月島聖公会

聖書のお話

「苦しみ」の存在

マルコによる福音書8章31節~39節
2021年2月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 「もしも神が存在するなら、世界中で起きている様々な苦しみを、どうしてゆるしておくのか」と聞かれることがあります。つまり、あなたが信じる「神」は、人が不幸になるのを止められないような不甲斐ないものであり、そんな非力な神をまだ信じているのか、という意味も含まれているのでしょう。私たちの住む東京にも、そしてもっと近くでも、悲嘆の中で生きざるを得ない人、生きる気力を失いかけている人、あるいは孤独のうちに途方にくれている人、その様々なうめきで、満ち溢れているように感じます。また、貧しい人々の手から食料を取り上げるような社会構造から外れては生きられない罪悪感、暴力に晒されている人がいてもそれを阻止できない無力感もあります。耳を塞がない限り、苦しみの叫びがあちこちで満ちている社会で生活している、そんな現実があるのかもしれません。
  一方、聖書にもたくさんの苦しみや悲しみが登場しますが、ひょっとすると現代社会と似ているのかもしれないとも思うのです。それは、苦しみを抱える人は自業自得。「本人や先祖がわるい」のであり、「神の恵みや愛を受けるのにふさわしくない」証拠なので、それらの不幸が自分にも“飛び火”しないよう、困難や悲しみの中にある人々とは関わらない、という風潮です。そして、重荷を抱える人はますます孤立し、さらに困難のハードルが上がっていきます。

 しかしながら、イエスさまの行動をみると、困難の中にある人にわざわざ会いに行きます。苦しんでいる人のそばに居て、辛さを分かちあおうとされます。つまり、想定しない災いに遭うのは神からの罰ではなく、その人が苦痛に相応しいわけでもない、というメッセージなのではないでしょうか。わたしたちは素晴らしい出会いをしたら、辛い別れもあることを知っています。喜びがあれば苦痛もあることに対し、「神は、なぜ喜びだけを与えないのか」という問いには、残念ながら説得力のある答はありません。また、苦痛や悲しみに蓋をしても、それが消えて無くなるわけでもありません。でも困難の中にある人々に、イエスさまがあえて寄り添ったように、わたしたちもまた、人々が抱える孤独と辛さを分かちあおうとすること、そして心の底から、恵みと慈しみを受けるのにふさわしい「神さまにとって大切な人」だと信じること、そして、それらを伝え続けることはできるのではないでしょうか。「自分の十字架を負う」と、今日の福音書には記されていますが、たったひとりで、孤独のうちに十字架を担ぐようにとは書いてありません。イエスさまがそばにいて、一緒に重荷を担ってくださるという約束を信じ、辛いことを分かち合いながら、助け合いながら、わたしたちも生きていくことができますように!

「洗礼」を受けたイエスさま 

マルコによる福音書1章9節~13節
2021年2月21日更新

司祭 ロイス 上田 亜樹子

 先週の水曜日から大斎節(レント)に入りました。復活日(イースター)を迎える前に過ごす「日曜日を除いた40日間」の始まりです。レントは、イエスさまが40日間「荒野でサタンから誘惑を受け」たことにならい、わたしたちは荒野に行かないまでも、お肉や高価な食材を避けたり、あるいはチョコレートや嗜好品を断つなどして(人によります)、改めて自分のいのちの根源に目を向け、生き方について内省する期節ということになっています。大斎節最初の日曜日の福音書の箇所は、イエスさまが「洗礼」を受けるシーンですが、それにしても、「洗礼」とは何なのでしょうか。洗礼を受けると何かよいことがあるのでしょうか。洗礼の前と後では何が変わるのでしょうか。『祈祷書』を見ると、「洗礼を受ける人に必要なこと」は、「罪を悔い改めて悪の力を退け、イエスを救い主と信じ、自分自身をキリストに献げることです」(263ページ)とあります。なんだか大変そうだし、とても自分には無理!と感じるかもしれません。それにイエスさまは、そもそも「罪を悔い改める」必要があったのか?などという疑問も浮かび、アウェイ感(ちょっと古い!)は増すばかりです。

