「ゆるし」を知る
マタイによる福音書18:21〜35
2026年9月13日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
冒頭の「7の70倍(回)まで赦しなさい」というイエスさまの言葉に圧倒されます。内容によっては、たった1回「ゆるす」ことさえ簡単ではないのに、490回とは気の遠くなります。それにしても「赦す」とはなんでしょうか。水に流したり忘れた気持ちになったり、考えるのを止めるということではない。また、相手の行動を容認するのとも違う。そして「こうすれば赦したことになる」という模範解答さえない。
さて今日の福音書のストーリーです。主君によって膨大な借金の返済を「帳消し」にしてもらった家来が、今度は自分が金を貸している知人に出会うと、貸した金をすぐ返せと要求します。返済できないから待ってくれと懇願する知人を、家来は聞く耳持たず牢獄に入れてしまう。するとこれを知った主君は怒り、赦したはずの家来を牢獄に入れるというストーリーです。「赦し」の話を、金の貸し借りに絡めるのは、なんとも違和感がありますが、生涯かかっても返せないような膨大な借金(1万タラントン=1兆円)から解放された人が、その恵みの豊かさに触れようともせず、頑張れば返せる金額(百デナリ=100万円)に固執する。その愚かさを描いているのかもしれません。最終的に家来を牢獄に入れた主君は、一旦「赦す」と言ったのにそれをキャンセルしたのではなく、赦しということを根本的にわかっていない家来を、「ゆるし」ながらも放置はしなかったということかもしれません。
家族も家財もすべて売り払って借金を返せと迫ることや、期日までに返済できない人を牢獄に差し出すことは、当時の法律では「合法」だったようです。そういう意味ではこの家来は犯罪こそ犯していないものの、巨額の負債から解放された途端に、すぐに己の利害追求にとりかかる。そんな生き様は「牢獄に閉じ込められた」人のようだ、と言っている気がするのです。神さまに愛されている恵みの偉大さに目を留め、神の寛大さに触れるとき、わたしたちもまた負いきれないほどの負債から解放された者であることを知るのではないでしょうか。
神にゆだねる
2026年9月6日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
約束を忘れてしまった、他人の持ち物を壊した、そんなときにわたしたちは「ごめんなさい」と言いますが、それは、赦してもらえると思っているから、あまり悩まずとも口に出すことができるのだと思います。その一方で、相手が赦してくれるかどうかわからないときの「ごめんなさい」は気が重く、拒絶される覚悟もしておかないとなかなか言えるものではないでしょう。取り返しのつかないことや、何かを根こそぎ変えてしまうような出来事には、赦しを口にすることさえ厚かましく感じてしまいます。
しかしそんな時は往々にして、物事の本質ではなく、自分の立場はどうなのか、法律的にはどの程度の問題なのか、そしてどうやって相手を懐柔しようか、といった「事後処理」ばかりが心を占めます。でも今日の聖書は、人間同士がどうやって納得点を見つけるかという話ではなく、神の視点ではどういうことなのかを中心に物事をとらえる必要があると説いているように思います。何故このような事態となったのかを検証するに留まらず、自分の何が間違っていたのか、どこに愛が足りなかったのか、何を学んでほしいと願っておられるのか、祈って神の声を聞こう、神の手に委ねよう、ということなのだと思います。
今日の聖書は、「罪を犯した兄弟」が、さとしても聞き入れないケースを扱っていますが、どちらの側に立っても話は同じなのではないでしょうか。自分の罪を認識できないときがあっても、それが永遠に続くかどうかはわかりません。わからないけれど、その人に関わり、愛をもって率直にあらゆる手立てをもって接したあとは、神に委ねる。今は改心できない人に対して、それをなんとか変えねばならないと心の炎を燃やすのではなく(=異邦人とみなす)距離を置いて、しかしその人が回心した時にはいつでも話を聞く。そのためにも、神の働きを信じ続ける人が二人三人と集まって祈ることが必要なのだと思います。
あなたの小ささも神は愛してくださる
マタイによる福音書16:21〜27
2026年9月1日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「そんなことは認めない。」これから起きる出来事の内容をイエスさまか ら告げられたとき、お弟子さんたちはこう思ったに違いありません。教え を通して知らされた「神」についていけば、素晴らしい未来が広がってい る、賛同する人も増える、いつかはローマ帝国でさえひざまずく、そんな 未来を描いていたのかもしれません。しかしイエスさまはこの時だけでは なく、何度か予告されます。「(犯罪者として)十字架にかけられ、殺され 三日目に甦る。」ペテロも「あなたは生ける神の子です」と告白した直後で す。これから「勝ち組」たるイエスさまについていくのだと思いきや、そ んな事を言われて、頭の中が真っ白になったことでしょう。
同列にはできないとしても、予想とあまりに違うことが起きると、。わ たしたちの頭の中は真っ白になります。重篤な病気の宣告だったり、家族 の思いがけない予定変更だったり、こうなると信じていた未来が白紙に戻 されたりする事態です。受け止め切れないほどの不安や喪失感は、大きな 怒りとして表現されることも多いですが、時には、本質とは全く違うこと を問題にして、現実を直視したくない自身の弱さや小ささと出会ってしま うこともあります。
現代では、弱さや小ささは退治しなければならない対象です。でもイエ スさまは「弱さや小ささと共に歩こう」と呼びかけます。十字架刑という ご自分に課せられた苦痛よりも、残されていくお弟子さんや民衆を心配す るのは、病人を癒し、魂の渇きを満たす、力ある輝かしいイエスさまだけ を見つめてきた人々が心配だからです。イエスさまが示されたのは、弱さ や小ささを退治してこいと命令する神ではなく、もろさ、弱さを持ったま まで、「背負った」まま共に歩もう、と呼びかける神です。お弟子さんや民 衆だけではなく、わたしたちもまた、そのように招かれています。弱さを 削ぎ落とした「良い子のわたし」として神の前に生きるのではなく、自分 ひとりでは認めることさえ困難な弱ささえ、先に受け止めてくださってい る存在に信頼し、勇気をもって進むこと。それが神さまへの本当の信仰な のかもしれません。
不器用であること
マタイによる福音書16:13〜20
2026年8月23日更新
司祭 ニコラス 中川 英樹
「神は劣っている部分をかえって尊いものとし、体を一つにまとめ上げてくださいました。」(コリントの信徒への手紙12章24節)
使徒聖パウロの神学は、しばしば「弱さの神学」と呼ばれます。パウロは「私の体に一つの棘が与えられました」と自らに欠けのあることを自覚し、その棘を取り除いてほしいと、三度、主に願ったと告白しています。しかし、その祈りに対して、神から与えられた答えは、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」という言葉でした。
パウロの「棘」は、結局、取り除かれることはありませんでした。しかし、その経験を通して、パウロは、自分が「弱い」と感じるところにこそ、神の恵みが働くことを知ることとなりました。以前、朝日新聞の「天声人語」に、豊橋技術科学大学が開発した「不器用ロボット」の話が紹介されていました。これは、何でも完璧にこなすロボットではなく、わざと間違えたり、失敗したりするようにつくられたロボットです。たとえば「昔話ロボット」は、話をしている途中で言葉に詰まったり、登場人物の名前を忘れたりします。すると、それを聞いている子どもたちが、「竜宮城だよ!」と教えてあげる。ロボットが不器用だからこそ、子どもたちは自然に助けてあげたくなるのだそうです。
考えてみれば、人間も同じです。私たちは、噛んだり、言い間違えたり、忘れたり、転んだり、躓いたりします。失敗しない人など、どこにもいません。野球でも、打率三割を超えれば「一流の打者」と言われます。しかし、三割ということは、十回打って七回はヒットを打てないということです。つまり、一流の選手でさえ、成功することよりも失敗することの方が多い。それでもなお、その人は一流なのです。
むしろ、弱さや欠けを持っているからこそ、私たちは人に助けてもらうことができます。そして、自分もまた、誰かの弱さを支えることができます。「人は完璧だから助け合う」のではありません。「完璧ではないからこそ、助け合う」のです。
聖書が語る「キリストの体」とは、まさにそのような共同体なのではないでしょうか。一人ひとりに違いがあり、得意なこともあれば、苦手なこともある。強いところもあれば、弱いところもある。しかし、その違いや欠けを持ったまま、一つの体として結ばれている。そこに神の恵みが働いているのです。
私たちは、ともすると「人に迷惑をかけないように」「しっかりしなければ」と思い、弱さを隠そうとします。しかし、弱さを隠すことは、同時に、誰かが私たちを助ける機会を奪ってしまうことにもなります。だから、完璧でなくてよいのです。不器用であってよいのです。失敗したら、やり直せばよい。転んだら、誰かに手を差し出してもらえばよい。そして今度は、自分が誰かに手を差し出せばよい。
「劣っている部分をかえって尊いものとする」神の恵みの中で、私たちもまた、互いの弱さを受け入れ、支え合いながら歩んでいきたいと思います。一人では歩けない私たちだからこそ、共に歩むことができる。その歩みの中に、神の祝福が豊かに宿るのではないでしょうか。
信仰は宗教を超えて
マタイによる福音書15:21〜28
2026年8月22日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
福音書には、さまざまな「部外者」が登場します。外国人だけではなく、ユダヤ人でありながら、正統な律法を守れない生活をしている人々、病人や障害を負う人、そして今日登場するカナン人も、ノア(箱舟の)の孫に当たるカナンを祖先としているものの、のちに「部外者」という扱いとなった民族です。他宗教がユダヤ教の中に入ってくるのを避けるため、ユダヤ人はカナン人と付き合わないだけではなく、長い歴史の中でカナン人に対する差別は正当化され、何かあっても交流を避けるし助け合わない、ということが常識となっていきました。
このような歴史的な背景のあるカナン人の女性が、イエスさまに助けを求めてきたのですから、イエスさまがしばし絶句するもの無理はありません。どう応えたものかと迷っているうちに、お弟子さんたちは「この女を追い払ってください」と追い討ちをかけます。しかしわたしたちにとって最も気になるのは、「子どもたちのパンをとって子犬にやってはいけない」というイエスさまの答えでしょう。これが、ユダヤ人にしか「祝福や癒しを与えない」という意味であるとすると、地球上の大半の人類は、困っても命懸けなときも「あなたへの祝福はない」と言われてしまうのかもしれません。
しかしイエスさまは、この女性をカナン人だからという理由では排除しませんでした。また、この女性の宗教を変えさせようともしませんでした。彼女のひたむきで真っ直ぐな願いを認知し、尊厳ある人間としての求めを聞いた。それは、カナン人とどういう歴史を紡いできたにせよ、「他者の痛みに共感して応える」、これこそがイエスさまの「信仰」だったのではないかと思うのです。わたしたちも常識の範囲を超えた何かと出会うとき、まずは絶句するかもしれません。でも心を落ち着けて、イエスさまはどうなさりたいだろうかと思いを馳せるとき、自分の信仰を絶対化するのではなく、自分の信じる宗教を押し付けるのではなく、わたしたちの信じる神はどうなさりたいかを聞き、まずそこから出発する、それがわたしたちの真の「信仰」ではないでしょうか。
待ってくださる神
マタイによる福音書14:22〜33
2026年8月22日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
ガリラヤ湖は遠浅で、岸から沖に向かって歩ける場所があったので、イエスさまが「湖の上を歩いているように見えた」のは、十分あり得ることでした。しかもガリラヤ湖畔に住み、漁師として生計を立てていた弟子も少なくなかったので、湖にいたイエスさまを「幽霊だと思い怖がった」というのは少々無理な展開にも聞こえます。それでも人は、潜在的な心の不安があるとき、普段感じていない恐怖や心配が力を得て、思いがけない感情へと至ることはあるのだと思います。
そのときイエスさまは、弟子たちには舟で向こう岸へ渡るように指示し、ご自分は一人で山に向かい、そして祈っておられた。こどもではないので、まさか弟子たちはイエスさまが自分たちを棄てたとは思わなかったでしょうが、この先の予定はどうなっているのか、どのくらい長く黙想なさりたいのか、暴風に晒されている危険な自分たちの状況を知っておられるか、不安にはなっていたことは想像できます。
困っているのは今なのに「助けてください」とは祈れず、さらにこんなことでイエスさまの邪魔をしていいのか、イエスさまに祈る前に自分のできることはすでにやったのか、という声も沸き起こります。
疑念と不安をぬぐえず、神さまの力を疑いながらも信じたいと願いつつ、中途半端に小舟の外へ片足を踏み出しながらも、しかし同時にそのように行動しても大丈夫なのだという保証の根拠も探している。もしかしたら、それはわたしたちの日常なのかもしれません。
わたしたちも自分の意志とは別に、周りの環境に左右される小舟に乗る羽目となることもあるでしょう。祈ってはいても、どうしてもイエスさまとの距離が縮まらないときもあるでしょう。だから「だめ」なのではなく、そんなわたしたちの弱さも狡さも不完全さもすべて受け止めた上で、待っていてくださる神。それが、イエスさまが伝えようとされている神の存在なのでしょう。
マタイ版「5つのパンと2匹の魚」
マタイによる福音書14:13〜21
2026年8月2日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
5つのパンと2匹の魚を5千人が分け合う話は、4つの福音書すべてに登場しますが、「(神の力により)食糧が増えた」という奇跡の話と受け止めるのは、生きていく励ましにはあまりならない気がしています。2千年前にイエスさまと一緒に過ごしパンを分け合った人々にとっては、説明がつかなくても感激に値する出来事だったかもしれませんが、それが今、どのような意味で良い知らせなのか釈然としないからです。4つの福音書の内容は少しずつ違い、ことにヨハネでは少年が持っていたお弁当を差し出し、それが人々を変えていくきっかけとなるという特色がありますが、いずれもパンと魚を分け合う前に、ずっと後をついてきた人々の様子に心を動かされたイエスさまが、病を抱える人々の手当てをしています。
イエスさまは医者ではないので、治療する方法を知っているとか、治るまで面倒を診るということではなく、放置され諦めていた人々の痛みの声を聞く、それが「いやした」内容だったのではないかと思います。なぜならば、病いを抱えるのは神から見放された証拠、そして過去に犯した罪の報いだと当時は考えられていたからです。そういう意味では空腹や飢えの苦痛も、厳しい経済状態で生きることも、神の祝福から漏れている証拠と考えられていました。生活苦に加えて、信仰上の苦しみがあったわけです。
この場面では5つの大麦のパンと2匹の干し魚ですが、つまり「これしかない」というわずかな量でも、信仰をもって分かち合われるとき、それは癒しの技となるという「奇跡」の物語ではないかと思うのです。ついわたしたちは自分の中にもっと深い信仰があれば〇〇ができるのに、などと呟きます。でも目の前に5つのパンしかないとき、弱い信仰しか自分の中にはないと思い知らされるとき、神さまはそれをも用いてわたしたちの想定をはるかに越えた事柄へと導いてくださる、という話なのではないかと思うのです。ちなみに、「5」は十字架上でのイエスさまの5つの傷(両手両足荊棘の冠)と人間の罪を表し、「2」は共感や共鳴を表すことがあるそうです。
わたしたちの弱さをも切り捨てず、そのまま用いてくださって、苦しみや悲しみ痛みを共に分かち合ってくださる神の存在を心に留めるとき、わたしたちの中に霊的な「癒やし」がもたらされるのではないでしょうか。
本日の福音書から
マタイによる福音書13:31〜33,44~49a
2026年7月26日更新
司祭 ニコラス 中川英樹
マタイ福音書13章には、天の国についての譬えが集められています。今朝与えられた福音の中で、イエスは「天の国はからし種に似ている」と語られました。からし種は、白い紙に鉛筆の先で小さく点を打つほどの大きさしかありません。しかし、その小さな種は成長し、多くの鳥が憩う木となります。
この譬えは、しばしば信仰の成長の譬えとして理解されてきました。けれども、わたしたちの関心が「やがて大きくなること」にだけ向くと、自分の小ささや未熟さを嘆くことにもなりかねません。大きくなることだけが目標となると、今の自分の足りなさばかりが目についてしまうからです。
しかし、聖書に記されるイエスのまなざしは、いつも小さなもの、弱いもの、未完成なものへと向けられていました。わたしには、この譬えは「どんな種よりも小さいのに」ではなく、「どんな種よりも小さいから」神に用いられる、と語っているように聞こえます。
信仰とは、大きな成果を神に差し出すことではありません。小さなままの自分を神に委ね、神の働きを信頼することです。たとえ、それがからし種ほどの小さなものであったとしても、神はその小ささの中で御心を実現されます。
神の国とは、人の価値が能力や成功によって決まる世界ではなく、その人がそこにいてくれること自体が喜ばれ、尊ばれる世界です。自分の小ささを愛おしく受けとめ、また他者の小ささをも愛おしく思う。そのような交わりの中にこそ、神の国はすでに芽生えているのではないでしょうか。
じっと待つ神
マタイによる福音書13:24〜30,36~43
2026年7月19日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
先週の「種」に続いて、今週は「麦」の話です。今回登場の「麦」と「毒麦」は、別々の植物というわけではなく、生育途中で、麦と毒麦に分かれてしまうようです。不幸にして細菌のようなものが入り込むと実が変化し、うっかり食べると腹痛や下痢、嘔吐などをひきおこしてしまうとのこと。それを「毒麦」と呼んでいたようです。最初は麦か毒麦かの区別がつきませんが、穂浪が熟してくると一見して簡単に識別できたらしく、先に毒麦だけ刈り取り、間違って食べないように火にくべて焼き、それから改めて麦の収穫にとりかかる。そんな段取りが、イエスさまの時代の刈入れのお約束だったようです。
しかしこれが麦の収穫の話かと思いきや、「毒麦=悪い者は火で焼かれる」というくだりに「何もそこまでしなくても」という気持ちになります。そしてわたしたちも、人生の途中で少しでも悪いことをすると火で焼かれてしまう、と不安になります。しかし、「畑は世界」と言っているように、わたしたちはもれなく、神さまの手でこの世に撒かれた「良い種」なのですが、それでも中には他者を見下し、手にした権力や富を私欲のために独り占め、人を人とも思わない人々が出てきます。それは細菌に感染した麦であって、腹痛や下痢のように痛みを与える存在に変化してしまう。しかし神はそれを放置しているのではなく、時が来たらそれが麦の収穫のように明らかにしようとされている、という話ではないかと思うのです。
「天の国」は、死んだら行く場所ではなく、良い麦だけが育つ理想郷でもなさそうです。天の国とは、神さまが諦めずに種を撒き続けてくださる場所。しかしなんとかして細菌に感染させようとする力も働く場所で、目先のことに囚われた人は感染し他者に被害を与えていく。神さまは、それをすぐに成敗するのではなく、何よりも良い麦を一つでも傷つけ失わないために、時が来るまでじっと忍耐されている、そんな姿が目に浮かびます。
「私は毒麦かもしれない」と思うことや、自分の中に良い麦と毒麦が混在していると感じることもあるでしょう。また、戦争や飢餓、人権侵害や不条理などを聞くと、これが毒麦かもと思います。どうしようもないと諦めるのではなく、わたしたちの痛みを一緒に感じながらじっと耐え、何よりもわたしたちの魂と命を守り抜こうと決めている、神さまの姿を心に留めたいと思います。
惜しみなく与えられる
2026年7月12日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
何度も聞いたことのある「種まき」の話です。良い地に撒かれた種は、百倍もの実を結ぶけれども、落ちどころのわるい不運な種子は、鳥に食べられたり、石地ゆえに根が張れなかったり、太陽が当たらなかったりして、やがてその命が消えてしまう、という切ない話に聞こえます。種子にしてみれば、自分は一方的に「撒かれて」しまう側なので、状況をいかんとも変えられない、なんとか不幸な人生に落ちないようにと祈るばかりかもしれません。ところでわたしたちは、果たして「種」なのでしょうか、それとも「地面」なのでしょうか。もし地面ならば、生まれた時にすでに良し悪しが決まってしまっていて、せっかく神さまがタネを蒔いてくださっても、地面の状況は変えられない、ということになってしまいます。自身の力で地面の状態を変えることは不可能で、種を与えられても絶望的という話になります。
そう考えると、わたしたちの心中は「良いか悪いか」ではなく、上記4種類の地面が混じって存在しているのかもしれません。つまり神さまは、石地だろうと藪の中であろうと、鳥がついばもうと、惜しげもなくタネを撒き続けてくださっている、そういう話なのかもしれないと思います。
コスパが高いか低いかではなく、たとえその人が心を塞ぎ、一切の期待も関心も神さまに向けていないとしても、無駄かもしれないけれど、いつか奇跡が起きることを信じて、撒き続けておられる、そんな姿なのかもしれないと思うのです。実際、わたしたちの心の中には石地が存在し、照りつける太陽もあり、藪もあります。それどころか、種よりも、もっと大事なことがあると考えていたり、不要と感じる負担感すらあるかもしれません。
そんなわたしたちの心中に神さまは心を痛めるけれども、だからと言って、わたしたちを嫌いになったり諦めたり、タネ撒きを辞めたりする神さまではなく、何があっても撒き続けてくださる、そんな無条件の愛の物語なのではないかと思うのです。
休ませてあげよう
マタイによる福音書11:25~302026年7月5日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
心身ともに疲弊しているとき、わたしたちはまず「寝たい」と思うことでしょう。やるべきことは目の前に山積みでも、明日のことを心配せず、何もかも忘れて力を抜き、爆睡することができたらどんなにいいだろうかと。
今すぐに休みたいという声をいちいち聞いていては、日常生活が回らなくなる現実があることを知っているからこそ、身体の声に耳を傾けることは、きっと大切なのでしょう。今年2月に国内で行われたある調査によると、常に慢性的な疲れを感じている人は、なんと調査対象者全体の6割。身体の中の部位でも、目疲労や肩こりを訴える人が最も多かったそうですが、次に来るのが「精神的な疲れ」なのだそうです。そして精神的な疲れに対しても、多くの人がとりあえず寝る、スイーツを食べるなど、暫定的お手当をしつつ疲れを抱えたまま、毎日を走り続けているというのが現状なようです。
今日の福音書のイエスさまの言葉は、「(労働で)疲れた者、重荷を負う者」と、心身両方の疲労について言及しておられます。しかし、その解決方法として「このようにしなさい」と指示なさるのではなく、「だれでもわたしのもとにきなさい」と言われます。イエスさまの時代には通勤ラッシュも、人口の過剰集中もなかったと思われるので、その頃の「心の疲労」とはどんなことだったのだろうか、想像するのは難しいです。しかし、他国の支配による不条理や不平等、食べていくことの困難さは、人々を精神的疲労へと追いやったことは間違いないでしょう。そしてユダヤ教では「不条理な目に遭うのは先祖や本人のせい」と教えていたので、こんなひどい目に遭うのは、神が「これがあなたに相応しい人生」と定められたから、と信じる圧力が、さらに精神的な疲労へと追い込んだに違いありません。
イエスさまは、「休み」「安らぎ」を与えると約束されています。それは、何があっても、自分自身がどのような状態になっても、「わたしは神さまにとって大切な存在だと信じ続ける」という、イエスさまが私たちに与えてくださった「くびき」を、わたしたちが身にまとうことによって与えられるのではないでしょうか。わたしたちを能力のない者とみなし、すべての疲労や圧力を除去してしまうのではなく、それをモノともしない生き方へと招き、そして共に歩こう!と言っておられるのではないでしょうか。
小さな者への一杯の水
マタイによる福音書10:34~42
2026年6月28日更新
司祭 ニコラス 中川 英樹
マタイ福音書10章の締めくくりである本日の箇所は、派遣される弟子たちへの励ましと、彼らを受け入れる人への祝福に満ちた、温かく力強い主のみ言葉です。
直前でイエスは、弟子たちを待ち受ける迫害や拒絶という厳しい現実を語られました。しかし続けて、過酷な旅路の先で必ず「冷たい水を一杯」差し出してくれる人がいることを約束されます。乾燥した荒れ野の広がるパレスチナにおいて、水は命そのものです。それは貧しい者でも差し出せる最低限のもてなしでしたが、イエスはそこに神の働きのすべてが凝縮された最大級のもてなしを見ておられます。
水を受け取る弟子たちは無力で疲れ果てた「小さな者」であると同時に、キリストと父なる神のメッセージを運ぶ尊い使者です。主は「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れる」と宣言されました。世の目には取るに足りない旅人としての弟子に、神は、大きな務めを委ねられました。その務めこそを「一杯の水」が象徴しています。一杯の水を受ける、一杯の水を与える・・・・それがどれほど特別な使命であるか・・・・・イエスはこの小さな一杯の水の向こうに、神の無限の愛を重ね合わせられます。
数や効率、成果ばかりを追い求め、一人ひとりの命の輝きを見失いがちな現代社会において、イエスが見つめるのは大勢の群衆ではなく「一人の小さな者」です。社会の片隅で渇いている一人に寄り添うことは、世界の歴史を覆すほどの絶対的な価値を持ちます。その行為には必ず「報い」があると主は約束されました。これは見返りではなく、私たちが水を差し出すとき、実はすでに神の圧倒的な愛の泉から生かされているという恵みそのものです。
私たちは自分のことで精一杯になり、他人の渇きに気づけない時もあります。しかし、十字架の上で私たちの渇きを背負い「渇く」と叫ばれたキリストを見上げるとき、そこから尽きることのない命の水が注がれます。この愛をいただいたからこそ、私たちは手元にある小さな「一杯の水」を惜しみなく差し出せるのです。
大きな働きを成し遂げる必要はありません。今週もそれぞれの場へ遣わされる私たちが、目の前の一人を大切にし、優しい言葉や微笑みという「一杯の水」を躊躇なく差し出すことができますように。
人を恐れるな
マタイによる福音書10:(16~23)、24~33
2026年6月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「不幸な人三選」という話があります。どういう人かというと、①感謝や喜びを生活の中に見いだせず不満ばかりが心にある人、②自分はいつも損をしていると嘆く人、③人にどう思われているか常に気にしている人、それが不幸な人の3つの特徴だ、ということなのだそうです。
日常生活の中には感謝や喜びも必ずあるはずなのですが、それらをカウントせず、出来なかったこと不完全だったことのみに目に留め、記憶に残す不幸です。言い換えれば、神さまに支えていただいているという恵みは認めず、身体は動いて当たり前、ご飯を頂けるのは当たり前、家族が無事に帰ってくるのは当たり前で、期待どおりにいかなかったことを数え上げる生き方でしょう。②には、すでに③的な要素が入っていますが、他人と比較し、同じ益が自分にないと「損をした」と感じる不幸です。例えば、親切に「してあげた」見返りを期待する、飢えている人に食料が手渡されると、飢えていない自分は「何ももらっていない」と不満を感じることなどです。③は、他者の価値観に振り回されることが常となってしまい、自分の感じ方は重要ではないと思う不幸です。嫌われないように、非難の対象とならないように生きることが最優先と信じ、本当は価値観や思いは持ってはいるのですが、ないがしろにしてきたので「自分にはない」と思ってしまう人です。
この“三選”の人々に共通する大きな不幸は「神さまがいない」ということだと思います。さしあたりの損得に一喜一憂し、誤解されたらもう世の終わりと感じる一方で、不都合なことは隠しておけば大丈夫と思っています。少しドキッとする言い方ではありますが「隠されているもので知られずに済むものはない」「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と聖書は告げます。さまざまな困難の中でも、まずは「神さまに信頼することが大切」と力説しているのではないでしょうか。窮地に立たされても、誰かの罪を着せられても、不条理を押し付けられても、神さまは知っていてくださる、見ていてくださると。そして、わたしたちの都合や便利に向けて、ではなく、すべてはいつか、神さまのご計画の中で成就していくと、信じられること、それがわたしたちが目指すゴールではないでしょうか。
神の国を告げる
マタイによる福音書 9:35~10:8
2026年6月14日更新
礼拝に参加したことのない人々にとっては、「信者」という種類の人々が、毎週日曜日に集まって「礼拝」を捧げたり、聖書を学んだりするのは、「せっかくの休日なのに、そんなことで日曜日を潰すの?」と感じ、少し奇妙な気持ちになる人がいるようです。それを単なる横槍と思わずに、これまで当たり前だと思い実行してきたことを、現代社会では、何が必要とされているのか、再考することも必要なのでしょう。そんな意味でも、イエスさまとお弟子さんたちは、あの時代、神さまの言葉を伝えるだけではなく、どのように人々のニードに接しておられたのか、そんな視点から聖書を読み返すことも役に立つかもしれません。
今日の福音書は、イエスさまが弟子たちを呼び集め、「弱り果て、打ちひしがれている」人々の間に派遣される話です。その時におっしゃったのは「天の国は近づいた」と告げること。具体的には、病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病にかかっている人を清くし、悪霊を追い払う、それがイエスさまの指示の内容です。亡くなった人を生き返らせるようになど、そんなことはあり得ないし、むしろ「怪しい宗教」とみなされる。イエスさまは無理なことを言われているか、あるいは一部の特別な才能を持った人だけに言われているに違いない、私ではない。そんなふうに感じるかもしれません。 でも、これではどうでしょうか。「あなたが、神の国は確かにあると信じているなら、それを告げなさい。するとあなたは、弱り果て打ちひしがれた人に寄り添い、生きる目的を失って死んだようになった人をもう一度立ち上がらせ、『重い皮膚病』にかかっている人も神に愛される資格があることを宣言し、損得勘定や他人の評価に取り憑かれて身動きできなくなっている人々を自由にしなさい。」
