないかと思うのです。わたしたちもまた、この世を生きる印として、名前を与えられ、神さまからお預かりした使命を、今、生きているのではないでしょうか。
言うまでもないことかもしれませんが、神さまは目に見えません。(見える人もいるかもしれませんね)
そのままでは目に見えず、音として聞くことができず、風や香りでもなく、いかなる「かたち」にもなり得ないのが、神という存在です。つまり「ここにいる」「あそこにいる」と言われても、証拠はありません。
しかし「証拠のない」神を信じるためには、人々はしるしを求め、すがる「物」を探し求めます。すると、神と人間の間を取り次ぐ風を装い、これ幸いとばかりに、人々をだます人も現れます。本当は、ひとりひとりが自分の良心と洞察力を駆使し、偽物か本物かを見極めれば良いのですが、実際はなかなかそういきません。神の存在そのものの捉え方があやふやな人間は、神のご意志についても、あれこれと道に迷ってきました。その度に神は、預言者(神の言葉を預かって人々に伝える人)や律法を送ってくださいましたが、苦難も喉元過ぎれば何とやら。すぐにそんな神の苦労も忘れ、再び道に迷う生き方を人々は繰り返してきました。
そんな何千年もの時間を経て、ついに神は人々に対し、目で見ることができ、声を聞くこともできる神に「イエス」と名前を付け、生きている人間として、人々の間に送ります。この神は人間として生きながらも、神の愛と慈しみを人々にわかるような行動や言葉や在り方をもって示しました。闇に包まれていたように感じていた神の存在は、人々の前にはっきりと姿を現し、神が何を大切にされているのか、人間にどのようになってほしいかを、明確に人々に示しました。
「初めに言があった」(ヨハネ1:1)すなわち、世界の初めより『ことば』である方は存在しておられ、初めから神と一体であった方が、肉体をとってこの世に来られた。そのことにより、人の心と魂は真実を知った。つまり、人はどのように生きるべきか示され、その指針は希望の光として、すべての人々に宿った。「イエス」と名前の付く前の存在を、ヨハネは「言(ことば)」と言い表し、神のなさったわざに感動しながら、わたしたちにそのことを伝えています。
ローマ帝国の支配下に置かれていたマリアやヨセフを取り巻く社会状況を想像するとき、復帰前/復帰後の沖縄県での諸事件を思い出してしまいます。沖縄県の全ての地域がそうだったわけではないですが、いわゆる治外法権が横行していました。沖縄住人は、米軍基地への立ち入りは禁じられているものの、彼らの居住地には外国人である米兵は自由に出入りし、暴力や性暴力をふるい、時には住居にさえ押し入り、事故を起こしても揉み消され、実際の被害を報道するのは、命懸けだったと言われています。
全ての軍隊がそうだったわけではないとしても、戦争に駆り出され「人を殺す」という任務を強制されることは、人として極限を越えたストレスがあり、結果的に本人が責任をとれないような事件もたくさん発生しました。
マリアやヨセフの生きた世界は、ローマ帝国の支配下にありました。上記の沖縄県に似た状況があったかもしれません。ローマ兵やローマの役人がうろうろし、不正も横行、やりたい放題されても、何があったのか声にすることができない。暴力を奮われても、むしろ被害者が「神の恵みから漏れていた」という烙印を押される、といった社会だったことでしょう。
そんな中で少女マリアは、生涯に渡って「うしろ指」を指されるような妊娠をしてしまいます。マリヤは死ぬほど悩み、どうしていいか途方に暮れたことでしょう。そして「正しい人であった」と言われるヨセフは、一生懸命、律法を守って生きる誠実な人だったから、どんなにか苦しんだことでしょう。彼らの決断が、いつどのように行われたのか、詳細は聖書には書いてありませんが、ふたりは律法を超えて働く、恵みと愛をもたらす神に信頼し、その声に従うことを決心したのだと思います。「神は我々と共に居られる」このことだけを唯一の心の拠り所として、神のご計画に賭けていった物語です。
自分は命がけで神の国について人々に語ってきた、家族や安定した生活も捨てて自分の役割を果たしてきた、それが使命だと信じていたから。なのに人生の終着点が逮捕と死とは。ひょっとしたら、自分は何か思い違いをしたのではないか。そんな考えがヨハネの頭をよぎったのでしょう。イエスさまのことをみんなに知らせるのは、本当に自分の役割だったのか、自分の思い込みだったかもしれない、自分は情けない敗北者か。そう思うと、ゾッとするような冷たい風が、ヨハネの背中を下から上へと駆け抜けました。そして彼は、イエスさまに聞いてみようと思いました。
そこでヨハネは、牢獄から自分の弟子に使いを送り、「これで良かったのでしょうか」と、イエスさまに問います。ヨハネは、「そうだ。あなたは間違っていない。安心して逝きなさい」というイエスさまの答えを期待していたのかもしれません。
でもイエスさまは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と返事します。なんだか肩透かしのようでもありますが、ヨハネの人生だけに限って、当たりハズレを答えたのではなく、イエスさまを通じて人々の間に起き始めていること、常識的に考えて「ありえないこと」が始まった、つまり神の国が地上に展開され始めているのだ、と答えたのです。
イエスさまが挙げた様々な事例は、当時の常識では、ありえないことでした。目や耳や足が不自由な人は、神から見放され、祝福から漏れているからそうなった、と考えられていました。同様に、「死者」は社会復帰するはずはなく、貧しい人への福音なんてあるはずないと信じられていました。困難に遭う人は、神から見捨てられ、愛される資格がない人、と考えられていたからです。ところがイエスさまは、全く正反対のことを人々に告げています。
掟をきちんと守り、清く正しく生活することができる人ではなく、貧しい人たちこそが「福音」、つまり「良い知らせ」を告げられている、というのです。それは、イエスさまが家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたこととも通じるかもしれません。偉大な神として君臨するためではなく、超能力によって人の興味を引くためでもなく、苦しみや悲しみを抱えた人々と、徹底して一緒にいようとする神を伝える。そんなイエスさまの目的を、バプテスマのヨハネも時には忘れ、大きな不安に取り憑かれた、ということなのでしょう。
社会的に言えば、ひとりぼっちで獄中で亡くなったヨハネは、「成功者」ではないでしょう。でも神さまの目にとっては、自分の役割を果たした人。わたしたちはそんな人々に支えられて、クリスマスを迎えていくのではないでしょうか。
父親は神殿に仕える祭司でしたが、ヨハネはその仕事を継ぐことはせず、成人したのち家を出て、荒野で人々に呼びかけるミッションに身を投じます。ラクダの毛皮を他の動物の皮で身体にくくりつけ、イナゴと野蜜を食べて「悔い改めよ」と叫んで回る。また、当時の権力者に対しても苦言を呈し、支配者層の不正をあばく。そして最後はサロメの舞のご褒美として首を落とされる。考えようによっては、ずいぶんと損な役割を果たした人かもしれません。
「悔い改めよ」という言葉からは、上から目線も感じるので、ちょっと前に進むのが難しい気持ちにもなりますが、他の聖書の訳を見てみると、なかなか幅があることがわかります。
「あなた自身を考え直せ」「罪に背を向けていた自分から立ち返れ」「低みからの見直しをせよ」と。
こんなふうに言われたら、罪のなさそうなヨハネが、罪を抱えながら生活しているわたしたちを非難している、という構図ではなく、普段は見ないことにしている心の深みや叫び、痛みも含めた様々な「とりあえず」脇に置いている苦しみを、神の慈しみのまなざしの中でなら、正面から見つめる勇気が出るかもしれない、と言っているように思うのです。
自分で自分を束縛しているものからの解放、不自由にされたと思っているが実は不自由にしているのは自分だったりする事実、そんな事柄との対峙を思い切ってしてみることを、イエスさまをお迎えする準備の季節に取り掛かってみませんか。教会の暦の新しい一年が始まりました。日本のお正月ですと、なんとか新しい年を迎えることができて良かった!という意味で、お祝いをもって新年が始まりますが、ユダヤの伝統も引き継いでいるキリスト教では、まず闇の存在を意識することから新年を始めます。クリスマス前の4週間は、1年で最も夜の時間が長い季節。午後の仕事に少しとりかかるだけですぐに夕闇が迫り、なんとも寂しい気持ちになります。でもそれは、単に日照時間が短くなって気が滅入る、ということだけではなく、太陽が燦々と照り輝く昼間には見えなかったものが、闇に包まれると見えてくる、といった暦でもあるのでしょう。言い方を変えれば、心に刺さるような歪んだ社会の構造や、自身の心の陰に潜む弱さや不完全さについて、目をそむけずに向き合ってみましょう、という暦なのではないでしょうか。
弱さや不完全さは克服しなければならない、人に見せてはならない、というモードがとても強い社会に住んでいるせいもありますが、辛いことや面倒なことはなるべく避けたい、話題にせずに済ませたい、と思うのは自然なことかもしれません。人生が順調に進んでいる時はそれでもなんとかなるので、弱さは克服された、もはや向き合う必要もないのだと思い込むことができますが、“逆境”に襲われると、途端に弱さが自分の前に立ちはだかり、不完全な己の存在を思い知らされます。だからといって聖書が、「いつもビクビクして備えなさい」「諦めて限界を受け入れなさい」と勧めているわけではないと思うのです。
「二人の人がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」というこの聖書の言葉は、二人のうち一人しか命が助からない、という意味ではないでしょう。一人分の「わたし」なのにもかかわらず、二人分以上の重荷を背負い潰されそうになりながら、でも現実は見ないようにして進んできても、困難がひとたび襲うと、それを直視することになるという話ではないかと思うのです。しかもこの「直視」は、わたしたちの限界を受け入れ「仕方がないからあきらめましょう」という意味ではなく、実は「ひとり分だった自分」を認めることへのおすすめであり、もしそのことを認識できると、戦い傷つき苦しんでいる、多くの周りの人の姿が見えてくる、ということなのではないかと思うのです。
一年の初めの日曜日は、クリスマスに向かう心の準備の始めの日です。無防備な新生児の姿をとり、この世に来て下さったイエスさまを迎える心の準備とは、思い込みや虚勢の鎧を脱ぎ、肩の力を抜いて、たったひとり分でしかない「わたし」を抱き留めること。それは、わたしたちを愛し、幸せな生涯を送ってほしいと、心から熱望する神さまの意志を大切にすること。そして、そのことを告げるために、命を捧げたイエスさまの声に耳を傾けること。そんな、クリスマスへの準備をしていきましょう。
十字架刑を見物に来た民衆や議員たち、そして執行人である兵士たちは、揃いも揃って「人を救うと自称するイエスよ、ならば自分を救ってみろ」と、嘲笑います。言葉や行為による暴力をふるっても、仕返しされることはないと確信しているこの人々は、十字架上の3人には人としての尊厳は必要ないと思っているだけではなく、そういう言葉が口から出てくる自身に対しての尊厳も失っています。さらにおそろしいことには、命を与え、また命を取り去る神は、この人々の心の中には不在です。
十字架にかかっている犯罪人のひとりの口からも、「神不在」の発言が続きます。極限に置かれているこの人の気持ちを考えると、極めて人間的な行動なのかもしれませんが、死を免れるためなら何でも利用しよう、としか考えていません。神がおられるかどうか、それはどうでもいいし、イエスがメシアだと信じているわけでもないようです。ダメもとで「救ってみろ」と罵ります。
十字架にかかっているもうひとりの犯罪人は、驚いたことに「この人(イエス)は何も悪いことをしていない」と発言します。これは、ローマ総督の判断も、ユダヤ人議員による裁判も、そして民衆をも、はっきりと敵に回す発言です。しかもこの人は、自分がこれから失う地上の命を奪還しようとはせず、イエスさまのことを(亡くなった後に)「み国」に行く方だと信じて、ただ自分のことを覚えていてくだされば、と告げます。するとイエスさまは、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と言われます。
教会の暦の最後の日曜日、来週から「新年」が始まる時に、この物語はわたしたちに「救い」の本質を告げます。身体の安全が保証されることが「救い」ではなく、辛さ哀しさが取り去られることが「救い」でもない、またわたしたちの思うように人生が進むことも「救い」ではない。
「救い」とは、イエスさまと一緒にいること。わたしたちの生活の中心に、心のど真ん中にイエスさまをお迎えし、「どうかご一緒にいてください」と、本気で願うこと。イエスさまがおられる「み国」は、死んでから行くところではなく、生きているわたしたちの心にお迎えする「み国」なのではないでしょうか。
今まで遭ったことの無い事態、対応能力を越えるような状況、考えもしなかった事件など、天変地異も含め想像を絶するような出来事に遭うことは、考えるだけでも怖くなります。今日の福音書を読むと、やがてやって来る危機を前に、わたしたちが怯えないため、イエスさまが教えてくださっているようにも感じます。しかしながら、ルカによる福音書がまとめられたのは、十字架の出来事より少なくとも数十年後。すでにキリスト教徒への迫害の真っ只中の時代でした。多数が犠牲になり、国や民族間だけではなく、家族間でも裏切りや騙し討ちが横行し、もう何が真実なのかわからなくなる。そんなとき、「こうすれば大丈夫」といった怪しい宗教も出没。心配でたまらない人々は、真偽を確かめる心の余裕もなくすがりついてしまう、そんな状況が目に浮かびます。
でもこのことを、遠い昔の出来事なのだから、今は大丈夫と思うのも、少し本当ではない気がします。戦争や殺戮が続く国々、自国民を虐げる権力者が、今この瞬間も力をふるっている事実を、わたしたちは知りながら、しかし呆然とするほど無力で、もう何をどうすればよいのかと絶望的な気持ちになりますが、そんな中でも、わたしたちにできる事があります。
それは「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」との約束を、真に受けることです。「もしそれが本当なら、信じてみてもいい。しかし保証はどこにあるのか」と言うなら、この言葉を信じてはいないということでしょうが、イエスさまは、交換条件や取引に応じてほしいと言っているのではありません。むしろ、わたしたちが自分の力だけで窮地を何とかしようと力みながら、絶望感に満たされることについて、そこから救おうとされているのだと思うのです。どんな状況に落とし入れられても、騙されても誤解されても、イエスさまだけはわかっていてくださる。そして必ず、必要な言葉と知恵を与えてくださる。どんな窮地でも「命をかち取る」ために、いたずらに心配を膨張させるのではなく、心をイエスさまに向けること。とてもシンプルなおすすめなのではないでしょうか。
「本当に心がホッとしました」という意味で、「救われました」と言うことがあります。それは、通常の生活の中でも使われる言葉かもしれませんが、教会の中では、どういう意味で「救われた」と表現するのでしょうか。
今日の福音書は、あのザアカイの話。ルカによる福音書だけに納められた力強いこの物語は、「救われた」ということの本質を語るものであり、わたしたちが普段気がつかないように小さい姿に押し込め、しかし心の奥底に確かに住む、「小さなザアカイ」に語りかけられているような気がしてなりません。
ザアカイは徴税人でしたから、とりあえず食うに困らない暮らしは出来ていました。農業のように天候や不作に左右されることもなく、家畜の流行病とも無関係で、ローマ帝国の支配が続く限りは、当面職を失うという心配は、あまりない職業に就いていたわけです。当時の多くの人からすれば、明日どころか来年のご飯に困らない暮らしというのは、羨望の的だったでしょう。
しかしザアカイは、秀でた才能やスキルがあったわけではなく、そもそも尊敬される職種ではなく、そして人々からは「罪深い男」と呼ばれていた。生活は成り立っていたけれど、自分には金はあるというプライド、しかし実は他に何も誇るものがないという現実。そんな自分の虚しさと、この先どうつきあったらいいのか途方に暮れつつ、日々苦しんでいたザアカイは、「イエスという人が町に来る」ことを聞きつけ、胸の中がなんだかざわざわします。自分から話しかける勇気は到底なく、せめてどんな人物か見てみようと思ったザアカイの、登った桑の木の下を一行が通り過ぎようとしたその時、イエスさまは顔を上げてザアカイ(「清い」という意味)の名前を呼び、あなたの家に泊めてほしいと頼みます。ザアカイは、もう何が何だかわかりませんでした。「罪深い」自分が声をかけられるなんて、夢にも思いませんでしたし、自分と口を聞いたイエスさまが、その結果として町の人からどう思われるか、なんて吹っ飛んでいました。ザアカイにとってイエスさまとの出会いは、それこそ宇宙がひっくり返るような出来事に感じたのでしょう、すぐに桑の木を降り、イエスさまとお話しします。そこでザアカイが知った確かなことは、「自分も愛されて良いのだ」ということでした。それまでザアカイは、自分の人生を心の中に閉じ込め、悲しさや寂しさを感じないようにしてきましたが、実は自分もまた、神さまから愛され、そして神さまの大切なこどもであることを思い出したのです。そして自分を愛することを取り戻すと、自分の周りの風景が見え始めます。今日、出会う人も、神さまが愛されている大切な人であることを理解したのです。
今日の福音書では、「ファリサイ派の人」と「徴税人」が祈るというたとえ話ですが、まるで勧善懲悪話のような、内容のコントラストに、少しうろたえ気味なのは私だけでしょうか。
イエスさまの時代は、律法をきちんと守って生きるファリサイ派の人々は、お金持ちではなくても「立派で信用できる」と尊敬されていました。ところがこの人は、口に出しては言いませんでしたが「他人を見下し」、祈りの中でさえも「私は不正や略奪や不倫もせず、献金も断食も正しく行い、徴税人のような者ではない」ので、神に感謝したりしています。
一方の徴税人は、不幸で孤独な職業です。誰もが「ああはなりたくない」と思う人生を送っているわけですが、自分は神さまに合わせる顔などないと言わんばかり。顔を伏せたまま「主よ、憐れみたまえ」と祈ります。そしてイエスさまは、神さまが「義(正しい)人である」と認めるのは、ファリサイ派の方ではなく、惨めな徴税人だと、そういう話です。
このファリサイ人のように、掟の実行を自慢し、人としての自分は「上」であるかのような祈りを聞くと、こんなひどい祈りを普通するか?とも思いますが、実はこの人には、このような段取りを踏まないと、祈れない事情があったのだと思います。見下せる対象を探し出し、「この人よりも上等な私なので、神は喜んでくださる」と思わないと、とても不安で神さまの前になど立てないと。つまり何も出来ない何もしない自分では価値がないので、褒めてもらえそうな善行を身に纏うことによって、やっと神に愛される、と考えているからなのでしょう。この人の一番大きなズレはそこかもしれません。