 「洗礼」という分岐点を通過した人と、通過していない人を「区別」するための儀式として洗礼をとらえてしまうと、そのアウェイ感は絶大な力を持ちます。そのような誤解を与えてきた教会の責任はありつつも、でも実際は少しちがうのではないかとも思うのです。

 イエスさまが洗礼を受けて水の中から上がると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が天から聞こえてきました。これは、イエスさまが神のひとり子なのだから「愛する子」と呼ばれるのは当たり前!と思ってしまいそうですが、実はわたしたちひとりひとりは、生まれる前からずっと「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と呼ばれ続けている存在なのではないかと思うのです。生まれた時から、そして成長する過程で、そして「良い子」でいる時も「わるい子」の時も変わりなく、ずっと「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と呼ばれている。でも、「罪」(=まとはずれ)な生き方をしているとその声は聞こえず、「罪」の中にいると自分なんて価値がないと追い詰め、「罪」を意識しなくなると何が「まとはずれ」なのかも分からなくなる。「まとはずれ」な生き方のサンプルには事欠かないですが、重要なのは「洗礼を受けるか否か」ではなく、わたしたちは神さまに愛され大切にされ心にかなって生きている存在なのだという事実を知ることなのではないでしょうか。洗礼を受けた「から」愛されるのではなく、いのちが生まれた時からずっと愛され続けてきたことを認めることにより、心の耳が開かれ、そのことを認知していくプロセスを「天からの声」として聖書は記しているのではないでしょうか。洗礼はマジックではなく、自由意志によるひとつの認証ではないかと私は思うのです。

 洗礼を受けると自動的に「教会の信徒のメンバー」のひとりになります。そして、今までは「信施」という、教会の外(一般NPOなども含め)の働きを支える献金しかお捧げできませんでしたが、洗礼を受けて信徒になると、教会の運転資金である「月約献金」に参加する権利が生まれ、その他の運営や構成についてかかわる権利が生まれます。洗礼の目的は、「教会のために奉仕する」人を養成することではなく、「教会を通じて世の中の人のために奉仕する仲間」を養成することだと思います。何十年も前に洗礼を受けた人と、受けたばかりの人、そして考え中の方、また洗礼を受けることは予定していない方もご一緒に、教会というツールを通じて、さらに自由で解放された人生へと招かれていきましょう。

栄光から栄光へと、主と同じすがたに

マルコによる福音書9章2節~9節
2021年2月15日更新

司祭 ロイス 上田 亜樹子

 1959年に発行(改訂)されたいわゆる「文語」祈祷書の聖餐式の中では、「聖なるかな」を歌った後に、「感謝・賛美・栄光・知恵、ほまれ・ちから・いきおい、世々限りなく全能の父なる神にあらんことを」と唱えて、パンとぶどう酒を聖別する祈りへと進んでいきました。(現在用いている祈祷書では、174ページ「天の父よ、〜わたしたちの感謝賛美をお受けください」というあたりです)

 わたしたちからの感謝と賛美を、神さまにお受けいただく、という内容のお祈りなら、わかる気がするのですが、何故「栄光」だの「ほまれ」を祈るのか、不思議に思っていました。神さまが、いわゆる栄光や知恵をもっと必要とされていたとは思えないし、ちからや勢いを要求してくるような方にも思えなかったからです。15〜16世紀に活躍したマルチンルターという神学者がいましたが、彼は何人も到達し得ないような遥かかなたの光輝く存在になることが「神の栄光」ではなく、イエス・キリストの受難と十字架が、神の栄光であると説きました。つまり、成功物語としての栄光ではなく、何もかもが無駄だったと後悔するような死、人々に誤解され裏切られ、さらに弟子たちからも見捨てられるという十字架こそが「神の栄光」であると。