冒頭で出てくる「収穫」を、イエスさまに従う「信者の数」という理解もあるかもしれません。でもそれはイエスさまの意図とは違う気がします。「収穫」とは、社会の隅に押しやられ「自分には生きる価値はない」「神がいるならこんな人生を送ることをよしとされるはずはない」という想いにかられている多くの人が、それぞれの「病」のような状況から解放され、自分の足で立ちあがり、与えられた人生を生き切ることです。その先のストーリーとして、キリスト教のメンバーになるのか、仏教に目覚めるのか、あるいは宗教に関係しない生涯を送るのかは、神のみぞ知る。わたしたちに任されているのは、本心で神の国を告げること、そして告げるための備えをすること、それに尽きるのではないでしょうか。
マタイをよぶ
マタイによる福音書 9:9~13
2026年6月7日更新
さて今日は、マタイという人がイエスさまから召命を受ける話です。ローマ帝国へ税金を納めるために、通行税、人頭税などを集めるために雇われていました。現代の「役人」とはニュアンスが違うようですが、まずは「税を集める役割」をお金で買わないと、徴税人にはなれない。そういう意味では投資をしていますので、元手を回収する必要がありました。さらに、徴税という仕事はしているのに、「給料」はなかったとのこと。ですから、一定の税金額に上乗せをして人々から徴収し、差額を生活費に当てるのは「犯罪」ではなかったようです。でも中には権力を利用して、かなりの私腹を肥やす徴税人もいたので、ユダヤの共同体の仲間には入れず、人々からは距離を置かれていました。経済的には貧しくはないが孤立しており、人々からは「神の恵みに漏れた嫌われ人」「罪人」という烙印を押されていた次第です。
このような背景があったマタイですが、イエスさまは、この「罪人」に自分から声をかけ、食事を共にしていると、さらに徴税人や罪人がわらわらと集まってきます。貧しくはないけれど疎外されている人々もまた、イエスさまの福音を必要としていたのでしょう。しかしそれを見た正統派ファリサイ人は動揺します。あろうことかイエスさまの弟子たちまで同席しています。「イエスはユダヤの律法を守らないのか」これが正統派の怒りですが、イエスさまは(神が)「求めるのは共感であっていけにえではない」と、ホセア書(6:6)を引用して答えます。
でもこの話を、神さまは誰でも受け入れてくださる、この中途半端な私さえ仲間に入れてくださる、という安心だけで止まっていてはならないのだと思います。マタイとその仲間たちとの食事風景を現代風に訳すと、どんな感じになるでしょうか。日本語を話さない外国人や、合理的配慮が必要な障がいを持つ人々が、大量に礼拝に現れたら正直なところ、わたしたちも少しうろたえるかもしれません。でもイエスさまは、そういう方々も招きたい。わたしたちも、思い込みや慣れ親しんだ「あたりまえ」の中で心地よく自己完結するのではなく、神さまがどういう方々に心を砕いておられるか、目を向けて欲しい、そんな呼びかけに聞こえます。
いつもあなたがたと共にいる
マタイによる福音書 28:16~20
2026年5月31日更新
十字架の出来事ののち復活して、お弟子さんたちとしばらく過ごした後昇天する際に、イエスさまが残して下さった言葉です。これからは、目に見えず、さわることもできないけれど、そしてわたしたち人間の理解を越えているけれど、「必ず一緒にいる」という約束です。それは、仕方なく一緒にいるということではなく、大好きだからそして大切だから、あなたと一緒にいることを選ぶ、というイエスさまの意志なのではないかと思うのです。そしてそれは、わたしたちが「神さまを信じます」と口に出して言う時の「信じる」中身は、神さまの絶大な力やラッキーな人生が与えられることを信じるというのではなく、他でもない「わたし」と最後まで、一緒に居続けようとする、そのご意志と愛を信じるということではないかと思うのです。
もし心のどこかが「こんな私は愛される価値はない、ちゃんとできない私のところに神がおられるはずがない」という思いに支配されているときは、生き方も自己完結しがちです。人生がうまくいっていれば舞い上がり、ちょっとつまずくと「自分はなんと不幸」と思ったりします。この世で出会うすべての困難は自分が解決すべきで、それらを乗り越えられないのは駄目だから、という沼にのめり込みます。しかし神さまがいつも共に居ることを繰り返し思い出せる人は、たとえ周りから様々な烙印を押されても、社会が認めなくても、持ち堪えます。「何かができた」から愛されているではなく神は無条件に大切になさることを知っているからです。
でもそれは期待するような順番やタイミングで顕われるとは限りません。わかりにくく、実感できないことの方が多い。だから「信じる」ことには、自らの意思で決断することが含まれているのだと思います。
イエスさまは最後の最後に「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。この言葉をすぐには咀嚼できなくても、神さまが本当に大切にしたいことは何なのか、じっくり見つめていくことは可能です。明日から命と成長を表す「緑」の季節に入ります。晩秋までかかってゆっくりと、イエスさまの示された愛と命の軌道を辿っていきましょう。
弱さに降る聖霊(司祭 中川英樹)
ヨハネによる福音書 20:19~23
2026年5月24日更新
聖霊降臨日を迎えた今日、すべてのキリスト教会は、聖霊の力に満たされて歩み出した自らの「はじまり」を想起します。五旬祭の日、集まっていた弟子たちに降った聖霊は、彼らにそれぞれの言葉で「キリストの復活」という神の偉大な業を語らせ始めました。ここから教会の歩みが始まりました。使徒言行録は、聖霊が降ったとき「皆が同じ場所に集まっていた」と記しています。そこは最後の晩餐が行われた二階の広間であったといわれます。しかし、考えてみれば不思議なことです。弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去った者たちであり、イエスの母マリアや兄弟たちにとって、彼らは我が子を見捨てた者たちです。どうしてこの人たちは「共にいられた」のか。
この人たちに共通していたのは、「イエスを失った」という決定的な喪失感でした。生きる支えを突然奪われ、蹲るしかない。心は傷つき、互いに死の責任を擦り付け合って、罵り合うような、耐え難い現実がそこにはあったはずです。それでも「同じ場所に集まっていられた」のは、復活したイエスが共におられ、「あなた方に平和があるように」と祈られたからにほかなりません。
そしてまた、弟子たちはその場所で「座っていた」と聖書は証言します。「座る」それは伝統的に「祈りを献げている」姿を表します。弟子たちは傷つき、泣きながらも、互いを責め合うことを乗り越えて、「赦し合うこと」を祈り、イエスからの約束の聖霊の訪れを信じて待っていたのです。この「傷つけ合いながらも、赦し合いつつ祈る」姿こそが、教会という共同体のはじまりであったことを私たちは覚えたいとも思います。
時が満ち、聖霊が降ると、弟子たちは聖霊を「待つ者」から「生きる者」へと変えられました。弟子たちが最初にしたことは、神の偉大な業を語ること、しかし、それは「自らの存在の語り直し」でもありました。大切なものを失って揺らいだ自己を、これからの「わたし」へと変容させるため、霊が語らせるままに話し始めたのです。それは、自らの苦しみへの関係を変えようとする、痛みを伴うプロセス、グリーフワークでもありました。
このはじまりの物語は、大切な真実を伝えています。自分の弱さや苦しみを語り直すことは、同じように苦しむ他者を励まし、支えるということです。人は皆、弱さを抱えています。ある人の「弱さの物語」が語られるとき、他の人も安心して「わたしもそうだった」と自分の弱さを語ることができます。それは、強さの前では決して語られることのない物語です。
教会の歩みは「弱さ」の中に始まり、そこに聖霊という風が吹きました。弱さを捨てる必要も、強くある必要もありません。弱さに降る聖霊と共に歩むからこそ、教会は「癒やしの共同体」であり続けてこられたのです。
神の愛に生きる
ヨハネによる福音書 17:1~11
2026年5月17日更新
イエスさまは、十字架で亡くなった後によみがえり、そしてお弟子たちの間に現れて、しばらく一緒に過ごします。そして数十日すると、「神の国」に戻って行かれますが、それを記念するのが「昇天日」(今年は5月14日でした)です。そういうわけで今日は「昇天後主日」。すでにイエスさまは「天」に帰られてしまっているので、大きなろうそくもしまいます。そして来週の日曜日に「聖霊降臨日」を迎えるまでは、不安や寂しさを少し感じる日曜日なのかもしれません。
ところで、「父よ、時が来ました」というイエスさまの言葉で福音書は始まります。実際の聖書の物語としては、これから十字架にかかるその直前の場面なのですが、それは「絶対に引き返せない地点へと足を踏み出す時が来た」というイエスさまの覚悟であり、また、皆を地上に置き去りにして自分は逝かなければならないという切なさが入り混じった、イエスさまの切なる祈りのようにも聞こえます。
そんな福音書の最後は、「彼らもひとつとなるためです」という言葉で締めくくられます。これは、イエスさまの十字架が「キリスト者たちが連帯し、結束するのに役に立つ」という話ではなく、一連の出来事が成就し、神さまの愛を人々が本当に知るようになった時が来たら、イエスさまが神さまと一体であるように、人々はもれなく愛を通してひとつとなることができる、それはつまり、神さまと人々が一つとなることができる、という意味ではないかと思うのです。
イエスさまが地上に生まれ、人々の間で30年余の短い生涯を通じて身をもって伝えられたこと、それは「神さまの愛を知って、愛に生きること。それこそが永遠のいのち」ということではないでしょうか。わたしたちは誰ひとり、完璧な人間ではないけれども、少しでも、一瞬でも、神さまの愛に生きようとするとき、神さまが共にいてくださるのを実感するのではないでしょうか。
イエスさまにつながる とは
ヨハネによる福音書 15:1~8
2026年5月10日更新
「私につながっていなさい」と言われると、なんだか束縛されるように感じるかもしれませんが、イエスさまは自分で「わたしはぶどうの木」だと言っています。そして父なる神は、愛情を持ってぶどうの木を植え、世話をし、育てている、わたしたちはそんなぶどうの枝の一部として伸びてゆく、という話で始まります。しかし、どんなに可愛がられても、ぶどうの木は動けない。好きな場所へ行くことも会いたい人に会うこともままならない。そんな固定的な生き方を神は望んでおられるのだろうかと、疑問に思います。イエスさまは、束縛するために「つながっていなさい」と言われるような方ではないことを、わたしたちは知っていますが、では一体、何の話なのでしょうか。
日本では、ぶどうの木は高棚に這わせて育て、背伸びをして収穫するようなイメージもありますが、イエスさまの時代は、もっとも低い木の代表格だったようです。つまり、木の中でもっとも低い木。自分の力でひなたへ移動することもできず、他の木々の影響を受けながら、自由とはほど遠い生涯を終える。そんなふうに生きた、たくさんの民衆と繋がろうとする、それが神さまの意思だ、と語っているのではないかと思うのです。
また、ぶどうの木やぶどう園という言葉は、ユダヤ教の共同体や神さまの国のたとえとしても使われたのだそうです。つまり「神の国」は、律法学者たちの言うように、清く正しい人々のために準備された場所ではなく、苦しんだ努力も報われず、もっとも「低い木」として地を這いまわって生活した人々と繋がろうとする国。これこそが、ぶどうの木の存在の意味であり、その枝たるわたしたちは、イエスさまとつながるという使命、そしてそれは、もっとも「低い」人々とつながる、という使命があるのではないか、とも読めます。父なる神は「豊かに実を結ぶ」ために、丁寧に手入れをしますが、それは収穫量を増やすという経済効果を狙っているのではなく、ぶどうの木も枝も、「本来あるべき姿」を回復するために、必要な手入れをされているのかもしれません。それはつまり、わたしたちが自力では抜け出せないような泥にはまってしまっている時も、地面に降りてきて、一緒に居てくださろうとする神さまの姿を表しているのではないかと思うのです。
心を騒がせないがよい
ヨハネによる福音書 14:1~14
2026年5月3日更新
「わたしの父の家には住む所がたくさんある」とのイエスさまの言葉は、 ご葬儀の福音書として読まれることでも有名です。これから神さまの計画 は実行されなければならないのはわかっているけれど、これまで目で見る ことができ、声を聞くことができたイエスさまが取り去られてしまうかも しれない、そんなお別れが刻々と近づいています。繰り返し聞いた内容を くまなく理解しているとは思えない弟子たちですが、予告通りだと、それ は考えたくもない未来です。明日が、どうなるかわからない、自分たちは 大丈夫なのか、やっていけるのか。どこへ向かって何をすればいいのか、教えてくれる人はもういなくなります。
人と人とのお別れを経験するわたしたちもまた、弟子たちを同じ気持ちは経験しているでしょう。急なお別れであっても、たとえさようならを言う時間があったとしても、今まで居た人としばらく会えないことが確定。それは親しんできた世界が破壊される体験です。また、自分自身もどこかへ失くしてしまったような、今までの安定と自信が消える世界。捉えどころのない不安です。
しかし、こんなわたしたちに、イエスさまは具体的なイメージを残してくださいました。わたしたちの地上の命が完結したら、イエスさま自ら「落ち着く先」を用意していると言われるのです。それは、これから失う世界を取り戻そうと奔走するのではなく、「神を信じる」ことへと向かう促しです。でもそれは、かなり無理なことを信じるように強制しているのではなく、確実にやってくる「変化」への不安を、拭い去る配慮までしてくださっているということなのでしょう。それはつまり、わたしたちにとっての「居心地のいい世界」を追求するのではなく、「するべきことへ向かいなさい、どんな時も一緒にいるから心配はいらない」という約束に、心躍らせるべきなのかもしれません。
イエスさまの約束を知りながらも、わたしたちは弱く、あっという間に「心を騒がせ」ます。でも、その弱さをも受け止められるイエスさまは、完璧さを求めているのではなく、どんな状況にあっても、この言葉を心に思い出してほしい、と願っておられるのではないでしょうか。
ステファノのこと
ヨハネによる福音書 10:1~10
2026年4月26日更新
日曜日の礼拝の中では通常、旧約聖書から一つ、新約聖書からから2つ、合計3つの聖書が読まれますが、新約聖書の中の4つの「福音書」(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)は、イエスさまの語られた言葉がたくさん含まれているので少し特別扱い。執事あるいは司祭が朗読します。(み言葉の礼拝の中で「第三朗読」として読まれる場合はこの限りではありません)残りの新約聖書の各書は「使徒書」という分類ですが、今回は今日の使徒書に登場するステファノの「祈り」について思いを馳せたいと思います。
弟子たちの中で役割分担が出来た頃のことです。礼拝やお祈りに責任を持ち、イエスさまの教えを人々に伝える役割とは別に、食料の配布や人々のお世話など、人々に仕える(ディアコノス)専門の担当者もいた方がよいということになりました。そこで、その役に選ばれたうちの一人がステファノだったというわけです️。
現在の「執事」という名称の元になっているのが、「ディアコノス」という言葉ですが、ローマの信徒への手紙(16:1)では、フェべという女性が「ディアコノス」(共同訳聖書では「奉仕者」と訳されています)として紹介されています。「執事」は、みなさんもご存知のように、社会の中の弱い立場の人や、見落とされがちな人々の必要を教会へと繋ぎ、それらを顕在化して教会の働きへと促す役割です。そしてその働きは、「夫を亡くした女性たちもまた共同体の一員である」という視点が、イエスさまの弟子を中心とした共同体であっても少し抜け落ちていた(=そこまで手が回っていなかった)という現実からスタートしたわけです。
それにしてもステファノは、「信仰と聖霊に満ちていた」だけではなく、不思議な力を持っていて、困った人を助けることに熱心でした。また、様々な素晴らしい働きを通して、多くの人に勇気を与えました。しかし一方で、そんな彼をねたむ人も出てきます。彼らは、嫌がらせ目的で論争をふっかけたりしますが、ステファノは豊かな知識と深い洞察力によって論点を明確にしきちんと応答します。また、偽証を元に裁判にもかけられますが、ステファノはその意図を見抜き、伝統に固執することが最優先になってしまった結果、神への信頼が二の次になっていると語ります。そしてイエスを十字架にかけて殺してしまったのは、そういう神の愛と離れた生き方だと述べました。もはや弁論でステファノを懲らしめることができなくなった人々は、憎悪にかられて議会から彼を引き摺り出し、町の外へと連れて行き殺害してしまいます。
しかし話はそこで終わるのではなく、ステファノは石を投げられながら、2つの祈りを口にします。一つは自分の生涯の終わりに際し「イエスさま、わたしの霊が肉体を離れた時、受けとめてくださいますね」と祈ります。もう一つは、今まさに自分を殺そうとしている人々のために「彼らがこれ以上罪を重ねませんように」と祈ります。ステファノのすごいところは、殺害を正当化し残虐行為を重ねるような人々の中にさえ、神が創られた人間の姿を見ていたということではないかと思うのです。自分を破壊しようとする人々も、元々は神さまが愛され大切にされた存在。彼が最後まで憎悪を憎悪で返さず、嫉みを妬みで返さなかったのは、善人ぶっていたからではなく、神さまへの絶大な信頼をすべての基としていたからではないでしょうか。
さてわたしたちの祈りはどうでしょうか。「私の思いを叶えてください」と求めるだけではなくて、神さまへの信頼を再確認する祈り、そして命あるわたしたちすべてを愛しておられる存在を再認識する祈りでありますように!
なんとしてでも伝えたい
2026年4月19日更新
「わたしたちが直面する痛みと困難を根底から分かち合うために、十字架にかかってくださったイエス。そして十字架は失敗をあらわすものではないことを伝えるため『復活』さえしてくださった」それを心に刻み、お祝いするのがイースター。これで神さまの計画は完結したはずなのですが、復活後あちこちに現れ、散らばった弟子たちもちゃんとイースターを理解しているか、気になって仕方がないイエスさまを描いているのが今日の福音書ではないかと思います。昨日今日神と出会った人も、数十年すでに経っている人も、そしてまた一緒に行動してきた弟子たちでさえ、「十字架と復活」が腑に落ちるまで、イエスさまのサポートが必要だった、そういうことなのかもしれません。
今日の福音書の舞台は、エマオ(エリサレムに近い)へ向かう街道添い。時は十字架刑が行われた3日後のこと。お墓に行った女性たちから「イエスが生きている」と聞いているものの、表情は暗く、何の用事かエマオへ向かう弟子2人です。潜伏するも危険と感じたのか、逃げた後悔からかエルサレムにはもう居られないと思ったか、理由はわかりません。町のうわさ話の域を出ない口調で、十字架の一件を話題にしながら最初は誰が一緒に歩いているのかさえ気づきませんでした。
やがて夕暮れとなり、宿をとった家で夕食のパンを裂いた時、急に「実はイエスさまとずっと一緒だった」と知ります。これからどんなことがおきるのか、イエスさまから何度も聞いていたにもかかわらず、リアリティが全くなかった弟子たちです。そして結局は、町の人やファリサイ派たちとあまり変わらぬ期待を持ち、力強い神の子ではなかったことにガッカリ落胆し途方にくれていた様子が描かれています。
でもイエスさまは、そういう彼らを見捨てるのでもなく、エマオまでやってきてなんとしてでも励まそうとされます。わたしたちもまた、「復活は知っている」と思いながら、でも実際は暗い顔をしたまま、魂に喜びがなく燃えた心もなく、不安や心配の錘を身にまといながら、日々を進むとき、十字架と復活の意味を十分には理解していない弟子たちと近いのかもしれません。イエスさまは一見無駄にもみえるエマオへの遠回りさえ厭わず、なんとしてでも「どんな時も一緒にいますよ」と必死になってわたしたちに伝えようとされる。「復活」は、完成した出来事ではなく、わたしたちの心に、今も静かに染み込み続けているのでしょう。そしてイエスさまをわたしたちの心にちゃんとお迎えしたときに、復活が本当にやってくるのかもしれませんね。
イエスさまによる「平安」
ヨハネによる福音書 20:19~31
2026年4月12日更新
純粋な気持ちで神さまを仰ぎ見ることは、保育園のこどもたちから、わたしたちが学べばいいかというと、現実は、そんなに単純ではありません。自分にとって都合のよい神の姿を描き、期待通りに「神」から恩恵がやってこないと失望し、「何故わたしを放置するのですか」と詰め寄ったりします。これらの期待は、神さまを「信頼」しているようで、その実は人生が有利になる手法として神を利用する、そのための幻想、ということになりかねない側面も持っているのでしょう。
今日の福音書では、イエスさまに逢う機会を逃したトマスという弟子が、「実際にさわらないでは信じない」と言い放ち、他の弟子たちから顰蹙を買います。皆が「イエスさまが来た」と盛り上がっている空気の中です。でももし適当な幻覚に皆が依存しようとしているのなら、自分は断固として屈しない、神さまを利用したい依存したい、という心に蓋をして、信じていることにするような空気には同調したくない、というトマスにも聞こえます。この真摯さ率直さ、そして弱さをさらけ出すトマスの信仰に、イエスさまは心を揺さぶられ、もう一度トマスのために出現したのでしょう。
イエスさまの十字架によって伝えられたのは、わたしたちのあらゆる欲を満たす上昇志向のための神ではなく、あくまでも心の中の漆黒の闇に降りてきて、「最低」も「最悪」も体験され、そしてそれらを抱えた人々と共に過ごした神です。それは、目を背けなくなるような惨めな自分に対しても、逃げ出したり見なかったことにする神ではなく、支配下に置いて束縛する神でもなく、愛のうちに受けとめてくださる神です。
イエスさまが、命と引き換えに教えて下さった「愛」を、心の真ん中に据え、神さまが共に歩き続けてくださることに信頼し、平安とともに人生を進んでいきましょう。「平安があるように」と挨拶をしてくださるイエスさまと、出逢い続けましょう。イエスさまによる平安が常にあると信じると、自分の弱さも単なる弱さではなくなり、痛みも単なる痛みではなくなります。「何があっても私は覚えていただいている」と信頼し続けましょう。
日常の中にいる神
マタイによる福音書 28:1~10
2026年4月5日更新
「復活」。わかるようで、わかったつもりになっているかもしれないこの言葉は、教会の中でずっと使われてきました。失ったもの、消えたものが元のかたちへと戻る、息を吹き返す、といった意味ですが、イエスさまがわたしたちのために「復活してくださった」という意味。それはそれで否定はしないとしても、それではわたしたちの日常生活にとって、それはどのような意味と力を持つのでしょうか。
ひとつは、イエスさまの死は「失敗ではなかった」ことを表すものなのかもしれません。「十字架による処刑」は、社会的には人生の「惨敗」です。神の愛を伝えようと頑張ったけれどうまくいかず、まだ若いのに、志半ばで、極悪人として命をとられた。それは本人にとっても家族にとっても、痛みと恥と苦しみでしかないお沙汰です。しかし実は、死と復活を含むイエスさまの生涯まるごとが神の計画の一部であり、失敗ではなかったと、わたしたちに伝えているのではないかと思うのです。それは出来事としての復活というよりは、イエスさまが人々と共に生きたその生涯そのものが、福音〜良い知らせであった、と告げているのではないでしょうか。
もうひとつは、死の持つ力を台無しにする「復活」です。現代でも同様かもしれませんが、人と人を分断し、2度と元の生活を取り戻せなくなる死。とりわけ家族や友人など、心から愛する親しい人との別離は、自分の命をももぎ取られるような喪失感を伴い、前の自分には戻れないような気持ちになります。しかしそれは絶対的な喪失ではなく、その先があることを伝える目的もあるのではないかと思います。
そして聖書は、復活を学問的に説明するのではなく、墓へ行った女性たちが会った天使の口を通して伝えます。「ガリラヤに行け、そこでイエスに会える」と。神が共にいるのは、信仰の中心地エルサレムではなく、栄えた商業地でもない。むしろエルサレムから百キロほど離れた北の果てガリラヤ。それは、ガリラヤが神聖な土地だという意味ではなく、イエスさまやその弟子たちが日常的に活動していた現場であり、神が気にかける多くの抑圧された人々が生きる生活の場。そこでイエスさまに会える、と告げているのではないでしょうか。つまり、わたしたちの日常の場で、イエスさまと再度出会い、そして一緒に過ごすよう、招かれているのでは。
「都合のいい神」を超えて
マタイによる福音書 26:36~27:66
2026年3月29日更新
「苦難のしもべ」とよばれる、今日の旧約聖書 イザヤ書52〜53章は旧約聖書に描かれた神のイメージです。ユダヤ教の伝統では、男の子が一定の年齢になると旧約聖書を朗読する訓練を始め、そして全部ではなかったにしても重要箇所は暗唱できるようになることが、一人前の成人男性として認められる条件だったようです。おそらくイエスさまも、このイザヤ書を、幼い頃から繰り返し読んでこられたことでしょう。
昨今の物価高に苦しんでいる人はたくさんいますが、当時の社会情勢もローマ帝国の圧政により苦しんでいました。他の国に支配されるとは、自国に対しての決定権がないことであり、搾取されても不正がまかり通っても、それに否を唱える手立てがないという状況です。しかもそれは、今日昨日急に始まったことではなく、人々の記憶や先祖の言い伝えの中からずっと、長年に亘って行われてきた不正でした。
イザヤ書にこのような「神」が描かれていても、そこを繰り返し読んでも気がつくと即効性のある、「不正を一掃する力ある神」を求めてしまう。そんな期待の中、イエスさまが「救い主」として来られた以上、絶対的な神の力によって社会をひっくり返し、自分の生きているうちに理想郷を実現してほしい、他の宗教を廃して、ユダヤ教が特別に擁護されるようになる、そんな妄想があったかもしれません。人々は、それぞれ自己都合のシナリオを捏造し、自分の期待する「神」をイエスさまに重ね合わせ、そして裏切られたと思う。そんな様子は、エルサレム入城の際に歓呼と共に迎えた民が、数日のうちに「十字架につけろ」と絶叫したと聖書は伝えます。
イエスさまが提示したのは、民の期待とは対極をなす「苦難のしもべ」の姿でした。「輝かしい風格も好ましい容姿もなく、〜軽蔑され、人々に見捨てられ〜多くの痛みを負い、病を知っている」神。そして社会を変革する前にあっけなく命をとられる神。何故今すぐ社会を変えてくれないのだ、と焦る人々は、怒りや憎しみをイエスさまに向けることになる。でも、イエスさまの使命は、「石をパンに変える」ように、目先の政治体を破壊し、力尽くで支配の座に着くことではなく、満足感を一時的に満たすことでもなく、神の愛を知らせることでした。そしてそれは、2千年を経た今でも、わたしたちに伝わり続け、そしてわたしたちを導き続けています。
心と身体と魂が生きる
ヨハネによる福音書 11:17~44
2026年3月22日更新
聖書にはたびたび「死んでいた人が生き返る」話が登場しますが、数千年前に起きた「生き返って良かった」話のどこに、福音を見いだせばよいのか、わからない気持ちになります。イエスさまが生きておられた時代は現代医学の考え方とは異なり、説明しにくいことも人々は受け入れていたのかもしれませんが、今生きている私たちの知っている誰かの命を助けることとは、あまり関連がありそうにない話です。旧約聖書(エゼキエル書)でも福音書のラザロの話も、生き返った人々は、あまり遠くない将来にいつか亡くなるわけですから、この「延命」はどういう意味があるのか、さらに不可解です。
ところで現代では、身体の不健康は分かりやすく、熱が出たり立っているのがしんどかったりすると、自分でもすぐに気がつきます。また、心についても、誰とも会いたくないし、しなくちゃいけないことは山ほどあるのに、何も手に付かない期間が続くと、医者に行ってみようかなと思う人もいるでしょう。しかし魂はどうでしょうか。魂の不健康さは、人に意地悪をしても平気、法律に則れば不正も大丈夫、人を騙し自分にも嘘をつくといった症状として現れます。でも、一般的にはそれを「魂が不健康な兆候」とは認めず、むしろ要領がいいくらいに思う。しかしながら、ユダヤ教の影響を多分に受けているキリスト教なので、人の身体と心と魂は、別々に機能しているのではなく、互いに影響し合っていると理解します。「健康」と「不健康」の境目はそんなはっきりしたものではないにしても、放っておくと気がつかないうちに、「不健康」が定番になってしまう。すると、その方が快適な気すらしてきます。このラザロの話にしても、肉体が死んだら決定的にすべてが「終わり」となるのではなく、まだその続きがあることを、そしてそれはこの世の概念とは異なり、人間には計り知れない世界がある、ということを示しているのかもしれません。
自分の魂と心が「死にかかっている」ことに気がつかない人は、ひょっとしたら多いのかもしれません。気がつかない人に罰を与える神ではなく絶え間なく常に命へと導き続ける神に信頼し、自分のもそして他人のも、等しく「命」を選ぼうとするわたしたちでありたいと思います。
気がつかない目
ヨハネによる福音書 9:1~13、28~38
2026年3月15日更新
エルサレムでの出来事です。イエスさまとお弟子たちは、町の中を歩いているときに、目の見えない人とすれ違います。すかさず彼らは尋ねます。
「この人が、生まれつき目が見えないのは、誰の罪のせいですか?」これを聞かずにはいられない情景を想像すると、ちょっと嫌な感じもしますが、お弟子たちの心の中は、結構複雑なものがあったかもしれません。
イエスさまのお弟子さんたちもまた、生まれつき目が見えない人は、罪と関連していると決める律法の中で育ちました。なおのこと、それを見た町の人々は、それまで「罪の子だ」と見下してきた人の目が見えるようになると、急に自分たちと同等に並ばれることに不安を覚えたのでしょう。ファリサイ派の人々のところに連れて行き、律法がどう裁くか、納得のいく答えを求めます。しかしファリサイ派の人々も混乱している様子が、聖書の中に赤裸々に描かれます。ファリサイ派の混乱は、ユダヤ人の中へと広がり、また本人に聞くことになりますが、その人は最初から一貫して主旨を変えてはいません。最終的にはユダヤ人たちも理解することができず、エルサレム市街地から追い出します。それを聞いたイエスさまはこの人と再び会い、その人の中に信仰が宿ったことを確認します。