徴税人の祈りは「こんな私ですが、あなたの憐れみをください」と直球です。神さまがこの人を義とされたのは、彼の生涯が苦痛に満ちていたからではなく、自分を底上げしなくても聞いてくださる神を信頼しての祈りだったから、かもしれませんね。
今日の福音書に登場する「不正な裁判官」は、最初は全く聞く耳を持たなかったのですが、うるさくて迷惑だからという理由で、繰り返し訴えてくる女性の頼みを聞き、裁判をしてやろうと重い腰を上げます。まるで責任逃れの酷い人のようでもありますが、イエスさまのこの時代は、女性は裁判を起こす権利はなく、財産を相続することもできませんでしたから、通常の対応だったのかもしれません。しかもこの裁判官につけられた「不正な」という形容詞は、賄賂を要求したり嘘で固めた判決を渡すということではなく、「神を畏れない」、つまり神様の目には正義のない仕事をしている裁判官という意味です。
この裁判官は、法の範囲では間違いをせず、正しいとみなされる裁判を随時行っていたのでしょう。しかし、飢餓に苦しむ家族と、十分に食事を摂れる家族に、同じ量の食料を渡すことが「平等」ではないように、社会的な地位のある人と羊飼いのように、力関係が明らかに異なる人々を、事務的に右へ左へと同じように裁くことが「平等」であるとは限りません。神さまがどんなに大切にされているかは気にも留めず、社会の中で小さくされている人を「人とも思わず」、非難されない範囲で職務を全うしていれば後ろ指を指されない。そんなふうに、自分の生き方を定めてしまっている人をも、神さまが変えてくださる時が来ると、聖書は語っているのではないでしょうか。
イエスさまは「たくさん祈りなさい」とはおっしゃっていません。「気を落とさずに絶えず祈る」とは、人間的な常識から結果を決めつけたり、あるいはもうダメだと諦めたりせず、神さまを信頼するようにと教えておられるのでしょう。それは、祈り続けた自分の努力に見合うご褒美を要求するような祈り方ではなく、祈りを通じて、わたしたちの心の内の本当の望みを知るような祈りなのではないかと思います。つまり、一番大切なことは何なのか、神さまは何をお望みなのか、それらが明らかになってくるように、祈り続けたいと思います。
一生治らないと思っていた重い病を、イエスさまに癒やされた10人のうち、喜ばなかった人は誰もいないでしょう。自分には人並みの生涯なんて、死ぬまであり得ないと思っていた、そんな10人が自分の人生を取り戻し、躍り上がって喜ぶ姿が、まるで目に浮かぶようです。
当時「重い皮膚病」を患っている人々は、間違って近寄る人のないように、また感染することのないように、人の姿が見えるやいなや、「皮膚病です!汚れています!」と、大声で叫ばなければなりませんでした。これは、疾病を負って生きる大変さに加え、社会生活をする人権も剥奪され、さらに「病にかかったのは罪の結果」というレッテルも貼られる、とても苦しい人生だったことでしょう。
そんな病いから解放された10人のうち、たった一人だけが、イエスさまのところに戻り、「神を賛美するために戻って来た」者と呼ばれます。この人は、戻って来てイエスさまの足元に辿り着き、神に感謝を捧げた。当時の社会では、感謝することと賛美することは、同義語であったと言われます。しかしながら、「賛美」とは、さすがだと褒め称えられ、祭り上げられ、おそなえが捧げられる、といったようなことではないのは明らかでしょう。
イエスさまが、戻って来たこの人の行動の中に、神さまを賛美する姿を見たのは、「病気を治すとは、すごい神さまだ」と拝んだからではなく、この人が自分もまた「神さまにとって、漏れなく大切なひとりの人間である」と知り、自分も厄介者扱いされるのではなく、愛され大切にされてよいのだという真実を、心の底から信じることができた。そのことこそ、神さまを賛美することであり、神さまが望むことである、と悟ったからではないでしょうか。
わたしたちは聖餐式の中で「感謝と賛美はわたしたちの務めです」と唱えます。わたしたち自身もまた「神さまの大切にしている者」であると、心の底から信じたいと思います。
「わたしたちの信仰を増してください」これは、使徒たちだけではなく、教会の中で良く使われるフレーズでしょう。また「自分は信仰が足りない」などと言ったりしますが、よく考えると信仰は、果たして、減るものなのか、「量」で測れるものなのか、そもそも「信仰」の意味をわたしたちはどのように捉えているのでしょうか。
少し話が飛びますが、教皇グレゴリウス1世(AD 540〜604)という人が『牧会規定』いう本を著しました。これは、聖職者を目指す人に向けて書かれたものですが、指南書のようなこの内容、実はグレゴリウス自身が、聖職按手の前日に怖くなって逃亡したことに対する弁解の書なのだそうです。つまり、聖職者は人間には到底到達し得ないような、とんでもない事を要求される(ということを知り、怖くなり逃げた)と。
興味深いのは、この文書は綺麗事のような人生を薦めているのではなく、誰しもが持つ弱さへの向き合い方、また、神に対して真に信頼するとはどのようなことなのか、が克明に描かれている点です。様々な準備をする上で、勉学や実際の経験に加え、「自己実現をしたいという欲求」や「人から認められたいと望む心」の落とし穴があることに、鋭い意識を持つよう薦めます。人々の魂の渇きに耳を傾けるのは、最も大切な務めの一つですが、もし人に聴くだけで、神に聴くことを失する人は、その落とし穴に落ちるというものです。つまり、どうやって人にもっと良く思われようか、もっと人から感謝されるにはどうしたらいいかが、人生の中心となってしまうからです。
「からし種一粒の信仰があれば十分だ」とイエスさまはおっしゃいます。わたしたち全員が聖職者ではなくても、自分の中にある欲望や怖れ、弱さやゆらぎを否定せず、同時に自分の課題を神様に相談しつつ生きることが「信仰」なのではないかと思います。そしてそれは、神さまが決して見捨てないことを確信しながら、自分で考えること、苦しむこと、向き合うこと、なのではないでしょうか。
今日の福音書の内容はイエスさまの「たとえ話」なので、そこに登場するラザロは、実在の人物だったかどうか、定かではありません。それにしても、ラザロ(ギリシア語)という名前は、ヘブル語だとエレアザル(「神は助けです」の意味)になるというのは驚きです。身寄りもなく、他人の家の門の脇に身を横たえ、雨風にさらされながら、残飯が投げ捨てられるのをただ待っている人生。しかも悠々と過ごしているのではなく、痛みや痒みのある皮膚病で全身が覆われ、それが治る/治すという見込みもない。犬が寄ってきて体を舐めても、それを払い除ける体力も気力もない。「何故、自分は生きているのだろう」と思わなかった日はなかったかもしれません。このような状態にある人を、「神は助けです」として登場させています。
一方「金持ち」は、自宅の門前にラザロがいたことを知っています。名前まで記憶していますが、亡くなってもまだラザロを上から見下ろし使い走りをさせようとします。自分の苦痛を取り除くためにラザロを寄越して欲しいと言い、それが駄目ならせめて身内の役に立つようラザロを使って欲しいと言い、断られても更に食い下がり、それまでは一瞥もしなかったラザロを、自分は利用できると思い込んでいます。
ラザロのような人生が「神は助けです」なのは、お腹を空かせたまま人々から惜しまれることもなく人生を終えても、天上では美味しい食事でもてなされ、アブラハムの歓迎を受けたからではないでしょう。一方アブラハムは「金持ち」に対して「子よ」と呼びかけるものの、この世的な視点で一目置かれた地位や名誉は、神の目には何の力もないことを示します。
わたしたちの住む東京にもそしておそらく教会の門前にも、ラザロは座っているのでしょう。わたしたちがその人々を直接「助け」ることには、たとえ失敗しても、神の「助け」を妨害しないことはできるのではないでしょうか。それは、神が最も大切にしている家族の一人として、この人々をわたしたちが認識し得るかどうかにかかっていると思うのです。
「不正にまみれた富で友だちを作りない」とは一体、どういうことなのでしょうか。昨今、収賄容疑のある政治家の話も、紙面を賑わせていますが、こういった行為を指すのでしょうか。「友だちを作」ることも、都合よく立ち回る人や利益を与える人を、権力を使って身の回りに配置する彼らの姿が目に浮かんでしまいますが、そんなことを勧めているのでしょうか。
興味深いのは、イエスさまはこの話を、金に執着する「ファリサイ派の議員」の家で、弟子たちに対して語っている、という設定です。招いてくれた人々の家で、その行状を非難するのはどうなのか、ということも気になりますが、つまりは「富を溜め込み執着するような生き方はあぶない」と、言っておられるようなのです。
「富」はお金だけではなく、土地や畑の作物、家畜や商売の収益を含みます。それらが増し加わることで生活の安定を得て、心の安定も得る。しかし少しでも減る兆候があると穏やかではありません。食べていくだけの蓄えがあるのに、さらに資産を溜め込まずにはいられない人々。この人々を斜めに見ながらイエスさまは、「友だち」(助けを必要としている人々)のために役立てるためにこそ、「不正な」(溜め込まれた)財産がある、と言われているのではないでしょうか。
わたしたちにとって「溜め込まれた財産」とは何かと考えたとき、ひとつの答えは「信仰生活」です。自分の心の平安のために、また親から財産を譲り受けるように、キリスト教と出会った方もおられるでしょう。でも、そのことを「自分の心の平安」のためだけに用いたなら、それはイエスさまが警告を発しているファリサイ派の議員たちと同じになってしまうのでしょう。受け継いだ財産そのものに良い悪いはありません。問題は、わたしたちがお預かりしているものを、どう用いるかではないでしょうか。
ルカによる福音書15:1~10
2022年9月11日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
ひとり迷子になり、見つかるまで捜索される1匹の羊の話。子ども時代の私のリアクションは「うらやましい」でした。いなくなったことに気づいてもらえ、自分の99倍の人数(羊数)を長いこと待たせた挙句、発見されたら叱られるのではなく、「喜んで」もらえる。一体そんな世界がどこにあるのだろうか、と思っていた次第です。
しばしば人生に「迷ってしまう」厄介なわたしたちなのに、神さまは諦めず、心を込めて探し出し、真っ当な道に連れ戻してくださる。そういうことなのでしょうが、1匹の捜索中に置き去りにされる99匹の安全についてはどうなのだろうか。羊飼い不在のまま野獣に襲われ天候が急変して犠牲が出ても、そちらの羊は「仕方がない」と諦められてしまうのだろうか。何か腑に落ちない気持ちになります。
このモヤモヤを解決するには、自分自身を「1匹」側だけに投影するのではなく、「99匹」側として読む必要があるのではないかと思うのです。つまり、迷子になった羊に対し「迷惑だ」と思っているだけで良いのだろうか、「1匹くらい諦めたらいいのに」と考える態度に、何か深い落とし穴があるのではないだろうかと。
例えば礼拝で、何十年も唱えているお祈りは、もう暗唱してしまって見なくても知っている、ということがあると思います。それはそれでとても豊かなことですが、そこに「初めて」の方がおられる場合、「暗唱ペース」でどんどん先に行ってしまうのは、神さまは決してお喜びにはならない行動だと思うのです。そんな初心者に対する配慮くらいとっくにしてくださっていると信じたいのですが、礼拝も、聖書の学びも、そして日常生活も「ひょっとしたら自分は99匹の立場かも」と心に留めることで、新たな視点が与えられるのではないでしょうか。たった一人でも、「1匹の羊」がそこにいたなら、いやむしろ「1匹の羊はいる」という前提で、心の目を開き続けていたいと思う次第です。
「(家族や)自分の命を憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」もし、イエスさまが本当にそうおっしゃったとしても、とても理解に苦しむご発言です。言葉通りとると、親子や兄弟姉妹に敵対し、自分の命まで蔑ろにすることを迫られているようで、ふだんおっしゃっていることと、随分違うなと感じます。
そこで、原文ではどういうことになっているのか、該当箇所を調べてみました。するとその言葉には「憎む」という意味もありますが、同時に「あるものを他より選ばないで退ける」という意味もあるとのことでした。聖書を訳された方々は、様々な文脈も鑑みて「憎む」を選ばれたのだと思いますので、その解釈も尊重する必要があると思いますが、同時に、選択の余地がある状況の中、どちらかを選ぶようなことになったとき、それまでのしがらみや執着を、一旦手離すということなのかもしれないと思いました。カトリック教会の本田哲郎神父の訳でも、「自分自身さえもあとまわしにする腹がなければ、わたしの弟子でいることはできないのだ」という表現になっています。「愛するな」とは言われていませんが、神さまを後回しにして、これまでの長い付き合いや習慣、変えることのできない人間関係や圧力や期待に従属してしまうのは、その人を愛することではないのかもしれません。
今日の特祷では、「肉と悪魔との誘惑に打ち勝つ恵みを与え、〜神に従うことができますように」と祈ります。目に見えない神さまに対して忠実に生きるよりは、あるいは正しい選択をするよりは、毎日目の前にいる家族や友人、知り合いとまず平穏無事に過ごしたいと、思いたい時もあるでしょう。でも、後回しにしようと決断するのは、神さまのことなのか、あるいは自分のことなのか、はたまた他の人の期待なのか、正しく選べるよう祈りたいと思います。
一般的にもよく使われる「狭き門」というこの聖書の言葉は、現在の日本では、倍率の高い学校などを目指し、「人一倍努力する」ことが必要な状況の中で用いられることが多いかもしれません。門に入れなかった“その他大勢”にならぬよう、他の人に追いつき追い越す努力を怠らず、選ばれし者として「狭い門」を突破するといったイメージです。しかしそうなるためには、他の人と比較して抜きん出る必要があります。あるいは、他の人と自分を比較して、とても無理なので諦める、といった判断をすることもあるでしょう。
しかし聖書の中の「狭き門」は、「他の人と比べる」という概念はありません。なぜならばその「門」は、神さまが「わたし」だけのためにつくってくださった特別な門なので、他者と競い合って獲得するということではなく、じっと静かに「わたし」が発見するのを待っている。だから、本人以外は「狭くて」通ることが出来ない門なのではないかと思うのです。
マタイの同じ箇所だともっとわかりやすいですが、多くの人は、誰でも入れて行き来しやすそうな広々とした門に殺到します。みんなが行くからきっと良い門なのだ、と思うのでしょう。しかし、広々とした門を選ぶ人々の本音は、自らの責任でその門を入って行く決断をしたということではなく、別に考えなくても「みんなが行くのだから、たぶんいい門だ」と思っているフシがあります。小事に対してはそれでも良いのかもしれませんが、小さなことを人任せにする習慣がつくと、やがて重要な決断をしなければならない時も、つい周りを見回して「みんなはどうしているか」が気になり、気がつくと「広い門」の方へ流されている、ということにもなるのでしょう。
神さまが創った「あなた」のための門と出会うのは、容易ではないかもしれません。「他の人は入れなかった」と聞くと、さらに不安にもなるでしょう。でも、わたしたちがこの世に命を受けている以上、必ず「わたしの門」が存在し、見つけられるのを待っている。それは「わたし」というかけがえのない存在を認知する人生の入り口でもあるでしょう。「わたしの門」を見つけ、そして自ら通って入る決断をすることができた時、人はもっとも幸福になれるにちがいないのです。
私もそうですが、変化は苦手です。言い訳をするとか、まあ後でいいやと思うなど、自分のやり方を変えないで済むために、いろいろな手法を用います。人にもよりますが、一番不得手な「変化」の一つは、人と対立しなければならない状況に追い込まれることかもしれません。今まで穏便に関係を保ってきたのに、家族や友人との関係が崩れてしまうのは避けたい。特に、対立したら困ることになるとわかっている職場では、あえてリスクをおかすよりは「とりあえず穏便」な方法を選択する。それは、身を守る必要のある日常生活の中では、正しいことでもあるでしょう。
少し前の節ではイエスさまが突如、「受けなければならない洗礼」(原文では「私が洗礼を受けなければならないその洗礼」)に言及していますが、これは水に浸る一般的な「洗礼」のことではなく、「十字架にかかって死ぬ」ことを示していると言われています。それは、心身に悶絶する苦しみを受け、仲間から見捨てられ、誰にも理解されない、というイエスさまに与えられた独自の「洗礼」です。「とりあえず穏便」とはほど遠く、出来れば避けて通りたい道であり、その結果は闇の中。ひたすら神さまに信頼するしかない道です。
わたしたちの日常生活でも、現実を直視してしまうと、もう元には戻れないような不安が存在することでしょう。現実と向き合うのは苦しいですが、それを回避するため、「敵対されない」「世間から後ろ指をさされない」ことだけを絶対的価値として、様々な決定をしてしまうと、イエスさまの十字架から遠く離れた人生となってしまうのではないでしょうか。
それではどうすれば良いのか。
イエスさまがこの物語を通じて伝えようとされていることは、こういうことかもしれないと思います。
「不安から逃れるために耳を塞ぎ、本当は知っていることを“わからない”と、自分を言いくるめるのはやめなさい。不安と直面することを避け、心を閉じて、“決められない”と言うのもやめなさい。あなたが不安の真っ只中に投げ込まれ、誰からも忘れられていると感じていても、わたしは一緒に居て最後まであなたと共に歩き通す。なぜならば、それはとても孤独な道だが、わたしと近い道であり、わたしはすでに通ってきた道。そして神さまを信頼しなければ進めない道。だから、さあ勇気を出して、時を見分ける心の目を開こう」と。
「わかりやすい結果を出す」これを常に求められる社会に住んでいるわたしたちは、「結果を出さなければ」という声が、身体に染み付いてしまっているかもしれません。それは、実際の行動が正しいかどうかを考える前に、まず人が自分のことをどう見るか、自分の行動がどのように受け止められるか、が最優先となってしまうのでしょう。
たとえば、人が見ているときはゴミのポイ捨てを躊躇する。でもそれは、社会的に「正しい行い」かどうかを判断して、という話ではなく、「ひどい人だと思われたくない」「こんなところに捨ててはいけないと注意されるのは面倒くさい」、そんなことを瞬時に判断しているのかもしれません。
神さまが一緒におられると感じられる時は「正しい行い」を実行するよう頑張るが、もしそれを24時間365日、ずっと求められるのは「堅苦しい」「綺麗事」と感じてしまうならば、本当に神さまの存在を信じているのかどうか、少し心配になります。
この場合の「正しい行い」は、ご自身の根本から変えられて愛に生きる人になろうという思いから出ているのではなく、「神さまの前で正しい人を演じよう」としている可能性があります。きっかけとしては、そんな時もあるかもしれませんが、もし「神さまの前で、正しい人を演じていればいい」ということが固定化すると、それは「わたし自身は変わらなくていい」と考えている可能性があります。でも残念ながらそれは、イエスさまの愛という生き方とは異なります。
