月島聖公会

今週の聖書のお話

祈ることについて

ヨハネによる福音書17:11b〜19
2021年5月16日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 あまりにも疲れていると、「休んだ方がよい」ということを思いつかないことがあります。また、ひどくがっかりしたり悲しかったりすると、これからどうしていきたいのか、よくわからなくなります。そして、これまで経験したことのない状況に追い込まれると、神さまに何と申し上げたいのかわからなくなり、祈りの言葉さえ失います。じっと座って祈ろうとしても、お祈りの言葉が何も出てこない、という苦しさも体験します。他のプロテスタント教会に比べると、聖公会の教会では「自由祈祷」をする機会があまりなく、しかも『祈祷書』という強い味方があるので、心が整わなくても気持ちがついてこなくても、とりあえずかたちだけ祈ることができてしまいます。しかしそこに依存し過ぎて、かたちばかりを整えることが優先され、淀みなくスラスラと祈祷書を読み進めることでお祈りをしている気分になったりもします。でもそんな時は、どうしたら本当に祈れるのでしょうか。

 今日の福音書は、イエスさまがお祈りをしている場面です。教会の暦の上では、イースターと昇天日が過ぎ、まもなく聖霊降臨日を迎えようとしている季節なので、あたかもイエスさまが復活後にしばらくお弟子さんたちと過ごした後、天に戻るという「昇天日」に因んだ場面のようにも見えますが、実際は十字架刑への逮捕直前の聖書の箇所です。イエスさまご自身は、これから裏切られ磔にされ殺されていくということなのに、ご自分の心配ではなく、残された人々を守ってくださるようにと、神さまに切々と訴えます。わたしには、イエスさまがこれから起きることを想い迷いながら、どう祈ったらよいのか苦しみながら、神さまへの言葉を捜しているようにも思えます。つまり、何を言いたいのか最初から明白で、終始一貫した祈りというよりは、あちこちに引っかかりながら、心に重くのしかかっている事柄を拾いながら、そして紆余曲折しながら、イエスさまにとって「これだけは外せない」こと、つまり、お弟子さんたちだけではなく、貧しい人々、社会的に捨てられた人々を「悪い者から守ってくださる」ようにと、神さまに託す祈りになっています。

 わたしたちは祈るとき、先に言葉を選びかたちを整えることを気にし過ぎ、祈祷書に頼り過ぎることに、陥りがちかもしれません。でも、だから駄目なのではなく、それは祈りの入り口なのでしょう。わたしたちは本来「どう祈ったらよいのかわからない」ものではありますが、神さまとお話し(祈り)しているうちに、何を祈りたいのか、何を祈ることを選ぶのか、少しずつ整えられていく気がします。すぐにはイエスさまのように祈れないとしても、迷ったり回り道をしたりしながら、「これだけは外せない」祈りに至りたいと思います。

いのちをかけて伝えられた「愛」

使徒言行録11:19〜30
2021年5月9日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 「ステファノの事件をきっかけにして」云々と、今週の聖書日課は始まりますが、ステファノの事件って何でしたっけ、ということになると、そこから前へ進めない気持ちになるかもしれないので、お手元に聖書がない方のために、まずは解説からスタートします。使徒言行録6:1〜7:60にその物語があります。
 ステファノは旧約聖書を引用しながら、神の愛のわざを無視し、人間的な欲と野望に従ってきたユダヤ教内の歴史を批判、(イエスの説く愛の福音に耳を貸さなかっただけではなく)ユダヤ教の律法さえ守らなかったと、指導者と民衆に公言します。すると人々は怒り、一斉に彼に襲いかかり殺してしまった。しかしステファノは今際の際に「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで息を引き取ります。
 この叫びは「神さま、自分を殺そうとしている人々の罪を赦してあげてください」ということだけではなく、旧約からイエスさまの十字架までずっと、神の愛を悟らず無駄にしてきた「罪」、神の大きなふところを受け止めようともせずに、彼らの思う「伝統」に固執し、その枠に合わないものは排除してきたという「罪」を、これ以上彼らに「存続させないでください」と祈りも含まれていると思います。つまり、神さまが何よりもわたしたち人間に望むことは、お供えものや日々間違いのない生活を守ることではなく、また、人に誇れるような地位や名誉を重んじることではなく、「神に愛されている」という呼びかけを心の底から信じる生き方であり、また、人々の間で愛を実践して生きることをすべての行動の基礎に据えることを、神のみ心として悟れるようお導きください、ということではなかったかと。
 
 今日の日課に話を戻しますが、そんな背景の「ステファノの事件」の後、不思議なことにまるで時を待っていたかのように、あちらこちらの地方で迫害がおき、人々は分断され連絡がとりにくくなります。一方、同時に「福音を語る人々」もあちこちで広がっていきます。しばらくの間、人々は大混乱と先の見えない困惑の中で苦しみ、不安を増大させ、時には何もかも投げ出してしまいたくなる誘惑とも戦い、そして実際に諦めてしまった人もいたことでしょう。でも、その混乱の中で「キリスト者」という概念が生まれてきたと、聖書は記します。それは、イエス・キリストに従う人、愛に生きようとする人、という意味と考えていいでしょう。愛がすべてに優先することに気がつき、それを実践して生きる人々が連帯した時、流れは大きく変化していきます。私利私欲を越えて、人々はお互いに助け合います。このようなプロセスを経て伝えられた神さまの愛。わたしたちはどのように、それを実践しましょうか。

イエスと共に歩む道は

ヨハネによる福音書14:15〜21
2021年5月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 人生を歩む姿を、山登りにたとえることがあるようです。美しい大自然の中に居ながらも、それを愛でる余裕がないほど傾斜が激しい場所もあり、危険や怪我とも隣合わせ。時には人に助けられたり、思いがけない出会いや別れがあったりしますが、粛々と真理や幸福に象徴される「山頂」を目指すものであると。そして才覚があれば、広くて歩きやすい道を見つけることもできるし、不運に見舞われれば予定外の藪漕ぎで時間を浪費したと感じることもある、でも頑張って登り続けるのが人生、といったところなのでしょう。