 今日の福音書では、この「神の栄光」に向けてエリヤやモーセと相談しながら準備を始めたイエスさまに、ペトロはわけのわからないことを言い出します。眩しいほどに光輝いていくイエスさまを見たペトロは、普段聞いている神の栄光ではなく、成功物語のような一般的な「栄光」をイメージして、「すばらしいこと」と口走ります。毎日一緒にいるのに、貧しい人々の痛みを分かち合うイエスさまではなく、理解されなくても小さな人々に仕えるイエスさまではなく、エルサレムに凱旋し、人々をうならせ、支配階級や指導者たちの頂点に立つイエスさまに祀りあげようとします。そして、そういうイエスさまと一緒で良かった、自分にも「おこぼれ」があるかも、という欲さえ見え隠れします。しかし、そういうペトロを、イエスさまは叱りもせず、「今見たことは、皆にふれて回ることではない」とだけ言います。お弟子さんたちが、イエスさまの使命を全く理解できていないばかりではなく、そもそも、この世の名声や地位を求めて自分を見上げていることを感じたとき、イエスさまは寂しかったことでしょう。

 もしわたしたちが、「主と同じすがた」へと変えられていくことを、この世での成功物語として望み見ているなら、ペトロと変わりはないでしょう。皆に受け入れられやすい自分を目指すのではなく、神さまが用意されている真の栄光へと向かいましょう。そんなとき、わたしたちもまた「主と同じすがた」となり、輝くような光をはなつのではないでしょうか。

病いといたみ

マルコによる福音書1章29節~39節
2021年2月8日更新

司祭 ロイス 上田 亜樹子


 イエスさまによって病気が癒された話、またはその人が生きる希望を再び見出した話を読むと、「イエスさまが病気を癒したのは二千年前。現代ではない」と思ってしまうことがあります。どのおうちでもそうだったかもしれませんが、私のこども時代、家族や親戚の中に結構な数の病人がおり、どよ〜んとした暗く重い空気が支配していました。痛みや苦しみを負っている本人はもちろんつらいのに、その人がいることによって周りがどれだけ迷惑しているか、負担に感じているか、という感情を隠さない大人たちもいました。病気になったのは、本人の悪事か先祖の悪行のゆえ、つまり神の祝福から漏れている証という「聖書の時代」の概念そっくりだったのです。そういう方々の多くは、「人間死んだらおしまい」という恐怖の念も持っていて、病気の話や体力が衰えていく兆候なども、なるべく話題にするのを避けていたように思います。


 そんなときは、「神さまは私たちを愛してくださっているのに、なぜ病気になるのだろう」「人はなぜ死んでいくのだろう」「苦しい思いをして生き、死んでいくのは何故だろう」という疑問が浮かびます。たとえ、それに対する素晴らしい(?)正解があっても、心身の病いの苦しさや痛みは相変わらず存在しますが、聖書の時代は、痛み止めも気管支拡張剤もなかったので、人々は亡くなるまでの時間をじっと病いに耐えることに加え、天の国で神さまの腕に抱きとめられ、すべての苦しみから解放されることを望むことすら許されませんでした。「神の祝福から漏れている人たち」だったからです。

 この世に滞在する時間の長さに大小はあっても、私たち人間はいずれは役割を終え、神さまの国に迎え入れられるものです。イエスさまによって病を癒され、いのちを取り戻した人々が、何事もなかったようにこの世での「役割」に再び戻る。これはいわゆる「奇跡」を誇張する物語ではなく、「今、生きていること」と「役割を終えてあちらへ行くこと」の間には、私たちが不安になるほどの距離や隔たりはないのです、という話ではないかと思うのです。お別れはもちろん悲しいし寂しい。しかし必要以上に恐怖を感じたり、死を否定することによって、今生きているいのちを見逃しにしてしまう、その方がよっぽどもったいない、そういうメッセージなのではないでしょうか。辛さはあっても希望を見出すことのできる私たちでありたいと思います。