「主人が真夜中に帰ってきても」とは、身体に無理をしてでも常に備えよ、と言っているわけではないでしょう。それは、わたしたちが一番眠く疲れているような、人としての品性がまる出しになるような場合でも、わたしたちの最優先事項が愛であるように、根底から変えていただく事。周囲の人の目ではなく、全てを見守っておられる方に信頼すること。それらを伝えているのではないでしょうか。
マルタとマリアは姉妹で、イエスさまのお友だちです。この姉妹にはラザロという兄弟もいて、彼らの村に来る時には一行を自宅に招き、おもてなしをしていた様子でした。
マルタはしっかり者で家事を切り盛りし、家族や親戚からも信頼されているお姉さん。この日も、イエスさまとお弟子さんたちが村に立ち寄ったので、彼らを歓迎しようとマルタは張り切りました。旅の疲れをとっていただこう、美味しい食事も準備しようと走り回るマルタ。一方、妹(聖書にはどちらが姉か妹かは書いていませんが)のマリアときたら、お弟子たちに混じってイエスさまの足元に座り込み、食事の手伝いもせずに、平然と話を聞いている。カチンと来たマルタは、「(マリアは)私だけにもてなしをさせていますが、女性の分際で座って話を聞いているなんて恥ずかしい。手伝うよう言ってください」と、イエスさまにも”当時の常識”を押し付けます。
「おお、それは悪かった。マリアは女性としての役割を忘れていたね」という応答を、マルタは期待していたのかもしれませんが、イエスさまの返事は意外でした、「マリアは良い方を選んだ、それを取り上げてはならない」と。マルタのびっくりする顔が浮かぶようです。
当時は、今よりずっと「ジェンダーバイアス(男はこうあるべき、女はこうあるべき)」のキツかった時代ですから、時にはこのようなマリアの行動は命懸けだったかもしれません。でもイエスさまはあっさりとその境界線を越えました。社会の習慣や掟よりも、マリアが自分で選択したことを尊重すると、イエスさまは言われました。
この世に生きている以上、わたしたちも社会の常識や風習に従わざるを得ないことは多いでしょう。時には常識の壁が立ちはだかり、行動や言動を制限されることもあるし、その壁を越えようとすると、越えさせまいとする大きな圧力に、押し潰されそうになることもあるでしょう。イエスさまが「良い」とおっしゃっているのは、食事の支度より勉強の方が優れているということではなく、また、無理をしてでも、学ぶ方を選びなさいと言っているのでもないということです。そうではなく、自分の人生や行動をマリア自身が責任をもって決めている点、そこに「良い方」と言っておられるのではないかと思うのです。つまりマリアは、何かと比較して「良い方」を選んだのではなく、マリアにとって「良い」と信じる道を選んだ。そのことをイエスさまは「良い」と言っておられるのではないでしょうか。
わたしたちにとって何が「良い」道なのか、見えない時も多いです。でも、ひとつひとつ神さまと相談しながら、そして祈りながら、「私の信じる良い方」を選びたいものです。
聖書には、「よきサマリア人」という言葉はありませんが、絵画や彫刻、絵本で表現されるこの物語には、多くの場合「よいサマリア人」というタイトルがついています。しかしながら「サマリア人は良い人たちだ」という話ではなく、当時の一般的な先入観が厳然とある中で、自分を正当化しようとする律法学者に対し、イエスさまがわざわざサマリア人を持ち出して語った「たとえた物語」と言った方が近いのかもしれません。
元々、イスラエルの民も住んだサマリアの地は、イスラエルの首都が置かれたこともある歴史的な場所でしたが、他国の支配にさらされ、外国からの他民族の植民が行われ、結果的に様々な宗教が入って融合したことにより、イエスさまと同じアラム語を話す人々なのにも関わらず、イスラエルの社会から排除されてきました。
彼らが「聖書」と認めるのは「モーセ五書」のみだったり、過越の祭りは祝うのに別の預言者を求めたりといった、独特な解釈や社会的特質を、ユダヤ人が忌み嫌い、見下す習慣となって行ったようです。そしてそれは、イエスさまがおいでになる700年以上も前から、ユダヤ社会の中に浸透していましたので、それはもう民族に根付いた差別感覚だったとも言えるでしょう。
サマリア人を見下していただけではなく、血を流している人に触れた祭司は、礼拝の司式をすることができませんでしたし、遺体に触れたレビ人は、神殿での奉仕ができないことになっていました。もしこの人々が神殿のお務めに向かう道中であったなら、「命の危機に瀕している人を冷たく見捨てたわけではない。できるなら私だって助けたかったが、お務めができなくなるので」という言い訳ができてしまうわけです。
わたしたちの日常にも山と谷があるように、イエスさまとお弟子さんたちの短い3年間の活動期間にも、きっと山と谷があったに違いないと思うのです。社会から置いてきぼりをくったと感じている人々に、どんなに真摯に寄り添っても神さまの愛が伝わらず、良い知らせを語っても凍りついた人々の心には届かず、人々の魂の渇きが見当違いな方向に暴走する、そんな体験をした村や町もあったことでしょう。
一方、無条件にみ言葉が歓迎され、乾いた地面に水が沁み込むように、人々の生き方がどんどん変化するような出会いもあったことでしょう。そうすると、頭では「イエスさまが目指すのは、権力や名声ではない」とわかっていても、心のどこかで、イエスさまの存在が万人に理解され、やがて一緒に行動する自分たちもまた、社会の構造や体制をひっくり返すような大改革にたずさわった者として、歴史に名を残すことになるかもしれない、そんな考えが心に浮かぶ「絶頂期」も、あったのかもしれないと思います。
そんな時に、イエスさまは弟子たちに言います。自分が来たのは、社会の転覆でも、支配者として君臨することでも、人々の絶賛を受けるためでもない。誤解され、捨てられ、十字架にかかって惨めな死を遂げる、神さまの計画を成し遂げるためであると。大成功を納めて神さまの力を知らしめるためではなく最も弱い人、顧みられることのない人々、言い方を変えればわたしたちの中の目を背けたくなるような醜ささえ愛おしいとされ、それを共に抱きしめ、全てを受け入れてくださる神さまの存在を伝えるミッションであることを、いろいろなことがうまく行き過ぎて、慢心に陥る弟子たちを諭します。
わたしたちにも同じことをおっしゃっているのかもしれません。教会にたくさん人が集まり、縁の下の努力が日の目を見るとき、さらに「教会の力を増す」ことが、あたかもたくさんの人々に受け入れられることと同義語になってしまってはいけないと思うのです。わたしたちは、自分の限界を切り捨てず、弱点だらけの自分も否定せず、しかし神さまの愛を心の真ん中に置いて、粛々とそれを伝え続ける人生を送りたいと思います。
結論としては、神さまは一人であることに変わりはないのですが、やっぱりよくわからない話です。人間の場合、別の人格であれば、意見も異なり、行動も言動も違ってきますので、何か一緒にやろうとしても、意見が一致するとは限らず、時には一人が他方を制し、渋々ではあっても全体の善のために皆が従うことはあるでしょう。でも神さまの場合は、三位一体のうちの「一体」が他の2体を制する、ということではなく、「一人の方だ」という理解に立たないと、整合性が取れなくなる、ということなのだと思います。たとえ「三位一体」が今は毎日の生活に必要を感じないことであったとしても、何かあった時に役に立つ説明かもしれません。そんな意味も込めて、わたしたちの教会では、「三位一体の神さま」は、わたしたちのためにそのようなかたちをとってくださったと信じている次第です。
「占いの霊」に憑依させられ、金儲けの道具として利用されていた女奴隷がいました。なぜかその女性が、パウロたちにうるさく話しかけてきたので、彼らはその女性を霊から解放してやります。すると占いによる金儲けができなくなった奴隷の主人は、怒って町の群衆を扇動し、パウロたちを逮捕して暴力をふるい牢屋に投げ込みます。パウロたちが被った災難も痛ましいですが、雇い主の言いなりに生きてきた女奴隷の凄惨な人生、金儲けという大義名分で何でも通用させてきた主人の人生に心が痛くなります。
しかし物語はまだ続きます。牢獄では他にすることがなかったからかもしれませんが、パウロたちが聖歌を歌ったりお祈りを唱えたりして夜を過ごしていると、突然大きな地震がおき、牢屋の鎖や土台が壊れてしまいます。囚人たちが逃げ出したと思った牢屋の夜勤番が、責任をとって死ぬしかないと思い詰めたとき、パウロが声をかけます。すると、そんなこんなで傷を手当てされ、牢屋番の家に行ってもてなされ、家族中が福音を知って洗礼を受け、神を信じる者となったという話で締めくくられます。
女奴隷もそうですが、この夜勤番も決して恵まれた地位にあった人ではないでしょう。複数の担当ではなく、たったひとりで夜勤をさせられるような立場の弱い人です。想定外の事件がおきても上司の代わりに責任を取らされ、おまえの代わりなんぞいくらでもいる、というふうに扱われて来た人だったかもしれません。
彼らのその後の人生については書かれていませんが、この物語が示しているのは、パウロを通じたイエスさまとの出会いにより、人としての尊厳を回復し、一人の人間として自分の人生を歩き出した人々の話ではないかと思うのです。おそらく、こんな苦しい人生をずっと歩むしかない自分は、なんと呪われているのだろう、とずっと思って来た女奴隷や牢獄番が、実は自分もまた、神さまの愛と慈しみから漏れている人間ではないのだと知り、180度生き方が変わる。それはこの人々だけではなく、日々の生活の中でイエスさまを通じて示された「愛」という生き方を求めているわたしたちも、自分を蔑ろにしてしまうとき、蔑ろどころか大切に思ってくださる存在をまず思い起こすようにと、呼びかけられているのではないでしょうか。
今日は、使徒書(使徒言行録)の話に触れたいと思います。リストラは、イエスさまが活動されたガリラヤやエルサレムからは遠く離れた内陸の町(現在はトルコ領)です。一緒にいる時はほとんどイエスさまの言うことが理解できなかった弟子たちですが、復活、昇天、聖霊降臨の出来事を通じて、神さまによる平和、真の愛の力がわかると、遠い国々まで福音を広め始めました。
さてこのリストラに、「生まれてから一度も歩いたことのない男」がいました。「生まれてから一度も歩いたことのない」人生とはどういうものなのか。私には乏しい想像しかできませんが、少なくとも当時の社会では、先天性にせよ後天的にせよ身体や精神に不調をきたすのは、何か悪いことをした結果だと信じられていました。つまりこの人は「歩けない」という具体的な不便さに加え、社会的には「恥ずべき人」「神様に見捨てられた男」というレッテルも貼られていたのだと思います。
しかし、イエスさまの事をどこかで伝え聞いていたのでしょう、彼はパウロたちが話を始めると、じっと座って聞きます。そして「癒やされるのにふさわしい信仰」があると認めたパウロが、この人に声をかけると、彼は躍り上がって歩き出します。物理的に立ち上がって歩き出したのかもしれませんが、この人が人間としての尊厳を取り戻し、社会がどう決めつけようとも真っ直ぐ顔を挙げて、神さまが愛してくださっていることを心の底から信じ、神さまに信頼する人生へと踏み出した、そんなふうにも思います。 教会では、イエスさまを羊飼いに、そしてその生き方に共感するわたしたちを羊にたとえる習慣があります(そういう宗教画も多いですね)。それは、聖書の中で「わたしは良い羊飼い」とご自身で言っておられることもありますが、人々にとっての特別感はなく、身近でわかりやすい喩えを考えたらそうなった、ということかもしれません。都市に住むと、羊や山羊と対面するには動物園に行かなくてはなりませんが、わたしたちが当たり前に電車や地下鉄を利用するように、当時は羊や山羊が生活の一部だった、ということなのでしょう。
数年前に、山梨県の長坂聖マリア教会を訪ねたことがあります。門を入った途端、教会で飼っている大きな山羊が3頭、脱兎の如くこちらに向かって走って来ました。それは歓迎しているのではなく、侵入者をチェックするような威圧的な態度でこちらを睨み、「何か用か?」と迫る山羊の目力。後に聞くところによると、山羊はテリトリーの守備意識がとても強く、飼われているという自覚もないとのこと。一方羊は、心身共に脆弱で、知らない個体がいるかどうか、これから何処へ移動するのかなど、あまり心配したことがなく、ただただ身を守るため、そして自身のメンタルを安定させるために、常に群れの一部として過ごすことが大切とのこと。山羊も羊も個性はあるのでしょうが、(山羊と比較した)羊の特徴を聞けば聞くほど、人間の話をしているような気持ちになってきます。
しかしながら、動物の羊とわたしたちの異なる点は、イエスさまの声を「聞き分ける」ことではないかと思うのです。それは、音声を認識するということではなく、また、言われたことを鵜呑みにするということでもなく、イエスさまの語る内容に納得し共感し、その生き方に心が揺さぶられ、そのように生きたいと自分で決断し従っていくことが、「聞き分ける」内容ではないでしょうか。イエスさまからの声、それは時にはわたしたちの理解を超え、全体像が見えなかったり、落とし処がわからなかったりもします。でも、わたしたちがそれをイエスさまからの声だと確信するときは、大きな計画の中で信頼して前に進も追うという決断ができる羊になりたいと思います。
先週は「疑い深いトマス」のために再び現れたイエスさまの話でしたが、今日の福音書では、さらにガリラヤ湖畔においでになった話を読みます。家の中で誰にも会わず震えていた弟子たちも、永遠にそうしているわけにはいかなかったのでしょう。元々漁師だった彼らは、イエスさまを失い、一体どう生きたらよいのか、途方に暮れていました。しかしある時点で思い立ち、エルサレムから故郷のガリラヤへと戻ってきたのでしょう。そして茫然自失状態のまま、とりあえず出来る事、つまり漁をして正気に立ち返ろう、自分を取り戻そうとしていたのかもしれません。
その夜半過ぎも湖の沖合に仲間たちと舟を漕ぎ出し、深夜から網を下ろして漁をしましたが、収穫もないまま時間だけが経過。結局1匹も獲れずに、夜明けが近づいてしまいました。疲労感と惨敗感の中、ぐったりして漕ぎ戻ると、へんな人が岸辺に立っています。しかもプロの漁師に向かって、網を下ろすポイントを指示したりします。何をド素人が!と思ったかもしれませんが、とりあえず網を下ろすと、網が破けてもおかしくないような大漁。その時に「イエスさまが来てくださった!」と、皆が気付くという展開です。
それは、大量の魚の収穫という利益をもたらす神の話ではなく、奇妙な出来事、普通ならあり得ない出来事の中に、イエスさまがおられた物語です。閉じ籠っていた家ですでに2度もイエスさまにお会いしたのに、その身体の傷や釘の跡に触れたのに、それでもピンと来ず、生きる力が湧いて来なかった弟子たち。その彼らのために、ガリラヤ湖畔で朝食を共にし、魚まで食べたりなさったのは、神の愛を理解してもらうため。そのためなら、何でもしようとする神さまのうしろ姿なのではないでしょうか。わたしたちが神さまに信頼しているときも、信頼したつもりになっているときも、あるいは神さまが何処におられるのか見えなくなっているときも、変わりなく呼び続けてくださる神さまの愛を、説明の言葉ではなく、アクションで「共にいる」ことを約束してくださったのではないでしょうか。
大盛り上がりだった礼拝と盛大なお祝いで過ごしたイースター。その次の日曜日は一転して、とても地味な日曜日、といったイメージがあるようです。さらに何故だか、ABC年のいずれの日課でも、この日の福音書は、お弟子さんのひとりであるトマスの物語が読まれます。
十字架の上で亡くなってから三日目によみがえったイエスさまは、お弟子さんたちのところに出現しますが、「イエスさまはいなくなったのではない、私たちと共におられる!」と皆に言い伝えて怯まない女性たちよりも、息を潜めて恐怖の真っ只中に引きこもっているお弟子たちが気になって仕方がなかったのかもしれません。彼らが鍵をかけて籠る家に、イエスさまが入って行ったとき、トマスは不在でした。そしてあとで、イエスさまの訪問を聞いたトマスは、「いや、実際にイエスさまの傷に触れてみるまでは信じない」と断言します。のちに教会では、このトマスを「疑い深いトマス」などと呼び、なんだか恥ずかしい例と決めつけてきましたが、自分以外全員のお弟子さんが「イエスさまは生きてここに来た」と言っている中で、「いや、わたしは信じられない」と言うのは、なかなか大変なことだと思うのです。心の中でこっそり「いや、あり得ないでしょ」と思っていても、口に出さないでいる方が非難されないし。
このようなトマスのために、イエスさまは再び来てくれます。そしてトマスに直接「さあ、この傷に手を伸ばすように」と語ります。それは、神さまの愛をわかってもらうために、イエスさまが繋いでくださった永遠の命が伝わるために、そのためなら、なんでもしようとする神さまの姿です。
わたしたちも、ひょっとして「信じたつもり」になっていないかどうか、時々自分に問いたいと思います。このトマスの率直さに学びつつ、神さまを信じている時も、信じたつもりになっている時も、そして信じられない気持ちでいる時も、変わりなく呼びかけ続け、そして愛で包んでくださる神さまが共におられることを忘れないでいたいと思います。
「復活」。この言葉は、ずっと教会の中で語られてきました。しかし聖書には、お弟子さんたちがイエスさまの復活を通じて、具体的にこのように劇的に変化しました、というような物語は描かれていません。また、イエスさまの十字架上の死だけではなく、なぜ「復活」が人類の救いにとって必要だったのか、納得のいく説明もなかなか難しいし、最終的には「よくわからないが神さまがなさったのだから、それでいいじゃない」と納めようとするわたしたちがいるのかもしれません。
「復活」という出来事を、一つの超自然的なマジックと理解し、「こんなこともできる、だから神さまはすごい」という展開は問題外ですが、その一方で、「復活とはわからないもの」という神学に埋まってしまうと(分からないことも実際あるのですが)問題です。それは、個々人が理解できることではなく、なんとなくみんなが言う方向に従っていけばいい、ということになってしまう。そうすると、ご自分が何を信じて生きているのか、ぼやけてくるのではないでしょうか。
今日の福音書の中で、婦人たちが「そこで、イエスの言葉を思い出した」という一文があります。それは、イエスさまが語られた言葉そのものを思い出した、という話ではなく、イエスさまが生前語られていたことは、つまりこういうことだったのだと理解した、ということではなかったかと思うのです。わたしたちも、誰かとお話しして、その時は意味がさっぱりわからなかったけれど、のちに思いがけない体験をして初めて、「ああ、こういうことなのかもしれない」と、おなかにストンと来て初めて意味を理解した、という体験があるのではないでしょうか。
一言でいえば、イエスさまの「復活」は、わたしたちひとりひとりが「イエスの言葉を思い出し」て、ストンとおなかに落ちる体験であり、それがいわば「神さまと出会っていく」ことなのだと思います。皆さんもまた、イースターの朝、イエスさまが「生きておられる」ことを信じた女性たちのように、神さまの存在を心から受け止め感謝と喜びに満たされますように!
