お祈りをしようと座って目を閉じても、なんだか身も心もざわざわして、何を祈ったらよいのか心が定まらないときがあります。何が正しいのかと考えているうちに心が散漫になり、日常の些末な出来事を振り返ってみたりします。時には、未解決の課題をあれこれ持ち出し、過去の自分の失敗を必要もないのに掘り下げて、身動きできなくなったりもします。
 今日の福音書(マルコ6:45〜)の、何をしようとしているのかよくわからないお弟子さんたちの行動は、自分自身の祈りを思い出させます。これから日が暮れるというのに、イエスさまを残して湖に舟を漕ぎ出し、逆風の中むやみやたらに漕ぎまくるけれども、結局は立ち往生。そこへ、イエスさまが心配して近づくと幽霊だと怯える。そして「パンの出来事(この直前の物語)を理解せず、心が鈍くなっていた」とあるように、お弟子さんたちは、何をすべきかよくわかっておらず、善意かもしれないが、見当ちがいの行動を一生懸命していた、と聖書は記します。
 わたしたちは祈るとき、このような見当ちがいをしているのかもしれないと思うのです。「そうだ!祈ろう」と、にわかに思いついて舟を漕ぎ出し、でもどっちに行ったらいいのか見失う。そして、努力はしないわけではないが気がついたら逆風の中。しかし、どうやってそこから脱すればよいのかもわからない。心配したイエスさまが近づいてきてくださっても、イエスさまだとは認識できず、むしろ怯える。
 祈りは、「祈らなければならない」というものではなく、人間に与えられた特権だと思うのです。どの宗教でも祈るという営みはあるし、一方、どんな宗教とも関わりたくないと思っている人でも、困ったときや切羽詰まる状況では、自然と祈ってしまうものだと思います。
 見当ちがいの方向に向かい、自分だけでなんとか解決しようと意地を張る、そんな「逆風の中を虚しく漕いでいる」ようなわたしたちのところに、イエスさまはまっすぐに近づき、舟に乗り込んでさえくださる。それは、わたしたちが獲得した能力なのではなく、ひたすら一方的に与えられる恵みなのでしょう。わたしたちに出来ることは、やって来られるイエスさまを、お迎えすることだけなのだと思います。