魔がさすとき

マルコによる福音書1章21節~28節
2021年2月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
 
 聖書には、「悪霊」に取り憑かれた人々が、イエスさまによって解放され、病気その他の問題から癒される物語がしばしば登場します。今のような概念の「医学」が一般的ではなかった時代は、悪霊がその人にとりついたとき、心や身体の不調がおきると考えられていたようですが、それは単に「迷信的」な常識とはあなどれないところがあります。現代でも、西洋医学の発達により様々な症状はかなり取り去ることができますが、根本的な問題が解決されていないと、またいつかは元の木阿弥、というのはよくあることです。聖書の物語は、私たちにあまり分かりやすいようには書かれていませんので、実際にどういう病気が癒されたのか、その人にどういう変化が起きたのかなど、正確なところはわかりませんので、「奇跡を起こせるから、イエスさまはすごい」というような解釈が独走する一方で、「だまされやすい人たちがペテンにかかっただけ」など、眉唾物の話として片付けられてしまったりもします。

 でも例えば、甘いものを食べ過ぎるのは身体に良くないと分かっていても、睡眠や生活に必要な時間を削って仕事を続けるのはまずい!と分かっていても、身体を壊すまで止められないときがあります。むくむくと物欲にかられ、美味しい話に乗って大損をすることもあります。手痛い代償を払ったあと、二度とこういうことに心惹かれなければ問題ないのでしょうが、もし何度も同じ失敗を繰り返していたなら、それは「甘いもの」や「物欲」をほどほどに控えたところで、実は何も解決していないのだということがわかります。せっかく我慢してきたのに、目の前に置かれたケーキがわるい、金儲けの話をささやいた他者がわるい、のではなく、それらに手を出さなくてはいられない、私たち自身の心の中の渇きというか痛みが1番の原因です。痛みの存在を認め、渇きに手を差し伸べなければ、苦しみは続いてしまうのでしょう。

 そんな時こそイエスさまに心の癒しを必死に求めるときなのに、「こんな自分なのだから、イエスさまに助けを求める資格などない」「耳を塞ぐ方が簡単だ」という声が、案外、内側から聞こえて来ます。それこそが、「魔がさす」声です。思わずその声に聞き従いたくなるときもありますが、とりあえず「黙れ、私から出て行け!」と叫んでみましょう。心を尽くし言葉を尽くして「あなたを救いたい」と言い続けて来たイエスさまを、改めて心に迎え入れられるよう全身で祈りましょう。聖書のいう「悪霊」は、私たちの外からやって来るのではなく、実は内なる「魔がさすとき」の自分の声なのかもしれません。


人間あいての漁師

マルコによる福音書1章14節~20節
2021年1月24日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子

 昔々、まだ10代だった頃、専門分野の異なる学生で定期的に集まり、勉強会のような集まりを自主的にやっていたことがあります。グループのメンバーはバラエティに富み、物理や文学、建築や栄養学までいましたが、「今、これが面白い。自分はこんなことに興味を持っている」ということをテーマに、交替でプレゼンをするような会でした。面白い話も、全然面白くない話もありましたが、思い返せば、他のどんな専門分野の話を聞いても、どこかで自分の分野(当時の私は音楽)のモノサシに当てはめて、理解しようとして(あるいは「利用しよう」と頭を思い巡らして・・・)いた気がします。