この社会に生きていると、どうしても「わかりやすい」ことを求められます。「私を納得させろ」という重圧も感じますし、利益をもたらす片鱗をチラつかせて初めて話を聞いてもらえるという現実があります。そういう意味では、イザヤ書の神は、「神々しい」どころか、まるで押しが効かず、誰にも相手にされないような姿を晒します。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」このような神はあまりにも惨め過ぎて、誰も知り合いになりたくないかもしれません。しかも、「わたしたちの病、痛み」を代わりに負ったのに、「神に懲らしめられている他人」と傍観していたのは、他でもないわたしたちであったと続きます。しかし、神は「わたしたち」に怒りや罰則を下すのではなく、「自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」「自らを投げ打ち、死んで、罪人のひとりに数えられた」と。呆れるばかりの人のよさです。
人に誤解されたり、やっていないことで糾弾されたり、あるいは無視されたり、軽蔑されたりするのは、とても辛いことです。あまりに辛いので、白日の元に事実をあばき「私は間違っていない」と声を大にして言いたくなります。そして深い孤独に襲われます。しかし聖書の物語は伝えます、事実を知る神、心の奥底の深い悲しみや痛みを分かち合う神、わたしたちの惨めさ見捨てられる辛さを理解する神を。
おそらくイエスさまはユダヤ教徒の習わしとして、こどもの時から、このイザヤ書を繰り返し暗唱なさったに違いないのです。そして、ご自分がどんな道を歩むことになるのか、咀嚼しつつ成長され、十字架への道を踏みしめていかれたのではないでしょうか。
電気をつけっぱなしにしていたり、水の使い方が荒かったり、レストランで食べ残しをしている人を目撃すると「もったいない」と、ひっそり心が痛むことがあります。でもその深層には、「心が痛む」だけではなく、モノを無駄にしていることを非難したいという衝動が潜んでいることがあります。必要のない電気を消費し環境問題に逆行、世界の飢餓にも無関心、自分さえ良ければいいという態度は、明らかに間違っているでしょう。しかしながら、他人の間違いはすぐに認識できるのに、自分がしているもったいないことには、なかなか気がつきません。
神さまは私たちに、「愛に生きてほしい」というメッセージを、諦めることなく送ってくださいました。それは、「律法」であったり、「預言者」であったりと、あの手この手を尽くされました。でもとても「もったいない」ことに、人は喉元過ぎればあっという間に生かされている事実を忘れ、神さまの存在すら疑う。挙句の果ては、神さまの愛は何処にあるのか、恵みや慈しみなんて見えないと、言い出す始末です。
今日の物語に登場する「しもべを虐待し、跡取り息子を殺害して財産を奪う農夫」とは、まさに神の恵みを無駄にする人々のことではないかと思うのです。もっともこれらの人は、神さまの思いを台無しにしようと意図的に行動しているわけではなく、彼らの考える「正しいこと」を貫いているつもりかもしれません。しかし、神さまの愛よりも、自己の正当化を優先し、神さまのみ旨を祈り求めるよりは、目先の利益に固執するとき、わたしたちもまた、この農夫たちのように、神さまの愛や恵みをバサバサと抹殺してしまっているのかもしれません。
イースターまであと2週間。物語はずんずん十字架に向かっていきます。イエスさまが十字架にかかってまでわたしたちに伝えたいこと。それは単純だけれどむずかしい「神と人を愛する生き方」なのでしょう。
実は私は方向音痴なところがあって、右折左折を繰り返すと、もうどっちへ向かって歩いているのか見当がつかなくなります。今日の聖書は「迷子になった羊」そして「家の中で迷子になった銀貨」の話に続いて、「放蕩息子」の話となりますので、この話もおそらく、迷子になった話ではないかと思うのです。
ある家族の中、家督を継ぐお兄さんはしっかり者。家族中が信頼を置いています。一方の次男は「自分はどうせ当てにされない」とばかりにやりたい放題を繰り返し、やがて食うにも困り、はっと気がついて家に戻り、父に赦しを乞う。この次男は、自由や解放ということを履き違えた挙句、生きる目的を見失ってしまいます。そして、生まれて初めて「貧困」という壁に打ち当たったことで、自分が人生の「迷子」になっていることに気がついた。「生きる」ことそのものが、実はとても尊いという真実に気がつき、父親に自分の負の行動を隠すことなく詫び、頭を下げて仕事を与えてくれるようお願いする。すると、父は次男の謝罪を受け入れて、彼が生きて帰ったことをすなおに喜ぶ。
しかし、しっかり者のお兄さんは苛立ちを隠せません。父親が「あのひどい」弟の謝罪をへらへらと受け入れたようで、家に迎え入れたことが面白くありません。自分ももっと自由に生きたかったのに我慢した。自分の希望も願いも犠牲にして、家族一族のために尽くしてきた。それなのに、苦労一つしたことのない弟は歓待される。さんざん迷惑をかけられた兄として、素直に喜べない気持ちは、わたしたちも共感するところ大かもしれません。
でも、このお兄さんも「迷子」になっていると思うのです。最初は家族のため、大切な人々のため、身を粉にする働き尽くめの毎日に、愛する家族のためですから何の不満もなかったことでしょう。しかし、生活が安定し、自分の役割や地位が確定してくると、だんだん「何のために生きているのか」見えなくなってきたのだと思います。
兄パターンかあるいは弟パターンか、わたしたちもきっとそれぞれなのでしょう。でもいのちの輝きと、生かされている事実に気がついたとき、常に大きな腕を広げて待ち続けていてくれる神の存在を忘れないでいたいと思います。
キリスト教には、「わるいことをすると、神さまが罰を与える」という考え方はありませんが、何か嫌なことが次々と起きると、そんなふうに考えてしまいがちなのかもしれません。
病院のチャプレンをしていた時は、「病気になったのは、私の行いがわるいせいですね」という話をしばしば耳にしました。でも直接関係があるような原因ではなく、何となく「バチを与えられている」といったニュアンス。納得できないことは放置せず、原因と結果を究明するのが現代社会のお約束なのかもしれませんが、「わるいわたし」を取り去れば病気を避けられるかというと、そうでもないでしょう。
病気や怪我も辛いですが、これを自然災害に当てはめる人が出てくると、困ったなと思います。地震や山火事でたくさんの犠牲者が出たときに、「神の怒りが降った」とか「罰を受けるべき民族」などと言う人々がいますが、こういう言い方は、いつのまにか「自分は違うがこの人々に問題がある」という意味で言っている危険があります。
地球温暖化も、動植物の絶滅も、ゴミだらけになりつつある宇宙空間も、そしてトリセツが確立していない原発も、すべて人間の欲望を放置した結果であり、その状況に歯止めをかけなければ、さらに弱い立場の人々が犠牲になるでしょう。でも、それが「神のバチ」に起因しているかというと、お門違いだと思います。
わたしたちが信じる神は、懲らしめのために弱い立場にいる人々を苦しめたりなさらないし、また、見せしめのために誰かを利用するのも拒否なさることでしょう。
今日の福音書に登場する「災難に遭った」人々が、どういう経緯だったのかは詳しく書かれていません。しかしこの事件をイエスさまに報告した人々は、「私よりも」罪深かったから「私より」悔い改めが浅かったから、被害に遭ったという含みを感じます。災難に出会う時、このような考え方をする人こそが「滅びる」のだ、というメッセージではないでしょうか。
今日の福音書の冒頭は、先週の福音書の最後の節(21節)で始まります。イエスさまのことを知るのに、よほど大事な箇所なのか、あるいはわたしたちが繰り返し聴く必要のある言葉なのか、2週続けて福音書に登場するとは、なかなかめずらしいですね。でも、この後の展開を読むと、さらに聞き流せない気持ちになります。会堂でイエスさまが聖書を朗読し、その言葉について話し始められると、人々は一斉にほめたたえ、その「恵み深い言葉に驚き」ます。ところが、その先のお話を聞いているうちに、今度はイエスさまを崖から突き落としたくなる憤慨の塊へと変わってしまうのです。それは、神さまが気にかけている人々が、実は自分たちが軽んじていた人々であることを知ったからです。
恵みの内容は変わらないのに、自分たちに向けて語られていないと知ると怒りに変わってしまう。それは、ユダヤ教の律法を守り、清く正しく真っ当に生きてきた自分たちこそが、神の恵みを独占するのに相応しいはずなのに、自分たちを通り越して、律法など知らない外国人に神さまの恵みが注がれた、ということがゆるせないからです。これは、恵みを注がれる人々をとても羨ましく思ったということではなく、自分たちこそが恵みを受けるに相応しい、むしろ選ばれた者のはずなのに、その価値観を否定されたように感じたショックというか、深い恐怖感がそこにあると思うのです。
これは、人ごとではないかもしれません。神さまの計画より自分の安心を優先したい、今までの慣習や伝統、そして同じことの繰り返しの方が居心地よく、それなら自分はよく知っているし、それを脅かすものには触りたくない、と思う時があるかもしれないのです。
このコロナ禍下で、たくさんの人々が苦しさに喘いでおり、すべてに余裕がなく、人のことなどはかまってはいられない、という空気にも満ちているでしょう。そして、経済的な活動に限らず、人との繋がりが断たれた深い孤独、生き甲斐を見出せない苦しみ、終わりが見えない時間など、ストレスの原因はてんこ盛りです。しかし、その中でまさにこの状況の中で働かれている神さま、辛い毎日を送っている人々の間に一緒におられるイエスさまの姿を見失わないでいたい、と思います。
信徒ではない方々からはしばしば「洗礼を受けると、不安がなくなるのですか」というようなことを聞かれることがあります。これは「その通り」の部分と、「ちょっと違うかな」という両方の部分があると思います。
「その通り」については、とにかく精一杯、自分の生涯を生き切れば、最終的には神さまがどうにかしてくれる。失敗したり、不十分だったりしても、わたしという存在を否定なさることは決してなく、「よくやってくれたね」という眼差しで迎えてくれるような安心感はあります。
生きている以上、様々な選択や決断をしなければならないことは多いですが、結果が正しかったのか間違っていたのか、ずっと後になってもわからない時もあります。また、その時は我が意を得たりと自信満々でも、だんだんその思いが濁ってくる時もあるでしょう。でも、神さまの時間の中で生かされ、限界や弱さを抱えたまま我々は、自分に出来ることをやればいいし、完全さを自分に強いなくて良い。そのままで神さまが大切にしてくださる、という意味では、「その通り」なのかもしれません。
一方、「ちょっとちがうかも」の部分は、洗礼を受けると嫌な目には合わなくなる、という意味では、ちょっと違うかなと思います。洗礼を受けても、相変わらず迷ったり苦しんだり、悲しいことが起きたり、人に誤解されたり、という、人生の苦しみは避けられないです。
な〜んだ、そんなことなら、洗礼を受ける意味はないじゃないか、ということになるかもしれません。でも、もし「洗礼」ということを、「損か得か」というような視点で捉えてしまうと、イエスさまが伝えようとされた一番大切な核心を見失う気がするのです。礼拝に「慣れて」きたり、聖書の知識が増えたり、キリスト教や教会の伝統やしきたりをたくさん知っていたり、ということは、イエスさまが命がけで伝えようとされたこととは、全く別のことだと思うのです。
そうではなく、神さまの愛に触れること。社会がどう否定しようと、人々が何を言おうと、わたしたちが疑おうと、神さまは揺るぎなく、わたしたちを愛してくださる、そのことを信じること、信じようとすることが、洗礼を受ける、という内容なのだと思います。
わたしたちは礼拝を通じて、神さまの愛に触れます。また、一緒に聖書を読んだり語り合ったりして、ひとりでは気がつかなかった神さまの世界を知ります。それらが、必ずしも都合の良いことばかりとは限りませんが、概念的に頭で理解できたら神さまがわかった、ということではなく、心の一番底にストンと落ちるというか、世界がちがって見えてくるような「神さまの世界」を、本当に信じて生きていきたい、ということが一番、基にあるように思います。
イエスさまは、神さまの愛の中でこの世に送り出された。そして、改めて「神さまの世界」をこの世に伝えるために生かされている、そのことを身体に刻みつけるために、改めてバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのではないでしょうか。
今日は3つの福音書から1つを選ぶようになっていますが、それでも特祷ははっきりと「聖なる家族」という言葉でまとめています。読み方にもよりますが、「ナザレで生活されたイエスさまのご家族にならい、わたしたちも教会に連なる兄弟姉妹として教会生活を送ろう」とも聞こえます。でもわたしたちが「ならいたい」ような家庭生活を、イエス一家が常時送っていたのかどうかは、甚だ疑問です。
臨月の妊婦マリアと、一緒に住んだこともないヨセフの「家庭生活」は、山や谷を越え100キロ以上に及ぶ旅から始まりました。いざ出産の時が来ても泊まる場所はなく、生まれ落ちたのは糞塗れの家畜小屋。助けを求められる人もいない土地で、わざわざ訪ねてきてくれたのは文化も風習も異なる外国人。挙句の果ては王による殺害命令が下り、急ぎ親子三人は外国へ逃亡。いつまで続くのかわからない避難生活が、彼らの家庭生活の始まりでした。
外からやって来る困難だけでもてんこ盛りですが、困難は外からとは限りません。いきなり始まったマリアとヨセフの同居生活には、何処から来たのかわからない新生児が最初からいました。また、故郷に戻れば戻ったで、ナザレの人々による中傷も様々あったことでしょう。マリアとヨセフが一人の人間として出会い、互いの違いを受け入れて家族となっていくその前に、とにかく生き延びていかねばならない毎日が最初にあり、そこには1ミリの綺麗事もなかったのではないかと思うのです。
この寒い冬を迎えて、諸外国でもそして国内でも、命の危険に晒されている人々がたくさんいることを覚え、祈ります、イエスさま、あなたは生まれたその瞬間から、居場所のないつらさ、雨や風に晒される苦しみ、飢えや乾きによる命の危険の現実へと投げ込まれました。命を守るため生きるために必死でたたかう人々の痛みを、あなたはよくご存じです。あなたは彼らのまっただ中におられ、その人々を家族と呼ばれます。あなたの家族のひとりとして加えていただくために、わたしたちに足りていないことを悟るちからを、どうぞお与えください。わたしたちの全てを受け入れてくださる神の名によって、アーメン
今日の特祷では「(神は)驚くべきみ業によりわたしたちをみかたちに似せて造」り、「さらに驚くべきみ業によりイエス・キリストによって、その似姿を回復してくださ」ったとありますが、この2つが並列していると、以下のように読む人がいるかもしれません。
目に見えない神さまを、そっくりそのまま目に見えるかたちにした被造物がわたしたち人間であり、最初から「完全無欠で完璧な存在」として造られた。しかしその後、人類は途中で道から外れ、神が意図した「完全さ」から離れていった。元の「神のみかたち」に戻すため、イエス・キリストがこの世に送られ、十字架刑によってわたしたちは、神に似た存在へと復帰したと。新約聖書の中にも似た表現があるので、「傷のない神の似姿に復帰した状態が、わたしたちの本来の姿」という認識を強めてしまうかもしれません。でも、本当にそうなのだろうかと疑問にも思います。創世記の「甚だ良かった」という表現は、果たして「傷のなさ」を意味するものなのでしょうか。神さまが望んでおられるのは、わたしたちが失敗を避け汚点を作らないことなのでしょうか。
わたしたちがこの世界で、うまく生きていくためには、失敗を避けることは必須でしょう。しかも人にわからない範囲なら、心の中で何を考えていても自由だし、誰にもバレないと思っています。だから、人に知られるような汚点を持つことや、失敗を指摘されることを非常に恐れている、というのが正直な心中かもしれません。こんな現実の私たちが、イエスさまの十字架によって回復されなければならないのは何なのか。それは間違いをしでかさない強靭な精神力や完璧さではなく、神への混じり気のない信頼なのではないかと思うのです。何をしていても、あるいは何もできなくても、神さまが全てを統治し、無駄なことは何一つないのだと心の底から信じること。それが信仰の核心であり、そして神へのそんな信頼は、わたしたちを本当の意味で自由にしてくれるはずです。今年の最後に今一度、神さまへの信頼があなたを自由にしているかどうか、心に手を当てて問うてみましょう。
私は、いわゆる「牧師館」に住んだことがあまりない。アメリカ聖公会では、ほとんどの教会には牧師館はなかったし、日本に来てからも賃貸アパートを転々としていた。入居前に壁と床面の傷、設備の不具合を全部写真に撮り、何かが壊れると言い訳を考え退去時には、敷金を返すまいと難癖をつける家主とバトルを繰り広げていた。牧師館に住まわせていただいている今、それらのストレスからは解放されたが、「教会に住む」のに相応しい役割を果たしているだろうかということについては、常に不安がつきまとう。ひとりの住人として環境整備に努め、地域の活動に協力する、忘れ物管理やスペースの使用調整に努める、そして何より、思いがけない時間に訪ねて来る人や電話に対応する。そういった「管理人」としての業務は大切なことではあるものの、それだけでは「住まい」に合致した働きではないことは明白だ。
今日の特祷では「わたしたちの心に神さまをお迎えするのに、相応しい備えをさせてください」と祈る。ここで言う「相応しい備え」とはなんだろうか。聖書の中に「人から追い出された霊が再び戻ってみると、きれいに掃除がされ空っぽだったので、さらに悪い七つの霊を呼び寄せて住み着く」という話がある。つまり、心の中を整理して不要なものを処分しただけでは何も改善されない、ということのようだ。外見のうるわしさではなく、完璧な掃除をした自己満足感ではなく、誰にも見えない心のどまん中に何を据えるのか、という決断が問われているのではないか。そしてマリアは「思い上がる者を打ち散らし、〜身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たされる」と歌う。心の根底の一番深いところから、マリアは信頼に満たされて歌う。
まず、由緒正しい家柄の人たちがやって来ます。自分たちはきちんと伝統を守り、礼拝や献金もしている「アブラハム」の子孫なのだから、他の人たちより優れていると、どこかで思っています。まさか洗礼を受けたいと申し出て、お断りをされるなんて夢にも思っていません。