 一方、この山登りのたとえを、一定の宗教を信じる人々に置き換えて語られることがあると思います。神や信仰といった山頂を目指し、それぞれが信じる宗教を唯一の登山道と思い込んで山登りをしていると。どの道を選んでも、結局は同じ場所に着くのだから、いずれも似たり寄ったりなのではないか。言い方を変えれば、何を信じてもあまり変わりはないのだから、ひとつの立場に固執するよりは、適当な距離を保ちつつみんなと仲良く過ごして、上手に行動すれば目的地に到着できるものだ、とも聞こえます。

 生きている中で様々な出来事が起こり、判断ができないほど疲れ果ててしまうこともあるし、迫りくる危険を未然に防ぐために、常に気を張り詰めているのもくたびれます。そんな時、偶然出会った人や集団と一緒に行動することで、慰められたり、癒されたりすることもあり、なんという親切な人たちだろうと、感動することさえあるでしょう。なりゆきにまかせてしばらく身を置き、その主張を受け入れるかどうかはわからないけれど、元気を回復するまでしばらく一緒に歩んで様子を見ようとするのは、自然なことかもしれません。

 少し強引かもしれませんが、わたしたち教会は、このような「とりあえず」の人々を迎える側なのだと思います。心や魂が乾く苦しみ、日常の様々な疑問あるいは突破口をさがす方々を迎えた時、心の糧になるものを分かち合うお手伝いをして、やがて再び元気を回復して立ち上がる姿を見る。それだけで充分に嬉しいですが、でも、その先が必要なのだと思います。わたしたちは、仲良く和やかに過ごすための集団ではなく、イエス・キリストというルートを選び、イエスさまが示された道を歩もうと、決意しているものです。何故、わたしたちにとってその生き方が大切なのか、元気を回復した人々には伝わらなくてはならないと思うのです。イエスさまご自身は、山を登ろうとした人ではなく、地に降りて来て、社会の中で底辺を這いずり回っている人と一緒に過ごし、痛みを分かち合おうとする人生を選ばれました。イエスさまとともに歩む道へ招かれているわたしたちもまた、いわゆる頂上を目指す道ではなく、地に降りて痛みを分かちあうお手伝いの道を選び続けることができたらと思います。

囲いに入っていない羊

ヨハネによる福音書10:11〜16
2021年4月25日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

  今年に入ってからずっと礼拝は行われていないので、「礼拝を休止したまま」でいる事への様々な不安が蓄積していると思います。礼拝をしていない教会はまるで呼吸が止まったようだし、聖餐にしばらく与っていない自分の心や魂は枯渇しているし、それにしても教会に連なっていた皆さんはご無事だろうかと心配です。一方、政府の方針もワクチン接種予定も不透明、中途半端な「待機」状態もどれだけ続くのかわからない、そんな言葉にならない不安が大きくわたしたちを覆います。ご商売、殊に飲食/観光等に携わるお仕事をされている方々にとっては不安や枯渇どころか、具体的な危機に直面しておられることを知ると、祈りの中で覚えずにはいられません。またこの隙を利用して利権のための暴挙に出る、命を踏付けにする、といった動きを知ると、自分の身を守り外出を控えているだけでよいのか、と心が痛みます。
  まとまりのない前置きでしたが、今日の福音書は「よい羊飼いであるイエス・キリスト」がテーマです。当時の羊飼いという職業は、賃金は安く社会的なステータスも低い「子どもの」仕事。しかしその反面、都市の喧騒を離れ、大自然の中で詩的生活を送るという憧れもあったようです。羊という動物は元来、勝手で頑固で臆病もの。自分勝手な行動をするわりには身を守れず、危険な行動をしても状況を認知せず、指示に従うのを渋り、でも自分が困った時は助けてもらって当然と思っている。まるでわたしたちそのものです。羊飼いは重労働だし割りも合わないのですが、羊のために「命を捨て」「心にかけ」「自分の羊を知る」、そんな「よい羊飼い」たるイエスさまを、聖書は記します。
  ここで終わるなら「イエスさまが全部何とかしてくれるから、面倒を見てもらう羊でいよう」ということになりかねないのですが、まだその先があります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも先導していかなければならない」と。「囲いに入っていない」とは、「教会の信徒ではない」とも読めますが、実はもっと広い意味で、民族や宗教や信条を超えた「全ての羊」を示していると言えます。つまり羊がイエスさまを信じても信じていなくても、その羊を知ろうとされ、安全かどうか見守り、たとえ無視されても心にかけ、必要なら命を捨てる、とイエスさまは言います。囲いの中に入りたくない羊や、囲いを認識しない羊も良く知り、心を砕き、時には命を捨てると言われているイエスさまの前で、囲いの中にいるわたしたちが、「わたしたちの面倒だけを見てください」とは言えないのではないでしょうか。礼拝によって励まされる羊は、囲いの外にもおられます。イエスさまは囲いの外の羊も大切にされます。教会は、そのことを伝える責任があるのではないでしょうか。

神様の必死さ

ルカによる福音書24:36b〜48
2021年4月18日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 先週の聖書では、「(亡くなったイエスが現れたなんて)わたしは決して信じない」と言い切るトマスが登場していますが、「信じない」トマスに対するアフターケアとして、イエスさまは再度現れ、「手を伸ばして(十字架上で傷を負った)わき腹に触ってみるように」とうながします。そして今週の聖書では、亡霊が出たとうろたえる弟子たちに、目の前で焼いた魚を食べてみせます。自然科学では説明のつかないことではありますが、「わかってもらえるためなら、何でもする」一連のアクションのようにもみえます。わたしたちに、愛に生き救いの中で生きてほしい、と願う神さまの必死さは、友の傷に「手当て」する、魚を食べる、といった生活の中にある何気ない行動の方が、かえって見えやすいのかもしれません。

 十字架の上で亡くなったイエスさまは、他のお弟子さんのところにも、様々なかたちで現れます。他の福音書でもいくつかエピソードがありますが、今日の特祷にある「パンを裂くみ姿」のイエスさまは、ルカによる福音書に登場します。十字架の後、暗い顔をして道を歩いていたお弟子さんは、途中で合流した知らない人に、エルサレムではいったい何があったのですか?と聞かれ、知らないなんておかしいとは思いながら、十字架の出来事をひととおり話します。日が暮れたのでそのまま共に宿泊し食事を始めたところ、その「知らない人」が、実はイエスさまだったことを、パンを裂いて(当時は、包丁で切らずに手で裂いてみんなで分けて食べました)いる時に気がつきます。それは、イエスさまと行動を共にしていた時、毎日繰り返された光景であり、時には多く、時には少なかったパンを皆で分かち合ってきたからです。そしてそれは、生きていらした時も、そして亡くなった後も、いつも共に居て、生きるのに必要なパンを、わたしたちのために常に裂いてくださる「しるし」でもあったと思います。