この物語を振り返ってみると、お弟子たちにしても、近所の人々にしてもそして両親も(息子に物乞いをさせている両親というのも悲しいですが)、またファリサイ派・ユダヤ人たちも、何かしら「失うもの」の多い人々です。それは必ずしも物的な事ではなかったとしても、イエスさまとかかわることによって、生活の安定や社会的地位が揺さぶられることを恐れたのでしょう。そして何よりも恐れたのは、彼らが信じる価値観が破壊されることだったかもしれません。理解できないことが起きても、神の恵みの中にいる保証を得ていると信じてきた、そして、その中にいないように見える人々を、上から目線で眺めていたが、立場が逆転してしまう。「罪」の中にある人々を共同体から排除することが正義だと信じてきたのに、イエスさまの言動によって、ひっくりかえされる出来事でした。
わたしたちも「現代の律法」にどこか縛られていませんでしょうか。全く縛られない状態は無理としても、もしその律法を根拠に、誰かをどこかで見下している気持ちがあれば、それはイエスさまが望んでおられることの対極かもしれません。
大切なことを抱きしめる
ヨハネによる福音書 4:5~42
2026年3月8日更新
ある夜、教区での会議の帰り道、混んだ地下鉄の車両の床に、ころっとしたピンク色の財布が落ちているのが目に止まった。人々はそれに気がつきながらも眺めるだけでかかわらない。人々は降りまた乗り込んでくる。拾う人もないままに、やがてわたしは自分の降りる駅を迎えてしまった。しゃがんで財布をつかみ、立ち上がった。ところが驚いたのは、(誰かが拾ってくれて)「ホッとした」ではなく、一部始終を見ていた人々が「あ〜あ、あいつ拾いやがった」という、突き刺さるような視線を、一斉に向けてきたことであった。人々は、落としものを「自分のものにした」という烙印を押されないために、財布と関わらなかったのだ。「人にどう思われるか」がとにかくお大事という世界観に、少し驚いていた。
しかしながら、イエスさまの時代は、もっとパワフルな世界観が人々を覆っていた。ユダヤ教文化を守るため、タブーとされる人種は、人として扱わない、助け合わない、かかわらない。今日の福音書に登場するサマリアの女性にとっては、まずその「かかわらない」対象者である自分に、水をくれと話しかけるイエスさま、というシチュエーションが、信じらない行動だったに違いない。つまり、サマリア人を軽蔑しているユダヤ人の、しかも男性が「水を分けてもらえないか」とお願いする。この女性が不審に思っても不思議はない。たとえ親切に水を分けても、別ストーリーが何かあり、はめられて自分が恥を晒すだけではなく、サマリア共同体からも非難を受けるのではないか、孤立するのではないかと、一瞬にして不安が彼女を襲ったかもしれない。そもそもこの男性と話をしていて自分は安全なのだろうかと、この女性は気が気ではなかったかもしれない。しかし、イエスさまとこの女性との会話はさらに深まっていき、人としての生き方や魂の救いへと発展する。
信じられないことは、まだ続く。その町に住むサマリア人たちが、女性の言葉を聞いて、イエスさまのことに耳を傾けるようになる、神さまの愛を信じるようになる。さらにイエスさまは、ユダヤ人としては近寄ってはいけない人々の家に泊まり、2日間も一緒に過ごされる。常識や宗教やそれまでの軋轢を越えて、また「人にどう思われるか」を超えて、サマリアの町に神さまの愛が広がっていく。
わたしたちの日常は、どうだろうか。先々のことが思い浮かび、最も優先すべきことを後回しにしていることはたくさんある。それは経験上、軌道から外れて皆が期待する以外のことへと乗り出した嫌な体験をたくさんしているからだ。でもイエスさまと向き合うことによって、この女性が変えられ、彼女が圧力を感じていた共同体も変えられていく。そんなイエスさまの愛と力は計り知れない。
「あきらめてしまえ」という誘惑とたたかう
創世記 12:1~8
ヨハネによる福音書 3:1~17
2026年3月1日更新
本日は福音書ではなく、旧約聖書の物語についてのお話をしたいと思います。(創世記第12章)
アブラム(のちのアブラハム)一家は代々、ウルという肥沃な土地に住んでいました。現在のクウェートから少し北側になりますが、当時はペルシャ湾にも面しており、作物がよく実り、商業的にも栄えた町だったと言われています。そんな便利で安定した都市生活を捨て、アブラムの父であるテラは一族を率い家畜も連れて、ウルを出発します。アラビア半島の付け根をはるばる500キロ余北西へ旅先のハランで、テラは突然亡くなってしまいます。どこへ行く予定だったのか聞いていないし、これからどうしたらいいのか、誰を頼ったらいいのか、長男のアブラムは茫然とします。
すると、そんなアブラムに神の声が響きます「おまえの国、故郷、父の家から出て、私が見せる土地へ行け」(直訳)。そこでアブラムはまた旅支度を整え、今度は南下してカナンという土地に入っていきますが、そこでも安住はなかなか得られません。飢饉によるエジプト退避、家族間の対立の苦しみ、生存のため近隣の王との政治的な駆け引き、家族内の問題、息子イサクの件。さらには、アブラムの孫に当たる世代から、再びエジプトに住むことになりその苦難は400年間続くという予告など、安心平穏とはほど遠い人生が続きます。
こんなことなら、ウルを出なければよかったと、アブラムは何度も思ったにちがいありません。しかも自分一人ではなく家族(というか民族全体)の先頭に立たされ、財産(家畜や財宝)の責任を負わされ、不幸の連鎖をうむきっかけを作ってしまい、うまく治めたつもりがドロドロの収拾不能な人間関係を作る。あまりの不安定さと先の見えなさに、「いったい自分は何をしているのか間違えたのか」と、辞めてしまいたくなる衝動もあったことでしょう。
私たちの日常生活もそうです。たとえ、人に良く思われようという動機ではなく、誰かがやらねばならないと信じてはいても、何のための苦労なのか遠回りなのか理解できないことも多く、全部無駄に見えてしまうことがあります。でもそこに自らの動機はなく、でもそうすることが正しいと思う時、私たちの理解を超える神の計画が、そこに着々と進んでいるのかもしれません。特祷で「魂を襲う悪念を除き」と祈ります。私たちにとっての悪念は、意味が見えないならやめてしまえ、という悪魔のささやきかもしれないと思うのです。
誘惑とたたかう意味
マタイによる福音書 4:1~11
2026年2月22日更新
今年は2月18日から大斎節(イースターを迎えるまでの日曜日を除いた40日間)に入りました。イエスさまが荒野で、さまざまな誘惑を退けたことに倣い、日頃は目をそむけている「自分の弱さ」と向き合う期間でもあります。しかし自分の弱さと向き合うのに、自己満足や達成感を目的にしてしまうと、それも違うような気がします。まずは、イエスさまが遭われた誘惑について注目したいと思いますが、3つの福音書:マタイ、マルコ、ルカに登場し、3年ごとに交代で読むことになります。
一つ目の誘惑は「神の子なら、この石にパンに変わるよう命じてみたらどうだ」。村や町を回ると、飢えているこどもや職を失った人の痛みで満ちています。貧しい人々が苦しい労働に耐えても、それで手に入る食糧品はほんのわずか。食べることも大事ですが、それだけではなく、生きる喜びや意義についても飢えているのかもしれません。その場限りの充足を与えることも、イエスさまにはおできになったと思いますが、そうはされませんでした。
二つ目の誘惑は、「飛び降りたらどうだ。あなたの神は信じるのに足りるのか、ちょっと試してみてはどうか」という誘惑です。神を試したその瞬間は結果を得られるでしょうが、それでも1秒先は暗闇です。神を試せば試すほど、その暗闇は濃くなっていき、試したとたんに更に深い不安に囚われていくことになるでしょう。
三つ目は「世界中の権力と繁栄を与えよう、もし私を拝むなら」です。権力と繁栄を手に入れたら、人類全体に「神の愛」を広げることも、人々を苦しめる愛のない行動を排除することもできるはず。人の道に外れた政治を行う皇帝たちを、権力の座から追い出すこともできたのでしょう。しかし、肉体を持ったイエスさまが、人々を護るために永遠に「悪者」を追放し続けることは不可能です。「誰かが何かをしてくれるのを待つ」だけの人々を作ってしまうのかもしれません。
イエスさまは何の迷いもなく、神さまの計画通りに淡々と、十字架への道を歩まれたようなイメージがあるかも知れませんが、神ではなく完全な「人として」生涯を送られた意味は、心の中の確信も、目に見える証拠も、また整った環境も最初からあったわけではない、孤独と不安と、時には恐怖と対峙しながら、一歩ずつ進むイエスさまだったに違いないと思うのです。私たちも、いざ自分の弱さと対峙すると、ゾッとするような思いに駆られることがありますが、それはじゃあどうしたらいいのか、といった先が見えず、頑張ったご褒美も見えないからです。でもそれが現実を見つめるということなのかもしれません。イエスさまはこの誘惑を通して、十字架への備えをなさいました。わたしたちはどのような準備が必要でしょうか。
あなたはわたしの愛する子
マタイによる福音書 17:1~9
2026年2月15日更新
今日の福音書もまた難解です。光のように白く輝く衣、イエスさまと語り合うモーセとエリヤ、この光景を見ていた弟子たち。いったいの誰のための何のお話なのか必要性が見えない気がします。もちろん様々な「解釈」はできますが、それが即「今日」を生きる力になるかというと、ピンと来ないのが正直なところです。
今日の特祷でわたしたちは「自分の十字架を負う力を強められ、〜主と同じ姿に変えられますように」と祈ります。「主と同じ姿」になるとは、十字架上で苦痛を味わうことではないとは思いますが、では何をもって「主と同じ姿」になるのかと考えると、1つは「わたしの愛する子」と呼びかける神さまの声を、イエスさまのようにわたしたちも聞けるようになることが「主と同じ姿」なのかもしれないと思うのです。それは、簡単なようでいて、しかしなかなか難しいことかもしれません。
「わたしの愛する子」とイエスさまが告げられるのは、いわゆる「親子関係」だからではなく、神の愛を信じている「わたしの子」とも聞こえます。つまり、「わたしの愛する子」という呼びかけは、イエスさまに限定されているのではなく、わたしたち個人に対して、わたしたちのいかなる状況に対しても告げられている言葉であり、しかも「人類」というグループ全体に向かって「わたしの愛する子たちよ」と言っておられるのではない。むしろ他でもない「わたし」という存在に向けて、聞いてほしいという切なる願いとともに、心を込めて渡された言葉ではないかと思うのです。
でもわたしたちは聞けないことも多い。辛い目に遭っているとき、「ほかの人は愛されているが、わたしはいらない人間なのかもしれない」と感じる。「こんなに孤独でいることを誰も知らないし、神にとってもどうでもいいのかもしれない」と思う。そんなふうに否定的になってしまうのは、再び自分にガッカリするのも怖いし、神を信頼することはとても勇気のいることだからです。負いたくない十字架、人々からの愛のない言葉、親しい人々の無理解の中で生きなければならないとき、「神さまは、本当にわたしを愛されているのだろうか」と、神への信頼はぐらぐらします。
でもわたしたちは、「神さまの心にかなって」造られました。目に見えない神さまは、わたしたちを、目に見えるいのちとして造り、それぞれ個性溢れる人間として創られました。自分で自分の「個性」が気に入らないときもあります。でもそれは神さまの目には尊いもの。「自分がなんとかしなければ」と力んでいるときには感じにくいですが溢れるばかりの愛と慈しみ、そして必要な勇気が与えられていくと、心の底から信頼するとき、わたしたちは主と同じ姿に変えられていくのではないでしょうか。
「幸い」なのはだれでしょう
マタイによる福音書 5:1~12
2026年2月1日更新
今日の福音書を読んで、「やがて慰められるのだから、今悲しむ人々は幸せなんだ」と言われても、正直なところ納得はできない。あとで慰められるのならば、なぜ待たせるのか、今すぐに実行していただきたい、と思うのが常です。そして自分のことではなく、悲しみの渦中にある他者に対して、悲しくはなく困ってもいない人が、気休め的に「今はわからないかもしれないが、悲しさの中には幸いもあるのだから、あなたはそこに留まるべき」などと言うなら、それはもうのろいに近いかもしれません。
しかし上記の会話は、なかなか笑えないところがあって、差別を増長したり、支配/被支配の関係を固定化したり、あるいは束縛からの解放を諦めさせるために、この箇所を乱用していた時代もありました。
かつてはもっと酷いかたちで横行していた人種差別や性差別もそうですが、現代でも、倒れそうになりながらも家族の介護を押し付けられていたり、「ご奉仕」の名の下に、教会の中での役割分担も偏ったまま。そんなことが起きる根底には、この聖書の読み間違いもあるのかもしれません。自分の置かれた実情を変えられない苦しみは、精神的肉体的に疲弊するというだけではなく、「あなたはそういう仕打ちに、ふさわしい人間なのだ」というメッセージが本人を傷つけている場合もあります。
旧約聖書の世界では一般的に、律法を守れる人が幸せ、守れない人は不幸せという概念がありました。本人の努力ではどうにもならない貧困や家族関係、障害や怪我、病気も「不幸」の烙印でした。ところがそんな常識を、イエスさまはひっくり返します。貧しさを知っている人、どうにもならない悲しみを抱えている人こそが、神のいつくしみの中にあると。
いったい何を根拠に?とは問いたくなりますが、理屈ではないのでしょう。人々の暮らしの中にある貧困も悲しみも、イエスさまはよく理解され、わたしたちもその状態に追い込まれないうちは、知ることのできない真理が何かそこにあるのかもしれない、そんなふうにも思います。悲しみに遭い、苦しみが去らないことは嫌ですが、そこから脱却できない自分を責めるのはやめ、必要以上に恐れずに、進むよう促してくださっているのではないでしょうか。
「人」として生きる
マタイによる福音書 4:12~23
2026年1月25日更新
「大きくなったら、何になりたい?」こどもの頃、よく大人たち(親戚なども含め)から聞かれた質問です。しかしそれは、一人の女の子の将来を一緒に夢見ようという申し出ではなく、「お嫁さんになりたい」が望まれる正解でした。それ以外の職業(?)を口にすると、「もう少し大きくなったらわかるよ」などと諭される。お嫁さんから生まれた女子は、お嫁さん以外の職業選択の余地はない、という閉塞感が苦手でした。ましてやイエスさまの時代のこどもたちは、女の子も男の子も何かを選ぶ自由はなく、好きじゃなくても疑問があっても、生き方は決まっていた。もし自分が、その時代に生まれていたらと想像すると、絶望的な気分になったことを覚えています。
今日の福音書に登場するペテロとアンデレ、そしてヤコブやヨハネが、「すぐに網を捨てて(イエスさまに)従った」のは、信仰深かったからかもしれませんが、長い間抱えていた「自分の人生これでいいのか」という問いがまずベースにあり、そしてついにイエスさま本人と対面したことで、社会の常識と保護を手放す決心がついたのではないか、そのようにも思います。
ところで問題は、「人間をとる漁師にしよう」(19節)というイエスさまの言葉です。読み方によっては、魚を捕まえて食べる目的と同様に自分の腹を満たすために、あるいは商品として利用するために人間を捕獲する、という話に聞こえてしまいます。しかし、この原文を見ると、マタイでは「あなたを人間の漁師にしよう」という言葉が使われ、またルカの並行箇所(同様の内容の別の福音書)では、「生どりにする」という言葉が使われています。漁師は漁師でも、消耗品としての労働力なのではなく、「人」として生きることへの招きの言葉であり、「人」を利用するのではなく、「生」かせるために働いてほしい、それがイエスさまの本意なのではないかと思うのです。重い肉体労働を伴い、人々の暮らしには欠かせない魚を供給する仕事であるにもかかわらず、社会的にはそれほど尊敬もされず、やがて労働ができなくなれば使い捨てのコマとして忘れられる、そうなる人生と諦めていた彼らに対し、神はそのようなことを望んでおられない、「あなたはかけがえのないひとりの人。人生を諦めないでほしい」そんな神さまの望みを受け取った彼らであったのではないかと思うのです。
またイエスさまは、まるでバプテスマのヨハネのように、「悔い改めよ、天国は近づいた」と伝えはじめました。人々の目に善いことを行うと天国が近づくのではなく、イエスさまから声をかけられたから天国が近づくのではなく、全ての人に、特に「自分は恵みから漏れている」と感じてきた人々に、「他ならぬあなたのために、すでに神が準備をされている」と、自分のこととして聞いてほしい、それがイエスさまの宣教の始まりでした。イエスさまを通じて、必死に伝えようとされた神の声は、わたしたちにも聞こえますでしょうか。
「ゆるし」の認識
ヨハネによる福音書 1:29~41
2026年1月18日更新
先週も「バプテスマのヨハネ」が登場しましたので、顕現節に入り2度目の登場です。水による洗礼のことも、「鳩のように霊が天から降った」ことにも言及していますので、イエスさまに洗礼を授けた後の展開のようですが、ヨハネがイエスさまのことを、二度も「神の子羊」「私は知らなかった」とくりかえしていることなど、そう簡単には理解しにくい箇所かもしれません。
「世の罪を除く神の子羊よ」と、わたしたちは聖餐式のたびに歌いますが、そもそも何故、イエスさまを「子羊」に喩えているのでしょうか。旧約聖書のレビ記には、人が何か罪をおかしてしまった時、罪を償うために自分で何かするのではなく、「欠陥のない」羊をつれてきて、その頭に手を置き、自分の身代わりにする。そして、その羊を「いけにえ」として捧げると、人間の方は「罪を赦された」ことになると書いてあります。人間の罪の大きさや種類によって、雄牛や雌羊、あるいは鳩だったりしますが、いずれにしても罪のない動物に罪を負わせて自分が赦される、という慣習は、現代のわたしたちにはとうてい理解し難いものでしょう。
しかしながら、動物の犠牲を捧げることは、なかなか大きな負担です。貧しい人ではなくても、牛をまるまる一頭、いけにえとして捧げるのは、とても痛い出費でした。しかしもし「牛一頭分と同等の、大きな罪を犯してしまった」ときちんと認めることからしか、再び立ち上がることはできないのであれば、そんな方法も仕方ないのかもしれません。牛を犠牲にする前に「罪を犯した」という認識が持てれば、出費を抑えられたのに、とも考えてしまいますが、痛い思いをしないと真実に出会えない、それが人間なのかもしれません。わたしたちが神さまの愛を疑わず、自分ではなく神さまによってゆるされ、生かされていることを信じ、喜びと感謝で満ちた生涯を全うしているならば、イエスさまをわざわざ十字架にかけて死なせなくてもよかったのでしょう。使者や預言者を何度送っても、同じ間違いを繰り返す人間に対し、神さまはスッパリと諦めるのではなく、牛や羊とは比較にならない大きな犠牲を払ってでも、あなたに再び立ち上がってほしい、幸せに生きてほしい。そう言い続けておられるがゆえの「神さまの子羊」なのではないでしょうか。
「神の家族」ということ
2026年1月4日更新
暦の上では、今日は3つの福音書から1つを選ぶようになっています。それでも特祷ははっきりと「聖なる家族」という言葉でまとめています。読み方にもよりますが、「ナザレで生活されたイエスさまのご家族にならい、わたしたちも神のもとに連なる兄弟姉妹として教会生活を送ろう」とも聞こえます。でもわたしたちが真似をしたいような、憧れの理想的家庭生活を、イエスさまたちは送られていたのか、というとそれは疑問に思います。
臨月の妊婦マリアと、一緒に住んだこともないヨセフの家族生活は、まず山や谷を越え100キロ以上に及ぶ旅から始まりました。いざ出産の時が来ても泊まる場所は用意できず、生まれ落ちたのは糞塗れの家畜小屋。助けを求められる人もいない土地で、わざわざ訪ねてきてくれたのは文化も風習も異なる外国人(3名)、そして当時は真っ当な職業とはみなされにくい羊飼い。さらには、王による男乳児殺害命令が下り、急ぎ親子三人は国外へ逃亡。そんないつまで続くのかわからない避難生活が、彼らの「家庭」の始まりでした。
しかし困難は外からだけとは限りません。いきなり始まったマリアとヨセフの同居生活には、何処から来たのかわからない新生児が最初からいました。また、故郷に戻ったところで、地元民による中傷や陰口もあったことでしょう。マリアとヨセフが一人の人間として出会い、互いの違いを受け入れて家族となっていくその前に、とにかく生き延びていかねばならない現実が目の前にあり、そこには1ミリの綺麗事もなかったのではないかと思うのです。
この寒い冬を迎えて、諸外国でもそして国内でも、命の危険に晒されている人々がたくさんいることを覚えて祈ります、イエスさま、あなたは生まれたその瞬間から、居場所のないつらさ、雨や風に晒される苦しみ、飢えや乾きによる命の危険の現実へと投げ込まれました。命を守るため、生きるために必死でたたかう人々の痛みを、あなたはよくご存じです。あなたは彼らのまっただ中におられ、その人々を家族と呼ばれます。あなたの家族のひとりに加えていただくために、わたしたちの理解の足りなさに目を開かせてください。またそれらを受け入れる勇気とちからを、どうぞお与えください。わたしたちの全てを受け入れてくださる神の名によって、アーメン
ことばは、わたしたちの間に宿った
ヨハネによる福音書 1:1~18
2025年12月28日更新
神さまは目に見えません。(見える人もいるかもしれませんが)手でつかむこともできず、音としてその声を聞くこともない。風や香りでもない、いかなる「かたち」にもなり得ないので、どこかに閉じ込めておくことができない。それが、神という存在ですが、ではどうやってわたしたちは「神がいる」と信じることができるのでしょうか。
確かにおられる、という証拠を示すために、あるいはそのことを信じるために、すがる「しるし」や「物」を求めがちです。それを知っているわるい人々は、神と人間の間を取り次ぐ風を装い、ニセモノの「しるし」を売りつけてきたりします。でもそれは、物品だけではなく、「これさえやっておけば、本心がどうであろうと、神は確保できる」という囁きも同様でしょう。
本当は、自分で偽物か本物かを見わけられれば良いのですが、実際はなかなかそういきません。あれこれと道に迷ってきた歴史ばっかりです。その度に神は、預言者(神の言葉を預かって人々に伝える人)を送り、助けてくださいました(旧約聖書の物語による)が、苦難も喉元過ぎれば何とやら。すぐに神の慈しみも忘れ、再び道に迷う生き方を繰り返してきました。
そんな何千年もの時間を経て、ついに神は人々に対し、目で見ることができ、声を聞くこともできる存在に「イエス」と名前を付け、生きている人間として、人々の間に送ります。この神は人間として生きながらも、神の愛と慈しみを人々にわかるような行動や言葉や在り方をもって示しました。闇に包まれていたように感じていた神の存在は、人々の前にはっきりと姿を現し、神が何を大切にされているのか、人間にどのようになってほしいかを、明確に示しました。
「初めに言があった」(ヨハネ1:1)すなわち、世界の初めより『ことば』である方は存在しておられ、初めから神と一体であった方が、肉体をとってこの世に来られた。そのことにより、人の心と魂に真実は告げられた。それは理屈や律法ではなく、人はどのように生きるべきかが示され、その指針は希望の光として、すべての人々に告げられた。「イエス」と名前の付くその存在を、ヨハネは「言(ことば)」と言い表し、神のなさったわざに感謝しながら、わたしたちにそのことを伝えようとしています。
神は我々とともにおられます
マタイによる福音書 1:18~25
2025年12月21日更新
クリスマスの絵本やページェントのシナリオでは、今日読まれるマタイとルカに収められた別々のエピソードが、1つの話としてまとめて語られます。ルカ福音書はマリア、そして羊飼いの物語が中心にありますが、マタイの方は、ヨセフの物語、東方の博士たちの登場、そしてヘロデ王のねたみと嬰児殺害の話を、わたしたちに伝えています。マリアの身におきた出来事は超弩級ですが、一方のヨセフにとっても、常識をはるかに越えた出来事でした。聖書はヨセフのことを「正しい人であった」と表していますが、それは律法を守り、人から後指を刺されない生き方、というよりは、「正しいことを一生懸命行おうとする」「(神さまの)正義を行う」という意味です。ヨセフにとっては、マリアがどのような経緯で命を宿したのかは納得はできないけれど、一生懸命神さまのみ旨を求め、許嫁に裏切られた被害者としてマリアを訴えるのではなく、神の意志であることを受け入れる道を選んだ、そのようなヨセフの「召命」を引き受ける姿が著されていると言えます。
この一連のあり得ない事柄は、「奇跡をおこすすごい神」を伝えたいのではなく、クリスマス物語全体で「この世の常識を超えた」神の存在をあらわそうとしているように思えてなりません。当時は死刑執行の対象だった「婚外子」の命を身体に宿し、でもその子を守る決断をするマリアと、生物学的には自分の子ではない息子を育て、おそらく一生「まぬけな男」として人々の視線を浴び続けることになるヨセフと、想像しただけで、当時の掟の中で一生暮らす人にとっては、到底耐え難い人生が決まった瞬断です。
恵まれた環境で育ち教育の機会にも恵まれ、何一つ不自由なく掟を守り、優位に生きる階層ではなく、社会的評価も低く、その存在すら気がつかれることのない人々の中にこそ、神は一緒におられようとする(インマヌエル)という知らせを、福音書は繰り返し伝えようとしたのではなでしょうか。
わたしたちもまた、この社会の圧力の中で「常識」の影響を受け、一方ですがりつきたくなる時もあるでしょう。しかし神さまの計画は、そこを超えて働かれることもあります。クリスマスの本当の喜びは、神さまはあなたと共に居たいと願っている、だから、どんなときも、心配しないで恐れないで前に進みましょう、という呼びかけなのではないでしょうか。
クリスマスを迎える道
マタイによる福音書 11:2~11
2025年12月14日更新
クリスマスの前の暦「アドヴェント」では毎年、「洗礼者ヨハネ」に関する福音書を2 週続けて読みます。これは、ヨハネの生涯を想い起こすことで「あなた自身は道を備えていますか」と、神さまから聞かれているのではないでしょうか。その人生を改めて振り返ってみると、それは「安心」や「成功」とは異次元のものでした。父親ザカリアは神殿に仕える祭司でしたが、ヨハネはその職を継ぐことはなく家族さえ捨て、荒野で人々に悔い改めを呼びかける運動に身を投じます。不妊の女と嘲られ耐えた末に待望の息子を産んだ母親エリザベトは、その息子が獄中で暗殺されたことを知らされます。
本人のヨハネにしても、権力者には苦言を呈し、支配者層の不正をあばく。それは、イエスさまのために「道を備える」役割と納得はしていても、その厳しさは並大抵ではなかったことでしょう。自分の使命を信じるから、何もかも捨てて神の国について語り「道を備える」役割を果たしてきたはずですが、神の国の兆しさえ見えない中での逮捕と投獄、そして死を迎えるとき、自分は何か思い違いをしてきたのではないか、単なる自分の思い込 みだったのではないかと。ゾッとするような冷たい風が、ヨハネの背中を下から上へと駆け抜け、そして彼は思わずイエスさまに聞いてしまったのではないかと思います。
そこで自分の弟子を送り、「これで良かったのでしょうか」と、イエスさまに問います。「そうだ、あなたは間違っていない。安心して逝きなさい」という答えを期待していたのかもしれません。でもイエスさまは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされる。」と返事します。なんだか肩透かしのようですが、ヨハネの人生の意味について答えたのではなく、イエスさまの語られる言葉によって人々の間に起き始めていること、常識的に考えて「ありえないこと」が始まった、つまり神の国が地上に実現されつつある、それがイエスさまの答えでした。
当時の常識では、身体の不具合は神から見放され、祝福がないからであり、「死者」が社会復帰するはずはなく、貧しい人困難に遭う人は、神から愛される資格がない人、と考えられていました。でもそうではなかったことが明らかになっていきます。不衛生で家畜の糞尿にまみれた小屋で生まれ たイエスさまは、偉大な神をあらわすものではなく、苦しみや悲しみを抱えた人々と徹底してともに居ようとする神の象徴です。また、そのことを伝える一端を担っていたヨハネも また、一度も神の計画を疑わなかったわけではなく、不安や悲しみも存在しなかったわけではない。そんな神に従ったヨハネやその他たくさんの人々の足跡や涙、痛みや苦しみ を踏みつつ、わたしたちもクリスマスを迎えようとしています。
自分自身に立ち帰れ
マタイによる福音書 3:1~12
2025年12月7日更新
聖書には、複数のヨハネが登場しますが、その中でも異彩を放っているのが、今日の福音書に登場する「洗礼者ヨハネ」。イエスさまほどではないですが、やはり不思議な出生で、母親は年老いた女性、イエスの母マリアの親戚筋だった、と聖書は伝えます。どういう関係であったのか、詳しくは書かれていませんが、このヨハネもまた、順風満帆の恵まれた生涯ではなかったようです。父親は神殿に仕える祭司でしたが、ヨハネはその仕事を継ぐことはなく、成人すると家を出て、荒野で人々に悔い改めを呼びかける運動に身を投じます。ラクダの毛皮を他の動物の皮で身体にくくりつけ、イナゴと野蜜を食べて「悔い改めよ」と叫んで回る。当時の権力者に対しては苦言を呈し、支配者層の不正をあばく。そして最後は宴会の余興の流れで首を落とされ、その生涯を終える。イエスさまのために「道を備える」という役割だったとしても、かなり厳しく孤独な人生という印象はぬぐえません。
それにしても、ヨハネが説く「悔い改め」とはなんだったのでしょうか。聖餐式の中に「懺悔」という部分があるので、信徒にとっては違和感がなく、特段に「悔い改めリスト」が浮かばなくても、「とりあえず悔い改めておこう」ということで解決するのかもしれませんが、私はこどもの頃、「悔い改めなければならないことなど、特に思い浮かばない。この時間は何をしていればいいのか」などと、牧師に詰め寄ったことがありました。(冷汗)
それはそれで課題満載ですが、一方、他の聖書の訳を見てみると、「悔い改め」という言葉には、なかなかの幅があることがわかります。「あなた自身を考え直せ」「実際の自分を無視せず、神に立ち返らせよ」「底辺からの見直しをせよ」と。こんなふうに言われたら、罪のないヨハネが、わたしたちを見下ろし「悔い改めよ」と叫んでいるのではなく、神があなたを造られた「愛するこども」としてのあなたを取り戻せ、と叫んでいる場面に変わってくるように思います。それは、心の奥深くに潜む叫びや痛みも含めた様々な苦しみを、神の慈しみのまなざしの中でなら、正面から対峙する勇気が与えられる、ということかもしれません。今置かれている状況が、自分を不自由にしていると感じているが、実は不自由にしているのは自分自身だったりする現実。イエスさまをお迎えするこの準備の季節は、まずご自身との対峙から始めるよう、ヨハネは薦めているのかもしれません。