そんな人々にヨハネは、そのままでは神の国には入れないと伝えます。安定して衣食住が確保でき、生きていく上での様々な必要を心配なく満たせるのは、むしろ特別なこと。伝統を守れず、礼拝に出席したくても出席できない人々を、見下すような心根は、神の国から遠く離れていると指摘します。そして、自分たちが当然と思っている特権を分かち合うよう勧めます。
次にやって来たのは徴税人と兵士たちでした。徴税人は、税を集める仕事ですが、その業務に対しては対価が支払われないので、生活費を上乗せして税を集めざるを得ません。中には法外な金額を要求する裕福な徴税人もいるので、とても嫌われています。一方、兵士は、ローマ帝国に属する下っ端です。命は尊重されず、ある意味消耗品のように使い捨てられ、しかし暴力をふるったり、権力を笠に着たりする兵士もいて、ユダヤの人々にとっては帝国支配者の手下です。できれば口もききたくないし、目も合わせたくない存在です。
ヨハネはこの人たちに対して、洗礼を受けるためには、まず今の仕事を辞めて出直して来なさい、とは言いませんでした。そうではなく、騙したり恐喝したり乱暴をふるったりするのはやめて、まず自分の与えられた場で、役目を果たしなさいと勧めます。それは、その人々にとって簡単ではないにせよ、人としての存在を認める知らせです。
ヨハネが行っていたバプテスマ(洗礼)は、のちのキリスト教へと続く専売特許だったわけではなく、当時の社会で広く行われていました。しかし、気持ちよく生活するために、洗礼を受けてさらに人生のグレードアップを目指しましょう、という話ではなく、余計なものや不必要なものを振り捨て、質素な生活に立ち返り、本来の自分の役割に目を向けるという強調点があったようです。
わたしたちには、それぞれこの世での「お役目」がありますが、気がつくとあまり大事ではない飾りに埋もれて、見えなくなっていることも多いのではないでしょうか。また、時にはそれを不満に思い、損をした、不公平だと感じたり、もっと楽に得をする道を探したくなったりもします。でも、何をしていても、一見幸福なように周りからは見えても、実は自分の「お役目」を見失い、忠実に生きられない人は不幸です。紫の季節、余計なものをまといたくなる誘惑を振り捨てつつ、わたしたち自身の本当の「お役目」に耳を澄ませたいと思います。
このような私の行状はそもそも、悔い改めの果実としての心と魂の解放や自由を知らないから、平気で口に出せたのかもしれません。解決できない問題はいろいろあるし、嫌な人は遠ざければいいと思っていただけではなく、「罪のゆるし」や「悔い改め」について語られるときの、何か表面的な威圧感に過剰に反応して、今ひとつ踏み込んで意味を考えることがなかったのだと思います。もったいないと言えばもったいないですが、そもそも悔い改めは、他者に要求するようなものでもないと今は思うのです。
今日の福音書(ルカ3:1〜6)は、ヨハネが人々に悔い改めを宣べ伝える話です。バプテスマのヨハネと呼ばれるこの人は、自分の役割を「イエスさまがこの世に来ることを、荒野にいるみんなにも知らせる声」というふうに表現していますが、バプテスマ(洗礼)は、のちのキリスト教へと続く専売特許だったわけではなく、当時の社会で広く行われていた活動だったようです。でも、イエスさまがやってくるのだから、お会いする前に洗礼を受けて清廉潔白になっておきましょう、という話ではなく、イエスさまが来られるから、「悔い改めても大丈夫」という話ではないかと思うのです。
消化しにくい悲しみや痛みが残ってしまった時は、時間を経て怒りや苛立ちに変わっていくことがあります。それらはエネルギーがありますから、いつか相手にぶつけて思い知らせてやろうと考え、心の中にその怒りを保つことで、自分の中に強さが留まっているように感じたりもします。でも実際は逆で、ネガティブなエネルギーにしがみつくことでかえって不自由になり、怒りを手放せないのではなく、手放さないという選択を正当化する気持ちへと変わっていきます。手放してしまったら何もなくなるという「おそれ」があるかもしれませんが、怒りがその人をどんなに不自由にしているか、その時はわからないものなのかもしれません。
悔い改めは、怒りからの解放だけではありません。後悔や罪悪感、ああすれば良かったこうすればと思うだけで実際は何も変えられない束縛全体からの解放です。悔い改めは、怒りや苛立ち、後悔や罪悪感から、あるいは思い出すのも苦しい諦めからも、解き放たれ自由になりなさいと勧めます。それは逃避ではなく、はっきりと問題に向き合うプロセスであり、向き合うために必要な力を用いるため、備えられた方法なのではないかと思います。強いられてではなく、自分の意思によって、人生に必ずしも必要ではないものをかなぐり捨てて、一番大切なことを大切にする、そんな勇気を持ちたいと思います。
前にもお話ししたかもしれませんが、イエスさまがおられたユダヤの習慣では、日没後に一日が始まりました。太陽が西の空に沈むと「今日」が終わり、新たな1日が暗闇から始まるのです。朝は必ず来ると知ってはいても、何も見えない闇の時間は、なんとも長く感じられたにちがいありません。時計を持っていない当時の人にとっては、夜は不安がいっぱい、時には恐ろしい時間だったことでしょう。闇の中で野獣の唸り声が聞こえれば身がちぢみ、遠くの方で雷が落ちて谷にこだますればぎょっとして跳ね起きたかもしれない。そんな「一日の始まり」を過ごしたのでしょう。
今日から始まる新年、そして降臨節は、2つの異なるテーマが同時に存在します。一つは赤ちゃんの姿でわたしたちのために生まれてきてくれたイエスさまを迎える準備のとき。もう一つは、世の終わりが来て、今まで曖昧であった正義と不正義がはっきりするための備えのとき。この2つは、まるで違うようにも感じますが、1日の終わりがまず暗闇から始まる生活習慣を伝統として守ってきた人々にとっては、そんなにかけ離れたテーマではなかったのかもしれません。
都会にいるとなかなかピンと来ませんが、夜のとばりの中では、何か困ったことがおきても、おいそれとは助けを求めにくいものです。危機的状況に直面しても、誰かに知らせるのさえ難しいことがあります。そしてそれは、荒れ野や村はずれに住んでいた聖書の人々の生活状況ということに留まらず、今を生きるわたしたちも、同じような難しさを抱えています。困ったことがずっと解決できなかったり、疲労困憊して何も考えられなかったりすると、本当は助けを求めて動かないければならないのに、どうにも声をあげることさえ難しくなります。また、困り切っている自分の状態を誰も知らず、知らせる意味も見えず、さらに自分を追い込むことになります。そんな時のわたしたちは、自分の弱さをいやというほど思い知らされます。それなりにうまく乗り切っている時は、自分の弱さのことは忘れ、ある意味自分をもうまく誤魔化してやりくりしていますが、ごまかしも底上げも通用しない時がやって来た時、本当の自分の姿を見ることになるのです。その時がいつ来ても大丈夫でしょうか。降臨節のメッセージは、もう一度ご自分を見つめ直し、「今の生き方で大丈夫ですか?」という問いに向き合うよう、招いているのではないでしょうか。
気持ちに余裕のある時は、社会人としての良識のある行動をとりたいと、誰しも努力できるものだと思いますが、窮地に追い込まれたときにはその余裕がなくなります。咄嗟にやってしまうのは、非難や被害が自分に及ぶことを避けること。「損をしない」「傷つかない」道を選んでしまうこと。そんなふうになるのは人の常かもしれません。
教会の暦で一年間の終わりを迎える今日の福音書は、なんと十字架前夜の物語。まさにイエスさまが窮地に置かれています。一年の終わりに、なぜこんなつらい物語を読むことになっているのか、最初はピンと来ませんでした。
聖書が描く時代、それはユダヤの人々がローマ帝国の支配と搾取による苦しみと困難の只中にあった時代です。人々に寄り添い、また生き方をもって神の愛を示したイエスさまを、共に歩んできたはずの人々が十字架刑へと後押しするうねりが生じます。それを利用した指導者層が、死刑にするようにと一気に帝国側(ピラト)に詰め寄ります。それを受けたピラトは「十字架刑は妥当かどうか」と、客観的な判断をするために、尽力している風にも見えますが、でも本心は他人事。イエスさまの命に関心はなく、とにかく自分に火の粉が降りかからないよう「尽力」しているのがわかります。
そんな中、ピラトによる尋問の中でイエスさまは、「無駄」とも思えるくらい誠実に、物事の核心だけを淡々と答えています。自分の役割は「王になること」ではなく、真理について証をするために生きること。なぜなら、真理に属する人々はイエスさまの言葉を聞こうとするからであると。
わたしたちは毎日いろいろなことにつまずいていますが、この世に生まれてきたということは、この世を支配しておられる真理の神から、送り出された者であるということでもあると思います。また、真理を見失い、真理から目をそむけてしまうこともしばしばですが、神のご意思によって、この世で真理に向かって今日を生きる命を預かっている者でもあります。そういう意味でわたしたちは本来、「真理に属する人」なのに、あたかも一部の選ばれた人だけが「真理に属する者」のように感じてしまい、情けない自分はとてもじゃないが、「真理に属する者」などではないと勝手に決めつけてしまいがちです。
一年間の終わりを振り返るとき、出来なかったことや失敗したこと、また怠けたことばかりが思い出されるかもしれませんが、同時に、今生きている命は、自分自身の努力で得たものではなく、一方的に与えられ、預かっているものであること。その「真理」を再認識することを薦めているように思うのです。それは、真理を求め続けることをあきらめないでと呼びかけるイエスさまの声でもあるのかもしれません。わたしたちは、自分の限界に辟易することはあっても、その声に耳を傾けることを諦めないで、またひとつ深呼吸をして、新しい年を迎える準備をしたいと思います。
昔々、「エクソシスト」という映画がありました。かわいい少女に何かが取り憑いたので司祭が呼ばれ、悪霊払いのため四苦八苦するといった内容だったと思います。でもこの映画では聖書にあるような「悪霊による心的身体的異常/疾患」がテーマではなく、主人公の少女の目つき顔つきが別人のようになり、家族を傷つけ罵り続ける、という怖い内容でした。呼ばれた司祭は、その少女の心身の解放を祈り求めましたが、全然効果はありません。また、時間が経つにつれ悪霊もいろいろと策を練ってくるようになります。まず、親しい友や尊敬する先輩の声音を使い、「そんなことをしても意味がない」と説得にかかります。それでは効かないので、今度は亡くなった司祭の母親になりすまし、諦めるよう泣き落としにかかります。
ところで、第二日課の「マルコによる福音書」の時代は、キリストを信じる人々が窮地にありました。迫害を受け、次々と投獄され処刑されるような日常で、誰を信じたらよいのか、何をどうしたら状況を変えられるのか、本当に誰もわからない。少しでもわずかでも、今持っているものを失わないように努力する以外、なすすべがありませんでした。そんなときは、努力しあれこれと決断することが馬鹿馬鹿しくなります。そんな絶望の中では、ニセモノスーパースターであっても、すべて解決してくれる妄想に皆が取り憑かれ、すがりつきたくなります。
わたしたちも、実は似たような窮地に追い込まれることがあります。どうしたものか苦しみ悩んでいるとき、自分のもっとも弱いところを突いてくる悪霊の声に惑わされそうになります。「これが皆にウケる」「こちらがトク」とささやき、思考停止へと誘導します。ニセモノほど本物らしく振舞いますが、様々な苦難を乗り越えニセモノとの遭遇にひるまず、正しい決断をして来た人には、今度はさらに高度なニセモノが接近して来ます。しかし、惑わそうとする声が勝手にやって来るのではなく、私たちの中にある[欲を求める心]に共鳴して引き寄せられて来るのではないでしょうか。そんな時わたしたちは心を奮い立たせ、主のみ心がどこにあるのか真っ直ぐに顔を向け、神が大切になさりたいことを見極めたいと思います。
よく晴れた保育園の一日。「せんせい、見て!見て!」外の泥んこ遊びや室内での創作に没頭しているこどもたちから、こんな嬉しそうな声が挙がります。これはきっと大好きなお母さんやお父さん、おうちの方に対しても、日に何度となく口にのぼる言葉なのでしょう。新しさめずらしさを見つけた喜びを誰かと分かち合いたい、そんな純粋な情熱とともに、「わたしをみとめてほしい」という、微笑ましい気持ちがあるのも本当でしょう。
でも、今日の福音書に登場する「見て見て!」は、そんな可愛い話ではありません。尊大な態度で歩き回り、格好だけの祈りをしてみせ、たくさんの献金をひけらかしながら投げ入れ、特別待遇を受けることを期待する「律法学者」あるいは「先生」と呼ばれる人たちを、イエスさまが非難する場面です。そんな人々の態度は外側から見るとまるでピエロですが、こういう人々を無害なピエロと言い切れないのは、社会的な地位による「力」や「声」を用いて、弱者や貧しい人、声が出せない人々を踏みつけ、都合のいい正義を振りかざして自己正当化する、といったことをしてきたからでしょう。社会構造の中で多少なりとも「力」めいたものを持っている人は、似たようなことをしてしまう可能性はあるわけなので、この話を聞いてヒヤリとすることもあるでしょう、教会の牧師も例外ではありません。
一方「律法学者」の対極として、レプトン銅貨2枚をそっと捧げた女性が登場します。これは本当にわずかな金額で、「50銭」「50円」とも訳されています。レプトン銅貨2つ合わせても100均ですら買い物ができない、つまりほとんど何も買えないような金額です。「生活費の全部」と書かれているので、明日からこの人はどうやって食べていくのだろうと現実的な心配もありますが、イエスさまは「誰よりもたくさん入れた」と表現します。
つまり金額ではなく、「見て見て!」でもなく、権力を行使してでもなく、見返りを求めてでもなく、彼女は生き様そのものを献金に託して捧げた、そのことをイエスさまは察知したのです。下世話な話に聞こえてしまうかもしれませんが、私たちが献金や時間を神さまにお捧げするとき、「他の人と比べて恥ずかしくない金額を」と無理をしたり、「わたしはこんなに頑張っているのに評価されない」と思うのは、何かがスレ違っているということになります。教会は会員制クラブではなく、会費も規制の義務も存在しません。神さまの前で「愛すること」を求め続ける旅路に一緒に歩む仲間の集まりです。「評価されたい」気持ちは、誰にもあることですが、それらを振り捨て振り捨て、真に価値あるものに向かって歩みたいと思います。
こどもの頃から教会に行っていたという人にとっては、慣れ親しんだ教会の礼拝に久しぶりに出席しようという時、多少の不安はあっても大きな違和感はないかもしれません。また、旅行先などで、初めて訪問する教会だとワクワクすると同時に、少し緊張するような気持ちもあるものだと思います。でも、教会とは何をするところなのか謎のまま、とにかく何もよく知らないけれど一回行ってみよう!という「初めての方」が教会に来られたとき、教会でのあれこれにすっかり慣れてしまっている私たちには見えないもの、わたしたちにとっての「盲点」が、あらわになる気がするのです。
そんな事をふと思いつき、だいぶ前ですが(自分の身分は明かさずに)高野山の一泊修行グループに参加したことがあります。参加者は、仏教徒が半分、全くの初心者半分という割合でした。説明をしてくださる僧侶も、フレンドリーな印象を与えようと一生懸命に務めているのが感じとれました。その一方で、役職付らしき仏教徒には、ある種の特別待遇をするような場面もあり、「あれ?!」と感じたことを覚えています。特に説明もないまま「ここから先は信者のみ座ってください」などと言われると、「えっ?!どうしてですか?」という気持ちになりました。そこに是非座りたい、というわけではないのですが、「区別」の理由がわからないと、「あなたは知らなくてもいい」と言われた気分になるものだと。
わたしたちも自分では気がつかないだけで、祈祷書をすばやく開けられるとか、聖書やお祈りを淀みなく唱えられるとか、聖歌をたくさん知っているとか、そんなレベルのことを密かに誇りにしていて、一番大切なこと「神を愛すること」「隣人を愛すること」を、ないがしろにしてしまっている瞬間はないでしょうか。わたしたちの習慣に過ぎないことを、イエスさまの教えよりも無意識にでも優先してしまうと、単なる仲良しクラブになってしまうのではないでしょうか。
最初の話に戻りますが、キリスト教の教会は何をするところでしょうか。それは、世の人々と「神を愛すること」と「隣人を愛すること」が、もっとも大切だということを分かち合うための場所だということです。それはとてもシンプルなのですが、一方、とてもむずかしい。愛することは、効率や損得では示せないし、どんな善意に溢れる行為でも心の中に愛がなければ、イエスさまの教えとは異なるからです。いい人の仮面をかぶろうというのではなく、真に神と人とを愛することを、人生の中心に据えて生きていきたいと思います。
ところで今日の福音書は、イエスさまのお弟子さんの中でも「筆頭」に数えられるヤコブとヨハネが、なんとも情けないボケツを掘る話です。何を思ったのか、「栄光を受ける時が来たら、右大臣左大臣の座をわたしたちに約束してください」などと、イエスさまに直訴してしまうのです。聖書に登場する「栄光」という言葉は、通常は「イエス・キリストが、十字架にかかって死ぬ苦難」を指しますが、その脈絡でヤコブとヨハネが「イエスさまの苦難も共にしたい」と言っていたかどうかあやしいものです。むしろ、すべての不正政治をなぎ倒しローマ帝国の支配を払拭して、新しいユダヤの王としてイエスさまが凱旋する!そうなったら今まで側近として支えてきた自分たちも、それなりの地位をいただきたい、といったイメージでの発言だったかもしれません。
イエスさまの働きを支えようと、一生懸命人々に仕え、蔭となり日向となり苦楽を共にしたお弟子たちであったのに、本当にはイエスさまのことを理解できていなかった、それもなんだか寂しいですが、「自分は十字架にかかって死ぬ」という話を三度、イエスさまから聞いたその直後に、上記の直訴が行われる展開になっています。イエスさまと共に過ごす恵みの中にいるのに、その素晴らしさを味わうよりも、これまでその働きを支えてきた「対価」として、将来の役職を要求した。将来設計のつもりだったかもしれませんが、自分の人生を管理したい、ひいてはその管理のためにイエスさまも利用したい、そんな危険がはらんでいたように思います。
教会の朝の空気を感じながら一日を始めることができる恵みを味わうよりも、先々のことを「管理」することに囚われる自分も、どこかでこのヤコブとヨハネの行動とつながっているのかもしれません。目先の「管理」と「支配」に振り回されることなく、与えられている恵みに目を留めることができますように!