 この世に生きるわたしたちは、ひとりひとりが神の最高傑作であり、神と人とを愛するために、そして愛されることを学ぶために、この世に送られてきました。そういう本来の意味では、わたしたちは「神を思い起こさせる存在」ですが、神そのものではないので、不完全さもたくさん備えています。失敗も繰り返すし、とてもじゃないけれど、自分が「神の作品」とはとても思えない時の方が多いです。でも神さまは、わたしたちをとても大切にしていること、そして特に困難や苦しみの中にある時にこそ心を砕いていること、を伝え続けてこられました。わたしたちが(ラクで得する人生ではなく)真に「幸せ」な生涯を送ることを望み、そのためにずっと呼びかけてこられました。十字架や復活は、神さまがわたしたちと「どんなときでも、今も共に居る」約束のしるしなのだと思います。その神さまの必死さに、わたしたちが少しでも心を向けることができますように。

信じる者になりなさい

ヨハネによる福音書20章19節~31節
2021年4月11日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 何をどうすると、キリスト教を信じていることになるのでしょうか。人によっては、聖書の中の奇跡物語や、病気が瞬時に治った癒しの話などを、文字通り実際に起きた史実として、受け入れることが「信じる」ことだと思う方もおられると思います。また、マリアの「処女降誕」や、イースターの出来事である「死んだイエスさまが生き返る」ことについても、事実だと断言できることが「信じる」証のように感じる場合もあるかもしれません。聖書に書いてあるし、そもそも素直に受け入れられる、という方には、心からの敬意を払いたいと思いますが、「マリアは処女(乙女)だった」とか、「心拍停止していた人が回復した」といった議論については、私はある意味どっちでもよいと思っています。
    様々な奇跡は、イエスさまの時代は神秘のベールに包まれていましたが、自然科学的な視点を持つことが一般的である現代においても、論理的に解決しえない事は起き続けています。だから、説明できないことは聖書の時代にあったし、現在も存在するだけのことだと、思考停止するのも一つの手かもしれません。しかしながらもしそこで、論理的説明の難しさを、神さまを神格化するための言い訳にしてしまうと、実はどんどんキリスト教から離れていくのではないかと思うのです。つまり、イエスさまが命がけで伝えようとした神の存在は、わたしたちの理解を超えたスーパーパワーを持ち、何がおきても瞬時に解決してくれるような、支配感あふれ力を振るう神ではないからです。お弟子さんたちも、十字架前夜に至るまで、イエスさまを祀りあげ、支配者権力者のイメージと重ね合わせようとしていた形跡がありますが、わたしたちはそのような間違いを繰り返してはならないと思います。
  キリスト教では何を信じているのか、という最初の問いに戻ります。
 わたしたちはもれなく「神のイメージを、この世に現わす姿」として造られました。それは疑いもなく神の最高の作品であり、愛すること愛されることを使命の中心に据え、深い喜びと生きることの素晴らしさを分かち合うため、この世に生まれてきました。ところが次第に傷つくことを最も怖れ、それを避けるためなら何でもするようになります。傷つく前に手を打つのが賢いし、そのためには他者を傷つけてもかまわないと思うようになり、人によく思われた方が安全で、一目置かれると安全が保証されるとも思い込みます。このような生き方の問題点は、他人と自分を比較した物差しで「より強くより早くより多く」を目指すため、やがて生きる意味がわからなくなることです。キリスト教の「信じる」とは、何でも鵜呑みにするという意味ではなく、わたしたちは本来「神を現す存在」であり、愛すること愛されることが生きる意味の中心にあると「信じ」ています。それを感じ100%納得する、というのはかなりハードルが高いことでしょう。でも難しいからこそ、ご一緒に考えてみる価値があると思いませんか。

イースター

マルコによる福音書16章1節~8節
2021年4月4日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 こんなことは前代未聞でしょう。2年続けてイースターの礼拝が行われないとは、本当にびっくりです。静まりかえった礼拝堂は、まるでイエスさまが甦ったあとの空っぽのお墓のようでもありますが、でも、意気消沈し、茫然と立ち止まっているわけにはいきません。

 今、わたしたちそれぞれが、しなければならないことがあると思うのです。それは、神さまが「ひとり子を十字架に架けてまで、伝えようとされた愛と救い」のメッセージが、わたしたちの心と魂に確かに届き、迷うことなく生きる基となっているかどうか、改めて各自がご自身に問うことです。なぜなら信仰とは思考停止ではなく、常にその内容を問い続けられるものであり、神への信頼とは、依存する相手を人から神に置き換えることではないからです。イースターを行事のひとつとして「思考停止」してしまうと、何とかしてわたしたちを救おうとされる、神の切実な想いが埋もれてしまう危険があります。イースターをお祝いするとき、楽しく過ごすことを優先するあまり、茹で卵やご馳走や飾り付けやイベントが「イースターの準備」になってしまっていたとしたら、本末転倒です。

 そこで、まずはイエスさまの十字架の意味をもう一度考えましょう。一番優先したいのは、生き難い人、悲しみ苦しんでいる人、自分の辛さなど誰にもわかってもらえないと思っている人々に、神さまのメッセージが届くために、十字架があったということです。自分が苦しみ悶えなくても済むように、遠く離れたところから正論を主張する神ではなく、心の奥深くの痛みを一緒に担おうと、地上に降りて来て、同じ目線に立とうするアクションです。自分には、苦しみが襲ってこないようにと、不幸にして苦しんでいる人を「何かを間違えた人々」というレッテルを貼って遠ざけるのではなく、イエスさま自身が、当時の政治犯に対するのと同じ刑罰を受け、最下層の人々と同じレッテルを貼られ、家族もさんざんな目に遭うことになっても、人々の心の闇まで降りて来て、「あなたのことが大切だ」と告げようとされました。