ほんとうの準備
マタイによる福音書 24:37~44
2025年11月30日更新
教会の暦の新しい一年が今日から始まりました。日本のお正月では、無事に新年を迎えた喜びが中心で、まずお祝いからのスタートですが、ユダヤ教の影響も受けているキリスト教では少し違います。クリスマス前の4週間(アドヴェント)は、1年で夜の時間が最も長く暗い季節。日が暮れてから元気になる人もいますが、夜明けは遅く、午後もすぐ夕闇が迫る、朝方人間にとっては辛い季節です。でもそれは、あたりが燦々と輝き、いろいろなものが目に入ってくる昼間には気がつかなかったことが、闇に包まれると見えてくる、という側面があるのかもしれません。
心につき刺さるような人の言葉、歪んだ社会の構造、といった自分の外側の世界目を向けることに加え、自身の陰に潜む弱さや不完全さについて、心に留めるよう促される季節なのかもしれません。「弱さ不完全さは克服しなければならない」「人に見せてはならない」という圧力が強い社会に住んでいると、辛いことや面倒なことを跳ね返せる自分、克服した成功物語だけを話題にしがち。あたかも自分は、その成功物語の中で一生生きられるような錯覚に陥ります。もっとも、人生が順調に進んでいる時は、弱さは克服された、もうはや気にしないで大丈夫、と考えることができますが、 “逆境”に襲われると、途端に状況が変わります。去ったはずの弱さが自分の前に立ちはだかり、不完全な己の存在を思い知らされ、身動きができなくなります。
今日の福音書の「二人の人がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」という言葉の意味は、二人のうち一人しか命が助からない、あなたはどちらに入れるか、という話ではない気がします。一人分の「わたし」という存在なのにもかかわらず、二人分以上の成功物語と重荷を背負いつつ、現実についてはあまり深く考えずに進むしかないという思い込みから解放されよ、というおすすめなのではないかと思うのです。それは、自分の限界を「あきらめて受け入れる」ということではなく、「ひとり分である自分」を認めることへのおすすめであり、それを受けとめることができたとき、憐れみや同情ではなく、周りで戦い傷つき苦しんでいる、多くの人々の存在が見えてくる、ということなのではないかと思うのです。
権力や経済力や地位で身を守るのではなく、まったく無防備な新生児として、この世に来て下さったイエスさまを迎える心の準備のひとつではないでしょうか。思い込みや虚勢の鎧を脱ぎ、肩の力を抜いて、たったひとり分でしかない「わたし」を抱き留めること。それは、わたしたちを愛し、幸せな生涯を送ってほしいと、心から熱望する神さまの意志を、プレゼントとして受けとることではないでしょうか。
どうか一緒に居てください
ルカによる福音書 23:35~43
2025年11月23日更新
今日の福音書は、地上におけるイエスさまの最後の「居場所」、十字架での話です。そこには、十字架刑によって処刑され、まもなく命を失う3人の人々と、自分の命は危機に瀕していないと思っている人々とが、対比されて描かれます。
十字架刑を見物に来た民衆や議員たち、そして執行人である兵士たちは、揃いも揃って「人を救うと自称するイエスよ、ならば自分を救ってみろ」と、嘲笑います。言葉や行為による暴力をふるっても、仕返しされることはないと確信しているこの人々は、十字架上の3人には人としての尊厳は必要ないと思っているだけではなく、そういう言葉が口から出てくる自身に対しての尊厳も失っています。さらにおそろしいことには、命を与え、また命を取り去る神は、この人々の心の中には不在です。
十字架にかかっている犯罪人のひとりの口からも、「神不在」の発言が続きます。極限に置かれているこの人の気持ちを考えると、極めて人間的な行動なのかもしれませんが、死を免れるためなら何でも利用しよう、としか考えていません。神がおられるかどうか、それはどうでもいいし、イエスがメシアだと信じているわけでもないようです。ダメもとで「救ってみろ」と罵ります。
十字架にかかっているもうひとりの犯罪人は、驚いたことに「この人(イエス)は何も悪いことをしていない」と発言します。これは、ローマ総督の判断も、ユダヤ人議員による裁判も、そして民衆をも、はっきりと敵に回す発言です。しかもこの人は、自分がこれから失う地上の命を奪還しようとはせず、イエスさまのことを(亡くなった後に)「み国」に行く方だと信じて、ただ自分のことを覚えていてくだされば十分ですと告げます。この人は、いったいどんな過酷な人生を過ごしてきた人なのでしょう。そして、どうして人生の最後の瞬間に、こんな人の魂にとって極めて本質的なことに留まることができるのでしょう。しかし、予想に反してイエスさまの口からは、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」という言葉がこの人に対して言われます。
教会の暦の最後の日曜日、来週から「新年」が始まる時に、この物語はわたしたちに「救い」の本質を告げます。身体の安全が保証されることが「救い」ではなく、辛さ哀しさが取り去られることも「救い」ではない。またわたしたちの思うように人生が進むことも「救い」ではない。
「救い」とは、イエスさまと一緒にいること。わたしたちの生活の中心に、心のど真ん中にイエスさまをお迎えし、「どうかご一緒にいてください」と、本気で願うこと。イエスさまがおられる「み国」は、死んでから行くところではなく、生きているわたしたちの心のど真ん中にお迎えする「み国」なのではないでしょうか。
心をイエスさまに向ける
ルカによる福音書 21:5~19
2025年11月16日更新
考えも想像もしなかった事件や災害を思い浮かべると、考えるだけで怖くなります。それは、自分の身を守るという観点からだけではなく、大切な人々のいのちが危険にさらされ、それをどうしてあげることもできないという状況です。自らの非力に呆然とし、ただ次の展開を待つ、それはとても辛い状況でしょう。
今日の福音書を読むと、絶対に変わることはないと信じてきた神殿が跡形もなく崩れ、信頼に足りると思ってきた人がいなくなり、安定や平穏といった、わたしたちがぜひ今欲しいと思っている環境が、あれだけ変わることがないと思っていたのに、どこかへ消えてしまう、そんな背景が描かれています。しかしそれは、国や民族間だけのことではなく、信頼してきた家族や友人からも、嘘や裏切りを聞き、どうしたらいいのか途方に暮れる状態。そんなときに限ってイエスさまの名を語り、「こうすれば大丈夫」といった怪しい人々も出現。そんな状況が目に浮かびます。
この聖書がまとめられた時代は、イエスさまが亡くなって数十年、すでにキリスト教徒に対する迫害が始まっていました。いつまで続くともわからない国家を挙げての逮捕や厳罰政策に対して、なんの解決策もなかった人々の気持ちと置かれた立場は、どんなにか辛かったことでしょう。
わたしたちが住む国では今、戦乱や政府による直接の殺戮はないものの、もう止めようのない世の中の動きに押し流されるようにして、さまざまな事柄が変わっていくのを、辛い気持ちで眺めることはあります。中には、変わるべきことも必要かもしれませんが、一方で「失ってはならない、変えてはならない」と心の中で叫んでいてもどうすることもできないまま立ちすくむことがあります。ではそんなとき、わたしたちはどうしたらいいのでしょうか。
1つは「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」とのイエスさまの約束を、真に受けることです。それは、「それが本当なら信じてみよう」といった条件付きの「信じる」ではなく、自分の力だけで窮地を何とかしようとするわたしたちの頑固さから解放されよ、という福音です。それは、騙されても誤解されても失敗しても、イエスさまだけはわかっていてくださる、必ず必要な言葉と知恵を与えてくださるという信頼。保証を求めるのではなく、純粋に心をイエスさまに向けること。それは難しくそして単純なことなのでしょう。
闇の存在
ルカによる福音書 20:27,34~38
2025年11月9日更新
今月の終わりにはもう「アドベント」(クリスマスを待つ4週間の季節)が始まります。アドベントは、教会の暦では新しい一年の始まりですが、その直前の11月(つまり一年間の終わり)は、さまざまな意味でいのちと死を考える季節にもなっています。「死んだあと自分はどうなるのか」「残された家族は」そんな疑問は、普段はあまり意識していないかもしれませんが実際は、常にわたしたちの心の中にあるのではないでしょうか。
古代ピラミッドの壁画にも、亡くなったあとに自分はどのように振る舞ったらよいのか「死後の自分のトリセツ」が描かれているということです。
あの世から戻った人の話は聞いたことがないので、死後の世界の恐怖や不安、心配や悲しみといったイメージに圧倒されてしまうことも、時にはあるかもしれません。そしてその力に押し潰されないために、たとえば「死」を人生とは真反対の存在として切り離し、考えないようにしたりもします。急ばしのぎには功を奏するかもしれませんが、一方長く続くと、いのちの輝きやかけがえの無さを、そしてその素晴らしさを、感じるのが難しくなるように思います。
イエスさまの時代の「死」の理解とわたしたちのそれとは、同じではないかもしれませんが、当時の人々も、たくさんの家族の死や親しい友人の死に時には二度と立ち上がれないような喪失感を味わっていたことでしょう。本日の聖書では、サドカイ派と呼ばれる人々からの質問にイエスさまが答えるかたちで話が始まっています。死後も現在のような社会制度が続くのか否かという質問は、一見「死後」の世界の話をしているようですが、しかし主目的はイエスさまとの問答ですから、内容はなんでも良かったのかもしれません。彼らの問いに答えつつも、イエスさまの心の中は、心の闇に支配され、心配や悲しみに圧倒されている人々のことが、頭から離れなかったに違いないのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は神によって生きているから。」と言われる言葉の真意は、「心配しないで生きなさい。どこにいても、何をしていても、あなたを見守り支え、一緒に最後まで歩き通しますよ」という約束を、すべての人々に、そして漏れなくあなたに対して、伝えてくださっているのではないでしょうか。
「救い」の断片
ヨハネによる福音書 6:3~13
2025年11月2日更新
「本当に心がホッとしました」という意味で、「救われました」と言うことがあります。それは、通常の生活の中でも使う言葉かもしれませんが、ではどういう意味で「救われた」と表現するのでしょうか。今日はザアカイという人の話からそのことを考えてみたいと思います。この物語は、「救われた」本質を語るものであり、わたしたちもまた、実は「小さなザアカイ」が存在するのではないか、そんな気持ちになる話です。
ザアカイは徴税人でしたから、とりあえず食うに困らない暮らしをしていました。農業のように天候や不作に左右されることもなく、家畜の流行病とも無関係で、ローマ帝国の支配が続く限りは、当面は職を失う心配のない、ローマ帝国のために「税金を集める」職業です。
しかしザアカイは、秀でた才能やスキルがあったわけではなく、そもそも尊敬される職種ではなく、そして人々からは「罪深い男」と呼ばれていた。それは同胞であるにもかかわらず、人々の暮らしを圧迫する「ローマ帝国側の人間」という烙印を押されていたからです。生活は安定し、仕事を失う不安もないけれど、他に何も誇るものがないという現実。そんな自分の虚しさと、この先どうつきあったらいいのか途方に暮れつつ、日々苦しんでいました。
ところがザアカイは、「イエスという人が町に来る」ことを聞きつけます。胸の中がなんだかざわざわします。自分から話しかける勇気は到底なく、せめてどんな人か見てみようと思ったザアカイが、登った桑の木の下を一行が通り過ぎようとしたその時、イエスさまは顔を上げてザアカイの名前を呼び、あなたの家に泊めてほしいと頼みます。
ザアカイは、もう何が何だかわかりませんでした。「罪深い」自分が声をかけられるなんて、夢にも思いませんでした。自分と口を聞き、泊まりに行き、おそらくご飯まで一緒に食べるようになるなんて、信じられない思いだったのです。
ザアカイにとってイエスさまとの出会いは、宇宙がひっくり返るような出来事に感じたのでしょう、気がついたらスルスルと桑の木を降り、イエスさまとお話ししていました。その一連の出来事を通じてザアカイが知ったことは、「こんな生活をしている自分も、愛されて良いのだ」ということでした。それまでザアカイは、イエスさまとの出逢いにより、自分もまた神さまから愛され、神さまの大切なこどもであることを思い出したのです。
自分を愛することを取り戻すと、自分の周りの風景が見え始めます。ザアカイもまた、自分の周りに生きる人々も、神さまが愛されている大切な人であることを認識して行きます。
祈りはすべてを語る
ルカによる福音書 18:9~14
2025年10月26日更新
今日の福音書は、「ファリサイ派の人」と「徴税人」の祈りを比較するような構成ですが、「勧善懲悪」の話というよりは、神の前に立つ際、得点を稼ぐように神に喜んでもらおうとすると、神の恵みに気がつかなくなり、何が大切なのかも見失う、そういう話ではないかと思うのです。
イエスさまの時代は、律法を守って生きるファリサイ派の人々は、お金持ちではなくても「戒律を守る立派な人」として一目置かれていました。ところが中には、「不正や略奪や不倫もせず、収入の十分の一を献金することができる、断食も規定通り実行できる環境が与えられている」ことへの感謝ではなく、「それを実行できない」徴税人のような者ではないことを感謝するという人々がいて、イエスさまはわざわざそういう人々に向けて、この話をしています。つまり神の助けにより、目指す信仰生活が保たれていることを感謝するのではなく、戒律を守ることのできない人々より自分が「上」であるから感謝する、そんな祈りになってしまっています。他人を見下すのはおやめなさいという話ではなく、立派に見える人たちの生き方や祈りの内容が実は立派ではないことを、たとえでお話しくだ去ったのだと思います。
人を見下して成り立つこのような祈りを聞くと、さすがに自分はこんなひどいお祈りはしない、と思うかもしれません。でもこの人たちにも、素のままでは祈れない思いがあったのかもしれないと思うのです。このままの自分では神さまに喜んでいただけない、何もかも中途半端なままで恐れ多くて神さまの前になど立てない。でも「徴税人より上な私に気がつけば」神は振り向いてくださる、と思いたい心理。つまり何もできない/しない自分は駄目だという決めつけがあるため、掟の実行実績を神さまに「思い出させる」、この人の一番大きなズレは、そこにあったのかもしれないと思います。
徴税人の祈りは言い訳も説明もありません。「見当はずれな生き方の中にいる自分です、でもあなたは愛してくださいます」と直球です。神さまがこの人を義とされたのは、この人の生活が苦渋に満ちていたからではなく、神は、自分を底上げしなくても聞いてくださるという信頼が、根本にあったから、そういう祈りだったから、かもしれません。
祈ることの意味
ルカによる福音書 18:1~8a
2025年10月19日更新
今日の福音書に登場する「不正な裁判官」のような人は、現在でも決して珍しくないでしょう。裁判官は不正なことをする人たちだという意味ではなく、自分の役割であっても、一旦相手を見下すと、あれこれ理屈をつけて相手にしない、そんなどんな職種にもいる人間の話です。この裁判官に象徴される存在が、イエスさまの時代の誰を指していたのか、様々な想像ができますが、いずれにせよ、当時の地位という意味では、最下位の一つに相当する「やもめ」が直訴することは、そもそも無理な設定です。女性は、裁判を起こす権利はなく、財産を相続することもできませんでしたから、当時にしてみれば、残念ながら当たり前の対応だったのでしょう。
しかしこの裁判官は、この女性がうるさく付き纏うからという理由で、裁判をしてやろうと重い腰を上げます。この人に付けられた「不正な」という形容詞は、賄賂の要求や虚偽の判決を連発するという意味ではなく、「不正義」を意味する言葉が使われています。つまりこの人の振る舞いは、人々の間では許容範囲かもしれないけれど、神さまの目には不正として映っている、そんなことを表しているのかもしれません。
この人は、法の範囲内では間違いを犯さず、許容範囲の裁判を行ってきたのでしょう。しかし、飢餓に苦しむ家族と、十分に食事を摂れる家族に、同じ量の食料を配布することが「公平」ではないように、社会的な地位のある人と羊飼いのように、力関係が明らかに異なる人々を、同じように処遇することが「公平」とは言えないように、神さまにとっての正義と公平は何か、という視点を持たないこの裁判官が、しぶしぶやもめの裁判を実行したことにより、この人は自分の欠落(常識の範囲内におれば後は何をしても構わないという生き方)に気づいていったのかもしれないと思います。
イエスさまはお弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈る」ように言われましたが、「たくさん立派に祈りなさい」とは言っていません。つまり祈るとは、わたしたちにとっても自分に都合の良い結末を出す目的ではなく、祈り続けた努力に見合うご褒美を期待するものでもなく、どういう状況にあっても、神さまは必ずなんとかしてくださるという信頼から離れないように生きる、そんな自分にしてください、それが真の祈りの内容かもしれません。
神を「賛美」する
ルカによる福音書 17:11~19
2025年10月12日更新
当時「重い皮膚病」を患うとは、一生消すことのできない烙印を押され、患っていない人々にわかるように、万人に示す責任まで負わされることでした。感染を人々の間に広げることや、うっかり人が近寄るのを避けるため、街を通るときはずっと「皮膚病です!汚れています!」と、大声で叫ぶ義務がありました。疾病を負うだけでも大変なのに、人としての尊厳を削がれているのは罪の結果だと、人々が恐ろしく思うように利用されている人々でもありました。生きるとは苦しいだけ、そんな人生だったかもしれません。
このように生きてきた10人が登場します。一生治らないと思っていたでしょうから、今の苦しみが終わるときが来るとは、想像すらしていなかった。そしてイエスさまによって癒やされ、人として生きることがゆるされた人々が、躍り上がって喜びに包まれる姿が目に浮かぶようです。
その10人のうち一人だけが、イエス さまのところに「神を賛美しながら戻って来た」とあります。(しかもこの人は「神を知らない」と認定されているサマリア人でした)この人はまず村に入って家族や友人に病が治ったことを告げ、喜びを分かち合っていたのかもしれません。でもハッと気づき、イエスさまに何かを告げたくて戻り、「神を賛美」した。でもそれは、病気を治すとはすごい神さまだと持ち上げることではなく、もたらされた利益(=病気を治す)を保証するよう圧力を加えることではなく、癒しの見返りとして神に従属します、といった約束でもなく、この人は「正しく」神を賛美したのだと思います。それは、イエスさまがこの人に「あなたの信仰があなたを救った」と言ったことからの想像です。
正しい神への賛美とは、自身もまた「神にとって、漏れなく大切なひとりの人間である」と知ること、そして受け入れることではないでしょうか。それこそが「信仰」であり、神を受け入れないと思われているこの人を救ったと言っているのではないでしょうか。厄者扱いされるのではなく、生きていることを嘆くのではなく、すでに神によって愛され大切にされているのは本当なのだと信じること。そのことこそ、神を賛美することであり、神の望みであると知ったからではないでしょうか。
「信仰」の内容
ルカによる福音書 17:5~10
2025年10月5日更新
「わたしたちの信仰を増してください」これは、使徒たちだけではなく、教会の中で良く聞くお祈りの言葉でしょう。そして「自分は信仰が足りない」などとも言いますが、信仰そのものは、量で測れるものなのか、増えたり足りなくなったりするものなのでしょうか、そもそも「信仰」の意味を、わたしたちはどのように捉えているのでしょうか。
少し話が飛びますが、教皇グレゴリウス1世(AD 540〜604)と いう人が『牧会規定』いう本を著しました。これは、聖職者を目指す人に向けて書かれたものですが、一見指南書のようなタイトルなものの、グレゴリウス自身が、「人の力ではとても実現不可能な、とんでもない事」を神が聖職者の生き方に求められていると知り、聖職按手の前日に怖くなって逃げ出したことに対する、弁解の書なのだそうです。
興味深いのは、この文書は四角四面の綺麗事を語っているのではなく、誰しもが持つ弱さへの向き合い方、また、神に対して真に信頼するとはどういうことなのか、描かれていることです。聖職者になるための、様々な勉強や実際の経験を積むことを通して、「自己実現をしたいという欲求」や「人から認められたいと望む心」という、誰しもが持つ落とし穴が、さらに広くそして深く口を開けて待ち受けている危険に、自覚を持つよう薦めます。聖職者が、人々の魂の渇きに耳を傾けるのは、最も大切な務めの一つではありますが、もし人の思いのみを聴き、神に聴くことを失するなら、何を言ったらその人にもっとも感謝されるか、人々の賞賛を得るか、という全然別の目的へと向かってしまう、という落とし穴について語ります。
「からし種一粒の信仰があれば十分だ」とイエスさまはおっしゃいます。わたしたち全員が聖職者というわけではありませんが、自分の中にある醜さや弱さ、怖れやゆらぎを見なかったことにするのではなく、すべてを受け止めてくださる神様に、全幅の信頼を預けることが、「信仰」の中身なのではないかと思うのです。
人を人として
ルカによる福音書 16:19~31
2025年9月28日更新
イエスさまのたとえ話に登場するラザロは、果たして実在の人物だったかどうかわかりませんが、残飯にありつくことでなんとか命をつないでいる人々がというのは、当時けっして珍しくはなかったのでしょう。行くあてもなく、よその家の門の脇で雨風にさらされながら身を横たえ、全身に広がる皮膚病をどうすることもできないまま、ただ死を待つ。自分が生まれてきた理由、そして苦痛の中で生き続けなければならない理由を、神に問うたかもしれないこの人の名前は、ラザロ「神に助けられた話者」でした。
一方「金持ち」は、そんな悲惨な状態のラザロの存在を認識しており、名前まで知っていましたが、ラザロの存在に心を痛めないまま、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。そして自分が死んでも、ラザロに対する姿勢を変えず、ラザロに使い走りをさせようとします。自分のために水を運ぶよう依頼し、それが駄目ならと身内への特別待遇を求めます。この金持ちは生きている間、感情も考えもある「人間」としてのラザロを認識できず、そして亡くなった後も何も変わらず、自分の都合のためにラザロを利用していいと思っています。
しかしこの話は、施しを促すためのたとえ話ではないでしょう。ラザロのような人がすぐ近くにいるのに、後ろめたさを感じずに、自分の都合や欲望を最優先して生きるのは、実はかなりの無理があるのではないかと思います。この金持ちのような人は、自分の財布で欲望を満たして何が悪い、犯罪は犯していないと言いつつ、ラザロの状況は自業自得、神の罰の結果であり、自分とは無関係だと思わないと、飢えている彼らを毎日見ながら、衣装や遊びへの浪費を正当化するのは難しいでしょう。
ひょっとしたら、もしこの金持ちが、自分の浪費癖に心を痛めながらも、ラザロを対等な人として向き合っていたなら、話の結末はちがっていたのかもしれません。アブラハムは金持ちに対して「子よ」と呼びかけています。つまりこの金持ちを切り捨てる意図はなく、彼を悲しい目で見つめつつも、何が問題だったのか、自身で悟ることを待っている呼びかけに聞こえます。難しいことかもしれませんが、神さまが大切にしている家族の一人として、すべての人々を認識し得るかどうかにかかっているのではないかと思います。
生きるのはきれいごとじゃない
ルカによる福音書 16:1~13
2025年9月21日更新
今日の聖書は、ごまかしても正しくないことをしても、それに警鐘を鳴らすイエスさまではなく、「いいよ、そのままで」と肯定しておられるようにも読め、何だか複雑な気持ちになります。世の政治家の収賄事件も、選挙の際の公約反故も、経歴の詐称も、それでもいいよと言われているのでしょうか。借金は踏み倒しても責めないよと言われているのでしょうか。
そもそも他者にお金を借りるのは、その人との関係が壊れる覚悟が必要です。大切な友人なら、そんなことは避けようと誰しもするでしょうが、これは一般論として話されているのではなく、「金に執着するファリサイ派」の人々も聞いていた(14節)という場面展開です。聞いた彼らは、不快に思い、せせら笑いますが、「自己保身目的とは言え、不正によって仲間を作るなんてダメに決まっているじゃないか。自分はそんな馬鹿なことはしない」という心中かと思います。
「富」は、土地や畑の作物、家畜や商売の収益を含みます。増し加わることで生活の安定を得て、心の安定も得ます。しかし少しでも減る兆候があるとやはり誰しも穏やかではありません。蓄えがあるのに、さらに資産を増やさないと損をしていると感じてしまう。この話の聞き手の中には「神の前に正しいことをしている自分は、そんな不正とは無縁。律法を守る限り、絶対安全な保証を得ている」と信じ、そうできない人々を見下している、という致命的な背景があるのではないかと思うのです。
わたしたちは、「絶対的正しさ」に生きることは不可能です。たとえつつましい貯金をしていても、誰かの借金の利子がわずかな利息になります。投資をすれば、資金を失い路頭に迷う人がいるから、利潤を受けることができます。こういったいとなみを、罪だと決めつけるのではなく、生きて行くために、家族を守るために、あまり神には誇れない側面も合わせ持ちながら一生懸命生きているわたしたちをも受け止められるのが神であり、余分が生まれたら、それは必要としている人々に届けてほしい、というのが神の望みなのではないでしょうか。その辺りが、小さなことにも忠実であること、そして表面的にはあまり差異はなかったとしても、自分の欲という主人に仕えるのか、神さまに仕えるのか、それが問われているという話なのかもしれません。
心の中の羊
ルカによる福音書 15:1~10
2025年9月14日更新
九十九匹の羊、そしてその群れから離れる1匹。羊飼いは「1匹くらいは仕方がない」とは言わず、九十九匹を野山に放置して、失った1匹を探しに行く。やがて迷い出た羊が発見され、生存確認がなされると、皆で喜んだ。この話は、たとえ多くの羊を野獣の襲撃や気候急変の危機にさらしても、神は小さな一匹をかけがえのないものとして心を砕き探し出そうとされる。だからわたしたちも、自分がとるに足らないちっぽけな存在であると思い知らされても、身勝手な理由で群れから離れたとしても、神は決して諦めることはない。野山を越えて必ず探し出し共にいようとしてくださる、そんなメッセージとして語られることも多い。
このたとえ話が語られた場には、律法学者やファリサイ派の人々がいたようだ。彼らは自分たちこそ、正統的な信仰を守るために不可欠な役割を果たしていると自負していたので、群れの一員として忍耐強く伝統を守り継承している自分たちは九十九匹の側であり、群れを離れた一匹のことを「厄介者」というイメージで聞いていたかもしれない。しかし信仰のために一生懸命努力するのがわるいのではなく、律法を守ることができない人々について、想像力が欠如しているところだったのではないか。つまり「医者はいらない自分」には問題がなく、医者を必要としている問題のある人々を、たとえ言葉にはしなくても、見下していた点ではないかと思う。
理由もないのに故意に群れを離れるのは馬鹿げているが、本当のところは(絵本のように遊びに夢中になっていた子羊が皆とはぐれてしまったという話ではなく)そうしなければ自分が保てないところまで心理的精神的に追い詰められ、それ以外の道では命を護れない、そんな場合もあるのだと思う。一匹を探すために羊飼いが群れを離れて初めて、九十九匹は自分たちの無力さを思い知り、傲慢だったことを知り、生かされていることを知る。聖書によると、迷い出た一匹は元の群れに戻ったとは書かれていない。どこかで、新たな神に仕える道を見出したのかもしれない。さてあなたは、今、どのあたりで、神を望み見ておられるだろうか。
「ゆるし」という重み
ルカによる福音書 17:1~4
2025年9月7日更新
日本語が第一言語ではないけれど、日本に長く住んでいるある友人が、こんなことを言いました。「日本では、皆があまりにも簡単に『ゆるせない!』と言うので、それを聞くとドキッとする。」それを聞いたわたしたちは、人々は「許す」と「赦す」をごっちゃにしているのかもしれないと話しました。音が同じなので難しいところですが、「許せない」という意味で使っている場合の方が多いかもしれません。「許す」ことは、ある意味具体的な行動を指す言葉であり、「許可する」か「妨げない」ことで、前に進むOKを出すようなイメージでしょうか。
聖書の語るゆるしは、「赦し」の方です。でもそれは「臭いものに蓋をする」勧めではなく、わたしたちの心の中での課題について語っているのだと思います。1つは、「赦してもらえない苦しさ」です。人を傷つけたり信頼を裏切ることになってしまったとき、それだけでも苦しいのに、相手がゆるさない決断をしたときはもっと苦しいものです。謝罪したくても拒絶されるかもしれない場合は「ごめんなさい」では軽すぎて、口にすることもはばかられます。2つ目は「人をゆるせない苦しさ」です。ゆるせないという状態は、心の痛みだけではなく、怒りや不安、そして悲しさもあり、心だけではなく身体も傷つけます。誤解を恐れずに言えば、奪い盗られた自らの力を、「ゆるさない」ことでなんとかして保管しようという欲もあるかもしれませんし、実際、赦したいけど赦せないこともあります。
不正や不平等を「看過できない」という意味で「許さない」ことも大切ですが、どのように闘っていくのかは、大いに智慧を絞る必要があります。ことに権力をもつ相手だったり、皆にとって当たり前だったりする事柄は、本当に簡単ではないでしょう。しかし目指すゴールは、相手に思い知らせることではなく、復讐することでもなく、「あるべき姿の回復」であり、自身の心の解放です。答えは1つではなく、また時間もかかることですが、少なくともわたしたちは、「諦める」ようには言われていないのです。言い方を変えれば、相手と同じ土俵に立つのではなく、一段上から出来事を俯瞰し、神さまと相談しながら解放を探していく作業なのかもしれません。
招かれているのは誰?