小さいときから、清く正しく生きようと、ずっと精進してきた信仰深いお金持ちが、イエスさまに聞きます。
「どうしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか?」この人が聞いている永遠のいのちとはいったい何を指すのか、それも大変気になるところですが、詳細はさて置き、この人はこう言われてしまいます。
「行って、あなたの持っているものを売り払い貧しい人々に施しなさい。」するとこの人はがっかりして悲しみながら立ち去っていきます。たくさんの財産を手放す気はなかったからです。
家族や自分のために一生懸命働いて築いた財産なのに、大切に蓄えておいたのに、それを全部吐き出して、世の中の困っている人々を助けなければ、神さまに顔向けできない、と言っているように聞こえたのかもしれません。財産の全部ではなく、一部だけなら施すとしても、自分の分をとって置こうとするのは、いけないことなのでしょうか。
ところでイエスさまは、この質問をした人を「慈しんで」返事をされた、と書いてあります。この人に対する非難の言葉も発していないし、貧しい人に施せないとは残念な人だとも言っていません。むしろ、たくさんの財産を失わないように管理する重圧に耐え、財産があるがゆえに不自由になっているこの人の心をいとおしむように、「何よりもまず守るべきは財産で、そこは変えないままで、可能なら『永遠のいのち』もほしいと思っていませんか?」と言っているように聞こえます。
それは、たいした財産のないわたしたちに対しても、呼びかけられている言葉なのかもしれません。これはさすがに手放せないと思い込み、万全な管理保管をするために、自己犠牲を強いられている事柄。どうせ変えられないからと、今までどおり我慢している事柄。もう今さら変えられないと思い込んでいる人生。そして、情けなく認めたくないような悲しい自分。それらは、ひょっとしたら「変えたくない」という気持ちがどこかにあって、それをイエスさまに見抜かれているのかもしれません。自分を変えるつもりはないけれど、追加で手に入るなら「救い」も欲しい、という思考経路から自由になるようにというお招きなのではないでしょうか。わたしたちが、人に強いられてではなく、自分の意志で手のひらを開き、心を開くとき、今まで見えなかった恵みがそこにあるのが見えてくるのではないでしょうか。
人の元々の本性は善であるという考え方は「性善説」と呼ばれ、どのような善い本質が人間に備わっているか具体的に説明する学説ですが、紀元前300年代の中国でも、「そんなのは理想論に過ぎない」と批判された流れがあったようです。しかし、人の弱さや悪い部分から目をそむけて理想を語る、ということではなく、元々善い心を持って生まれたのが人間なのだから、たとえどんな王であっても、人民を守り正しい政治を行うことが可能なはずである、とすることが、儒教の性善説の目的だったと言われています。
キリスト教も性善説の考えと少し似たところがあるかもしれません。もっとも、王や支配者などについてはあまり関心がないので、抑圧と搾取が続く社会を生き続ける「こんな人生、生きていて何の意味があるのだろう」と苦しむ人々に視点が向いています。「辛い人生は神からの罰だ」という常識が横行していた時代に、「人間は元々善い存在として、神が作られた」ことを根底として、上等な人と下等な人がこの世に存在するのではなく、すべての人が等しく神の姿をこの世に表すものだと、イエス・キリストは強調しました。この世で生きている限り、たとえ人生の意味が見えなくても、神があらかじめ準備した大切なミッションを携えた人であると。
今日の聖書の箇所には、「人がひとりでいるのは良くない」と、人がひとりぼっちにならないよう、神がパートナーを創造する一節が登場します。「人に合う助ける者を造ろう」と
呟いた神は、「人」を深く眠らせて「あばら骨の一部を抜き取り」女を造ったという話に続きます。キリスト教の伝統的な解釈では、「助ける者」を「アシスタント」と理解し、「あばら骨の一部」を「あばら骨一本」と解釈して、人の役割分担を性別によって規制してきた歴史がありました。しかしそれは、一般の人々が字を読めなかったから続けてこられたこと。今や多くの人が自国の言葉を読み書きし、外国語の文献にもアクセスするようになりました。すると、「助ける者」は神を修飾する言葉(神は私の助け、等)として登場することの方がずっと多く、アシスタントという理解はこの箇所だけであること、「あばら骨の一部」は一本ではなく、全体の半分のうちの一方の塊りをさす、ということもわかってきました。つまり、人に優劣があると信じられ、幸か不幸かを分ける理由を「神の罰」としてきた時代でさえ、すべての人の存在は尊いものであり、大切なかけがえのない存在であり、善きものであると説いているということです。社会的な現実の中では、この考えを持ち続けることは難しいかもしれませんが、たとえそうであってもわたしたちは、「神の姿をあらわす存在」として、顔を上げ前を向き立ち上がり続けたいと思います。
礼拝を見たこともなければ、キリスト教に興味を持ったこともない人々と話していると、(聖書ではなく)神話に出てくる天使の名前が出てくるアニメを語り出し、「だから自分はキリスト教をけっこう知っている」とのたまう大人がいることに正直驚きます。そんな時は「あ、そうなのね」と流しますが、その方々にとっては超越的な力を武器にした戦闘シーンが感動的らしく、この怪物はキリスト教で一番えらい!などと強調されると、多少複雑な気持ちになります。
一方、直接宗教に関わったことのない一般的な日本人にとって、「宗教とはお金目当ての活動」というイメージもあるようです。目に見えない「希望」や「信念」を言葉にするのは、何かを誤魔化すためであり、「その背後に何かある」はずなので、人の弱みにつけ込んで金銭的な搾取をするような「宗教団体」の全貌が明らかになると、逆に、変に納得したりもするようです。いずれにせよ日本で宗教/信仰と呼ばれるものは綺麗事であり、心の弱い人や非科学的な思考の持ち主が飛びつくもの、と相場が決まっています。
こうなってしまった原因のひとつには、1995年の地下鉄(日比谷線、千代田線、丸の内線)サリン事件があると思います。「宗教」に洗脳され思考停止した人々はお金のためなら何でも実行、そして反社会的な行動や破滅も厭わないというイメージを広げた事件なのだろうと思います。そして、あのような酷い事が再び起きないためには、宗教や信仰に近寄ってはならず、ある種の自己防衛からか、目に見えない世界を茶化し、心や精神の存在を軽んじるのが安全、という風潮に繋がっているのかもしれません。
でもだからこそ、なのだと思います。イエスさまは徹底して、声の小さな人、社会の果てに押しやられている人、切り捨てられている人のところに身を置きました。何が得か、役に立つかという話ではなく、徹底して「痛み」を共有し、神の愛こそがわたしたちを解放し、人生を美しくするものだと伝え続けました。お弟子たちの中には、そんなわかりにくく、まどろっこしいことを言っていないで、早く人々を唸らせたいと急いだ人もいましたが、それこそが「小さな者のひとり」をつまずかせる入り口であることを、イエスさまはご存知だったのでしょう。キリスト教の玄関の中にいるわたしたちもまた、効率と結果に心を奪われるとき、玄関の外にいる「小さな」人々をつまずかせる危険を持つものです。もしわたしたちが神さまの愛に信頼していなければ、イエスさまのメッセージをうわべだけで捉え、まちがって伝える危険があります。神の愛によって生かされていることを、まずわたしたちが心から信じているかどうか、自身に問うことから始めていきましょう。
イエスさまのこどもに対する処遇と対極を成す様子が、お弟子さん内での「誰が一番えらいのか」論争です。お弟子さんたちも、こういう話題を熱心に語るのを知られるのは恥ずかしい、と知っていたのでしょう。何を議論していたのか聞かれると皆、黙ってしまいます。損を避け、効率的で、しかも人より一歩も二歩も先んじることが「優秀なおとな」という妄想に取り憑かれるのは、現代ばかりではないようです。物事を効率的にすすめるには、組織やヒエラルキーが便利ですし、そこに私利私欲が加わると、目先の益が先に目に入ります。そういう人々にとっては、「こども」に象徴される様々な便利でない存在は、ペースを乱す障壁以外の何ものでもなくなり、少なくとも自分は「こども」などではない、という主義主張が始まるのでしょう。
するとイエスさまは、ひとりの子どもを抱き上げて、「わたしの名によって、このこどもを受け入れる者は、神さまを受け入れる者だ」と言います。でも「受け入れる」内容は、ペットのように可愛がることではなく、要求を無条件に聞き入れることでもなく、親切な行為を多発することでもないでしょう。それは、小さなこどもの中に坐する神さまを見ること。どんなに力なく見える人の中にも、すでにその存在と共に生きて、その人の中で働かれている神の存在に、尊厳をもって対峙すること。そんな心の準備が出来た時に、わたしたちは神さまと出会うことができる、と言っておられるように思うのです。
わたしたちが神さまに出会うために、こどもたちが目の前に用意されているわけではありません。でもその人々は、わたしたちの計り知れない神のミッションを担う人々。その方々からこぼれる一つの恵みとして、わたしたちが今日、「神さまと出会う」ように助けてくださっているのだと思います。わたしたちも驚きと尊厳を持って、日々こどもたちの中で働かれている神さまと出会いたいと思います。
皆さんにとって「自分の十字架」とは何だろうか。自分のことを振り返ると、子ども時代、20代、そして司祭按手までの20年間は、神さまから無理矢理背負わされた「十字架」を負ったつもりになっていた。とにかく何もかも手一杯と信じていた自分は、他者のことなどまるで視野になく、自己中心そのままのような生き方だった。しかも家族が負えないから私が負うしかない、くらいの横柄な気持ちでいたと思う。
しかし当時、不満たらたらで負っていた十字架は、私を支配していた。そこから自由になろうともがくほど、支配の力は増していた。でも私はきっと、様々な節目に恵まれ、無駄にしなかったのだろう。強大な支配力で私を圧迫していたそれらは、気がつくと栄養の一部として消化され、浅薄さと軽率さで勝ち越したつもりが実は逃避であったことを認められるようになると、それらは内省への手がかりとなっていたことに気づく。
だからと言って、今は仙人のように悠々、マイペースで暮らしているとは到底言えない。教会と施設の中を右往左往し、しょっちゅうあちらとこちらを取り違え、緊急の電話がかかってくるかもと怯えつつも、薄氷を踏みながら外出する。鍵と携帯電話があるべきところになくてうろたえ、紛れた書類やメールを発見できず探し物ばかりする。何か頼まれ事をすると、なんだか出来そうな気がして大風呂敷を広げ、それがいくつも同時多発的に重なると、だから言わんこっちゃないと後悔する。もはや自分の十字架が何であったかさえ、見えなくなっている。 皆さんもご存知のように、イエスさまの生き方に共感し、神さまの示す愛を大切なことの中心に置いて生きようとする人が、洗礼を受け教会の構成員となります。もっとも、洗礼を受けても受けなくても、教会の仲間のひとりであることに変わりはないのですが、洗礼を受けると、聖餐式で(頭に手を置いて祈る)祝福ではなくて、「パンとぶどう酒」を受け取ることになります。でもこれは、「会員になると与えられる特権」というよりは、責任の再確認に近く、繰り返しパンとぶどう酒を受けて、イエスさまに倣って生きる決断をしたことを繰り返し思い起こす、という目的を含んでいます。
月島聖公会では現在、聖餐式をお休みするという異常事態ですので、パンとぶどう酒について語れば語るほど、信徒の皆さんは切ない気持ちになるかもしれません。でも今は聖餐式を行うことが出来ないからこそ、そこに込められた意味を想い起こす必要があるのでしょう。そして、どんな状態に在っても、イエスさまはわたしたちと共に歩んでくださると確信することにより、今日も立ち上がり顔を上げて前に進むことができるのだと覚えましょう。また、こんなふうに恵みを受けている者は、目には見えない恵みを、自分ひとりのために消費し完結させるのではなく、ひとりでも多くの人々と分かち合うために、一時的にお預かりしているに過ぎないという点も忘れてはならないことでしょう。一時預りをした恵みを分かち合う機能として、「教会」が存在するということも、心に留める必要があると思うのです。
イエスさまが言っておられる「パン」は、米を主食とするアジアでは「ごはん」と訳した方が良いのかもしれません。(韓国の金芝河という詩人は、聖書に登場するパンを「飯」(めし)と言い換え、「飯が天国だ」という詩を書いています)。物質的な「ごはん」は、食べてしばらくすると、また食べなければならず、そしてそれは何らかのかたちで死ぬまで続きます。一方、イエスさまがくださる天国の「ごはん」も、一回食せば一生やっていけるというものではないのでしょう。それは天国の「ごはん」に力がないからではなく、自分の弱さや情けなさ、あるいは腹黒さと共存しながら、この世で生きているわたしたちには、繰り返し目視確認できる「天国のごはん」が必要だからなのでしょう。でもそれは、欲望に駆られ中毒的に「天国のパン」を欲するということとは異なります。この世で生きて愛して、公共の善のために働くために、わたしたちは繰り返し、神さまの愛に支えられていることを、触れて見えて確認できるかたちを通じて思い出し、心が支えられる、それが命のパンなのだと思います。
コロナ禍と並行して、何がほんとうで、何がごまかしなのかを、わかりにくくする病気が流行っているようです。もっともその病気は前からありましたが、コロナ禍の広がりとともに、その姿が見えやすくなってきたのかもしれません。この病気にかかると、その場限りの言い訳で切り抜ける技が上達し、あとで辻褄が合わなくなっても一向に心は痛まなくなります。実際は自分と他人をだましながら生きているのですが、自分では「うまくやっている」という思い込みを駆使して切り抜けることができます。
先日、少し遠くへ出かけた帰りに嫌な光景を目にしました。時刻は夕暮れ。信号が青に変わるのを待ちたくさんの人が交差点で待機していましたが、やがてそこに救急車のサイレン音が近づいてきたのです。救急車は、信号がすでに黄色になりかけていたこともあり、減速しながら交差点に差しかかりました。すると歩行者側の信号がパッと青になったとたん、自転車に乗った中高生の群れ、数組の子ども連れの家族、そして左折を待ってウインカーを出していた車が、一斉に飛び出しました。まるで「青だから私に権利がある」と主張するように。結局、救急車はしばらく停止し、道路を渡り切った人々や車がはけてから走り去って行きました。
この話は嫌というよりは、悲しい話なのかもしれません。こういった行動をとってしまう人々の中には、救急車と自分は一生無縁と決めているか、道路交通法について知らない人もいるのでしょう。また他者の命を危険に晒しても道路を渡る必要があったのかもしれません。悪意なく救急車を止める遊びをしていただけかもしれません。そんな個々の背景は別として、私が気になるのは、「みんな渡っているから」「自分は咎められない」と、救急車の活動を集団で遮ることに躊躇しなかった人たちの心の中です。救急車を止めても、大人のそんな行動を子どもたちが見ていても、「たいしたことじゃない」と自分に言い訳した人たちの将来です。
今日の福音書で「つぶやき合う」人々は、物事の本質ではなく、枝葉に言及することにより、自分も周りも言いくるめることで、その場を乗り切ろうとしています。イエスさまが信仰にかかわる話をしているのに、非難の対象にはならないことを見越して「そもそも大工の息子だし無学なはず」と言う。何の話をしているのか自分の心や頭では受け止めず、無学なイエスから教えを聞くのは不快だし、それを口に出しても、皆の賛同を得られると確信しての言動です。イエスさまから聞く必要はないと判断したのなら仕方がないと思いますが、身の安全を確保した上でのみ、このような言動に至る姿は、夕暮れの中で救急車を止めた人々と重なります。救急車の中ではどんな苦しみや痛みと闘っている人がいるのか、それを想像できないような生き方は、イエスさまは望んでおられないと思います。
旅の行き先は、はっきり決まっていない。村に着いても誰に会えばいいのかわからない。困った時にどこに助けを求めたらいいのかもわからない。そもそもお金も食料も水も持ち歩いてはならず、たとえ何かを盗られてもスペアの下着すらない。そして、自分の身を守るものと言ったら、履物と杖のみ。旅じゃなくて肝試しですかと問いたくなるくらい、不安は募ります。
物質的には何も持たないという、その無防備さの一方で、お弟子さんたちは、汚れた霊に対する権能と、人々を悔い改めへと導く言葉と祈りを与えられています。彼らは、この2つだけを握りしめ、イエスさまへの信頼を唯一の手がかりとして、多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒すという果実が与えられたと、聖書は記します。
わたしたちが「宣教」という言葉を心に思い浮かべる時、聖書の言葉をたくさん使い、ひとりでも多くの人が洗礼を受けたいと思うように道を備える、というようなイメージがあるかもしれません。それはそれで一つの方法なのでしょうが、宣教とはこのように、非常にシンプルなものなのではないでしょうか。イエスさまの言われた言葉をまさに心の真ん中に置き、世界の事柄すべては神さまが治めておられると本気で信じて、人々の真の必要に応えていくこと、それに他ならないのではないでしょうか。イエスさまの言葉を信じるなら、お弟子さんたちと行動を共にするなら、悪霊や病気から解放してあげよう、という交換条件付きの活動ではなく、何のメリットもないのに、感謝さえされないのに、人々が生きていくために尽力するという行動こそが、イエスさまが示される宣教なのではないかと思うのです。杖と履物以外は何も持たずに、神さまに信頼し従っていく。その姿勢が人を変え、状況を変えていく力になっていくのだと思います。
そんな「過小評価」の場面は、聖書の中にもしばしば現れます。例えば、旧約聖書の「私は雄弁ではありません。本当に口の重い者です」と何度も食い下がり、神の命令を頑なに拒もうとするモーセの話があります。自分は口下手だからその務めに相応しくない、と言っていたのかもしれませんが、それよりは、神が言ったことを皆に伝えて、「そんなとんでもないことを!」と、馬鹿にされるのを避けたい気持ちがあったのではないかと思うのです。民衆からの「過小評価」が怖くて、先に「私は口の重い者なので」と神さまにお断りすることで、部分的過小評価で済まそうとする自己保身を感じます。一方、今日の福音書では、「この人は大工ではないか。マリアの息子ではないか」(直訳=この人は、石工でもマリアの子でもないって言うのか?!)という言い方がありますが、石工でありマリアの私生児である「イエス」が、知識や見識に優れているはずはないと決めつける、イエスさまが育った村の人々による過小評価の姿が描かれています。
問題なのは、社会的地位のない人や声の小さい人に対しては、あまり考えもせず簡単に「過小評価」をするのに、自分より強い立場にある人と対峙した途端、相手を「過大評価」することで、自分を守った気分になることなのではないかと思うのです。言葉を変えれば、「過大評価」をする人は簡単に「過小評価」もするし、それは相手ときちんと出会わない常套手段にもなります。他人に対しても、自分に対しても過大評価と過小評価を繰り返し、目の前に居る人をそのまま、まるごと受け止めようとしない在り様は、イエスさまの生き方と対極を為すものでしょう。口で言うほど簡単ではないかもしれませんが、わたしたちも、過大評価と過小評価のはざまで、オロオロするだけではなくて、神さまによって創られた唯一無二の存在である自分と他者を、まるごと受け止められるようになりたい、と願っています。