 次に大切なのは、他でもないわたしたちの心の闇に届くメッセージでもあったということです。様々な行き詰まりや困惑は日常茶飯事ですが、いろいろと大人の都合をつけ、毎日がなんとか回っています。ただし、そのために少し目をつぶっている部分、つまりズルをしたり、本当のことを言わなかったり、愛のない行動をしたり、欲にかられたりと、ちょっと神さまには顔向けできないような生活の場面は、大概の場合「無かったこと」にして生きています。もう少し言うと、弱さや情けなさにまみれている自分は切り落とし、そういう自分は存在しなかったことにして、自慢できることや人より優位に立てる部分のみ、陽のあたる場面に置こうとします。そんなわたしたちに、イエスさまはこう言われます。「あなたの全部、まるごとを愛している」

 何がおきても、どんなに情けない自分になってしまっても、またたとえ神さまに背を向けたとしても、わたしたちは揺るぎなく、イースターに招かれています。それは、どこか遠くの清く正しい美しい人にだけ用意された救いのプランではなく、自分は清くも正しくもないから、そんなこととは縁がない、と思い込んでいる人々にこそ届けたい、そんな神さまの意志をひしひしと感じます。イエスさまの十字架は必要だったのか。いえ、神さまにとっては必要なかったのです。でもわたしたちが、神さまの愛を知るためには必要でした。イエスさまの復活は不可欠だったのか。いえ、神さまにとっては復活してもしなくても大丈夫でした。でもわたしたちが神さまの愛を信じるには不可欠でした。そうまでしても、わたしたちに幸せに生きてほしい、それがイースターのメッセージの真髄ではないでしょうか。

ゲッセマネ

マルコによる福音書14章32節~15章47節
2021年3月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 今日の福音書はとても長いですが、イエスさまが十字架にかかる直前の最後の晩なのに、まったく緊張感のないお弟子さんたちの様子がまず描かれています。常に行動を共にし、大事なお話も一番身近で聞いてきたはずなのに、いつか社会の構造をひっくり返してくれるはずと期待しているお弟子たち。イエスさまの最も親しい存在として活動してきたはずなのに、十字架の苦しみの意味と使命については、ぼやけた理解しかないお弟子たち。その晩も、苦しみながら祈っているイエスさまを放置し、眠気に勝てず途中で寝落ちしてしまうお弟子たち。その脇で、これでよかったのか、これが神のご意志なのかと苦しみながら、凍りつくような孤独の中でイエスさまがひとり祈った場所が「ゲッセマネ(の園)」です。

 こういう聖書の箇所が続くと、キリスト教は夢も希望もないのか、という気持ちになるかもしれません。十分につらい世界で生きているのだから、聖書くらいせめて明るい話にしてほしいと。でもキリスト教の神さまは、楽しく嬉しく人生がうまくいっている人よりは、生きにくさや不条理さ、辛い目に遭う人や苦しんでいる人、困っている人、悲しんでいる人に、どうも特別の思いやりがあるようなのです。人の助けは不要、自分の力で十分!と信じている人々にとっては、イエスさまの十字架は、励まされ生きていく力を与えられるようなメッセージには、なりにくいのかもしれないと思います。

 本日の旧約聖書では、その十字架の本質が語られているようにも感じます。「彼は軽蔑され人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」(イザヤ書52:3)「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」(同52:4)イエスさまは、犯罪をおかしたわけではなく、陰でコッソリわるいことをしていたわけでもないのに、多くの人に誤解され、権力者に利用され、愛を届けてきた人々にさえ憎まれ、寄り添ってきた貧しい人々から遠ざけられ、当時の重罪人が裁きを受ける十字架刑(窒息死)によって、いのちを落とされました。でもこれは、「イエスさまってかわいそう」という話ではなく、わたしたちがたとえ近しい人に誤解され蔑まれ利用され、そして憎まれ孤独のうちに放置された時も、「その痛みを知る神」というメッセージに他ならないのではないでしょうか。本当に辛い時は、自分とかかわりあいになりたい人がいるはずはないと感じます。誰にも言いたくないし、言ったところでわかってもらえないとも思います。多くの場合はそうかもしれませんが、わたしたちの苦しみを高みから見下ろし眺めているのでは神ではなく、自分自身なのかもしれないとも思います。心の暗闇の中を這いずり回っているわたしたちさえ、ひとりぼっちにしない神は、十字架の出来事を通じて、ずっと呼びかけておられると思うのです、「わたしはあなたと共にいる。さあ、ここから一緒に歩もう」と。

回帰不能点

ヨハネによる福音書12章20節~33節
2021年3月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 「これを過ぎるともう元には戻れない」という、ギリギリの地点あるいは時刻を指す言葉らしいのですが、回帰不能点に来てしまった時に、思わず心が支配されそうになるのは、「この決断は大間違いだったのでは」という、逃げ出したいような恐怖ではないでしょうか。かく言う私も少し身に覚えがあり、忘れもしない三十数年前、「女性は司祭にはなれない」という壁を乗り越えるべく(当時の私としては)あらゆる手を尽くしたのち、弓折れ矢尽きる思いで日本を脱出。皆が気がつく前に逃げ出さないと、誰かが捕まえに来そう(な訳ないのですが)と焦る気持ちと、私の決断に対する非難轟々の嵐はさて置き、「本当にこれでよかったのだろうか」という不安だらけの、いわば“出エジプト”のような出来事がありました。(「出エジプト」記→旧約聖書の最初の方にあります)

 その私の体験とは全く比較になりませんが、十字架へと向かう大斎節の聖書箇所は、週を追うごとにイエスさまご自身の意思で、この回帰不能点へと近づいているような印象を受けます。しかも、その先には「一粒の麦として死ぬ」というシナリオしかありません。

 先週は「魔法を使ってパンを増やすようなことはしない」神さまのことに触れましたが、不正や悪事を行う人々を、片っ端から退治してくれるような神さまを、もし求めているならば、それはパンを増産する神さまを求めることと、あまり変わらないのではないかと思うのです。つまり漠然とした「ふつうの平和」を求めつつも、何もしなくとも待っていれば、「わるい」人々を征伐してくれるような神さまは、一時的には「平和」をもたらすかもしれませんが、人間の自立を疎外し、自分さえ満足すれば他のことは気にならない、というような人の生き方を増長してしまうのではないでしょうか。私たちが信じようとしているのは、そんな残念な神さまではないはずです。