ルカによる福音書 14:1、7~14
2025年8月31日更新
職場などで宴席を囲むような場合、繰り返される「儀式」があります。年功序列が微妙で、どこが「上席」なのか、何通りかの解釈が生まれてしまうような場合、人々は際限なく「まあまあまあ」「いやいやいや」と言いながら、他者を上席と思われる位置に座らせようとするような習慣です。多くの場合は、相手を思いやってそうしているわけではなく、自分が恥をかかないための防御でもあるのでしょう。しかしイエスさまが、「面目をほどこすため」のノウハウを伝授なさっているとは、とても思えません。世渡り上手かどうかは、根源的ないのちとは全く関係がないからです。しかも場面設定がふるっています。他の聖書(マタイ23章)では、「偽善者」「白く塗った墓」と、ふだんからイエスさまから非難されている律法学者、ファリサイ派の議員の家からの招待です。普段の言動の割には違和感のある状況、いったいどんな顔をして、どのような振る舞いをされるのだろう、と様子をうかがっていた人々がその場にいたこともあり、イエスさまは彼らに向かって、「面目をほどこす話」をされています。でも、イエスさまが本当に伝えたかったことは何だったのでしょうか。
神さまとともにいようとするとき、自分の中にある「見返りを期待できない」弱さや、目を背けたい暗闇を「招待しなさい」ということではないかと思うのです。わたしたちは、うまく取り繕って生きたいし、綺麗事の方がまとまるし、また自分の長所だけの方が、神さまの前に立つには相応しいように思いがちです。でも暗闇や弱さを置き去りにしている限り、自分の短所や心の闇の力は衰えることなく、かえってあなたを支配するようになる。こういう道(生き方)を選ぶより、神さまの前に暗闇を明るみに出し、自分も勇気をもって対面すると、その結果報われる。つまり神の国があなたとともにある、ということではないかと思うのです。自身の弱さや闇を末席へと押しやるのではなく、それらに「上席」をすすめる方がよい、つまり神さまの前で一番目立つところに置くようにおっしゃっているのではないでしょうか。
「狭い戸口」
ルカによる福音書 14:1、7~14
2025年8月24日更新
新聞やテレビにもよく登場する「狭き門」ですが、いつのまにか聖書から離れて一人歩きをし、「なかなか入学できない偏差値の高い学校」などのイメージから、人を押し退けてでも前に進む情熱や、場合によっては腕力を持った人だけが突破できる課題、といった意味で使われます。そしてどこかで「門に入れなかったその他大勢ではない」といった視線すら含まれているように感じます。「狭い門」を通過できた人は、いかなる門をも突破でき、人生の選択肢が広がる「選べる側に立つ」という誤解さえ生まれます。でも聖書の中の「狭い戸口」は、他の人と比べて云々という概念はないのです。その「戸口」は、神さまが「わたし」のためにつくってくださった特別の戸口なので、他者と競い合って獲得する必要はなく、じっと静かに通るべき人が発見するまで待っている忍耐強い戸口。「わたし」のために神さまが作ってくださった戸口なので、本人以外は「狭くて」通ることが出来ない、そういうことなのではないかと思うのです。
多くの人は、誰でも入れて行き来しやすい、安全で気楽そうに見える戸口に殺到します。みんなが行くからきっと良い門なのだ、とりあえずここから入っておこうと思うのでしょう。しかし、広々とした門を選ぶ人々の心の根底には、自らが決断した結果ではなく、評判がいいから、みんなが行くから、常識的に考えて間違いないから、という気持ちがあるのかもしれません
小さなことを人任せにし、自分で判断しない癖がつくと、やがて重要な決断をしなければならない時も、つい周りを見回して「みんなはどうしているのだろう」が先立ち、(もちろん周囲の圧力もあって)気がつくと「広い戸口」の方へと流されている、というのが現実なのかもしれません。
神さまが創った「あなた」のための戸口を探す旅は、容易ではないかもしれません。投げ出したくなる時もあるでしょう。「入れなかった」という体験談を聞くと不安にもなります。でも、わたしたちがこの世に命を受けている以上、必ず「わたしの戸口」が存在し、見つけられるのを待っている。それは「わたし」というかけがえのない存在を認知する人生の入り口でもあるでしょう。「わたしの戸口」を見つけ、そして自ら通って入る決断をすることができた時、もっとも自由で喜びと感謝に満たされた人生へと招かれるにちがいないのです。
神の愛が燃え広がる
ルカによる福音書 12:49~56
2025年8月17日更新
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるため」と言われると、破壊や暴力を肯定し、人々を捻じ伏せ従わせる「神」のイメージが浮かび、イエスさまよ、結局あなたも同じか、とガッカリするかもしれません。わたしたちの身近にある「火」は、生活の便利に貢献する文明の利器であると同時に、戦乱や犠牲を生む圧倒的な破壊のイメージもあるからです。しかしこの言葉に続いてイエスさまは、ご自分の「洗礼」のことを語ります。これは、物理的な洗礼の話をしているのではなく、人として生まれて短い生涯を過ごし、最後は裏切られ捨てられ殺害される十字架の出来事のことを言っておられるのではないかと思います。(人々の間に)火を投じ、それが燃えて(広がる)ことは、時には依存で成り立っていた人間関係や、頼りにならない(例えば偶像)ものに縋りつく生き方にひび割れが生じます。すでに形骸化した慣習や、神ではなく支配者が作り出した掟が無力化することを恐れ、これまでの状況を維持したい支配者階級は、なんとかして「愛の神」のことが伝わらないよう抵抗します。イエスさまからの呼びかけに、最初は破壊と喪失への不安を感じたとしても、むしろそれは、どんな人をも見捨てない神さまの愛情なのであり、それが「火が燃えていたら」と願うイエスさまの発言の意図ではないかと思うのです。
それは、体裁を整えることを目的とする、なまぬるい「安心」とはほど遠いもので、神さまの本質について語っているのでしょう。せっかく今、安定してうまくやっているのだから、それをあれこれ言われたくないという気持ちも、正直なところ、わたしたちの中にはあるのだと思います。苦しい目にはなるべく遭いたくないし、損することを避けるため、家族の中で孤立したくない、世間から後ろ指をさされたくない。でもそれを最優先させて生きていると、どんどんイエスさまの十字架から離れていく、神さまの愛からも離れていく、そんなことへの警告でもあるのでしょう。
何かを失うことには誰でも恐怖を感じます。変化もまたわたしたちを不安にさせます。でも、その怖さに直面しないで済むために、パリサイ派の人々や律法学者たちは人々をコントロールし、「愛」とはかけ離れた神を提示し、人々を管理しようとした。不安や恐怖に縛られるのではなく、そこから自由になりなさい、とわたしたちを招いてくださるイエスさまです。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです
ルカによる福音書 12:32~40
2025年8月10日更新
今日の使徒書は、アベルやアブラハムを例にして、「望んでいる事柄」と「見えない事実」とを、正しく識別する必要性について語っています。自分が望む事柄は、それは他でもない神の望みから来ており、しかし容易には受け入れ難い=「見えない」事実でもあります。これは、目を瞑り思考停止し神に従っていればよい、という考え方とは対極をなすテーマで、むしろ神の望みを正しく識別しようとすることこそが信仰であると言っています。それはつまり、神の「望み」とわたしたちが正しく出会ったとき、わたしたちはさらに自由になり喜びと感謝に満たされる、ということを示しているのではないでしょうか。神の望みを主体的に知ろうと決断するまで、わたしたちを忍耐強く待つ神という姿も伝わってきます。
兄に殺害されたアベル(創世記)は、もはやその肉体が存在していないにもかかわらず、神に対する信頼を実直にあらわしてきた彼の生き方が、人々の心に語りかけ、今もなお影響を与え続けている、と聖書は語ります。またアブラハム(出エジプト記)は一家の長として、カルデヤのウルで安定した生活を送っていましたが、行き先すら示さない神の「行きなさい」との言葉に信頼しました。外国人としての不安定な生活や、当時の権力者たちによって命さえ危うい状況も、おそらく想定していたでしょうが、彼はそれを神の望みと識別し、すべてを残して家族と共に出立します。
彼らの物語は数千年前の「ご苦労された人々」という昔話ではなく、わたしたちにかかわっています。神が望んでいる事柄と自分のエゴとをどうやって識別するのか、そしてまだなんともかたちのない神からの招きを、どうやって神の計画と認識するのか、それは実は単純なようでいて、非常に識別の難しい問いです。どうしても最初に「損か得か」と思いがちで、また損得ではなくても「どうしたら、皆に受け入れてもらいやすいか」と考えてしまう。しかし、誰にも理解されなくても、神さまへの信頼=信仰を、心の中心に据えるという魂の決断があるなら、死んでもなお人々に影響を与え続けるという、なんとも壮大な話です。そういう意味でもわたしたちは、変化を恐れるのではなく、識別は誰かがやってくれると思う誘惑を、恐れるべきではないでしょうか。
「幸せになる」
2025年8月3日更新
人は誰でも物質的な充足だけでは「幸せ」にはなれないようです。でも、物質以外となると、「心豊か」であるとか、「ゆとり」などの言葉が浮かぶかもしれませんが、一体どうしたら、心や魂を充足させることができるのかは悩むところです。時間が出来たら楽しく没頭できると思っていた趣味も、家の片付けも、時間ができた途端にすっかりやる気が失せたという経験は、どなたにもあるかもしれません。ことに目的が「自分のため」に終始してしまうようなとき、なんであんなに楽しみにしていたのか、わけがわからなくなったりします。
ある社会学者が、被験者に「どのように使っても良い」と言って、1000円相当を渡し、一定時間後に再び集合。そしてドーパミン値を測る、という実験をしたそうです。ある人は前から欲しかった本を買い、ある人は大好きなお菓子を買って家族で分けて食べ、ニコニコ顔で戻ってきました。その人々の値もそれなりに立派だったのですが、お腹を空かせたホームレスの男性に食べ物を買って渡した人、親とはぐれて泣いている子どもに寄り添った人など、「何かを必要している他人のために1000円を使い切った人」のドーパミン値が一番高かったそうです。ドーパミンの分泌=「幸せになる」とは言えないかもしれませんが、神さまは人間をそういうふうに創って下さったのかもしれないと思いました。自分の欲を満たすことより、自分の家族や親しい人々を満足させるより、むしろ見返りを受けることのない「他人」の必要を満たした時、わたしたちは根源的な「幸せ」を感じ、そこに真価を見出すのではないでしょうか。そして、それこそが「神の前に豊かになる」ことなのではないでしょうか。
これは、気前の良い人になろうという薦めではなく、もっと空気を読みなさいというお招きでもなく、「私が幸せになる」ことへの真っ直ぐな回答であると思うのです。もっと幸せを感じたい時は、どんな人が周りに居てどのような必要があるのか、見回してみましょうか。
「祈り」の本質
ルカによる福音書 11:1~13
2025年7月27日更新
「求めよ、さらば与えられん」文語の聖書を読んだことのある方には、こちらの言い回しの方がピッタリくるかもしれません。でも、ここでイエスさまは、「祈り求めれば何でも無条件に叶えてくれる」神さまを信じなさい、という話をしているのではなく、「祈る」ことについての本質を伝えておられるのではないかと思うのです。
少し話は逸れますが、相手が赦してくれるという見込みが全くない時、「ごめんなさい」という言葉はなかなか出て来ないものです。また、自分の希望が全く受け入れられそうもない相手に対して、「希望しているのはこういうことだ」と腹を割って伝えるのは躊躇してしまうものではないでしょうか。つまり、何かを言葉にして相手に伝えようとする時は、すでにある程度、自分の希望がかなう見込みがあると信じて、思い切って言葉を絞り出している、とも言えるでしょう。
でももし「祈る」ことについても同じようにとらえていたら、神さまを自分の希望を叶えるマスコットのように考えている可能性があります。変えていただくようなことは特にないという前提で、「わたしたちの罪(的外れ)をお赦しください」と唱え、飢えるはずはないと思いながら「わたしたちの糧を今日もお与えください」と祈るなら、それは祈りというよりは、受けている恵みを、むしろ「当たり前だ」と思っていることを暴露している証拠かもしれないのです。
神さまはわたしたちが祈る前に、常に最善の道を備えてくださっていますが、わたしたちは、神さまの考える「最善」が必ずしも見えているとは限らない。例えば神さまにあれこれと要求し、結果的に思惑通りに事が進まず「祈りが聞かれなかった」などと呟く時、自分の「最善」を絶対化している危険があると思うのです。わたしたちの願いは、常に正しいとは限りません。正しくないかもしれませんが、門を叩き、求め、探し続けることで、自分を絶対化しない祈りへと導かれていくのではないでしょうか。神が聞くなら祈ろう、ではなく、「わたし」という存在に、そのまま耳を傾けてくださる神と対話すること、とてもシンプルですが、だから難しい。それが祈りではないでしょうか。
マルタとマリアの「良い方」
ルカによる福音書 10:38~42
2025年7月20日更新
マルタとマリア。二人の生き方を、しばしば比較されながら語られる物語です。当時の女性たちに求められていた「甲斐甲斐しく食事や快適さを提供する家事」に生きるマルタと、非生産的な態度をとるマリアとの対決!のように読んできたのかもしれません。
マルタとマリアは姉妹で、イエスさまの友人です。この姉妹にはラザロという兄弟もいて、彼らの住む村に立ち寄る時は、イエスさま一行を自宅に招き、おもてなしをしていた様子でした。マルタはしっかり者で家事を切り盛りし、家族や親戚からも信頼されているお姉さん。この日も、イエスさまとお弟子さんたちが村に来るというので張り切って準備をしています。どんなふうにおもてなししようかとワクワクしていたかもしれません。一方、妹(聖書にはどちらが姉か妹かは書いていません)のマリアは、イエスさまが到着されると、お弟子たちと一緒に座り込み、食事の手伝いもせずに、平然と話を聞いている様子。マルタは「私だけが忙しいのは納得できない、手伝うよう言ってください」と、当時の常識をイエスさまに押し付けます。「おお、これは悪かった。マリアは女性としての役割を忘れていたね」という応答を、マルタは期待していたのかもしれませんが、イエスさまの返事は「マリアは良い方を選んだ、それを取り上げてはならない」でした。
時にはこのようなマリアの行動は命懸けだったかもしれません。でもイエスさまはあっさりとその境界線を越えました。社会の風習よりも、マリアが自分で選択したことを尊重すると、イエスさまはマルタに告げます。
わたしたちも生きている以上、社会の常識や掟に従わざるを得ないことは多いでしょう。時には常識の壁が立ちはだかり、行動や言動を制限されることもあり、またその壁を越えようとすると、越えさせまいとする大きな圧力に、押し潰されそうにもなるでしょう。でもマリアは、他の人と比較した上での「良い方」を選んだのではなく、マリアにとって「良い」と信じる道を選んだ。そのことをイエスさまは「良い」と言っておられるのではないでしょうか。わたしたちそれぞれにとって何が「良い」道なのか、見えない時もありますが、人の思いではなく、欲に駆られてでもなく、神さまと相談しながら「私の信じる良い」を選びたいものです。
礼拝は誰のために その2
エレミア書 6:13~135
民数記 6:24~27
マタイによる福音書 5:6~9
2025年7月6日更新
今日は「ウェルカムサンデー」の第2回目、「心の平和」をテーマに礼拝をお捧げします。「平和」という単語を口にするなら、戦争や戦乱のない世界を求めて祈り、行動を起こすべき、と思われるかもしれません。「平和」が、もし個々人の心の平穏に留まることに終始してしまうなら、それは問題ですが、その一方、ご自分の心を「平和」に治めることのできない人が、政治的な「平和」に乗り出すことは、かえって「平和」を遠ざけてしまう危険があると思うのです。世界の平和を求めつつ、まずはご自身の中に平和を求める心があるのか、神さまが与えてくださる平安と共に生きようとしているか、むしろその方が先ではないかと思うのです。
「キリスト教用語」を振り回さずに、伝えたい内容をどのように伝えるか、一生懸命知恵を絞りますが、0歳からのこどもも一緒の礼拝では、なかなか難しいかもしれません。でも心の平和は理屈ではないし、一緒に「体験する」ということの方が、しっくりくるかもしれません。そんなことも含めて、みんなで試行錯誤すること、そしてご自身の魂にそっと手を添えて対話するという経験の積み重ねが、平和へとつながると思うのです。これは、長い信仰生活を体験する人も、今日初めて教会に来た人も、イエスさまの生き方を目指して走るスタートラインは同じです。
礼拝のお作法を知り、礼拝に慣れていること、またスラスラとお祈りの言葉を唱えられることが、「本当に祈っている」ことでもないでしょう。カタチを踏襲するのではなく、大切なのはその中身です。なんとかして「あなたが大切」であることを伝えようとされている、神さまの働きに参与したいのです。それはたとえ一期一会であってもかまいません。「無条件に愛され」「尊重される世界観」に触れていただくこと。そして、あなたが幸せに生きることを、何より望んでおられる神さまの切実な願いに触れることが、今日の礼拝の目的です。自分のことだけではなく、今、あなたの心の中で覚えている人々、ひっそりと心配している人々のことも含めて、ご一緒にお祈りいたしましょう。
イエスさまの味方とは
ルカによる福音書 9:51~62
2025年6月29日更新
たくさんの人と一緒に何かに取り組むとき、相反する意見や立場、感じ方のちがいがあって、それを擦り合わせていくのが楽しいと感じることがあります。その一方で、目的や内容をより良いものにするより、誰と一緒にやるか、誰の味方をするか、そちらを優先する場合があるかもしれません。ケースバイケース、どちらの方法も必要なのだと思いますが、今日の福音書でのお弟子たちの言動は、どちらかというと、後者に偏っている印象を持つのは私だけでしょうか。イエスさまの言っておられる中味を理解しよう、真髄を汲み取ろう、ということではなく、「自分たちはイエスさまの味方だ」という思いに留まることで、むしろ本題から離れていく危うさを感じます。
ご自身の身に起きる出来事にことについて、また福音の中味について、イエスさまは一生懸命語ってきましたが、お弟子たちは理解するより、自分たちが目指していることの方が大事です。それに合っているなら聞き、合わないなら聞き流します。意味が理解できなくてもイエスさまについて行こうとするお弟子たちは、それはそれで立派ですが、イエスさまを理解しようとするより、自分たちは「イエスさまの側の人間」なので、そこに加わる意思のない人間は排除してもかまわない、と思っていることが暴露されるような言動をしてしまいます。
ここに登場する「サマリア人」は、遠い先祖は同じ民族でしたが、異教の地に住み土着の神を信じるようになったグループです。ユダヤ人は彼らを見下していたので、付き合いを絶つのがお約束でした。そんな壁を乗り越えてサマリア人の村に寄ったのに、自分たちを歓迎しなかったからには天罰を受けて当然、と弟子たちは憤ります。また、「どこへでも従います」とわざわざ言いに来る人もいますが、自分自身の生き方を変えない範囲で付き合いたい、何か有利なことがあるなら取り入れたい、と言っているようにも聞こえます。
こういう態度は、わたしたちにとっても無関係ではないでしょう。礼拝やイエスさまを知っている、だからそうではない人とは違う、という思いがあるなら、また、自分の生き方にとって都合のいいことを「採用」してイエスさまに従っていると思い込むなら、それは本当の意味で、「イエスさまの味方」なのかどうか怪しいものです。本物のイエスさまの味方になるには、簡単ではないけれど、自分の弱さや不完全さから逃げないで、徹底してみ言葉に生きることなのでしょう。
イエスさまを生きる
ルカによる福音書 9:18~24
2025年6月22日更新
お弟子さんたちと一緒に過ごした3年間という限られた期間に、イエスさまにとって様々な苦悩があったことは想像できます。一番伝えたい「愛の神」を語っても「そんな抽象的な話ではなく、さっさと支配者を失脚させてほしい」「民衆の賛同を得るには、もっとわかりやすい奇跡を」「この社会を率いるカリスマになってほしい」など、何もわかっちゃいない弟子たちです。特に今日の福音書は、「五千人の養い」の直後に位置しますから、パンと魚を分かち合った奇跡を体験して、お門違いの方角に走り出しそうな弟子たちに、立ち止まってもらいたかったのかもしれません。イエスさまが地上に来られた目的、それは権力や名声、地位ではないと頭で はわかっていても、心のどこかでは、その存在が万人に理解され、やがて一緒に行動する自分たちもまた、社会の構造や体制をひっくり返すような大改革にたずさわる者として歴史に名を残す。そうなったらいいかもしれない、と考えているような、そしてこの最初の予告を聞いても、何のことやらといったお弟子たちの反応が目に浮かぶようです。
では、聖書からそんなお弟子たちを読み取っているわたしたちはどうでしょうか。粛々とイエスさまが命がけで伝えられた「愛の神」とともに生きるより、イエスさまのご生涯に倣うより、そして不完全ながらも地上に遣わされた尊い時間を感謝して抱き止めるより、別のことを望み見てはいないでしょうか。教会によりたくさんの人が集まり「経営」が安定すること、神さまに信頼するより自分の安心を優先すること、神さまの思いではなく、人としての欲を満たそうとすること。それは一方で、神さまがわたしたちを造られたそのままの姿ではなく、限界と弱さと不完全さを切り捨て、いわば歪んだ姿を描き、その中に自分自身を無理矢理嵌め込んで「安泰だ」と言っている姿のような不自由さを感じるのです。
不都合なことは見たくない聞きたくないというお弟子たちの姿は、裏を返せば、わたしたちの姿でもあるのでしょう。受け入れるのがなかなか辛くて、つい後回しにしそうですが、人としての限界を認め、弱点だらけの自分を否定せず、しかし神さまの愛を心の真ん中に置いて、粛々とそれを伝え続ける人生、それが「自分の十字架を背負う」ことではないでしょうか。
わたしたちのために
ヨハネによる福音書 16:5~15
2025年6月15日更新
先週のトピックスであった「聖霊なる神」の次は「三位一体」。難題が続きますが、神さまは私たちを悩ませるために、わざわざむずかしい話をしているわけではないでしょう。
聞いたことがあるかもしれませんが、「弁護者」という言葉は、「援助する人」「人のために語る者」「助け手」などの意味もあります。つまり目に見えず、音波としては耳から聞こえず、手で触ることもできないが、一緒に居てくださり、わたしたちを支えてくださり、そして必要な言葉を与えてくださる存在として、神さまが送ってくださったのが聖霊なる神であり、それは父なる神、子なる神と別人格ではないという話です。しかし、存在証明ができず、客観的な証拠も挙げにくく、手応えも感じにくい存在を、なぜ改めて「造られた」のか、疑問は残ります。
しかしイエスさまは、重要なこともおっしゃっています。ご自分が「去っていくこと」こそが、お弟子たち(そしておそらく全ての人々)のためになる。そして、ご自分が去らないと、聖霊なる神はわたしたちと共にいることができない、と。これは交換条件ではなく、わたしたち人間の性質を、神さまが見抜いておられるからこうなったのではないか。地上に降り立ち、人々と生活を共にされたイエスさまが、もし肉体を持ったまま、数千年も生きながらえて人々の間にいたら、イエスさまを自分だけの味方にしたい人や、神を「所有」したい人々の欲が今よりもっとむき出しになり、争奪戦が始まるかもしれない。また、イエスさまの言質や行動を都合よく解釈する権威や、上手く利用しようとする人々が世の中で幅を利かせ「キリスト教」は愛や慈しみを伝える共同体ではなく、イエスさまの名を利用した支配と依存の組織ということになってしまうかもしれない。そんなわたしたちの「弱さ」を知っておられる神が、最悪の事態を避けるために聖霊なる神を送ってくださったのではないか。もし「神さまなのだから、もっとうまい方法があったはず」だから信じないと言うなら、その声がわたしたちの「都合」から生まれていないことを祈るばかりです。
「まとはずれ」からの解放