40年ほど前、東京教区主催の第一回小笠原キャンプに参加したことがあります。竹芝桟橋から出航、船中2泊を経てやっと東京都小笠原村に到着しました(今はもっと速くなりました)が、伊豆諸島を過ぎたあたりからひどい揺れが始まり、まるで急上下するエレベーターに乗っているよう。夜も眠れないだけではなく、一同はひどい船酔にかかり、大広間で横になることも出来ず、それこそトイレから離れられないような、なかなかの船旅となりました。帰りもまた同じ船で2泊3日を過ごし、東京に戻らねばならないことを思うと、その時はキャンプに参加したこと自体を後悔していました。
距離は全然ちがいますが、イエスさまとお弟子さんたちにとって、活動の拠点だったガリラヤ湖の村々を訪ねるには、徒歩に加え船も移動手段だったようです。周りを山々に囲まれた盆地という地形のゆえ、今でもガリラヤ湖では急に突風が吹き、転覆する船もあると聞きました。それにしても船がひどく揺れ、波をかぶって水浸しとなった船内では、お弟子さんたちは眠るどころではなく、沈むかもしれない心配と、真っ暗な波間に突然放り出される不安とで、パニック状態だったのかもしれません。
嵐のような天候の中で、お弟子さんたちは非難するかのように「私たちが溺れてもかまわないのですか」と言って、眠っているイエスさまを起こします。「危ないですから起きてください」ではなく、わたしが溺死しそうなのに眠っているなんてひどいですよ、ともとれるセリフです。危機的状況に直面した時に、その人の本性が出るとは、よく言われることですが、この発言をしたお弟子さんも、自身の一番弱い面が露呈し、呑気に眠っているなんて!とイエスさまを非難する口調になってしまったのでしょう。
わたしたちも、こんなふうに他人や自分自身を非難の対象にしてしまうことがあると思います。そして、危機的な渦のまっただ中にいるとき、何が問題だったのか、何をこれから変えていくべきなのかを、冷静に判断するのはとても難しいことを知っているのに、なんとか理屈をつけて短絡的に何かのせいにしようとします。でもそれは、自分の小ささの裏返しと、小ささを認めたくないという気持ちの表れなのだと思います。
わたしたちの小ささは、わたしたち自身の弱さです。でもそれを自分だけでなんとかしようとするところに、まちがいの分岐点があるのではないでしょうか。わたしたちの弱さを無きものにするのではなく、神さまは、弱さをも含めてわたしたちを愛してくださることを想い起こし、嵐の中でも大風の中でも、必要以上に慌てふためくことのないように、心を整えたいと思います。
月島聖公会の教会報の名称でもある「からしだね」は、新約聖書に登場します。現在の黒ガラシ(マスタード)の種と関係があると言われ、種の大きさは0.5ミリ程度、息を吹きかけると粉のように飛ぶほど小さいとされています。そんな小さな種であるにもかかわらず、成長すると茎がするすると伸びて5mに達することがあり、黄色の可憐な花が咲いた後に採取される種は、絞ると良質の油がとれ、残った茎と殻は家畜の飼料に使用された、そんな便利な植物だったようです。でも聖書は、マスタードの利便性ではなく、指先でつまめないほどの小さな種が、5mもの藪を形成する生命力に目を留め、それを「神の国」にたとえています。
ではいったい「神の国」とは何なのでしょうか。「神の国」は、神さまが清く正しいと認めた「選ばれし者」だけが市民権を得られる国家のようなもの、と考える方もおられるかもしれません。またあるいは、この世の生涯を終えたら、わたしたちを迎え入れてくれる「天国」のようなもの、という感じ方もあることでしょう。何しろ誰も目で見たことがないので、こうだ!と言い切れないところがありますが、私が気になるのは、この吹けば飛ぶような「からし種」が、綺麗な箱に丁重に納められ大事に保管されるという話ではなく、土に植えられて初めて真価と生命力が発揮されるという点です。地面には、動物や虫の死骸や腐った植物、それに人間の排泄物さえ混じっていたかもしれません。また、種が無事に発芽する保証はなく、芽が出ても踏み潰されたり、動物に掘り起こされたりして、その命が断たれる危険にも満ちていたことでしょう。それでも残った種が、土の中で奇跡を起こしていきます。
つまり「神の国」は、はるか遠くの清浄な場所に存在するのではなく、捨てられたものや、人々が不要となったもので構成される、まさに泥の中で、目に見える生命へと転身していきます。それはわたしたちが「清く正しくなったら」近づいてくる国ではなく、まさにわたしたちの混沌と無秩序と的はずれに満ちたこの日常のまっただ中に、神さまは諦めることなく種を撒き続けてくださる。わたしたちが踏み潰しても蹴散らしても、種の命をないがしろにしても、何百倍もの豊かな実を結ぶ生命を播き続けてくださる、ということなのではないかと思うのです。言い方を変えれば、わたしたちが目をそむけたいこと、自分ではとても受け止め切れないような痛みや苦しみ、無かったことにしたいような辛い歴史も、神さまはすべて愛をもって受け止め、それらすべてを用いて、わたしたちが想像もしなかったような豊かな実を結ばせてくださるということなのではないでしょうか。それに対してわたしたちが出来ることは、からし種の存在を認め、その成長を邪魔しないことなのではないでしょうか。
イエスさまは、当時の社会の中でしばしば「気が変な人」「汚れた霊に取り憑かれている人」と噂されていたようです。それは、正規の教育を受けたわけでもないのに、その道のプロである律法学者や祭司たちと議論したり、神さまはこういう方だと反論したりする行為は正気の沙汰ではないとみなされていたからだと思います。生まれ育ったユダヤ教の文化に順応できる人が「人として能力が高い」とみなされ、順応できないかあるいは違うことを言い出すような人々は、伝統と文化を破壊する「汚れた霊」に属する者と考えられていたことも関係しているのでしょう。イエスさまは、「人として能力が高い」どころか、親戚が身柄を拘束しにくるほどの「気が変になっている人」とみなされていたことを聖書は記しています。
少し話はちがいますが、昔、ある病院のチャプレンをしていた時、内科や外科に加え、精神科病棟も担当していました。週に一回60分くらいのセッションを担当し、聖書の物語をグループで読みながら絵や詩で表現し、それをお互いに分かち合うという時間をもっていました。通院ではなく、入院されている皆さんですから、それなりの精神疾患を背負う方々なのですが、セッションの中の絵や詩で表現された様々な気持ちは、とても共感できるものでした。一方、一般社会の中で特段の不便も感じずに、しかし自分の心をねじ曲げて生きている人々のことを思い浮かべると、いったいどちらが「より健康」なのか、だんだんわからなくなっていきました。たとえば、洗礼は受けたけれど愛のない言葉を発して平気な人々、神さまを信じていると言いながら人を欺いても恥じない人々を見ると、幻聴や幻覚に過ぎない「人の評判」を神とし、真実から目を逸らして生きている人のように思えてくるのです。もちろん、医学的診断による幻聴幻覚はとても苦しいもので、きちんと識別するのは大前提でしょう。でも、ひょっとしたら、この社会に生きるのには不便だから、この社会の秩序にケチをつけたと言われたくないから、都合よく目に見えない魂を捻じ曲げて、これで一生やって行けると思い込んでいるとしたら、それはイエス様を拘束しにやってきた親戚たちと同じ穴のムジナだと思うのです。
「見かけ」や人の「評判」に振り回されずに生きることは、とてもむずかしいかもしれません。でもイエスさまの生き方そのものが、あらゆる事柄の「見かけ」ではなく、本質を見るように、わたしたちを促します。そこには簡単なこたえはありませんが、地に足のついた生き方があります。わたしたちが目に見えない本質を見据えようと心を決めるとき、道なき道もずっと一緒に歩いてくださっているイエスさまの姿に目を開かれることでしょう。クリスマスやイースターのお祝いはなんとなくわかるけれど、ペンテコステは聞いたことがない。イエスさまお誕生の「クリスマス」、亡くなったけれどよみがえる「イースター」は、お祝いとして認知しやすく(サンタとエッグハント?)ても、ペンテコステは何を祝っているのか、今ひとつわからない。そして、この世界を創造した「父なる神」という設定は理解できるし、イエス・キリスト(子なる神)も聖書を読めばどんな活動をしたのかわかるけれども、「聖霊なる神」は何のために必要なのかよくわからない。広く一般の方々と「聖霊なる神」について話題になると、こんな感じの展開が多いです。
それにしても「聖霊なる神」は何処にいるのやら。お祈りをする時も「イエスさまのみ名によって」と締めくくるので、特段に「聖霊なる神」の助けを借りる必要もなし。更に聖霊なる神は、「父と子から出られ」(ニケヤ信経)と唱えられることからも推測できますが、父なる神と子なる神と同時的に「最初から」存在していたわけではない。そして「聖霊が人々に注がれた」という使徒言行録の記事となると、幻覚だったのではないかと疑うほどの不可解さに満ちています。
誌面が限られているので、一足飛びに結論だけ書きたいと思いますが、聖霊なる神のひとつの特徴は、わたしたちの存在と切り離したところにあるのではなく、誤解を恐れずに言えば「すでにわたしたちの一部として今生きている」存在だということです。わたしたちはもれなく「土の器」ですが、神の息を吹き込まれて命を与えられ生かされ、この地上での役割を果たそうと日々闘っています。そして時には、限界を越えるような状況に直面し、とても自分には無理だと思うような課題が立ち塞がることがありますが、マジックでも魔法でもなく、「自分の力」では到底あり得ないような事柄へと導かれ、「こんなことがなぜ出来たのだろう」と驚嘆するような、いわゆる自分が「所有していない」能力が何処からか湧いて来て、本当にびっくりすることがあります。「わたしたちに必要なものはすべて、神さまは与えてくださる」という表現がありますが、それらはわたしたちが「所有する」ために与えられるのではなく、わたしたちの中で働かれる聖霊なる神を阻害しなければ、必要なことはすべて為されるということなのだと思います。
このあと、イエスさまに従う人々は、ほぼ三百年に亘って迫害されます。逮捕され処刑され家族が引き裂かれる、そんな過酷な時間を耐え忍び、イエスさまの生き方が伝え継がれました。今、わたしたちが「神さまの愛」を知ることができること自体、聖霊なる神の働きなのではないでしょうか。
こんなことは前代未聞でしょう。2年続けてイースターの礼拝が行われないとは、本当にびっくりです。静まりかえった礼拝堂は、まるでイエスさまが甦ったあとの空っぽのお墓のようでもありますが、でも、意気消沈し、茫然と立ち止まっているわけにはいきません。
今、わたしたちそれぞれが、しなければならないことがあると思うのです。それは、神さまが「ひとり子を十字架に架けてまで、伝えようとされた愛と救い」のメッセージが、わたしたちの心と魂に確かに届き、迷うことなく生きる基となっているかどうか、改めて各自がご自身に問うことです。なぜなら信仰とは思考停止ではなく、常にその内容を問い続けられるものであり、神への信頼とは、依存する相手を人から神に置き換えることではないからです。イースターを行事のひとつとして「思考停止」してしまうと、何とかしてわたしたちを救おうとされる、神の切実な想いが埋もれてしまう危険があります。イースターをお祝いするとき、楽しく過ごすことを優先するあまり、茹で卵やご馳走や飾り付けやイベントが「イースターの準備」になってしまっていたとしたら、本末転倒です。
そこで、まずはイエスさまの十字架の意味をもう一度考えましょう。一番優先したいのは、生き難い人、悲しみ苦しんでいる人、自分の辛さなど誰にもわかってもらえないと思っている人々に、神さまのメッセージが届くために、十字架があったということです。自分が苦しみ悶えなくても済むように、遠く離れたところから正論を主張する神ではなく、心の奥深くの痛みを一緒に担おうと、地上に降りて来て、同じ目線に立とうするアクションです。自分には、苦しみが襲ってこないようにと、不幸にして苦しんでいる人を「何かを間違えた人々」というレッテルを貼って遠ざけるのではなく、イエスさま自身が、当時の政治犯に対するのと同じ刑罰を受け、最下層の人々と同じレッテルを貼られ、家族もさんざんな目に遭うことになっても、人々の心の闇まで降りて来て、「あなたのことが大切だ」と告げようとされました。
次に大切なのは、他でもないわたしたちの心の闇に届くメッセージでもあったということです。様々な行き詰まりや困惑は日常茶飯事ですが、いろいろと大人の都合をつけ、毎日がなんとか回っています。ただし、そのために少し目をつぶっている部分、つまりズルをしたり、本当のことを言わなかったり、愛のない行動をしたり、欲にかられたりと、ちょっと神さまには顔向けできないような生活の場面は、大概の場合「無かったこと」にして生きています。もう少し言うと、弱さや情けなさにまみれている自分は切り落とし、そういう自分は存在しなかったことにして、自慢できることや人より優位に立てる部分のみ、陽のあたる場面に置こうとします。そんなわたしたちに、イエスさまはこう言われます。「あなたの全部、まるごとを愛している」
何がおきても、どんなに情けない自分になってしまっても、またたとえ神さまに背を向けたとしても、わたしたちは揺るぎなく、イースターに招かれています。それは、どこか遠くの清く正しい美しい人にだけ用意された救いのプランではなく、自分は清くも正しくもないから、そんなこととは縁がない、と思い込んでいる人々にこそ届けたい、そんな神さまの意志をひしひしと感じます。イエスさまの十字架は必要だったのか。いえ、神さまにとっては必要なかったのです。でもわたしたちが、神さまの愛を知るためには必要でした。イエスさまの復活は不可欠だったのか。いえ、神さまにとっては復活してもしなくても大丈夫でした。でもわたしたちが神さまの愛を信じるには不可欠でした。そうまでしても、わたしたちに幸せに生きてほしい、それがイースターのメッセージの真髄ではないでしょうか。 今日の福音書はとても長いですが、イエスさまが十字架にかかる直前の最後の晩なのに、まったく緊張感のないお弟子さんたちの様子がまず描かれています。常に行動を共にし、大事なお話も一番身近で聞いてきたはずなのに、いつか社会の構造をひっくり返してくれるはずと期待しているお弟子たち。イエスさまの最も親しい存在として活動してきたはずなのに、十字架の苦しみの意味と使命については、ぼやけた理解しかないお弟子たち。その晩も、苦しみながら祈っているイエスさまを放置し、眠気に勝てず途中で寝落ちしてしまうお弟子たち。その脇で、これでよかったのか、これが神のご意志なのかと苦しみながら、凍りつくような孤独の中でイエスさまがひとり祈った場所が「ゲッセマネ(の園)」です。
こういう聖書の箇所が続くと、キリスト教は夢も希望もないのか、という気持ちになるかもしれません。十分につらい世界で生きているのだから、聖書くらいせめて明るい話にしてほしいと。でもキリスト教の神さまは、楽しく嬉しく人生がうまくいっている人よりは、生きにくさや不条理さ、辛い目に遭う人や苦しんでいる人、困っている人、悲しんでいる人に、どうも特別の思いやりがあるようなのです。人の助けは不要、自分の力で十分!と信じている人々にとっては、イエスさまの十字架は、励まされ生きていく力を与えられるようなメッセージには、なりにくいのかもしれないと思います。
本日の旧約聖書では、その十字架の本質が語られているようにも感じます。「彼は軽蔑され人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」(イザヤ書52:3)「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」(同52:4)イエスさまは、犯罪をおかしたわけではなく、陰でコッソリわるいことをしていたわけでもないのに、多くの人に誤解され、権力者に利用され、愛を届けてきた人々にさえ憎まれ、寄り添ってきた貧しい人々から遠ざけられ、当時の重罪人が裁きを受ける十字架刑(窒息死)によって、いのちを落とされました。でもこれは、「イエスさまってかわいそう」という話ではなく、わたしたちがたとえ近しい人に誤解され蔑まれ利用され、そして憎まれ孤独のうちに放置された時も、「その痛みを知る神」というメッセージに他ならないのではないでしょうか。本当に辛い時は、自分とかかわりあいになりたい人がいるはずはないと感じます。誰にも言いたくないし、言ったところでわかってもらえないとも思います。多くの場合はそうかもしれませんが、わたしたちの苦しみを高みから見下ろし眺めているのでは神ではなく、自分自身なのかもしれないとも思います。心の暗闇の中を這いずり回っているわたしたちさえ、ひとりぼっちにしない神は、十字架の出来事を通じて、ずっと呼びかけておられると思うのです、「わたしはあなたと共にいる。さあ、ここから一緒に歩もう」と。
「これを過ぎるともう元には戻れない」という、ギリギリの地点あるいは時刻を指す言葉らしいのですが、回帰不能点に来てしまった時に、思わず心が支配されそうになるのは、「この決断は大間違いだったのでは」という、逃げ出したいような恐怖ではないでしょうか。かく言う私も少し身に覚えがあり、忘れもしない三十数年前、「女性は司祭にはなれない」という壁を乗り越えるべく(当時の私としては)あらゆる手を尽くしたのち、弓折れ矢尽きる思いで日本を脱出。皆が気がつく前に逃げ出さないと、誰かが捕まえに来そう(な訳ないのですが)と焦る気持ちと、私の決断に対する非難轟々の嵐はさて置き、「本当にこれでよかったのだろうか」という不安だらけの、いわば“出エジプト”のような出来事がありました。(「出エジプト」記→旧約聖書の最初の方にあります)
その私の体験とは全く比較になりませんが、十字架へと向かう大斎節の聖書箇所は、週を追うごとにイエスさまご自身の意思で、この回帰不能点へと近づいているような印象を受けます。しかも、その先には「一粒の麦として死ぬ」というシナリオしかありません。
先週は「魔法を使ってパンを増やすようなことはしない」神さまのことに触れましたが、不正や悪事を行う人々を、片っ端から退治してくれるような神さまを、もし求めているならば、それはパンを増産する神さまを求めることと、あまり変わらないのではないかと思うのです。つまり漠然とした「ふつうの平和」を求めつつも、何もしなくとも待っていれば、「わるい」人々を征伐してくれるような神さまは、一時的には「平和」をもたらすかもしれませんが、人間の自立を疎外し、自分さえ満足すれば他のことは気にならない、というような人の生き方を増長してしまうのではないでしょうか。私たちが信じようとしているのは、そんな残念な神さまではないはずです。
しかし、聖書の物語を繰り返し読んでみると、イエスさまのお弟子さんたちが軒並み、イエスさまについて思い違いをしている様子が描かれています。イエスさまは繰り返し、ご自分の使命を述べますが、お弟子たちは聞いていないどころか、否定さえしてしまいます。また、十字架の目的を一生懸命分かち合われても、結局のところ、そんなことはあってはならぬ、とさえ思っています。「栄光」の意味も取り違え、いつかきっと、すべての権力を蹴散らして王座に着くような栄光を、イエスさまがもたらし、自分たちもその社会的権威に与れると信じています。それが、イエスさまを信じることだ、とさえ思っています。イエスさまは、弟子たちにも理解されず、孤独のうちに回帰不能点をやがて迎えます。これで本当によかったのだろうかと、不安がなかったはずはありません。お弟子たちを置き去りにしなければならない苦悩もあったことでしょう。それでも、粛々と神さまの計画の中を歩んでいかれます。