 しかし、聖書の物語を繰り返し読んでみると、イエスさまのお弟子さんたちが軒並み、イエスさまについて思い違いをしている様子が描かれています。イエスさまは繰り返し、ご自分の使命を述べますが、お弟子たちは聞いていないどころか、否定さえしてしまいます。また、十字架の目的を一生懸命分かち合われても、結局のところ、そんなことはあってはならぬ、とさえ思っています。「栄光」の意味も取り違え、いつかきっと、すべての権力を蹴散らして王座に着くような栄光を、イエスさまがもたらし、自分たちもその社会的権威に与れると信じています。それが、イエスさまを信じることだ、とさえ思っています。イエスさまは、弟子たちにも理解されず、孤独のうちに回帰不能点をやがて迎えます。これで本当によかったのだろうかと、不安がなかったはずはありません。お弟子たちを置き去りにしなければならない苦悩もあったことでしょう。それでも、粛々と神さまの計画の中を歩んでいかれます。

「奇跡」の意味

ヨハネによる福音書6章4節~15節
2021年3月14日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 5つのパンと2匹の魚しかなかったのに、イエスさまが祝福のお祈りを唱えて分かち合うと、数千人の人がたっぷり食べて満腹し、しかもあまりまで出た、という今日の聖書は、実にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書に登場します。書き手にとって、どうしてもはずせないエピソードだったのでしょうが、このヨハネによる福音書だけが、パンと魚を提供したのは少年だったと記しています。

  おなかの空いている人々に食糧が分配されて、みんなが満たされて良かった!とは思えても、イエスさまの「ミラクルパワー」によってパンが増えた、だから神さまはすごい!という論法では、およそ「福音」にはならないでしょう。都合の良い時に世界のあちこちに出現して、パンを増量し回ったりするイエスさまは、なんだか怪しいし、増量されたパンは、その時は口に入るでしょうが、食べたら終わりです。さらに「自分は何もしなくても、パンはやって来るから」というような依存も高めてしまうかもしれません。神さまがそんなひどいことをなさるようには、私には思えないのです。

  このお話の理解の仕方は諸説あります。パンが増量されているが、これはパンの話ではなく神の国の話なのだ、とか、この少年はイエスさまを表しており、皆が思いもよらない方法で救いが始まるということだ、とか、親切や慈しみ、思いやりは、分かち合えば合うほど減るものではなく、さらにゆたかになっていくものだ、など。他にもいろいろあって、この限られた誌面ではご紹介にも限界がありますが、皆さんにとってはどういう解釈がストンとおなかに落ちますでしょうか。

 私にとっては、この物語のメッセージは、以下のように感じています。

 イエスさまのお話を聞こうとついてきた人々もだんだん疲れておなかも空いてきた。でも周りには屈強な大人もたくさんいて、しかも五千人以上。自分が食料を持っていることがうっかり知れたら、取り上げられるか、奪われるか、最悪の場合殺されるかもしれない。暗くなってから、コッソリ自分の腹だけを満たす方が安全と考え、皆、何も持っていないフリをしていた。ところがイエスさまのお弟子さんが困っている様子を見て、純真な一人の男の子は、自分のお弁当を差し出す。それをみんなの真ん中に置いたイエスさまが感謝の祈りを唱え、その小さな食事がどこからやってきたかを紹介すると、大人たちは皆、自分が恥ずかしくなり、持っているものを喜んで差し出し始めた。それを分かち合うと全員が満腹しただけではなく、余りまであった。私たちは皆、必要なものはすでに与えられているのに、それを出し惜しみ、自分だけのために役立てようとするところから悲劇は始まる。私の預かりものは、必要としている人々と分かち合うために、神さまが備え、神さまが授けてくださったものなのではないかと。

かたちと「中身」

ヨハネによる福音書2章13節~22節
2021年3月7日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
 
 本日の聖書(ヨハネ2:13〜)に登場するイエスさまは、穏やかで心優しく、悲しんでいる人や苦しんでいる人にそっと寄り添う、そんな安心できるイメージとは、だいぶかけ離れています。「過越祭」という特別のお祭りゆえ、人がたくさんいた神殿の雑踏の中で、「(商品である)羊や牛を(勝手に)追い出し」「両替人の金を撒き散らし」「台を倒し」、鳩を売っている人にも「出て行け」と言った、と書いてあります。まるで暴徒のようなイエスさまです。

 ところで聖書の時代は、神殿に詣でるには、何かとお金がかかりました。日常使う硬貨ではなく、境内で特別な両替をしなければ、献金もできませんでした。家で動物を飼っていても、境内の売店に並べられた動物を生贄として捧げるのが、お約束でした。それらは当然割高でしたから、生活の苦しい人々にとっての神殿詣は高嶺の花、礼拝したくてもとても無理というような構造がありました。しかし、この困った構造も、最初からお金儲けを目的にしたのではなく、「神さまに捧げるならなるべく綺麗なコインで」「傷や病気のない最高の家畜をお捧げしたい」といった気持ちから出発したにちがいないのです。それがいつのまにかエスカレートし、当初の純粋な気持ちは忘れて、「かたち」ばかりがひとり歩き。経済的にも余裕のある階層だけが信仰深いとみなされる、そんなことに対するイエスさまの怒りだったのではないかと思うのです。
 
 「かたち」に囚われ、「かたち」が先行する時に、一番大事なことを忘れたまま進んでいく困った構造が作られるのは、聖書の時代だけではありません。心を込めた本気のお祈りは世界を変えることもありますが、神さまへの信頼なく人前でスラスラ唱えるだけの「かたち」では、人を支えることはできません。何十年も礼拝に欠かさず出席できることは大きな恵みですが、それを“修行達成”のように感じるなら、それは「かたち」への満足感かもしれません。もし“偉い先生”が親戚や知人にいたら、それなりに役に立つかもしれませんが、もし自身の霊的成長に結び付かないのであれば、その方が近くに居ることは「かたち」だけです。

 しかしながら、「かたち」がいけないということではありません。かたちがなければ、本質に通じる「中身」は保存しにくく、また客観的に人と分かち合うこともままなりません。福音という、イエスさまが私たちに託した素晴らしい世界、人と人とが尊重しあい、大切にしあう世界の構築を共に担いあうためには、教会という「かたち」を必要としました。聖書は難解で誤記もありますが、神さまが私たちにおっしゃりたい中身を、時空を超えて保つためには、聖書という「かたち」が必要でした。イエスさまは、「かたち」だけで満足してしまうのではなく、その中身に目を向けられるようにと、私たちを招いておられるのではないでしょうか。