ヨハネによる福音書 20:19~23
2025年6月8日更新
私事で恐縮ですが、今年3月から「霊的同伴」について学び始めました。その訓練の一環として、毎月の霊的同伴を受けると同時に、2名以上の方々の霊的な旅路に同伴することが義務付けられています。つまり実習です。そして、その実習体験の中から1つを選び、小グループでプレゼンをして、皆さんから疑問や問題点について指摘いただくのですが、今のところ「これだ!」というような発見には出会えていません。まさに暗中模索です。ZOOMによるディスカッションの難しさに加え、言葉の壁もあります。また、文化が違う人々に、なかなか伝わらないもどかしさもあり、一体どこに聖霊なる神が働いているのか見えていない初心者です。
あるときのプレゼンに、Aさんのケースを選びました。これは霊的同伴というより「牧会カウンセリング」になってしまったなと感じたセッションだったからです。そして、グループのリアクションとしては「この人の抱えている課題ばかりにフォーカスし過ぎる、神はどこにいるのか」という当たり前なものでした。でも、どうしたら牧会カウンセリングではなく、「霊的同伴」へと導けるのか、それがうまくできなかったからプレゼンしたのに、正論だけ言われても、という気分でした。Aさんと共に働かれている神がおられることを信じて、Aさんのストーリーを真摯に聞けば、神さまは何をなさろうとしているのか見えてくるはず、というのが私のスタンスでしたが、神さまに聞いているつもりでも、やはりどこかで、「達成目標」や「ゴール」を勝手に設定し、Aさんの課題を明確化したつもりになって、僭越にも「今回はこれに気づけるようにしてあげよう」といった私の限界や弱さが露呈した出来事だったのです。
三位一体の神のうちのひとつである「聖霊なる神」の存在を受け入れよう、その働きを理解しようとする過程の中で、しばしば自分が持つ限界や弱さに直面することがあります。それは、神の存在や働きをわかったつもりになりたい自分との対決です。長い間苦心して取り組んできたことが実を結べば、自分の能力と努力の結実だと思い込み、一方、自身の価値観の中でもがき、何をやってもうまくいかないと「神さま、どういうおつもりですか」と嘆いてしまう。それはあたかも、自分が神を所有しているかのような心の動きです。天地を創られた父なる神の存在は必要だろう、2千年前に赤ん坊として生まれた子なる神も必要だったのはわかる。では、何だかピンと来ない聖霊なる神の必要性はなんなのだろうか、と。
イエスさまは、弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。でも、それまで聖霊が離れていたわけではなく、共におられる聖霊なる神の存在を認識し、その働きに支えられて生きるよう、促して下さったということではないかと思うのです。
「聖霊を受けなさい」と呼びかけたイエスさまは、続けて罪を赦す「権威」の話をします。でもそれは、罪を赦す魔法の力を弟子たちに与えるという意味ではなく(「罪」という言葉には「まとはずれ」の意味があるので)、まとはずれな生き方をしているたくさんの人々の解放のため、手を貸してください、というお招きの言葉なのではないかと思うのです。つい目の前の利潤や好条件に飛びつき、困った時ほど全部自分でなんとかしようと力み、どんどん自分を不幸にしてしまう「まとはずれ」から自由になれるよう、人々を支えなさいという命令であり、やがてそのお手伝いをするために弟子たちは派遣されていったのでしょう。つまり、罪からの解放は、選ばれた人だけが受ける特権ではなく、解放されて生きる生涯は、すべての人に開かれている、という宣言なのでしょう。
人々の間に愛が広がるためなら、なんでもしようとしてくださる神さまの意思を受け止め、思い込みと偏見を拭いつつ、聖霊の働きを邪魔しないよう生きていきたいと思います。
昇天日の意味
ヨハネによる福音書 17:20~26
2025年6月1日更新
先週の木曜日は「昇天日」。それは、復活ののちにしばらくの間、お弟子たちと過ごしたイエスさまが天に帰られたことを記念する日でした。それに伴い、復活のろうそくも片付けますが、置いてあった場所が、妙に「空いている」ことを強く感じさせられます。考えてみればわたしたちも、家族や友人と一緒に過ごしたあと、その人が去ってしまうと、妙な空虚感に囚われるときがあります。これは想定内のこともあるし、あるいは「こんなはずではなかった」と思うくらい、心が折れている時もあるでしょう。
イエスさまを十字架上で失い、その死を避けることができず、声を挙げることすらできなかったお弟子たちが、イエスさまが三日後に現れて、それらの苦しみから解放して下さいました。しかしそのままずっと、イエスさまにすがりついて(というか、イエスさまを縛り付けて)過ごし、やがて依存と支配の中で上下関係が作られ、自立できなくなることは、復活の目的ではなかったはずです。神さまが人々を顧みて、イエスさまという人間のかたちをとった方を送り、その口を通して神の意志を語り、人間としての生き方そのものを伝えられた。ご復活は、その生涯が「失敗」でもなければ、伝えられた内容が「虚偽」でもなかった。そのことを伝えるために、わざわざもう一度地上に降りられた、そういうことなのではないかと思います。
イエスさまは丁寧にも、やがてやってくる別離の準備のため、常にわたしたちと一緒にいられるよう、聖霊なる神を送ってくださる約束をしています。それは、肉体を持たない神であり、わかりにくいし、ぴんと来ないと感じるかもしれませんが、それはわたしたちの持つ限界や不完全さと関係しているのかもしれないと思います。
今日の使徒書に「占いをして、主人に多くの利益を得させる」女性が登場しますが、この存在も、人々の間に依存と支配の関係を生み出しています。そして、都合の良いことが目の前にぶら下がっていると、ついそれに飛びついてしまうわたしたちの限界をよく知り、受け止めてくださる神は、昇天日まで用意して下さって、依存でも支配でもない世界に生きよ、とわたしたちに呼びかけておられます。
神が望んでおられること
ヨハネによる福音書 14:23~29
2025年5月25日更新
今日は、使徒書(使徒言行録)の話に触れたいと思います。リストラは、イエスさまが活動されたガリラヤやエルサレムからは遠く離れた内陸の町(現在はトルコ領)です。十字架前はイエスさまの言うことをあまり理解できなかった弟子たちが、復活、昇天、聖霊降臨の出来事を通じて、主の平和の意味を知り、イエスさまの愛の深さが心に届くと、恐れを捨てて遠い国々まで福音を伝え始めました。
そしてこのリストラにやってくると、生まれてから一度も歩いたことのない人に会います。「一度も歩いたことのない人生」とはどういうものなのか、想像しかできませんが、さまざまな「不便」と共に生涯を送ってきたことでしょう。また行動上の制限だけではなく、身体や精神に不調をきたすのは、神の恵みから漏れている証拠、見捨てられた男と理解されていた当時の社会では、その人の社会的居場所があったかどうかも疑問です。しかしこの人は、イエスさまの事を知り、話を聞くためにやってきて、パウロ(この人はイエスさまと直接行動を共にしたわけではありませんが)と出会い、尊厳ある人間としてじっと見つられると、歩けなかった人が立ち上がります。それは、この人が人間としての尊厳を取り戻し、社会がどう決めつけようとも真っ直ぐ顔を挙げ、神さまが自分を愛してくださっていることを心の底から信じ、神さまに信頼する人生へと踏み出した、そんな心の内部の立ち上がりのようにも見えます。
ところがそれを見ていたリストラの町の人々はこの出来事を見て、弟子たちが信奉する存在を、自分たちの味方にしようと考えます。つまり、自身自身の何も変えないが、でもその力にはあずかりたいという心境です。素朴な信心のようにも聞こえますが、その根底には、都合よく操作できる神という、勘違いの構図が透けて見えます。わたしたちの知っている神さまは、おそなえもので態度が変わる神さまではありません。わたしたちが喜びで満たされることだけを望んでおられ、真の平和を教える神です。
律法ではなく愛を
ヨハネによる福音書 13:31~352025年5月18日更新
旧約聖書の人々は「律法」と呼ばれる掟を大切に守ってきました。その出発点は人々を縛るためのものではなく、人生を進む上での道しるべであり、神さまが人類に与えて下さった約束であり、神とともに生きる方法を明確に述べた指標のようなものでした。人々はその掟を守り、喜びに包まれ幸福な生涯を送るため、神さまのみ旨に叶うこととして尊重してきました。それは、正しいこと正しくないことが明記されていただけではなく、崇高な助け合いの精神があり、神と人への誠実さでもありました。
ところが時代が進み、世代交代すると、掟の真髄や精神ではなく「かたち」に固執する人々が実権を握るようになっていきます。掟の総論だけでは伝統は守れないと、不必要なまでに掟の細部まで規定し、結果的に「掟を守れる人」は神に愛れる人、「掟を守れない人」は駄目な人、といった「区別」が始まります。さらにこの区別は、指導者たちにとって都合の良いシステムとなり、人々を支配するようになります。
そんな時代にイエスさまが現れ、すべての掟に優先されるのは、「互 いに愛し合う」ことだと教えます。この「愛(アガペ)」は「何かをすれば愛したことになる」といったわかりやすいものではありませんでした。人によく思われようとみんなから見える場所に立って長々と祈る宗教者の姿や、相手に取り入り感謝されるために親切なふりをすることなども、聖書に登場しますが、これらは「愛」ではないので、相手から感謝されないとがっかりしてしまいます。
イエスさまが教えてくださった愛は、無条件で見返りを求めず、人を「お大切」するためのものです。「自分を殺して相手に尽くす」のも違います。自分をお大切にするを知らなければ、決して他者をお大切にすることはできないでしょう。ひたすらイエスさまの愛に倣うことなのでしょう。
イエスさまの声を聞こう
ヨハネによる福音書 10:22~30
2025年5月11日更新
教会では、イエスさまを羊飼いに、イエスさまについていくわたしたちを羊にたとえる習慣があります。それは聖書の中で「わたしは良い羊飼い」と、イエス自身が言っておられることもありますが、当時の人々にとって特別感のない、身近でわかりやすい喩えだった、ということなのでしょう。都市に住むわたしたちには、電車や地下鉄を利用するのが当たり前のように、その時代は羊や山羊は人間の生活の一部でした。
10年以上前ですが、山梨県の長坂聖マリア教会を訪ねたことがあります。門を入った途端、教会で飼っている大きな山羊が3頭、脱兎の如くこちらに向かって来ました。思わず身構えましたが、その山羊たちはわたしを歓迎したのではなく、侵入者をチェックしに来たのです。威圧的な態度で私を睨み、「何か用か?」と迫る山羊の目力。聞くところによると、山羊はテリトリー意識がとても強く、自分は飼われているという意識もないそうです。一方、羊ときたら正反対で、心身共に非常に脆弱で簡単にパニックに陥る。まわりに知らない個体がいるかどうか、これから何処へ移動するかなど、あまり心配しない。それよりも自分の身を外敵から守ってもらい、メンタルの安定のため「群れの一部として過ごす」習性らしいのです。山羊も羊も個体差はあるでしょうが、羊の特徴を聞けば聞くほど、なんだか人間の話をしているような気持ちになってきます。
都合のわるいことを考えるよりも目の前の草を喰み「ああ、今日も良い一日だった」という羊と、わたしたちの少しの違いは、「イエスさまの声を聞き分ける」ことくらいかもしれません。それは、何も考えず従順であれということではなく、イエスさまがわたしたちに伝えようとされている良い知らせを聞き理解し、そして自らの責任において人生を選んでいくことではないかと思うのです。イエスさまからの声、それはわかりにくく、聞きたくない場合もあるでしょう。でも「聞き分ける」ことの力をすでにわたしたちに託して下さっている神に信頼し、人生の目的地に向かう決断ができる羊になりたいと思います。
礼拝は誰のために
ルカによる福音書 2:4a~12a
ルカによる福音書 22:33~432025年5月4日更新
今日は「ウェルカムサンデー」という礼拝を、主日礼拝としてお捧げします。実は、「教会はそのつもりがなくても、十分には門を開いていないのでは」こんな疑問からスタートしたプログラムに、今年は挑戦してみることになりました。教会生活も長く、キリスト教用語に慣れているメンバーも頼りになりますが、その一方で、知っている仲間同志の親交をあたためることで留まっていては「教会」と言えるのかどうか、甚だ疑問だったからです。
そこで、あえて教会暦ではなく、「イエスさま」「心の平和」「ゆるし」「恵みと賜物」「いのち」という5つのテーマを挙げ、奇数月の第一日曜日に、10時から、(こどもフリースペースの礼拝とも合体させた礼拝をお捧げすることにしました。昔の言い方だと「伝道集会」かもしれません。
「キリスト教用語」を振り回さず、伝えたい内容をどのように伝えるか、一生懸命知恵を絞りました。礼拝はハツ体験、という方にどのくらい近づけるか、それは早急に判断できないことですが、その一方、わたしたち教会の内側にいる者にとって、みんなで試行錯誤することによって、自分自身が問われるという経験にもつながると思うのです。それは、「三代目のクリスチャン」であろうと、年齢=信仰歴のベテランであろうと、「初めての方」と一緒に礼拝する、という準備を通じて、自身の信仰生活をさらに深くふりかえり、神さまにより近づき、そして霊的生活がさらに成熟していく体験にも繋がると思うからです。
礼拝を通じて「礼拝のお作法」を押し付けたいのではなく、なんとかして「あなたが大切」と伝えようとされる神さまの働きに参与したいのです。それは、たとえ一期一会であっても、この世の価値観とは異なる「無条件に愛され」「尊重される世界観」への招きであり、万人が幸せに生きることを望んでおられる神さまの切実な願いの共有です。今、あなたの心の中に浮かぶ人、心配だけれどそっと遠くから見守っている人も覚え、その方々の幸せを心からご一緒に祈りたいと思います。
正直に生きよう
ヨハネによる福音書 20:19~312025年4月27日更新
イースターを迎えた教会は、まるでいのちを吹き返したようでした。礼拝堂が人でいっぱいになる恵み、みんなで一緒に歌うイースターの聖歌の恵み、そして3名の方が洗礼を受けられた恵み。喜びと感謝が溢れました。そのイースターの次の日曜日は、毎年同じ聖書が読まれます。(教会の暦は、A年B年C 年という呼び方で3年一周期となっており、それぞれ読むべき聖書箇所が指定されています。今年はちなみにC年です)そのようなわけで、通常は4年目にやっと同じ聖書箇所を読むことになりますが、イースター後の日曜日は、このトマスの物語を読みます。毎年読むほど、何がそんなに重要なのでしょうか。
ところで、十字架上で亡くなり三日目によみがえったイエスさまを、最初に発見したのはトマスではなく女性たちでした。他の人々が恐怖で震えて何もできないでいる中、彼女たちは現実的でした。行動を起こす元気があったからではなく、もう居ても立ってもいられなかったのでしょう。夜が明けるのを待ち、申し合わせて香油を携えて墓に行き、そこで何かが起きたことを知ります。そして「イエスさまは居なくなったのではない、私たちと共に今もおられる」と言い広めはじめます。一方、いわゆる十二弟子と呼ばれる中心人物たちは、次は自分が逮捕され殺されるのではと、息を潜め引きこもっていました。当時の支配者による処罰も恐怖でしたが、なんと言ってもイエスさまが殺された、精神的なショックは何よりも大きかったでしょう。この先どうしたらいいのかわからない、神さまの計画について相談することもできない、ないない尽くしの中、たとえ命があったとしても、一体何になるというのだという気持ちだったと思います。
イエスさまは、そんな弟子たちを気にかけられたのでしょう。彼らが鍵をかけて籠る家にイエスさまは現れたけれど、その時なぜかトマスは不在でした。後にイエスさまの訪問を聞いたトマスは、喜びモード溢れる弟子たちを前に「いや、実際にイエスさまの傷に触れてみるまでは信じない」と断言します。素直に喜べばいいのに、一番聞きたかったニュースのはずなのに、トマスは簡単には受け入れません。自分以外のお弟子が「イエスさまは生きてここに来た」と口を揃えて言っても、「わたしは信じられない」と返すのは、なかなか勇気のいることです。「追い詰められた末の集団幻覚」と解釈し、こっそり心の距離を置く方が安全だったかもしれません。ところが、このようなトマスのために、イエスさまは再び現れてくださいました。そして信じられないトマスを叱るのではなく、直接「さあ、この傷に触りなさい」と語ります。それは、うわべを取り繕うのではなく、信じたつもりになるのでもなく、正直に自分の「信じられない」限界を認めるトマスの謙遜さに、そっと触れてくださるイエスさまのやさしさです。
わたしたちも、「信じたつもり」になっていないかどうか、時々 自分に問うことが必要かもしれません。神さまを全面的に信じているときも、信じたつもりになっているときも、そして信じられないという気持ちでいるときも、変わりなく愛で包んでくださる神さまが共におられる。そのことを忘れないで、勇気を持って自分の弱さをも受け入れていきたいと思います。
主の復活 ハレルヤ
ルカによる福音書 24:1~102025年4月20日更新
復活の物語は、女性たちが助け合いながら、勇気をふるってお墓に行くシーンから始まります。イエスさまは、大勢が見守る中で十字架にかかって亡くなった、それはもう動かし難い事実です。人生をかけて数年間、関わってきた人々にとっては、すべての希望が消え生きていく原動力も失い、漆黒の闇に突き落とされた気持ちだったのにちがいない。眠れぬ夜を過ごした女性たちは、それでも勇気をふるい夜が明けるとお墓に走ります。お墓は空っぽでしたが、狼狽えていると、見たことのない2人からこう告げられます。(イエスがガリラヤで言っていた事を)「思い出しなさい」。
わたしたちも大切な方が亡くなったとき、神さまにその方を守ってくださるよう平安を祈り、そして残された方々の寂しさや悲しさを担い合うことに努めます。でも「思い出しなさい」というこの投げかけによって、女性たちは、さらにプラスのミッションがあったことを思い出しました。それは、「 大切な方を通じて受けた恵みを、あなたはどのように生かしますか」ということです。イエスさまに縋りついているだけではなく、悲しみや喪失感に浸っているだけではなく、こうなることは告げてあったのに、それまでにいただいた恵みや新たに拓けてきた世界のことを、どう他の人々に語り継げるのか、ということをスッカリ忘れていたわけです。でもそれは、「その人がどんなに偉かったか」を話題にするということではなく、自分自身が受けた恵みについて、神がどのように働かれていると見るのか、何を伝えていただいたか、そして現在の生活の中で、何をどう実践していくのか、と聞かれているのではないでしょうか。
一方のイエスさまも「生き返って元に戻った」のではないと思います。諸説あるでしょうが、100%神で、100%人間だったイエスさまは人々と共に生き、その使命を十字架という出来事によって完結した。どこからどこまでが神でどこからが人間か、という区分は難しいにせよ、人間の部分のイエスさまは終了し、神の側のイエスさまが戻っていらした、そんなイメージではないかと思うのです。日本語の「復活」は、どうしても「過去の姿に戻った」印象が強いですが、十字架が敗北ではなかったこと、神は人間を捨てていないことを、お弟子さんたちをはじめ、かかわった人々に、そしてわたしたちに知らせるために、今度は、今まで現れなかった神の子キリストとして、その身を起こしてくださった、それがイースターではないかと思うのです。
キリスト教の神
ルカによる福音書 22:14~23:562025年4月13日更新
いよいよわたしたちは、イエスさまの十字架を記念する「聖なる週」を迎えました。今日の旧約聖書は、キリスト教の教会ではどんな神さまを信じているのか、をよく表している気がします。それは「君臨」とは対極をなす神。圧倒的な力で相手をねじ伏せる「えらい」神ではないのです。
現代社会に生きているわたしたちには「わかりやすい」ことが求められるので、わかりやすい説明やアプローチ、人に理解される行動を探し求めます。「私を納得させろ」という圧が当然のように存在し、納得させてもらえないなら無視するのも正義、そんな風潮さえ感じます。
そんな空気に慣れてしまっているので、人のために尽くしても対効果は見えにくい、人から尊敬されることもないという、イザヤ書に描かれた神は、「神々しい」どころか説得力もなく、“仕事のできない駄目印”(『大切なきみ』)をつけられてしまいそうなイメージすらあります。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」このような神はあまりにも惨め過ぎて、誰も知り合いになりたくないかもしれません。しかもその神は、病いや痛みを代わりに負った挙句、それらを他人事として見下していた人々に、怒りや天罰を下すのではなく、「自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」「自らを投げ打ち、死んで、罪人のひとりに数えられた」と、呆れるばかりの人のよさ。「キリスト教の神は何故そこまで卑屈なのか」と言われるかもしれません。
しかし神の目的は一つです。人々が誤解しようと見下そうと、「あなたが大切だ」というメッセージを、すべての人に届けたい。わたしたちの存在を愛したい神は、誰にも理解されない苦しみを、報われない惨めさを、孤独の中で見捨てられている辛さを、分かち合おうとする。そして上昇気流に乗っている時ではなく、わたしたちが「どん底」に居ると感じる時に、自ら暗闇に降りてきて、一緒に歩きたいと思っていることを伝えたいと思う神。それのために、イエスさまはわざわざ十字架にかかられた。このイザヤ書を繰り返し咀嚼しつつ、ご自分の役割をそこに投影されたのではないかと思うのです。そして短い生涯の最後に、与えられた使命を全うするために、十字架へと向かわれたのではないでしょうか。
もったいない
ルカによる福音書 20:9~19
2025年4月6日更新
電気のつけっぱなしなど、もったいないエネルギー消費や飢餓や温暖化も他人事、自分さえ良ければいいという思想は、明らかに間違っているでしょうが、残念ながら、他者の見当違いはすぐに目に止まるのに、自分がしているもったいないことには、なかなか気がつきません。世界でも珍しい「水道の蛇口から出る飲料水」を垂れ流しにしていても、心を込めて調理された料理をさっさと捨てている現場を目にすると、「もったいない」 と、ひっそり心が痛むことがあります。でもその深層には「心が痛む」 だけではなくて、無駄にしている事実を指摘し非難したい、という衝動が潜 んでいるかもしれません。
神さまは私たちに、「愛に生きてほしい」というメッセージを、無条件に無尽蔵に、諦めることなく送ってくださいました。それは、ある時は「律法」であったり「預言者」であったり、時代を越えてあの手この手を尽くされたのですが、人々は、苦しみや悲しみが喉元を過ぎればなんとやら。神さまの愛を軽視し、現実はそれよりも大きいと言ったりします。挙句の果ては、神さまの愛は何処 にあるのかわからないし、恵みや慈しみなんて見えないと、言い出す始末です。
今日の物語に登場する「しもべを虐待し、跡取り息子を殺害して財産を奪う農夫」とは、まさに神の恵みを無駄にする人々のことではないか と思うのです。もっともこれらの人は、神さまの思いを台無しにしよう と意図的に行動しているわけではなく、彼らの考える生活に必要な正義を貫いている思いなのかもしれません。しかし、目先の利益に固執するとき、わたしたちもまた、この農夫たちのように、神さまの愛や恵みを受けることなく、排水溝へと流してしまっているのかもしれません。
来週はもう棕櫚の日曜日。イエスさまは、まっすぐ十字架に向かって進んでおられます。十字架にかかってまでしてわたしたちに伝えたいこと。それは律法によるものではなく、預言者によるものでもなく、単純だけれどむずかしい「神と人を愛する生き方」なのでしょ う。
手をひろげて
ルカによる福音書 15:11~322025年3月30日更新
レンブラントの「放蕩息子」の絵を見たことがある方も多いと思う。散々好き勝手をした挙句に財産を喰い潰して帰ってきた息子を、父親は肩を抱きかかえて迎える。本人の服はボロボロで足は怪我をしているのか汚れているのかよくわからない。光が当たっている父親の脇で、彼らを見下ろす兄と思われる背の高い男性は、冷たい視線の横顔だ。正面奥にいる人々は、そのあたりの闇に溶け込んでおり、心理的な距離さえ感じる。