5つのパンと2匹の魚しかなかったのに、イエスさまが祝福のお祈りを唱えて分かち合うと、数千人の人がたっぷり食べて満腹し、しかもあまりまで出た、という今日の聖書は、実にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書に登場します。書き手にとって、どうしてもはずせないエピソードだったのでしょうが、このヨハネによる福音書だけが、パンと魚を提供したのは少年だったと記しています。
おなかの空いている人々に食糧が分配されて、みんなが満たされて良かった!とは思えても、イエスさまの「ミラクルパワー」によってパンが増えた、だから神さまはすごい!という論法では、およそ「福音」にはならないでしょう。都合の良い時に世界のあちこちに出現して、パンを増量し回ったりするイエスさまは、なんだか怪しいし、増量されたパンは、その時は口に入るでしょうが、食べたら終わりです。さらに「自分は何もしなくても、パンはやって来るから」というような依存も高めてしまうかもしれません。神さまがそんなひどいことをなさるようには、私には思えないのです。
このお話の理解の仕方は諸説あります。パンが増量されているが、これはパンの話ではなく神の国の話なのだ、とか、この少年はイエスさまを表しており、皆が思いもよらない方法で救いが始まるということだ、とか、親切や慈しみ、思いやりは、分かち合えば合うほど減るものではなく、さらにゆたかになっていくものだ、など。他にもいろいろあって、この限られた誌面ではご紹介にも限界がありますが、皆さんにとってはどういう解釈がストンとおなかに落ちますでしょうか。
私にとっては、この物語のメッセージは、以下のように感じています。
イエスさまのお話を聞こうとついてきた人々もだんだん疲れておなかも空いてきた。でも周りには屈強な大人もたくさんいて、しかも五千人以上。自分が食料を持っていることがうっかり知れたら、取り上げられるか、奪われるか、最悪の場合殺されるかもしれない。暗くなってから、コッソリ自分の腹だけを満たす方が安全と考え、皆、何も持っていないフリをしていた。ところがイエスさまのお弟子さんが困っている様子を見て、純真な一人の男の子は、自分のお弁当を差し出す。それをみんなの真ん中に置いたイエスさまが感謝の祈りを唱え、その小さな食事がどこからやってきたかを紹介すると、大人たちは皆、自分が恥ずかしくなり、持っているものを喜んで差し出し始めた。それを分かち合うと全員が満腹しただけではなく、余りまであった。私たちは皆、必要なものはすでに与えられているのに、それを出し惜しみ、自分だけのために役立てようとするところから悲劇は始まる。私の預かりものは、必要としている人々と分かち合うために、神さまが備え、神さまが授けてくださったものなのではないかと。
ヨハネによる福音書2章13節~22節
2021年3月7日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
本日の聖書(ヨハネ2:13〜)に登場するイエスさまは、穏やかで心優しく、悲しんでいる人や苦しんでいる人にそっと寄り添う、そんな安心できるイメージとは、だいぶかけ離れています。「過越祭」という特別のお祭りゆえ、人がたくさんいた神殿の雑踏の中で、「(商品である)羊や牛を(勝手に)追い出し」「両替人の金を撒き散らし」「台を倒し」、鳩を売っている人にも「出て行け」と言った、と書いてあります。まるで暴徒のようなイエスさまです。
ところで聖書の時代は、神殿に詣でるには、何かとお金がかかりました。日常使う硬貨ではなく、境内で特別な両替をしなければ、献金もできませんでした。家で動物を飼っていても、境内の売店に並べられた動物を生贄として捧げるのが、お約束でした。それらは当然割高でしたから、生活の苦しい人々にとっての神殿詣は高嶺の花、礼拝したくてもとても無理というような構造がありました。しかし、この困った構造も、最初からお金儲けを目的にしたのではなく、「神さまに捧げるならなるべく綺麗なコインで」「傷や病気のない最高の家畜をお捧げしたい」といった気持ちから出発したにちがいないのです。それがいつのまにかエスカレートし、当初の純粋な気持ちは忘れて、「かたち」ばかりがひとり歩き。経済的にも余裕のある階層だけが信仰深いとみなされる、そんなことに対するイエスさまの怒りだったのではないかと思うのです。
「かたち」に囚われ、「かたち」が先行する時に、一番大事なことを忘れたまま進んでいく困った構造が作られるのは、聖書の時代だけではありません。心を込めた本気のお祈りは世界を変えることもありますが、神さまへの信頼なく人前でスラスラ唱えるだけの「かたち」では、人を支えることはできません。何十年も礼拝に欠かさず出席できることは大きな恵みですが、それを“修行達成”のように感じるなら、それは「かたち」への満足感かもしれません。もし“偉い先生”が親戚や知人にいたら、それなりに役に立つかもしれませんが、もし自身の霊的成長に結び付かないのであれば、その方が近くに居ることは「かたち」だけです。
しかしながら、「かたち」がいけないということではありません。かたちがなければ、本質に通じる「中身」は保存しにくく、また客観的に人と分かち合うこともままなりません。福音という、イエスさまが私たちに託した素晴らしい世界、人と人とが尊重しあい、大切にしあう世界の構築を共に担いあうためには、教会という「かたち」を必要としました。聖書は難解で誤記もありますが、神さまが私たちにおっしゃりたい中身を、時空を超えて保つためには、聖書という「かたち」が必要でした。イエスさまは、「かたち」だけで満足してしまうのではなく、その中身に目を向けられるようにと、私たちを招いておられるのではないでしょうか。
マルコによる福音書8章31節~39節
2021年2月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「もしも神が存在するなら、世界中で起きている様々な苦しみを、どうしてゆるしておくのか」と聞かれることがあります。つまり、あなたが信じる「神」は、人が不幸になるのを止められないような不甲斐ないものであり、そんな非力な神をまだ信じているのか、という意味も含まれているのでしょう。私たちの住む東京にも、そしてもっと近くでも、悲嘆の中で生きざるを得ない人、生きる気力を失いかけている人、あるいは孤独のうちに途方にくれている人、その様々なうめきで、満ち溢れているように感じます。また、貧しい人々の手から食料を取り上げるような社会構造から外れては生きられない罪悪感、暴力に晒されている人がいてもそれを阻止できない無力感もあります。耳を塞がない限り、苦しみの叫びがあちこちで満ちている社会で生活している、そんな現実があるのかもしれません。
一方、聖書にもたくさんの苦しみや悲しみが登場しますが、ひょっとすると現代社会と似ているのかもしれないとも思うのです。それは、苦しみを抱える人は自業自得。「本人や先祖がわるい」のであり、「神の恵みや愛を受けるのにふさわしくない」証拠なので、それらの不幸が自分にも“飛び火”しないよう、困難や悲しみの中にある人々とは関わらない、という風潮です。そして、重荷を抱える人はますます孤立し、さらに困難のハードルが上がっていきます。
しかしながら、イエスさまの行動をみると、困難の中にある人にわざわざ会いに行きます。苦しんでいる人のそばに居て、辛さを分かちあおうとされます。つまり、想定しない災いに遭うのは神からの罰ではなく、その人が苦痛に相応しいわけでもない、というメッセージなのではないでしょうか。わたしたちは素晴らしい出会いをしたら、辛い別れもあることを知っています。喜びがあれば苦痛もあることに対し、「神は、なぜ喜びだけを与えないのか」という問いには、残念ながら説得力のある答はありません。また、苦痛や悲しみに蓋をしても、それが消えて無くなるわけでもありません。でも困難の中にある人々に、イエスさまがあえて寄り添ったように、わたしたちもまた、人々が抱える孤独と辛さを分かちあおうとすること、そして心の底から、恵みと慈しみを受けるのにふさわしい「神さまにとって大切な人」だと信じること、そして、それらを伝え続けることはできるのではないでしょうか。「自分の十字架を負う」と、今日の福音書には記されていますが、たったひとりで、孤独のうちに十字架を担ぐようにとは書いてありません。イエスさまがそばにいて、一緒に重荷を担ってくださるという約束を信じ、辛いことを分かち合いながら、助け合いながら、わたしたちも生きていくことができますように!
先週の水曜日から大斎節(レント)に入りました。復活日(イースター)を迎える前に過ごす「日曜日を除いた40日間」の始まりです。レントは、イエスさまが40日間「荒野でサタンから誘惑を受け」たことにならい、わたしたちは荒野に行かないまでも、お肉や高価な食材を避けたり、あるいはチョコレートや嗜好品を断つなどして(人によります)、改めて自分のいのちの根源に目を向け、生き方について内省する期節ということになっています。大斎節最初の日曜日の福音書の箇所は、イエスさまが「洗礼」を受けるシーンですが、それにしても、「洗礼」とは何なのでしょうか。洗礼を受けると何かよいことがあるのでしょうか。洗礼の前と後では何が変わるのでしょうか。『祈祷書』を見ると、「洗礼を受ける人に必要なこと」は、「罪を悔い改めて悪の力を退け、イエスを救い主と信じ、自分自身をキリストに献げることです」(263ページ)とあります。なんだか大変そうだし、とても自分には無理!と感じるかもしれません。それにイエスさまは、そもそも「罪を悔い改める」必要があったのか?などという疑問も浮かび、アウェイ感(←ちょっと古い!)は増すばかりです。
「洗礼」という分岐点を通過した人と、通過していない人を「区別」するための儀式として洗礼をとらえてしまうと、そのアウェイ感は絶大な力を持ちます。そのような誤解を与えてきた教会の責任はありつつも、でも実際は少しちがうのではないかとも思うのです。
イエスさまが洗礼を受けて水の中から上がると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が天から聞こえてきました。これは、イエスさまが神のひとり子なのだから「愛する子」と呼ばれるのは当たり前!と思ってしまいそうですが、実はわたしたちひとりひとりは、生まれる前からずっと「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と呼ばれ続けている存在なのではないかと思うのです。生まれた時から、そして成長する過程で、そして「良い子」でいる時も「わるい子」の時も変わりなく、ずっと「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と呼ばれている。でも、「罪」(=まとはずれ)な生き方をしているとその声は聞こえず、「罪」の中にいると自分なんて価値がないと追い詰め、「罪」を意識しなくなると何が「まとはずれ」なのかも分からなくなる。「まとはずれ」な生き方のサンプルには事欠かないですが、重要なのは「洗礼を受けるか否か」ではなく、わたしたちは神さまに愛され大切にされ心にかなって生きている存在なのだという事実を知ることなのではないでしょうか。洗礼を受けた「から」愛されるのではなく、いのちが生まれた時からずっと愛され続けてきたことを認めることにより、心の耳が開かれ、そのことを認知していくプロセスを「天からの声」として聖書は記しているのではないでしょうか。洗礼はマジックではなく、自由意志によるひとつの認証ではないかと私は思うのです。
洗礼を受けると自動的に「教会の信徒のメンバー」のひとりになります。そして、今までは「信施」という、教会の外(一般NPOなども含め)の働きを支える献金しかお捧げできませんでしたが、洗礼を受けて信徒になると、教会の運転資金である「月約献金」に参加する権利が生まれ、その他の運営や構成についてかかわる権利が生まれます。洗礼の目的は、「教会のために奉仕する」人を養成することではなく、「教会を通じて世の中の人のために奉仕する仲間」を養成することだと思います。何十年も前に洗礼を受けた人と、受けたばかりの人、そして考え中の方、また洗礼を受けることは予定していない方もご一緒に、教会というツールを通じて、さらに自由で解放された人生へと招かれていきましょう。
マルコによる福音書1章14節~20節
2021年1月24日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
昔々、まだ10代だった頃、専門分野の異なる学生で定期的に集まり、勉強会のような集まりを自主的にやっていたことがあります。グループのメンバーはバラエティに富み、物理や文学、建築や栄養学までいましたが、「今、これが面白い。自分はこんなことに興味を持っている」ということをテーマに、交替でプレゼンをするような会でした。面白い話も、全然面白くない話もありましたが、思い返せば、他のどんな専門分野の話を聞いても、どこかで自分の分野(当時の私は音楽)のモノサシに当てはめて、理解しようとして(あるいは「利用しよう」と頭を思い巡らして・・・)いた気がします。
今日の福音書の話は、漁師という専門分野の登場です。「どうやって魚を獲るか」という専門家として、生涯その仕事にたずさわってきたシモンとアンデレに対し、イエスさまが「私と一緒に人間をとる漁師になり、手伝ってほしい」という表現を用いたのは、それがシモンとアンデレにとって「わかりやすい言葉」だったからかもしれないなと思うのです。もっとも、「人間をとる漁師」というと、人間を商品化し売買して利益を得るような気味の悪い商売を連想してしまう、という方もおられましたが、原語を見ると「人の漁師」「人間相手の漁師」という言葉が使われています。そういう意味では、イエスさまや福音書の記者にとって「人間という個体を利用して、ひと儲けしよう」という意図ではなかったように思います。
魚をとる漁師は、当時の職業的ヒエラルキーの中では相当下積み。そして完全な肉体労働でした。怪我をしたり、体調を崩したりすると途端に困る、身体が資本の職業だった(それはどんな職業でもそうかもしれません)一方で、「人間相手の漁師」はというと、貧しく虐げられた人々の生活とまさに向き合う仕事、ということになります。関わりたくないと思ってもイエスさまと共に人の情けなさや弱さ罪深さと真正面から向き合わざるを得ない、そして人々の痛みに触れる、やっぱり身体が資本の肉体労働でしょう。「人間相手の漁師」もきれいごとでは収まらず、「お弟子」となったシモンもアンデレも、できれば知らずに済ませたかった自分の弱点や認めたくないような腹黒さとも向き合うことになります。教会に連なる私たちは皆、「人間あいての漁師」として、イエスさまに招かれました。大切なのは、自分の弱点や腹黒さや情けなさに埋没するのではなく、イエスさまと共に、人々の痛みに触れることなのではないでしょうか。
スレ違いのようなこういったやりとりは、現実の生活の中では、結構多いかもしれません。家族の中や職場の人間関係でも、「伝えたかったこと」と「聞いたこと」がボタンのかけ違いのようにずれてしまい、なんだかザラザラした空気のまま、収集がつかなくなることがあります。そんな時、相手に伝えることをあきらめたり、伝わらないのは自分のせいではないと切り捨てたり、ついには相手のランク付けまでしてしまうこともあるかもしれません。
それは、神さまと私たちの間にもあるように思います。神さまは、あの手この手で、愛の素晴らしさや、「あなたが大切」であることを伝えようとされますが、私たちは聞きたいことや、聞きやすいことしか受け止めず、都合の良いことは全面的に受け入れても、耳が痛いこと、面倒くさいと思うことについては耳を塞ぎます。しかし、私たちがいくらボタンのかけ違いをしても、神さまは、決してあきらめたり、自分のせいではないと切り捨てたり、私たちをランク付けしたリはなさらないのです。興味深いのは、ナタナエルのこの態度について、イエス様はたしなめるどころか、「この人は正直な人だ」と言っています。
私たちは、自分の無知や不信仰、そして先入観や不安をなかったことにするのは、とても得意です。また、そうしないと現実の世界では身を守れないこともあるでしょう。でも、神さまの前で「わかったフリ」をするのは、私たちにとって障壁となります。事実を隠したり、自分にウソをついたりして自身を傷つけることは、神さまをとても悲しませます。ずっと以前から、そしてこれからも私たちを丸ごと受け止め、愛して止まない神さまが一緒に居てくださることに信頼し、勇気を持って前に進みたいと思います。
「本当に心がホッとしました」という意味で、「救われました」と言うことがあります。それは、通常の生活の中でも使われる言葉
かもしれませんが、教会の中では、どういう意味で「救われた」と表現するのでしょうか。
今日の福音書は、あのザアカイの話。ルカによる福音書だけに納められた力強いこの物語は、「救われた」ということの本質を語るものであり、わたしたちが普段気がつかないように小さい姿に押し込め、しかし心の奥底に確かに住む、「小さなザアカイ」に語りかけられているような気がしてなりません。
ザーカイは徴税人でしたから、とりあえず食うに困らない暮らしは出来ていました。農業のように天候や不作に左右されることもなく、家畜の流行病とも無関係で、ローマ帝国の支配が続く限りは、当面職を失うという心配は、あまりない職業に就いていたわけです。当時の多くの人からすれば、明日どころか来年のご飯に困らない暮らしというのは、羨望の的だったでしょう。
しかしザーカイは、秀でた才能やスキルがあったわけではなく、そもそも尊敬される職種ではなく、そして人々からは「罪深い男」と呼ばれていた。生活は成り立っていたけれど、自分には金はあるというプライド、しかし実は他に何も誇るものがないという現実。そんな自分の虚しさと、この先どうつきあったらいいのか途方に暮れつつ、日々苦しんでいたザアカイは、「イエスという人が町に来る」ことを聞きつけ、胸の中がなんだかざわざわします。自分から話しかける勇気は到底なく、せめてどんな人物か見てみようと思ったザアカイの、登った桑の木の下を一行が通り過ぎようとしたその時、イエスさまは顔を上げてザアカイ(「清い」という意味)の名前を呼び、あなたの家に泊めてほしいと頼みます。ザアカイは、もう何が何だかわかりませんでした。「罪深い」自分が声をかけられるなんて、夢にも思いませんでしたし、自分と口を聞いたイエスさまが、その結果として町の人からどう思われるか、なんて吹っ飛んでいました。ザアカイにとってイエスさまとの出会いは、それこそ宇宙がひっくり返るような出来事に感じたのでしょう、すぐに桑の木を降り、イエスさまとお話しします。そこでザアカイが知った確かなことは、「自分も愛されて良いのだ」ということでした。それまでザアカイは、自分の人生を心の中に閉じ込め、悲しさや寂しさを感じないようにしてきましたが、実は自分もまた、神さまから愛され、そして神さまの大切なこどもであることを思い出したのです。そして自分を愛することを取り戻すと、自分の周りの風景が見え始めます。今日、出会う人も、神さまが愛されている大切な人であることを理解したのです。