「苦しみ」の存在

マルコによる福音書8章31節~39節
2021年2月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 「もしも神が存在するなら、世界中で起きている様々な苦しみを、どうしてゆるしておくのか」と聞かれることがあります。つまり、あなたが信じる「神」は、人が不幸になるのを止められないような不甲斐ないものであり、そんな非力な神をまだ信じているのか、という意味も含まれているのでしょう。私たちの住む東京にも、そしてもっと近くでも、悲嘆の中で生きざるを得ない人、生きる気力を失いかけている人、あるいは孤独のうちに途方にくれている人、その様々なうめきで、満ち溢れているように感じます。また、貧しい人々の手から食料を取り上げるような社会構造から外れては生きられない罪悪感、暴力に晒されている人がいてもそれを阻止できない無力感もあります。耳を塞がない限り、苦しみの叫びがあちこちで満ちている社会で生活している、そんな現実があるのかもしれません。
  一方、聖書にもたくさんの苦しみや悲しみが登場しますが、ひょっとすると現代社会と似ているのかもしれないとも思うのです。それは、苦しみを抱える人は自業自得。「本人や先祖がわるい」のであり、「神の恵みや愛を受けるのにふさわしくない」証拠なので、それらの不幸が自分にも“飛び火”しないよう、困難や悲しみの中にある人々とは関わらない、という風潮です。そして、重荷を抱える人はますます孤立し、さらに困難のハードルが上がっていきます。

 しかしながら、イエスさまの行動をみると、困難の中にある人にわざわざ会いに行きます。苦しんでいる人のそばに居て、辛さを分かちあおうとされます。つまり、想定しない災いに遭うのは神からの罰ではなく、その人が苦痛に相応しいわけでもない、というメッセージなのではないでしょうか。わたしたちは素晴らしい出会いをしたら、辛い別れもあることを知っています。喜びがあれば苦痛もあることに対し、「神は、なぜ喜びだけを与えないのか」という問いには、残念ながら説得力のある答はありません。また、苦痛や悲しみに蓋をしても、それが消えて無くなるわけでもありません。でも困難の中にある人々に、イエスさまがあえて寄り添ったように、わたしたちもまた、人々が抱える孤独と辛さを分かちあおうとすること、そして心の底から、恵みと慈しみを受けるのにふさわしい「神さまにとって大切な人」だと信じること、そして、それらを伝え続けることはできるのではないでしょうか。「自分の十字架を負う」と、今日の福音書には記されていますが、たったひとりで、孤独のうちに十字架を担ぐようにとは書いてありません。イエスさまがそばにいて、一緒に重荷を担ってくださるという約束を信じ、辛いことを分かち合いながら、助け合いながら、わたしたちも生きていくことができますように!

「洗礼」を受けたイエスさま 

マルコによる福音書1章9節~13節
2021年2月21日更新

司祭 ロイス 上田 亜樹子

 先週の水曜日から大斎節(レント)に入りました。復活日(イースター)を迎える前に過ごす「日曜日を除いた40日間」の始まりです。レントは、イエスさまが40日間「荒野でサタンから誘惑を受け」たことにならい、わたしたちは荒野に行かないまでも、お肉や高価な食材を避けたり、あるいはチョコレートや嗜好品を断つなどして(人によります)、改めて自分のいのちの根源に目を向け、生き方について内省する期節ということになっています。大斎節最初の日曜日の福音書の箇所は、イエスさまが「洗礼」を受けるシーンですが、それにしても、「洗礼」とは何なのでしょうか。洗礼を受けると何かよいことがあるのでしょうか。洗礼の前と後では何が変わるのでしょうか。『祈祷書』を見ると、「洗礼を受ける人に必要なこと」は、「罪を悔い改めて悪の力を退け、イエスを救い主と信じ、自分自身をキリストに献げることです」(263ページ)とあります。なんだか大変そうだし、とても自分には無理!と感じるかもしれません。それにイエスさまは、そもそも「罪を悔い改める」必要があったのか?などという疑問も浮かび、アウェイ感(ちょっと古い!)は増すばかりです。

 「洗礼」という分岐点を通過した人と、通過していない人を「区別」するための儀式として洗礼をとらえてしまうと、そのアウェイ感は絶大な力を持ちます。そのような誤解を与えてきた教会の責任はありつつも、でも実際は少しちがうのではないかとも思うのです。

 イエスさまが洗礼を受けて水の中から上がると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が天から聞こえてきました。これは、イエスさまが神のひとり子なのだから「愛する子」と呼ばれるのは当たり前!と思ってしまいそうですが、実はわたしたちひとりひとりは、生まれる前からずっと「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と呼ばれ続けている存在なのではないかと思うのです。生まれた時から、そして成長する過程で、そして「良い子」でいる時も「わるい子」の時も変わりなく、ずっと「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と呼ばれている。でも、「罪」(=まとはずれ)な生き方をしているとその声は聞こえず、「罪」の中にいると自分なんて価値がないと追い詰め、「罪」を意識しなくなると何が「まとはずれ」なのかも分からなくなる。「まとはずれ」な生き方のサンプルには事欠かないですが、重要なのは「洗礼を受けるか否か」ではなく、わたしたちは神さまに愛され大切にされ心にかなって生きている存在なのだという事実を知ることなのではないでしょうか。洗礼を受けた「から」愛されるのではなく、いのちが生まれた時からずっと愛され続けてきたことを認めることにより、心の耳が開かれ、そのことを認知していくプロセスを「天からの声」として聖書は記しているのではないでしょうか。洗礼はマジックではなく、自由意志によるひとつの認証ではないかと私は思うのです。

 洗礼を受けると自動的に「教会の信徒のメンバー」のひとりになります。そして、今までは「信施」という、教会の外(一般NPOなども含め)の働きを支える献金しかお捧げできませんでしたが、洗礼を受けて信徒になると、教会の運転資金である「月約献金」に参加する権利が生まれ、その他の運営や構成についてかかわる権利が生まれます。洗礼の目的は、「教会のために奉仕する」人を養成することではなく、「教会を通じて世の中の人のために奉仕する仲間」を養成することだと思います。何十年も前に洗礼を受けた人と、受けたばかりの人、そして考え中の方、また洗礼を受けることは予定していない方もご一緒に、教会というツールを通じて、さらに自由で解放された人生へと招かれていきましょう。