この物語は、「ゆるし」をテーマとしてはいるが、「ゆるし」は、過去の痛みと怒りの体験にフタをすることではないし、怒らなくなれば「ゆるした」ことになるのか、という問題もある。また、ゆるせないのは、他人に対してだけではなく、自分にも向く。さらに他者を「赦したくない」という現実もある。そんな中で、「父親」はすべてを越えて、「いのちが回復されること」のみ喜ぶが、わたしたちがこの父親と同じことができるとは到底思えない。
実際、この物語は人間の「ゆるす/ゆるさない」の話ではなく、神はどんなときもわたしたちをすでに「ゆるし」てくださっていて、恵みによって自分自身に立ち返ろうと決心した場合、いつでも受け入れてくださる、という話なのではないかと思う。人間の側が「こんな自分では恥ずかしくて神の前に立てない」と勝手に決めても、神はそんなことより、「いのち」を選ぶ本当の意味で、その人が幸せに生きる道を見つけ出すことのみを願っておられる。
「いのち」は、その人にとっての生きる道。その人のこの世でのお役目を見つけ出すこと。それはそのまま愛に生きることでもあり、たとえ道に迷い、行き先がわからなくなっても、散々道草を喰っても、大きな手を広げて迎え入れてくれる神の存在がなければできないことかもしれない。
「悔い改め」の目的
ルカによる福音書 13:1~9
2025年3月23日更新
痛みの事件からスタートの福音書です。みんなが礼拝をする神殿の内部で暴力がふるわれ、その人々が神さまのために捧げた動物と共に血が流されました。シロアムの給水塔が崩れ落ちる事故があり、たくさんの人が犠牲になりました。このような痛ましい事件や事故の記述は、飛行機事故や、つい先日のガザの空爆を思い起こします。それらをどうすることもできない無力感に打ちひしがれますが、同時に「自分たちでなくて良かった」という思いがあるとしたら、被害に及ぶ罪を犯したから彼らは被害に遭ったのに違いない、というロジックになってしまいます。そのことをイエスさまは、はっきり否定されたのでしょう。しかしながら、「悔い改める」というアクションが、悲劇を遠ざけるということではなくて、悔い改めのない人は、結局最初から空虚なものに縋りついているのだ、と語っているのではないかと思うのです。
後半に続くいちじくの木の話も最初は不可解です。1つ目の犠牲の話となぜセットになっているのか意図が見えにくい。ある本に書かれていたことですが、ぶどう園には当時、いちじくの木を植えるのが常識だったそうです。その目的は、ぶどうの木/つるをいちじくの木に這わせるためですが、同時に滋養のある実も収穫できるし、聖書の中ではいちじくは、よく登場する果実です。ところが、後半の「主人と園丁」の会話では、実がならないなら無駄だから切り倒せというやりとりになっています。実を収穫するいちじく畑ではなく、ぶどうの生育のために植えたはずなのに、なんだか目的が食い違っています。
わたしたちは毎年大斎節という機会が与えられています。それは我慢大会をする季節なのではなく、一番大切なことを取り違えていないかどうか、目的と取り組みが錯誤してしまっていないかどうか、ご自分の生活を改めて確かめる、恵みの時なのではないかと思うのです。
よそか(40日) ふる(経る)まで
ルカによる福音書 4:1~13
2025年3月9日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
さて、あっという間に大斎節に入りました。こどもの頃は、大斎節になると一体何が「降って」くるのだろうと思っていました。福音書では、イエスさまが遭われた3つの誘惑を語っていますが、断食して身体が弱っておられる中大変でしたね、と納得するためではなく、40日間断食した強い意志とか、誘惑に陥らない信仰に感謝しよう、と言っているのでもないと思います。むしろわたしたちもまた、心惹かれるような誘惑の中で、それが悪魔によるものなのか、天使の声なのか、識別することを常に問われているという現実を、認めることから大斎節が始まることを告げているのではないかと思うのです。
最初の誘惑は、「石をパンに変える」誘惑です。飢えは生命の危機と直結します。石をパンに変えれば、イエスご自身も、たくさんの貧しいこどもや大人も救えるのではないか、また、彼らの必要を満たせば、神の言葉も届きやすくなるのでは、そんな誘惑です。一方で、パンが自動的に手に入るようになれば、それが「当然」となり、結果的には神への信仰ではなく、依存を引き起こすのではないでしょうか。
2つ目は、「地上の権力を全て握る」誘惑です。こんな単純な誘惑に引っかかるはずないとは思いますが、努力しても結果が出ないと、早く、確実に結果を手に入れる方法ばかりが気になるようになります。権力を手に入れれば人々の間違いをただし、悪を行なって憚らない権力を追い散らせる。神の愛を聞かない輩は排除できるし、強く勧めれば洗礼だってホイホイ受けるかもしれない。それの何が間違っているかと、悪魔は囁きます。でもそれは、イエスさまが伝える神の姿とは違います。低みにいるわたしたちと一緒に居ようとする神は、圧力を与えて従わせる存在ではありません。
最後は、「本当に神がいるかどうか確かめる」誘惑です。人生の中には、神さまに賭けて前に踏み出すしかない時もあるでしょう。でも必要がないのに「やってみろ」と勧めるのは悪魔の仕業です。神への信頼ではなく依存を引き出すことが目的だからです。さて、あなたにとっての誘惑はどんなことなのでしょうか。それを踏まえて神さまの前に座りましょう。
いちばん大切なことは何か
ルカによる福音書 9:28~36
2025年3月2日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
なんとも不思議な話が、今日の福音書です。イエスさまの服が白く輝く光に包まれたり、いにしえの伝説の人物でもあるモーセとエリヤが出現して何事か一緒に相談していたり、はたまたそこに居たペトロたちは、やたらに眠くなって、分けのわからないことを言ってみたり、と話は続きます。2千年を経た今も「あなたは苦悩するイエスさまの前で、居眠りしてましたね」と言われ続けるペトロさんは、少しお気の毒ですね。
聖書には「夢を見る」話は結構出てきます。しかし「居眠り」の話はそんなに多くない気もしますが、「居眠り」は、その人がそこにいるのだけれど「不在である」という暗号だ、という説もあります。心そこにあらず。つまり聞いて見ているのに何も聞いていない見ていない。ペトロさんも他のお弟子たちも、イエスさまのことを理解したいし理解しようとはしている。でも本当のところはわかっていない。イエスさまが一番伝えたい「神さまの愛に生きる」ことも、また十字架の意味も、本当はわかっておらず、どこかでこの世の成功や達成、そして人々の心に残り、崇拝されるであろうイエスさまと自分とを重ねて観ているようにも見えます。
それでも神さまは、、ペトロやお弟子さんたちに、イエスさまを語り伝える役割を託しました。その後、イエスさまが一番辛いときに自己保身のために逃げ出し、言い逃れのウソもついてしまう彼らについて、わたしたちは聖書を読んで知っています。そういう弱さも醜さも、そして居眠りもする彼らを、神さまは用いられた。
わたしたちもどこかで「もっと清い生活なら」「弱さを乗り越えたら」「ダメじゃない自分になれたら」神さまの前に立てる、と思っていないかどうか、確認する必要があると思うのです。大切なことは「愛すること」を伝える使命です。自分の不十分さを、あれこれ言い訳にしないで、一番大切なことを示してくださっているイエスさまに、ついていきたいものですね。
愛を出発点に
ルカによる福音書 6:27~38
2025年2月25日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「敵を愛せ」「悪口を言う者に祝福を祈れ」「誰にでも与えよ」
ああ困ったと思うのは、私だけだろうか。祈ること自体は、いくら祈ったところで害にはならず、何も減らないと思う。場合によっては気軽に祈れないときもあるが、とりあえずやってみようとは思える。しかし「誰にでもなんでも与え」たり「敵を大切にする」ことは、実行した側に実害が伴う。やり方によっては、相手のためにならない結果を招くことも。そんなことを、お薦めしてよいのだろうか。
マタイによる福音書に、似ている内容の箇所があるが、こちらは、少し実行しやすい。「貸してくれと願う人に背を向けてはならない」とあるので、相談くらいにはのってあげようという気持ちになる。仲間内で親切にし合うなんてことは、最低な輩でもしているのだから、そんな世の中の常識レベルではなく、もっと完全(成熟)な者を目指しなさいという勧め、これも頷ける。普通に考えて、皆が実行したら、世の中がもっと住みやすくなりそうだ。
しかしここでルカに戻るが、神の国と人間的な住みやすさとは、別のものなのかもしれないとも思う。「自分がされて嫌なことは、人にもしてはいけません」「自分がされて嬉しいことを、人にもしてあげましょう」こんなフレーズの範囲内に留まることを、聖書が薦めているようには思えない。
手がかりとなるのは、特祷の「愛はもっともすぐれた賜物」という言葉なのではないか。行動をした結果や効果ではなく、人々にどう喜んでもらえたかではなく、その基に神さまがわたしたちに伝えようとされている「愛」があるかどうか、それがすべてだ、と言っているのではないかと思う。今日の箇所は長いが、日常生活の中で、私たちの行動と言動のすべてが、「愛」から出発しているのかどうか、そんなチェックリストかもしれないと思う。
神からの力を受ける
ルカによる福音書 6:17~26
2025年2月16日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書は、「教会とは何か」について、恐ろしいほど端的に伝えているのではないでしょうか。清く正しい生活をしている人が集まる聖所ではなく、本当の神に従う人を増やす養成所ではなく、教会は「神の力によって手当され、いやされ、現場へと送り出される」場所です。また、「癒され」る権利を優先的に享受できるのが信徒なのではなく、手当と癒しと派遣の働きの大切さを認め、それを大切にしていきたいと望む人が信徒です。
ところで、日曜日に行われる礼拝は、教会の働きの集約点かもしれません。でも礼拝に出席してさえいれば、心の中はどんなでも、「神さまに対する義務」を果たしたことになるのでしょうか。プラットホームで電車を待ちながら、料理をしながら、お風呂に浸かりながらでも、生活の中で祈ることはできます。でも「ながら祈り」ではなく、礼拝は「祈ること」に集中できる時間であり、兄弟姉妹の祈りの輪に加わり支えられると、皆の祈りがひとつとなり、一人で祈る時には限界のあるわたしたちも、生きる力をいただく時間へと「礼拝」が変わっていくことが可能になるのだと思います。
毎月第一日曜日に、わたしたちは「月島聖公会の祈り」を唱え、毎月、教会の原点に立ち返ります。「地域に仕える教会の働きを担ってきた」ことのできる恵みを感謝するためです。たとえ人々が気がつかなくても、「仕える」ことに徹底するのが教会だ、神の国の住人だと、この祈りは伝えます。
今日の福音書は、「貧しい人々は幸いである」と語ります。まるで貧しくない人が、もっと大変な人々もいるのだから、あとでちゃんと神さまがご褒美を用意していてくださるのだから文句を言わないように、などと読んでしまうと、これはもう福音ではなくなります。結果がすぐにはわからないときの方が多いけれど、神さまを切に求めようとする人は現状がどうであれ「幸い」であり、今満足している人は「神さまがいなくても大丈夫」と思うことで「不幸である」と言っているのではないでしょうか。神さまの力を受けているにもかかわらず捨ててしまうような自己防衛に陥らず、惜しみなく注がれている愛を分かち合う教会になれるよう、祈り続けたいと思います。
わたしたちも弟子
ルカによる福音書 5:1~11
2025年2月9日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
荒野で悪魔の誘惑にさらされたのち、イエスさまはまず、ガリラヤ湖周辺の町や村で、神さまの愛を伝え始めます。それは「まず地元から」という概念を、イエスさまが持っておられたという見方もあるでしょうが、そもそも生まれ故郷に定住せず、あちこち動き回るような人生は、当時は一般的ではなかったようです。大都市で一旗揚げる元手はない、知人のいない都市での就職は難しいといった事情もありますが、たとえ家を継ぐ長男でなくても、大家族の一員として次男以下みんなが家業に加わって故郷で一生を送る、それが当然の流れだった。それだけに、「長男なのに」ある時から家業には勤しまず、洗礼運動に加わり、荒野で1ヶ月以上行方不明になるなど、イエスさまに対する世間の目は、すでに「変人」という烙印を押していたかもしれません。
にもかかわらず、イエスさまが愛の神を宣べ伝え始めると、群衆は押し寄せます。現状維持を望む人々からは憎悪を向けられますが、努力すれば人生がよくなるような希望を持てない閉塞感の中で一生を送るしかない人々は、イエスさまの声に耳を傾けます。「罪人」(=律法に沿った生活を実行できない人)以外の生き方では、食べていくことも難しいような人々は、悪霊からの解放と癒しが「罪人」にも実現した、それを目の前で見て常識がひっくり返り、「神さまにとってあなたが大切なのだ」という知らせに心を開きます。
それまでのイエスさまはソロ活動でしたが、ここで初めて仲間を招集します。一般的には、弟子という言い方になりますが、師匠の言うことに洗脳されやすい従順な人ではなく、疑問も抱かない御し易い人ではなく、かと言ってすぐ戦力になる識者でもなく、高貴な生まれでもなく、(おそらく)無学で生活に追われてきた漁師に、「恐れることはない」と告げて、一緒に歩む者としました。聖書を読み進むとわかりますが、弟子たちはまるで現代人のように気をつかったり、遠慮したりして、イエスさまが一番伝えたいことを、果たして理解しているのか?と頭を捻るような場面も、出てきます。その一方、やたら常識的だったり、悩まされてきたはずの律法をイエスさまに押し付けたりして、それこそ「その辺にいる普通のおじさん」です。そのまま年を重ね一生を終えるはずだったシモンペテロやヤコブ、ヨハネに何が起きたのか。最初はシモンペテロも、イエスさまの「網を降ろしなさい」という言い方に、いささか抵抗があったかもしれません。「何十年も漁師をやっている我々が、夜通しあれこれ試したのに何も釣果がなかった。ど素人がいったい何を言っているんだか」と。しかしここで大事なのは、その後どんな奇跡が起きたのかではなく、彼らがイエスさまとの出会いに目を開かれた心開かれた、ということではないかと思うのです。家業や財産そして家族やキャリアもその場に置いて、イエスさまと同行する者となりました。
今週、わたしたちは「行うべきことを悟る知恵」「忠実に成し遂げる恵みと力」をお与えくださいと祈ります(顕現後第5主日の特別のお祈り)。これは、わたしたちもまたイエスさまの弟子であるという大前提の祈りです。自分で判断し自分で自由に選び取るように招く言葉です。しかもそれは、わたしたちがどんな状態にあっても、社会がどう評価しようとしなかろうと、人々の目にはそして自分の目にも、どのような役に立っているのか見えにくくでも、「神さまの目に私は不可欠」と信じる、そんなわたしたちの働きを見分けていきたいと思います。
執着ではなく愛を
ルカによる福音書 2:22~40
2025年2月2日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「被献日」は、命名日(割礼を受ける)とは別の目的で、出エジプト記や民数記に根拠を置いた記念日です。わたしたちがこの日に用いる福音書の箇所には、被献日に神殿に詣でた2つの習慣が一緒に描かれています。1つは、出産を終えたマリアのけがれの期間が終わったことを祭司に宣言してもらう習慣です。️男の子は40日間(女児は80日間)と定められていて、その間は、外出したり人に会ったりすることを避けます。おそらく、産後の休息という目的もあったと思いたいですが、女児の場合、2倍も「汚れている」期間があるのが少し謎です。もう一つは、母親の胎から初めて生まれた男の子の命を神に捧げるべきところ、代わりに動物を生贄として捧げて、神の占有を刻印する習慣がありました。起源としては、イスラエルの人々がエジプトを脱出するとき、家々の鴨居に動物の血を塗り、こども(ことに初子)を殺さないように、神に「過ぎ越して」もらった(命を救ってもらった)ことから生まれた習慣であると言われています。
このようなユダヤ教の習慣を聞いても、そこからどんな良い知らせを受けるのか、少し戸惑います。最初に生まれたからと言って、その子だけ「神に捧げる」ということも、まして生贄にするなんて発想はありませんし、神さまはそんなことは望んでおられないはずです。
この福音書の後半では、長い間「救い主」を待ち望んでいた二人の老人が登場し、神への賛美を口にします。長い間待っていて、ああやっとやって来てくださった、会えてうれしい、という気持ちは溢れてきても、そこにはイエスさまを私物化する表現はありません。
世の中は、利己的な執着を愛情と勘違いする人々で溢れています。すがりつかないと「冷たい」とあしらわれたりもします。長い間待っていた挙句、やっとそれが実現すると、あたかも「自分だけ」が待っていたかのように振る舞う人もいるでしょう。しかし、シメオンも、アンナも、あくまでも栄光は神に帰し、神の国の実現だけを喜び、それを人々に伝えます。口当たりのよい慰めではなく、神の正義が行われることを渇望する、神への信頼です。マリアは「心も剣で刺」されるという予告にあるように、それは平坦な道ではないでしょう。膿を最初に出さなければ治癒はないからです。
イエスさまは何のために
ルカによる福音書 4:14~121
2025年1月26日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書は、イエスさまが洗礼を受けられ聖霊に満たされ、そして荒野へ出向かれる、いわゆる「悪魔の3つの誘惑」に遭ったのち、公生涯と呼ばれる最後の3年間を過ごされる物語の冒頭の部分です。
まずガリラヤへ行かれ会堂で話され、人々から「尊敬を受けられた」という話からはじまるのですが、次に故郷のナザレのユダヤ教の会堂に入り、聖書を読み上げると、最初は感激していた人々が「つぶやき」始めます。このつぶやくシーンは、今日の福音書からはカットされていますが、さっきまでイエスさまの話を聞いて感激していた人々は、話の後半では憤慨し、なんと崖から突き落として殺そうとします。
イエスさまがその時に朗読し、解き明かした聖書の箇所は、「貧しい人に福音を告げ知らせ〜圧迫されている人を自由にする」というイザヤ書でした。そこでイエスさまの朗読とお話を聞いていた人々は、皆が敬愛するイザヤ書を、彼らの期待どおりに「これは、あなたたちのために語られた恵みの知らせだ」と受け止めていた間は、喜んで聞いていました。ところが、イエスさまのお話が進んでいくと、実は自分たちに向けられたことではなく、貧しい人々だということがわかってきました。
つまり神さまが心にかけておられるのは「あなたたちではない」と、イエスさまからはっきり言われたので怒ったのでしょう。耳ざわりのよいことをイエスさまが語っている間は感激し、想定外の知らせを聞くと彼を殺そうとする、これはまさにイエスさまの生涯そのものだったかもしれません。
著名人や権力者、また町の有志や人々から尊敬されている人が、神さまの恵みの対象ではなく、当時の社会で「神さまの恵みから漏れている」と決めつけられている人々、病気の人、抑圧されている人こそが、愛を注がれる人であり、神さまが関心を持つ人々であると告げています。それは「かわいそうな」人々に、特別に神さまが豊かに哀れみを下されるということではなく、生きていることが苦しくてたまらない、なんとか自分の生き方を変えようと七転八倒している、努力してもいっこうに事態が改善されない、そんな人々の最も近くに神さまがおられる、その人々の苦しみや悲しさを分かち合う神さまであると告げに来られたイエスさまの生涯を表しています。
イエス様を分かち合う
ヨハネによる福音書 2:1~11
2025年1月19日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
聖書の中には、不可解な会話がいっぱいですが、今日の福音書も行き違いの会話に満ちています。母マリアと息子のすれ違いもリアルですが、何がおきたのかその背景を把握しているとは思えない花婿を、これまたよくわかっていない宴会幹事が讃えたり、挙句の果ては、この最初の奇跡を目の当たりにしたお弟子さんたちが、イエスさまを「信じた」というくだりで福音書が締めくくられます。
バプテスマのヨハネとの出会いの後、いよいよ本格的な活動を開始したイエスさまが、水をぶどう酒に変えたからといって、イエスさまが神である証拠なのかどうか、この奇跡をどうとらえたら本当の命の道へ繋がるのか、信仰と救いに至るのか、今ひとつピンと来ないわけです。しかし、このように感じると同時に、表面的に交わされるやりとりとは別に、水面下でもっと重大な真実が語られ、話が進んで行っているようにも感じる不思議な展開です。
当時のユダヤ人にとってのぶどう酒は、現代のようなお洒落なものではなく、貴重な飲料水よりも身近にある存在でした。それはまるで、イエスさまが人としてこの世に生まれ人生を送られたことが、水のように無色透明、多くの人間の生涯の一人のようにも見えます。しかしその実体は、見捨てられ虐げられた人々と共に歩む生涯であり、ご自身も血を流し苦しみ悩む赤いぶどう酒なのだ、と言っているようにも思えます。そして、わたしたちが聖餐式で分かち合うぶどう酒は「イエスさまの血」であり、十字架上の苦しみと痛みは「イエスさまが請け負う担当なので私は痛い思いはしない」ということではなく、わたしたちもまた、この世の「ぶどう酒」に、イエスさまの弟子として共にあずかることを示しているのではないでしょうか。
顕現節は、クリスマスの余韻に浸る季節なのではなく、イエスさまが「何のためにこの世に来られたか」が顕現する(すっかりあらわになる)ことを、教会の暦の中で、繰り返し反芻する季節なのでしょう。そうまでして神さまがわたしたちに伝えようとされ、分かち合おうとされている「愛に生きる道」をかみしめたいと思います。
イエスさまの洗礼とわたしたち
ルカによる福音書 3:15、16、21、22
2025年1月12日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
わたしたちが洗礼を受けるときのきっかけですが、以下の全部あるいは一部が動機となり、「そうだ!洗礼を受けよう」という道へと入っていくことになるのかもしれないと思います。
⑴ 神さまと共に生きていけることを願い、そのように努めたい
⑵ それまでの自分の弱さやダークサイドをなかったことにしない
⑶ 弱さも何も洗いざらい神さまの光の中で受け止めていただく
⑷ 自分と神さまという関係だけでは、神さまとの関係を保つのは難しいことを認め、神さまのもとにある家族、兄弟姉妹である教会で信仰生活をおくる
⑸ 教会という共同体の中で、神さまとの関係を保てるよう、支えてもらう
⑹ イエスさまの弟子の一人として、福音を伝えるお手伝いをする
⑺ 祈りの底力を知り、同時に心が神さまに向いているかどうかで日々の行いが変わることを知る
皆さんはいかがでしょうか。大切な友人やあるいは先生との出会い、、、そんなことも影響しているでしょう。他にもいろいろあるかもしれないのですが、上記のことを願って決心しても、実際はなかなか完璧に実行することが難しい、これがわたしたちの現実です。しかしイエスさまご自身は、上記のどれにも問題を抱えていなかったにもかかわらず、わざわざ洗礼を受けられた。それは何故かなというのが長いこと疑問でした。
今日の聖書の前後を見ると、はっきりしていることが1つあります。その後、イエスさまの生涯の最後の3年間が始まります。信頼していても、やはり心配はあったでしょう。途中で放り出すようなことにならないようお守りください、間違った選択をしないようお導きください、最後の最後どんなことになってもあなたを捨てて逃げ出すことのないように、と祈らずにはいられないのではないでしょうか。今日の福音書の前は、バプテスマのヨハネの物語がありますが、この後は、荒野でのサタンによる試み、そして公生涯へともう止められない最後の3年間へと滑り出します。イエスさまにとって、辛いだけではない喜びのときもあったでしょう。そしてわたしたちにも辛い時も喜びの時も、常に「神さまとご一緒に」留まる信頼がありますように!
顕現日(1月6日)は「何を」祝う?