 今日の福音書の話は、漁師という専門分野の登場です。「どうやって魚を獲るか」という専門家として、生涯その仕事にたずさわってきたシモンとアンデレに対し、イエスさまが「私と一緒に人間をとる漁師になり、手伝ってほしい」という表現を用いたのは、それがシモンとアンデレにとって「わかりやすい言葉」だったからかもしれないなと思うのです。もっとも、「人間をとる漁師」というと、人間を商品化し売買して利益を得るような気味の悪い商売を連想してしまう、という方もおられましたが、原語を見ると「人の漁師」「人間相手の漁師」という言葉が使われています。そういう意味では、イエスさまや福音書の記者にとって「人間という個体を利用して、ひと儲けしよう」という意図ではなかったように思います。

  魚をとる漁師は、当時の職業的ヒエラルキーの中では相当下積み。そして完全な肉体労働でした。怪我をしたり、体調を崩したりすると途端に困る、身体が資本の職業だった(それはどんな職業でもそうかもしれません)一方で、「人間相手の漁師」はというと、貧しく虐げられた人々の生活とまさに向き合う仕事、ということになります。関わりたくないと思ってもイエスさまと共に人の情けなさや弱さ罪深さと真正面から向き合わざるを得ない、そして人々の痛みに触れる、やっぱり身体が資本の肉体労働でしょう。「人間相手の漁師」もきれいごとでは収まらず、「お弟子」となったシモンもアンデレも、できれば知らずに済ませたかった自分の弱点や認めたくないような腹黒さとも向き合うことになります。教会に連なる私たちは皆、「人間あいての漁師」として、イエスさまに招かれました。大切なのは、自分の弱点や腹黒さや情けなさに埋没するのではなく、イエスさまと共に、人々の痛みに触れることなのではないでしょうか。

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」 

ヨハネによる福音書1章43節ー51節
2021年1月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
 「モーセの律法にも書いてある『救い主』、預言者たちも口々に語っている『あの方』に、なんと私たちは今、出会っているのだ。しかもその人は、ナザレから来ている」と、いわば万感の想いを込めて語ったフィリポに対し、ナタナエルという人は、「ナザレなどから良い人物が出るはずがない」と返事をしたのが、今日の福音書にある表題の言葉です。フィリポが言いたかったのは、イエスがナザレ出身かどうかということよりも、「永い間待ち望み、神さまが約束してくださったあの方と今、自分たちは一緒に居る!」という感動を分かち合いたかったように見えますが、ナタナエルは何に引っかかったのか、「出身」についてのみ反応をしています。

 スレ違いのようなこういったやりとりは、現実の生活の中では、結構多いかもしれません。家族の中や職場の人間関係でも、「伝えたかったこと」と「聞いたこと」がボタンのかけ違いのようにずれてしまい、なんだかザラザラした空気のまま、収集がつかなくなることがあります。そんな時、相手に伝えることをあきらめたり、伝わらないのは自分のせいではないと切り捨てたり、ついには相手のランク付けまでしてしまうこともあるかもしれません。

 それは、神さまと私たちの間にもあるように思います。神さまは、あの手この手で、愛の素晴らしさや、「あなたが大切」であることを伝えようとされますが、私たちは聞きたいことや、聞きやすいことしか受け止めず、都合の良いことは全面的に受け入れても、耳が痛いこと、面倒くさいと思うことについては耳を塞ぎます。しかし、私たちがいくらボタンのかけ違いをしても、神さまは、決してあきらめたり、自分のせいではないと切り捨てたり、私たちをランク付けしたリはなさらないのです。興味深いのは、ナタナエルのこの態度について、イエス様はたしなめるどころか、「この人は正直な人だ」と言っています。

 私たちは、自分の無知や不信仰、そして先入観や不安をなかったことにするのは、とても得意です。また、そうしないと現実の世界では身を守れないこともあるでしょう。でも、神さまの前で「わかったフリ」をするのは、私たちにとって障壁となります。事実を隠したり、自分にウソをついたりして自身を傷つけることは、神さまをとても悲しませます。ずっと以前から、そしてこれからも私たちを丸ごと受け止め、愛して止まない神さまが一緒に居てくださることに信頼し、勇気を持って前に進みたいと思います。

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