栄光から栄光へと、主と同じすがたに

マルコによる福音書9章2節~9節
2021年2月15日更新

司祭 ロイス 上田 亜樹子

 1959年に発行(改訂)されたいわゆる「文語」祈祷書の聖餐式の中では、「聖なるかな」を歌った後に、「感謝・賛美・栄光・知恵、ほまれ・ちから・いきおい、世々限りなく全能の父なる神にあらんことを」と唱えて、パンとぶどう酒を聖別する祈りへと進んでいきました。(現在用いている祈祷書では、174ページ「天の父よ、〜わたしたちの感謝賛美をお受けください」というあたりです)

 わたしたちからの感謝と賛美を、神さまにお受けいただく、という内容のお祈りなら、わかる気がするのですが、何故「栄光」だの「ほまれ」を祈るのか、不思議に思っていました。神さまが、いわゆる栄光や知恵をもっと必要とされていたとは思えないし、ちからや勢いを要求してくるような方にも思えなかったからです。15〜16世紀に活躍したマルチンルターという神学者がいましたが、彼は何人も到達し得ないような遥かかなたの光輝く存在になることが「神の栄光」ではなく、イエス・キリストの受難と十字架が、神の栄光であると説きました。つまり、成功物語としての栄光ではなく、何もかもが無駄だったと後悔するような死、人々に誤解され裏切られ、さらに弟子たちからも見捨てられるという十字架こそが「神の栄光」であると。

 今日の福音書では、この「神の栄光」に向けてエリヤやモーセと相談しながら準備を始めたイエスさまに、ペトロはわけのわからないことを言い出します。眩しいほどに光輝いていくイエスさまを見たペトロは、普段聞いている神の栄光ではなく、成功物語のような一般的な「栄光」をイメージして、「すばらしいこと」と口走ります。毎日一緒にいるのに、貧しい人々の痛みを分かち合うイエスさまではなく、理解されなくても小さな人々に仕えるイエスさまではなく、エルサレムに凱旋し、人々をうならせ、支配階級や指導者たちの頂点に立つイエスさまに祀りあげようとします。そして、そういうイエスさまと一緒で良かった、自分にも「おこぼれ」があるかも、という欲さえ見え隠れします。しかし、そういうペトロを、イエスさまは叱りもせず、「今見たことは、皆にふれて回ることではない」とだけ言います。お弟子さんたちが、イエスさまの使命を全く理解できていないばかりではなく、そもそも、この世の名声や地位を求めて自分を見上げていることを感じたとき、イエスさまは寂しかったことでしょう。

 もしわたしたちが、「主と同じすがた」へと変えられていくことを、この世での成功物語として望み見ているなら、ペトロと変わりはないでしょう。皆に受け入れられやすい自分を目指すのではなく、神さまが用意されている真の栄光へと向かいましょう。そんなとき、わたしたちもまた「主と同じすがた」となり、輝くような光をはなつのではないでしょうか。

病いといたみ

マルコによる福音書1章29節~39節
2021年2月8日更新

司祭 ロイス 上田 亜樹子


 イエスさまによって病気が癒された話、またはその人が生きる希望を再び見出した話を読むと、「イエスさまが病気を癒したのは二千年前。現代ではない」と思ってしまうことがあります。どのおうちでもそうだったかもしれませんが、私のこども時代、家族や親戚の中に結構な数の病人がおり、どよ〜んとした暗く重い空気が支配していました。痛みや苦しみを負っている本人はもちろんつらいのに、その人がいることによって周りがどれだけ迷惑しているか、負担に感じているか、という感情を隠さない大人たちもいました。病気になったのは、本人の悪事か先祖の悪行のゆえ、つまり神の祝福から漏れている証という「聖書の時代」の概念そっくりだったのです。そういう方々の多くは、「人間死んだらおしまい」という恐怖の念も持っていて、病気の話や体力が衰えていく兆候なども、なるべく話題にするのを避けていたように思います。


 そんなときは、「神さまは私たちを愛してくださっているのに、なぜ病気になるのだろう」「人はなぜ死んでいくのだろう」「苦しい思いをして生き、死んでいくのは何故だろう」という疑問が浮かびます。たとえ、それに対する素晴らしい(?)正解があっても、心身の病いの苦しさや痛みは相変わらず存在しますが、聖書の時代は、痛み止めも気管支拡張剤もなかったので、人々は亡くなるまでの時間をじっと病いに耐えることに加え、天の国で神さまの腕に抱きとめられ、すべての苦しみから解放されることを望むことすら許されませんでした。「神の祝福から漏れている人たち」だったからです。

 この世に滞在する時間の長さに大小はあっても、私たち人間はいずれは役割を終え、神さまの国に迎え入れられるものです。イエスさまによって病を癒され、いのちを取り戻した人々が、何事もなかったようにこの世での「役割」に再び戻る。これはいわゆる「奇跡」を誇張する物語ではなく、「今、生きていること」と「役割を終えてあちらへ行くこと」の間には、私たちが不安になるほどの距離や隔たりはないのです、という話ではないかと思うのです。お別れはもちろん悲しいし寂しい。しかし必要以上に恐怖を感じたり、死を否定することによって、今生きているいのちを見逃しにしてしまう、その方がよっぽどもったいない、そういうメッセージなのではないでしょうか。辛さはあっても希望を見出すことのできる私たちでありたいと思います。

魔がさすとき

マルコによる福音書1章21節~28節
2021年2月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
 
 聖書には、「悪霊」に取り憑かれた人々が、イエスさまによって解放され、病気その他の問題から癒される物語がしばしば登場します。今のような概念の「医学」が一般的ではなかった時代は、悪霊がその人にとりついたとき、心や身体の不調がおきると考えられていたようですが、それは単に「迷信的」な常識とはあなどれないところがあります。現代でも、西洋医学の発達により様々な症状はかなり取り去ることができますが、根本的な問題が解決されていないと、またいつかは元の木阿弥、というのはよくあることです。聖書の物語は、私たちにあまり分かりやすいようには書かれていませんので、実際にどういう病気が癒されたのか、その人にどういう変化が起きたのかなど、正確なところはわかりませんので、「奇跡を起こせるから、イエスさまはすごい」というような解釈が独走する一方で、「だまされやすい人たちがペテンにかかっただけ」など、眉唾物の話として片付けられてしまったりもします。

 でも例えば、甘いものを食べ過ぎるのは身体に良くないと分かっていても、睡眠や生活に必要な時間を削って仕事を続けるのはまずい!と分かっていても、身体を壊すまで止められないときがあります。むくむくと物欲にかられ、美味しい話に乗って大損をすることもあります。手痛い代償を払ったあと、二度とこういうことに心惹かれなければ問題ないのでしょうが、もし何度も同じ失敗を繰り返していたなら、それは「甘いもの」や「物欲」をほどほどに控えたところで、実は何も解決していないのだということがわかります。せっかく我慢してきたのに、目の前に置かれたケーキがわるい、金儲けの話をささやいた他者がわるい、のではなく、それらに手を出さなくてはいられない、私たち自身の心の中の渇きというか痛みが1番の原因です。痛みの存在を認め、渇きに手を差し伸べなければ、苦しみは続いてしまうのでしょう。

 そんな時こそイエスさまに心の癒しを必死に求めるときなのに、「こんな自分なのだから、イエスさまに助けを求める資格などない」「耳を塞ぐ方が簡単だ」という声が、案外、内側から聞こえて来ます。それこそが、「魔がさす」声です。思わずその声に聞き従いたくなるときもありますが、とりあえず「黙れ、私から出て行け!」と叫んでみましょう。心を尽くし言葉を尽くして「あなたを救いたい」と言い続けて来たイエスさまを、改めて心に迎え入れられるよう全身で祈りましょう。聖書のいう「悪霊」は、私たちの外からやって来るのではなく、実は内なる「魔がさすとき」の自分の声なのかもしれません。


人間あいての漁師

マルコによる福音書1章14節~20節
2021年1月24日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 昔々、まだ10代だった頃、専門分野の異なる学生で定期的に集まり、勉強会のような集まりを自主的にやっていたことがあります。グループのメンバーはバラエティに富み、物理や文学、建築や栄養学までいましたが、「今、これが面白い。自分はこんなことに興味を持っている」ということをテーマに、交替でプレゼンをするような会でした。面白い話も、全然面白くない話もありましたが、思い返せば、他のどんな専門分野の話を聞いても、どこかで自分の分野(当時の私は音楽)のモノサシに当てはめて、理解しようとして(あるいは「利用しよう」と頭を思い巡らして・・・)いた気がします。

 今日の福音書の話は、漁師という専門分野の登場です。「どうやって魚を獲るか」という専門家として、生涯その仕事にたずさわってきたシモンとアンデレに対し、イエスさまが「私と一緒に人間をとる漁師になり、手伝ってほしい」という表現を用いたのは、それがシモンとアンデレにとって「わかりやすい言葉」だったからかもしれないなと思うのです。もっとも、「人間をとる漁師」というと、人間を商品化し売買して利益を得るような気味の悪い商売を連想してしまう、という方もおられましたが、原語を見ると「人の漁師」「人間相手の漁師」という言葉が使われています。そういう意味では、イエスさまや福音書の記者にとって「人間という個体を利用して、ひと儲けしよう」という意図ではなかったように思います。

  魚をとる漁師は、当時の職業的ヒエラルキーの中では相当下積み。そして完全な肉体労働でした。怪我をしたり、体調を崩したりすると途端に困る、身体が資本の職業だった(それはどんな職業でもそうかもしれません)一方で、「人間相手の漁師」はというと、貧しく虐げられた人々の生活とまさに向き合う仕事、ということになります。関わりたくないと思ってもイエスさまと共に人の情けなさや弱さ罪深さと真正面から向き合わざるを得ない、そして人々の痛みに触れる、やっぱり身体が資本の肉体労働でしょう。「人間相手の漁師」もきれいごとでは収まらず、「お弟子」となったシモンもアンデレも、できれば知らずに済ませたかった自分の弱点や認めたくないような腹黒さとも向き合うことになります。教会に連なる私たちは皆、「人間あいての漁師」として、イエスさまに招かれました。大切なのは、自分の弱点や腹黒さや情けなさに埋没するのではなく、イエスさまと共に、人々の痛みに触れることなのではないでしょうか。

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」 

ヨハネによる福音書1章43節ー51節
2021年1月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
 「モーセの律法にも書いてある『救い主』、預言者たちも口々に語っている『あの方』に、なんと私たちは今、出会っているのだ。しかもその人は、ナザレから来ている」と、いわば万感の想いを込めて語ったフィリポに対し、ナタナエルという人は、「ナザレなどから良い人物が出るはずがない」と返事をしたのが、今日の福音書にある表題の言葉です。フィリポが言いたかったのは、イエスがナザレ出身かどうかということよりも、「永い間待ち望み、神さまが約束してくださったあの方と今、自分たちは一緒に居る!」という感動を分かち合いたかったように見えますが、ナタナエルは何に引っかかったのか、「出身」についてのみ反応をしています。

 スレ違いのようなこういったやりとりは、現実の生活の中では、結構多いかもしれません。家族の中や職場の人間関係でも、「伝えたかったこと」と「聞いたこと」がボタンのかけ違いのようにずれてしまい、なんだかザラザラした空気のまま、収集がつかなくなることがあります。そんな時、相手に伝えることをあきらめたり、伝わらないのは自分のせいではないと切り捨てたり、ついには相手のランク付けまでしてしまうこともあるかもしれません。

 それは、神さまと私たちの間にもあるように思います。神さまは、あの手この手で、愛の素晴らしさや、「あなたが大切」であることを伝えようとされますが、私たちは聞きたいことや、聞きやすいことしか受け止めず、都合の良いことは全面的に受け入れても、耳が痛いこと、面倒くさいと思うことについては耳を塞ぎます。しかし、私たちがいくらボタンのかけ違いをしても、神さまは、決してあきらめたり、自分のせいではないと切り捨てたり、私たちをランク付けしたリはなさらないのです。興味深いのは、ナタナエルのこの態度について、イエス様はたしなめるどころか、「この人は正直な人だ」と言っています。

 私たちは、自分の無知や不信仰、そして先入観や不安をなかったことにするのは、とても得意です。また、そうしないと現実の世界では身を守れないこともあるでしょう。でも、神さまの前で「わかったフリ」をするのは、私たちにとって障壁となります。事実を隠したり、自分にウソをついたりして自身を傷つけることは、神さまをとても悲しませます。ずっと以前から、そしてこれからも私たちを丸ごと受け止め、愛して止まない神さまが一緒に居てくださることに信頼し、勇気を持って前に進みたいと思います。

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