マタイによる福音書 2:13~15、19~23
2025年1月5日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
クリスマス(12月25日)からカウントして12日後に当たる、1月6日が「顕現日」です。今日ではなく明日なのですが、一日早く話題にしています。そもそもどういう意味があったのか、改めておさらいをしておきたいと思いました。
この祝日は、東方教会(現在のギリシア正教など)で、3世紀頃から記念されるようになったそうですが、当時は、「キリストが洗礼を受けたお祝い」というトーンの方が強かったようです。(現在では、イエスさまの洗礼については、顕現後第1主日に記念しています。)
4世紀になって西方教会(現在のカトリックなど)でも顕現日を祝うようになりましたが、次第にキリストの受洗を記念するよりは「外国の博士たちが星に導かれてキリストに出会った」ことを強調するようになりました。つまり、ユダヤ教徒以外にも、イエスさまの福音を聞く道が開かれたことを祝うようになりました。
ところで、クリスマスをいつ記念するかという話も絡んでいます。クリスマスは現在は12月25日ですが、ずっとそうであったわけではないことは、皆さまも聞いたことがあると思います。
3世紀の当初、のちにキリスト教徒になったクレメンスというギリシア人神学者が、「クリスマスは5月20日」と推測しました。その後、変遷を経て、12月25日をクリスマスとして祝うようになったのですが、その最古の記録としては、336年のローマの行事記録に載っているそうです。しかし12月25日となった理由は神学的なものではなく、元々あった「太陽の誕生」という異教の祭りに対抗し、「自分たちは義の太陽(=神)の祭りだ」とローマ在住信徒が言い始め、意図的にその日を選んでぶつけたのが真相のようです。しかも地域によっては、採用された時期にばらつきがあり、地中海沿岸では割と早目に取り入れたものの、肝心のエルサレムでは6世紀以降になってから、12月25日に移動した様子でした。
このような背景もあり、イエスさまの誕生と洗礼とユダヤ人以外への福音の広がりなど、強調点がさまざまあるものが、さらに変遷して現在の形となりました。そんなわけで、ものすごくざっくり、「12月25日から1月6日までをクリスマスとしてお祝いする」ことになった次第です。
「言」は神
ヨハネによる福音書 1:1~18
2024年12月29日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日は少し説明的な話になってしまいますが、このヨハネの福音書のこの箇所では、「言」と書いて「ことば」と読ませるのは何故か、不思議に思っていました。新約聖書の中では、「言葉」と訳される別の言葉(レーマ)がありますが、そこには「神」という意味は含まれていないのが一般的です。レーマは他の言葉と区別する必要もあり、「言葉」「出来事」「事がら」などと訳されています。そして問題のこの「言」(ロゴスというギリシア語ですが)は、神の言葉を指している場合「言」と表現し、その他は「言葉」と表記しているようです。(結局、レーマもロゴスも「言葉」と訳されている部分もあるので、ややこしいです)しかし、ヨハネによる福音書のロゴスはさらに特別な意味が込められています。
1つ目。イエスさまが語られる良い知らせの内容を指し、言葉は「人を救い、命を与えるもの」である、という概念です。2つ目は、神ご自身が発する言葉であり、人は直接聞くことができず、特別に選ばれた人や、神が言葉を託した人のみが聞くことができるものとして登場します。3つ目は、イエス・キリスト自身のことを指している場合。たとえば創世記の「初めに神は天地を創造された」とありますが、そこでは、混沌であり何もない状態に、命と光を与えたのが「言葉」であって、この存在を「言葉」(ロゴス)と、ヨハネは言い換えています。つまり創造の始めから、神とともに存在していたイエスの存在を、ロゴスという言葉で言い換えている、とも言えるでしょう。この神(ロゴス)は、命があって、人格があって、死と復活がすでにプレセットされている存在として記されます。
つまり、神の言葉を聞くことができない人類のために、バプテスマのヨハネがこの世にまず送られますが、これは「2」のお役目であって、彼自身がロゴスなのではない、ということを伝えています。そしてイエスさまの登場です。見えない神、その声を聞くことのできない神を、人々の目に見えるかたちをとって、この世に送られた人格のある存在を、神は送ってくださいます。そして人々の耳が直接聞くことのできる言葉を語る存在として、神は送ってくださいます。そこまでして伝えたいことは何か。それは、わたしたちが神から愛されている存在である、という一言に尽きるのではないかと思うのです。
神はともにおられる
ルカによる福音書 1:39~55
2024年12月22日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
ガブリエルから突然のみ告げを受けたマリアはかなり必死だったはずですが、150キロ余り離れたユダの町へ単独旅行をするとは、どう考えても現実的ではないです。まだ身軽とは言え、裕福とは思えない彼女が、どうして宿屋に毎晩泊まれたのか、ずっと徒歩だったのか、野獣や強盗をどう避けて無事に辿り着いたのか不思議です。マリアの母親がいたら、10代半ばの彼女を一人で荒野へ行かせるなど、絶対にゆるさなかったことでしょう。
一方、親戚のエリサベトは、老年になるまで「産まず女」の烙印を押されてきた人です。男の子を産まない既婚女性は、生きているだけ恥ずかしい、神の祝福がない、人には言えない罪を犯したことがある、そんなことの証でした。
夫ザカリアの元には天使が現れ、生まれてくるこどもについての予告がありますが、エリサベトにはそのような記述もなく、そして二人とも自分のこども以外についての予告は受けていません。にもかかわらずエリサベトは、マリアに会った途端、彼女の胎内に命が宿っていることをすでに知っていて、それが「主」であると声高らかに宣言します。
この一連のあり得ない物語は、「奇跡をおこすすごい神」を伝えたいのではなく、クリスマス物語の「この世の常識がひっくり返る」一連の出来事の一つなのではないかと思うのです。会話での意思疎通はできたかもしれませんがほとんど市民権もなかった羊飼いと、ユダヤ教のイロハも知らない外国から来た(他宗教の)博士たちだけが、降誕の場面に呼ばれた。当時、死刑の対象だった婚外妊娠したティーンエイジャーと、神から見捨てられた(証拠だった)「子無し」の女性とが、この世の常識がひっくり返るその当事者となった。
恵まれた環境で育ち教育の機会にも恵まれ、何一つ不自由なく掟を守り、優位に生きる階層ではなく、社会の暗闇に落とされ評価も低く、存在にすら気がつかれることのない人々こそ、神が一緒におられます(インマヌエル)という知らせを、福音書は繰り返し伝えようとしたのではないかと思うのです。わたしたちもまた、この社会の圧力の中で「常識」にすがりつきたくなる時はあるでしょう。ですが、神さまの計画は、そこを超えています。クリスマスのメッセージは「神が共にいる」。わたしたちも、心の底から「神は共におられる」と、声高らかに宣言しましょう。
ではどうしたらよいのですか
ルカによる福音書 3:7~18
2024年12月15日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
バプテスマのヨハネのことを聞きつけた人々は、自分の身によいことがおきると信じ、洗礼を受けようと我も我もと押しかけます。そういう人々に「マムシの子」などと言わなくてもいいじゃないかと思うし、彼らは単純に、幸せになるための方法なら何でも試してみようと思っているだけかもしれません。でも、タダの景品として、あるいは自分自身は何も変わらずに、もらえるものならとりあえずなんでももらっておこう、という「決断」ならちょっと待った!と言いたくなるのは、少しわかる気がするのです。
洗礼を受けた当時のことを思い出せる方は、思い出してみてください(私は生後3ヶ月だったので無理ですが)。教役者と共に、いろいろな事前勉強もなさったと思いますが、洗礼を受けることは、人間のグレードアップをすることではないでしょう。神さまの思い、愛と慈しみを受け入れて、本来の自分自身を生きる(結果的には、神さまと人々も大切にする生き方)ことを決断するものです。自分の嫌なところ卑怯なところ、そして弱さや情けなさからも逃げないで、そこにしっかり踏みとどまって下さっているイエスさまと共に歩く人生のことです。それは、幸福だけが約束される人生ということではなく、危険から常に守られるという保証でもありません。相変わらず、嫌な目や悲しいことには遭うし、どうしたらいいのか途方にくれることも、洗礼前と何ら変わりはありません。それでは何だか意味がないと思うのは、自分の利益、価値観を神さまより優先しているからです。ヨハネが「悔い改め」を勧めるのは、いい人になろうという意味ではなく、神さまと自分との関係を邪魔している、さまざまな障害物を取り除き、まっすぐに神さまの方へ顔を向ける生き方を勧めているのではないでしょうか。
わたしたちは、わたしたちを造って下さった神さまの意図からはずれ、自分勝手な世界に執着する一方、世間や他者の顔色を窺い、最後は損か得かで判断してしまいがちになる。それをヨハネは「神さまに立ち帰ろう」と呼びかけているように思います。「ではどうしたらいいのか」という人々の問いに、ヨハネは極めて普通のこと、普段できることしか答えていません。おそらくかたちではないのでしょう。わたしたちの心の内実に、神さまを中心に置いているかどうか、そのことだけが大切なのではと思います。
お役目に忠実に生きた人
ルカによる福音書 3:1~6
2024年12月10日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今週と来週は、バプテスマのヨハネの話です。彼はイエスさまの親戚筋。親戚だからどうということはないのですが、思わぬ妊娠で思い悩んだマリアが、神さまを信頼する覚悟を決めるまで話を聞いてもらいにはるばる訪ねたあのエリサベツの息子です。ここで立ち止まるのは話の本筋とは違うのかもしれませんが、マリアについては、(正典の中には)両親の話が出てきません。ひょっとしたら、マリアの母親は早逝しているとか出産の時に命を落としたとか、あるいは両親共に既に他界していた可能性もあります。消去法的に、マリアはエリザベツしか相談できる人がいなかった、ということかもしれません。そんな意味で、唯一の「親戚のおばさん」だったエリサベツも、不思議な経緯でバプテスマのヨハネを産みます。
「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」という聖書の記述により、ヨハネはユダヤ教の中のエッセネ派と呼ばれる集団に属していたと言われています。かなり厳格で、敬虔かつ聖なる生き方を目指すグループです。各々が職業を持ち市民生活を営みながら戒律を守る、といったファリサイ派の活動形態とは異なり、ちょうど現代の修道生活のように、一定のルールを定めた共同生活をしていたことで知られています。シャベル一個と礼拝の時に着る白衣、そして帯。それ以外は一切の個人所有はなく、3年間の修行期間を経てやっと正式なメンバーになれるというシステム。洗礼を奨励することが主な活動ではなく、むしろ世俗化し権力におもねるファリサイ派やサドカイ派のような生き方(こちらの方がむしろ主流)とは、一線を画そうとするグループでした。
ヨハネはどこに家があって日々の糧を得ていたのか全く書かれていません。主流派には認められず家族もおらず、孤独で大した成果も上げないまま宴会の余興のついでに首を刎ねられ命を落とす。親だったら「自分の息子は何のために生まれてきたのか」と嘆き悲しむ以外、何も思いつかないような人生です。しかし、彼には神さまからのお役目があった。どうして彼が必要だったのか、スッキリとはしませんが、「わからないから意味がない」と決めてしまうのではなく、神さまの視点に信頼できるようになりたいと思うのです。それがアドヴェントの準備の中身ではないでしょうか。
混乱をおそれない
ルカによる福音書 21:25~31
2024年12月1日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書の内容。なんという混乱状態でしょうか。まるで地球の終わり、人類の滅亡を感じるような今日の福音書です。これを読んだわたしたちが怯えることを、想定しているのでしょうか。何のためにこんなことをおっしゃるのでしょうか。そんな疑問が次から次へと湧いてきます。
太陽が輝く時間がもっとも短く、闇がもっとも長い季節から始まる暦で、今日から教会の一年が始まります。そしてこれは、ユダヤ教の1日の概念と合致していて、1日という始まりもまた日が落ちた夕暮れから始まると考えています。つまり野獣や盗賊が、暗闇に紛れて襲ってくることから身を守らねばならない、困難な時間が、まず1日の始まりなのです。しかしながら、夜が来ないように、人間の力で操作することはできないでしょう。電気をいくらたくさん点けて明るくしても、何か故障が起きると一瞬で暗闇へと吸い込まれるように、それは暗闇を退けられたのではなく、表面的にその事実から目を背けたに過ぎない状態を作り出しているのではないでしょうか。
同様に、わたしたちの心に住む闇や暗さもまた、表面を取り繕うことはできますが、だんだん隠しているのに疲れて来ると、ついに露呈し、無かったことにはできない現実が現れるのだと思います。
クリスマスのメッセージは、そこにあるのでしょう。わたしたちがお金や時間を費やして、表面上きれいに整えることや、人からの非難を避けるためにうわべを変えることは、もうやめようと。そんなことより、それぞれの最低最悪の状態を認識し、わたしたちが自らのどん底にきちんと立つとき、これ以上考えられないほどの混乱状態を認めるとき、そこにすでに来てくださっているキリストの姿を、はっきり見ることになる、と言っているのではないでしょうか。
クリスマス前の季節、アドヴェントは、あらゆる暗闇を意識する季節です。わたしたちが「どうせ自分の暗闇には抗えない」と諦めたとしても、それでも絶対にわたしたちを愛することを諦めない神の思いを知る季節です。簡単ではないことを神は承知の上で、わたしたちに知ってほしいと語り続けておられます。
真理を伝えるため、仕えるため
ヨハネによる福音書 18:31~37
2024年11月24日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
キリスト教の暦では、今週が大晦日。次の日曜日から新しい一年が始まるのは、なんだか教会が伝統を無視しているように見えるかもしれません。日本には「昇る初日の出と共に、朝陽にキラキラ輝く新しい年を迎える元旦」といったイメージが元々あるのでしょう、新たな年が期待と希望でいっぱいになるように、また、不運は避けて通れるように、普段は神社やお寺に行かない人も、神仏に祈ったりします。新しい年の節目に人生を仕切り直そうという思う気持ちは、自然なことかもしれませんが、一方で不安を覚えるのは「幸運は当たり前であり、嫌なことが起きないよう排除する担当は神」なので、お詣りしておけば神をも操作できるだろう、という下心が透けて見えるときです。
でもそれは、他宗教あるいは無宗教の方々だけの話ではないでしょう。教会の中にも、そしておそらくわたし自身の心の中にも、似たような気持ちがあるかもしれません。神さまは私に便宜を図ってくれるに違いない、クリスチャンでない人より私の味方をしてくれるだろう、何故ならば教会を知らない人より、信徒である自分の方が神に近いし、大切にされているはずだからと。
ドキッとするのは、これはイエスさまが非難されている「ファリサイ派」や「律法学者」と同じ考え方です。「努力の足りない/できない」人々より自分は上等であり、神と親しいと自負しているところが同じです。でもここでイエスさまの生涯を、もう一度心に留めたいと思います。赤ちゃんのかたちをとって貧しい家庭に生まれ、なんの変哲もない苦労の多い人生を過ごし、最後の三年間を、支配者層の恐怖と憎悪の標的となって、ただただ十字架に向かわれた。それはなんのためかというと、「真理について証をするため」であると、イエスさまは言われます。
それは、都合の良い人生を送ることが、信仰深い人の裏付けではなく、不運に遭遇しないことが神に守られていることの証ではなく、辛いことにも悲しみにもどん底にも遭遇するけれど、どんな暗闇の中にも来てくださり、賞賛や感謝をされなくても、泥まみれになりながら一緒に立ち上がるまで、忍耐強く共に居てくださる神の存在に信頼してほしい、それが伝えたい「真理」なのではないでしょうか。そして神さまの言いつけをよく守る「良い子」だけに向けられたのではなく、神さまを信じていない人にも及んでいることを、わたしたちは常に心に留める必要があるでしょう。
一年の暦の始まりが、もっとも暗闇が深い季節から始まり、その闇が来ないように操作することが不可能なように、わたしたちの心に住む闇や暗さもまた、表面上いくら取り繕ってみても、無かったことにはできない性質があるのだと思います。しかし、だから諦めようということではなく、弱さと暗闇を切り捨ててから神の前に立てと言っているのではなく、そんなわたしたちを諦めきれないから、心から愛しているから、わざわざイエスさまを送ってくださった神の意思を知ってほしいと呼びかけておられる。神さまの愛を知ろうとすると、小さな不幸は自分のせいだとは思わなくなります。神さまに信頼すると、新しい力が湧いてきて「あなたは大切な人です」と伝えたくなり、そのように生きたくなります。これが、新しい年を迎える本当の準備ではないでしょうか。
不安に埋もれないために
マルコによる福音書 13:14~23
2024年11月17日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
人を動かす大きな要因として、不安という要素があると思います。最悪のシナリオを突きつけて、こうなってしまったらお終いだと思わせる。あるいは、あまり根拠はないけれど「きっとそうはならないよ」とささやき、考えるのを辞めさせる。巷に溢れる「広告」の中にも、なんとかして人々の目に止まり、不安を煽ることで、つい買い物をしそうに仕向けるメッセージが目につきます。
聖書の時代はテレビもネットもなかったけれど、いろいろな偽の情報は横行し、自称「メシア」や、自称「預言者」があらわれたようです。彼らが必ずしも不安を煽る目的ではなかったにせよ、人々が思わず「そうかもしれない」と信じそうになるくらい本物らしく振る舞う、というのはよくある話なのでしょう。
聖書の冒頭に出てくる「破壊者」は、特定の個人というよりは、キリスト教徒への憎しみの連鎖や迫害、圧政を強いる支配者層などを指しているのかもしれませんが、一方で、その後語られる、建物の一階よりは屋上に留まるよう勧める話や、独身女性や寡より当時の社会的地位が安定していた妊婦やこども連れが「不利になる」話を聞くと、津波や土砂崩れといった自然の破壊力も想い浮かべます。
生きている限り不安は常にあるので、それらを消し去ることはできません。しかし、人の目が必要以上に気になり、噂に振り回され、何が大切なことで、何がそれほどでもないことかわからなくなるような、不安を軸に振り回され続ける人生から、自由になることを、イエスさまは望んでおられるのではないかと思うのです。潰されるよりは、魂や心身が抹殺されるよりは、ひとまず「山にのがれ」自分を守ることを躊躇するな、と言ってくださっている。それは、不安に巻き込まれそうになっても、何が大切なのかわからなくなっても、真理であるイエスさまに、まず心の中心に居ていただくことで、わたしたちは右往左往した心の状態から解放され、すぐにではないにしても、少しずつ霧が晴れるように、何を一番大切にしていきたいのか、見えるようになる、そう言っておられるのではないでしょうか。
もちあげられたい人々
マルコによる福音書 12:38~44
2024年11月10日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
保育園のこどもたちは、振りむきながら「見て見て〜」とよく叫びます。得意なことや、うまくいきそうなことを、誰かに気がついて欲しい、うれしいことを分かち合いたい、そんな気持ちなのでしょう。「喜びを分かち合ってほしい」という呼びかけは、そこへ招かれた人をも幸せな気持ちにします。しかし大人になっても、それを少し歪んだかたちでやらなければ気が済まない人々がいます。この場合、彼らの目的は、喜びを分かち合うことではなく、力関係で上位にいることを誇示し、思い知らせることです。
長い衣は肉体労働には適しませんから、「高級な」仕事をしているという看板を背負っているようなもの。広場で挨拶されることは有名な学者である証拠だと思っているし、宴会でどうぞどうぞと上座を薦められなければ機嫌が悪くなる。こういう人々は、一時的に神さまから預かった特権ないし権力を、(上から目線で投げ与えることはあっても)必要としている人々と分かち合おうとはしません。力のない立場の筆頭である「やもめ」を「食い物に」(=利用してお金を取り上げる)し、中身もなくダラダラと祈ってみせると「さすが〇〇先生」と皆が感心すると思っている。ふつうに考えても、ただの“痛い人”ですが、困ったことに、権力だけは握っている。そして、社会的立場の弱い人々を抑圧することで、「見て見て〜」行動をしている律法学者たちを、イエスさまは人一倍厳しい裁きを受けると断言されます。
もっともイエスさまは、このような人々は「厳しい裁き」がやってきて仕返しを受けるから安心してほしいと言っているのではなく、人は少しでも力を帯びた途端に、この律法学者のように振る舞いがちであることを、弟子たちに警告しているのではないかと思います。
わたしたちの毎日の生活の中でも、身近に存在する体験かもしれません。そして残念ながら、こういう振る舞いの中にも、こういう視線の先にも、神さまの愛は存在せず、慈しみや希望もありません。自分には僅かでも力があるから、神さまはいなくてもやっていける。力を上手に使いながら、自分さえ良ければよい。そんなふうになってはいけない。諦めてはいけないと、イエスさまは心配そうにわたしたちを見つめておられます。
開かれている「神の国」
マルコによる福音書 12:28~34
2024年11月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「彼らの議論」という言葉でいきなり始まるのは、その前にファリサイ派やヘロデ党の人々、そしてサドカイ派の人まで出てきて、入れ替わり立ち替わり、イエスさまに質問をした場面がその直前にあるからです。はたして、この物語のようにまとまった時間の中で質問攻めにあったかどうかはわかりません。でも日頃から、イエスさまの言うことに居心地のわるさを感じていたであろう、ユダヤ教内のさまざまなグループの指導者たちの主張をまとめ、一括してひとつのお話にした可能性もあると思います。その流れのしめくくりが今日の福音書です。
ところでこの律法学者は「掟」と言っていますが、ユダヤ教の人々にとって最も中心的な掟は、いわゆる「十戒」です。旧約聖書の申命記(5章6節〜)と、出エジプト記(20章)に登場します。しかしイエスさまが、第一の掟として答えられた「神を愛する」話は、申命記(6章4節以下)に、そして第二の掟として「隣人を愛する」話は、レビ記(19章18節)にあります。つまり、わたしたちが当たり前に聞いている「神さまと人を愛する事が最優先」という教えは、十戒のようにまとまって成文化されたものがあるわけではなく、出エジプト記と申命記とレビ記に分散されたメッセージを、イエスさまが再編成したものとも言えるのでしょう。
それだけに、この律法学者の「神と人を愛することは供え物をするより大事です」という発言は、かなり画期的なことだったかもしれません。その学者が、自説やあるいは派閥の現状維持を第一としていたなら、このようには言わなかったでしょう。この人は支配者層であったにもかかわらず、それまでの神学以外は拒絶するという立場ではなく、真摯に神さまの前に立ち、限界や弱さを持った人間として、イエスさまに聞きます。「どうしたらもっと神さまのみ旨に添うことができるでしょうか」と。
「神と人とを愛する」ことは最上の捧げものであり、神さまがもっとも喜ばれることの一つであると、わたしたちは知っています。そして、この世的なかたちはどうであれ、このようなイエスさまの教えを受け入れ、従って生きようとする人は誰でも、「神の国」に近いのではないでしょうか。
何をしてほしいのか
マルコによる福音書 10:46~52
2024年10月27日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
わたしたちはふだん、何と祈っているでしょうか。ひょっとしたら、困ったこと、嫌なこと、痛みを覚えることを、とにかく「どけてください」とのみ祈っていないかと不安になります。もしわたしたちが、イエスさまから「何をしてほしいのか」と聞かれても、どうなりたいかはともかく、今、困っていることを取り除いてください、それが神たるあなたの役目ではないか、と祈っているつもりになっていたら、そして、どうなりたいかについては、今はそれどころじゃないと思っていたら、それは何かが足りない祈りかもしれないと思うのです。
もちろんそれでもイエスさまは、耳を傾けてくださるとは思います。わたしたちが、何をどう願ったらよいかわからず、手当たり次第、文句や苦情や愚痴を言っていても、やがてそれらが整理され、わたしたちが道に立ち返り、確かに仰ぎ見るべき望みへと至るまで、諦めることなく、付き合ってくださることは、ちがいないですが、そこまででいいのでしょうかと疑問に思います。
その点、今日の物語に登場する男性は直球です。最初から「イエスよ、エレイソン(私を憐れめ)」と叫び続ける。お弟子さんたちは、ちょっと困ったにちがいないし、できればこの人に黙ってもらって、予定どおりの旅程をこなしたい、会うべき人に会って、早く落ち着きたい、そんな気持ちでいたにちがいないですが、イエスさまは彼を呼ぶように頼みます。
イエスさまの問いに対してこの人は、迷うことなく「目が見えるようになりたい」と答え、イエスの旅に加わったとあります。この人にとって、目が見えるようになることは、自由の獲得でした。またそれは、人々の輪から除外され、やっかい者として生きていくのではなく、自分も神さまから愛され大切にされているひとりである、という証拠でした。もはやこの人にとって、医学的に視力を取り戻したかどうかは問題ではなく、一人の人間として初めて尊重され、生きている苦痛が喜びに変わっていく瞬間でした。目が見えるようになるなら本気で祈ろう、ではなく、この人の場合は、イエスさまへの信頼がこの行動へと歩みを起こしました。望みが実現されることが「真の祈り」である証拠にはなりませんが、わたしたちもまた、本当の望みは何なのか、真剣に自ら問う必要はありそうです。
「ごほうび」を得たい
マルコによる福音書 10:35~45
2024年10月20日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の聖書も、ついこの間聞いた話に似ています。もっとも以前は弟子たちが「誰が一番偉いか」と、激論を交わしていたことを恥ずかしく思い、イエスさまに何を話していたの?と聞かれて黙ってしまう姿が描かれていますが、今回はなんと「あの世では、わたしたち兄弟に、他の誰よりも高い地位をください」と、露骨にお願いしています。イエスさまがのけぞっている(あるいはガッカリ?)姿が目に浮かびます。でもイエスさまは親切にも「確かにあなたがたも、これからおきる十字架の出来事により、たいへんな苦難の道を歩くことになるだろう。その覚悟をあなたがたがしようとしているのはわかる。しかしそれと引き換えに、ごほうびが欲しいと言うのか。他者の上に君臨する、これがわたしと一緒に過ごした挙句のご褒美の中身なのか?それを保証すれば、わたしに従えると言うのか?」と諭しています。
ところで、「キリスト教に入ると、どんなご利益があるのですか」と聞いてくる人がいますが、ヤコブとヨハネのこの提案を思い出してしまいます。もちろんこの質問には、いろんな答え方があるでしょう。永遠の時の中で、この小さな「私」を、唯一無二の存在として、尊び慈しむ存在がいると信じることは、なんと素晴らしいことかと思います。それは、どんな時も最後まで私の「味方」として、生涯を一緒に歩き通してくださり、そしてどんなふうになっても見捨てない神が、最後には「骨を拾って」下さるからです。また「幸せな人生」についても明確です。それは、人それぞれに与えられた使命を全うすることであり、自分の使命と出会っている人は、他者と比較して卑屈になったり、他を羨んだりする必要がないことを心の底から信じ、進むことができるからです。
イエスさまの教えは、ギブ&テイクではなく、徹底したギブ&ギブですが、それはものを剥ぎ取られるといった物理的な話ではなく、徹底して人々に仕えることであり、その視点の先には神さまの存在があります。たとえ評価されなくても、皆から理解や賞賛を得られなくても、ご褒美がなくても、ちゃんと神さまが見守っておられることに信頼し、生きるべき人生をひたすら生きていく。そのお手本がイエスさまの生涯であり、イエスさまの答えなのではないかと思います。
ひとりじめの罪
マルコによる福音書 10:17~31
2024年10月13日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書に登場し、がっかりして去っていくこの人は、たぶん「いい人」なのだと思います。イエスさまに教えを乞うため、走り寄りひざまずいて尋ねていますから、イエスさまへの敬意も、「教えていただきたい」という謙虚な気持ちもあるのでしょう。しかも十戒は、「こどもの頃から守ってきました」とキッパリ答えるほど、恵まれた家庭環境に育ったようです。ところがこの人にとって、イエスさまの教えは、絶望的なものでした。「持ち物を貧しい人と分かち合いなさい」この人は、貧しくはなかったが、何らかの理由で分かち合いたくなかった、あるいはできなかったからです。
わたしたちが指定献金をしようとか、被災地を支えようと思うのは、このイエスさまの教えとも関係があると思いますが、外見では判断できないけれども、もし心の中で「余ったから」「かわいそうだから」という気持ちで何かを差し出していたら、真に分かち合ったことにはならない、と言われているのではないでしょうか。
一方、ここで言う「財産」は、お金や不動産とは限りません。食事ができること、水が飲めること、身体が動くこと、言葉が話せること、文字を読んで理解できること、医療機関にアクセスできること等々、その他ありとあらゆる、わたしたちが「当たり前」と思っている恵みがたくさんあります。しかしそれらに不足している人々と「分かち合う」のは難しい。その方法がわからないと、ついそのままになってしまいます。あるいは、自分の問題ではない、行政がなんとかすべき、と言う人もいるでしょう。
ところで、金持ちが神の国に入るより「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスさまの言葉に、弟子たちは驚いています。イエスさまと一緒に過ごしていても、「金持ちは神の国に近い」と思っているようです。しかし、金持ちという存在が敵なのではなく、どうも財産があると、「自分のものだから、分かち合うと減ってしまう」と思いやすい。もっと大切な恵みを見失う危険を心配されているのだと思います。
神さまからの一時的な預かりものに過ぎない恵みを「所有」している、「獲得」したと勘違いし、本末転倒となる的外れを指摘されているのでしょう。
分かち合い、それは大それたこととは限りません。気がつかれなくても、見返りは期待できなくても、心からの笑顔、小さな思いやり、困った人のための祈りなど、思いつくことから始めていきましょう。
誰も軽んじられてはならない
マルコによる福音書 10:2~9
2024年10月6日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
聖書の時代、たくさんの人々にとって今で言う「人権」の意識がかなり異なっていました。たとえばこども。労働力もあてにできない半人前ですから敬意を払う必要はなく、どんな気持ちでいるかなど、聞く価値はないとされていました。女性もまた一部の例外を除いては、父親か夫に所属する以外考えられない存在だったので、考えや意見を聞かれたり、たとえ当事者であっても証言や訴訟をしたりする権利はなく、また一般的には財産分与の対象にもなりませんでした。こどもにしても女性にしても、あるいは奴隷階層も彼らが属している「管理者」の一存により、人生が振り回されても仕方がない、というのが一般常識だったわけです。
一方、「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった」というイエスさまの理解は、創世記そのものよりさらに踏み込んでいます。家父長制を存続させるため「家」の一部となっていくことが婚姻ではなく、自分の家族から分かれ、1つの独立共同体を形成する、という考えは、当時の家族制度そのものを崩壊しかねないメッセージだったかもしれません。
この創世記の箇所は結婚式でも読まれますが、「神さまは男と女の2種類の人間しか造らなかった」と伝えるのが目的ではないと思います。たとえ当時の人々が、常識や慣習を絶対化しても、神さまは全く別の視点から、人間という存在を誰一人軽んじることなく受け止めておられる、それがイエスさまの一番伝えたいメッセージではないか、と思うのです。
そして、創世記の原文を読むと、以下のことがわかります。
「彼に合う助ける者」(18節)は、あたかも「アシスタント」のように長い間訳されてきましたが、補助者という意味ではなく、旧約聖書の中では、半分以上が神さまの形容詞として使われる言葉です。パートナーとなる人と出会ったとき、そこに神の力が働いて、他の人とでは見出せない自分と出会いこの人以外は誰も「助ける」ことができない、ということかもしれません。「あばら骨の一部」(21節)は、あばら骨一本をポンと取ったのではなく、あばら全体を真っ二つに分けたその片方、と書いてあります。少し奇妙な表現ですが、元々1つであったものを2つに分離させると、初めて他者との関係の中で自分を見出す、ということかもしれません。
力を帯びることの危険性
マルコによる福音書 9:38~43。45、47、48
2024年9月29日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
お弟子さんたちが「イエスさまのお名前を使っているけしからん団体がいましたので、勝手に使うなと禁じておきました!」と意気揚々と報告すると、必ずしも一緒に行動しないからと言って、敵対視するのは やめなさい、とイエスさまから言われてしまいます。でも、お弟子たちは良いことをしたと確信し、褒められることを期待して報告したのかもしれません。
ところが、誉められるどころか「小さな者のひとり」をつまずかせるようなことがあれば、「石臼を首に括られ海に投げ込まれる」方がまし、などと言われてしまいます。しかしながら、ウッカリ他者をつまずかせた人は誰でも彼でも、海に投げ込まれてしまえと言っているのではなく、イエスさまの力点としては「小さい者をつまずかせる」ところにあるのではないかと思います。つまり、力の差を利用した「いじめ」に近い行為について、海に投げ込む話や、手足や眼の話が登場するのではないかと思うのです。
でも、イエスさまご自身の社会的地位が、どうであったかは簡単には言えないでしょう。貧しい人に寄り添ってくださることを知っている人々からは、絶大な信頼があったでしょうが、当時の支配者階級や指導者たちからは排除されていたでしょう。そのイエスさまと行動を共にしているお弟子さんたちですから、支配者や指導者層に対して、もし彼らが「禁じておいた」なら、海に投げ込まれる話は登場しなかったかもしれません。しかしもし、お弟子たちが「イエスさまの名前を使う」ことを禁じさせても、被害をこうむることのない相手を選んでこの態度を取っていたとしたら、それは自分が優位にあることを知った上での確信犯であって、場合によってはいじめに発展する可能性のあることを、イエスさまは心配したのではないかと思います。
一人では何もしかけてこないのに、団体になった途端に吠え出すという行動は、自己保身を確保した上での、あまり誇れない行動ではないでしょうか。ことに相手が弱い立場にある人の場合、わたしたちはますます気をつける必要があります。それはその人の尊厳を守る目的もあるでしょうが、むしろわたしたち自身が、この世の権力や力関係に紛れてしまわないよう、気をつけるためでもあるのだと思います。
怖くて聞けない
マルコによる福音書 9:30~37
2024年9月22日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
皆さんもご存じのとおり、イエスさまのお弟子さんたちは、とても崇高な方々だったかというと、実はそうでもなく、聖書の中では、なかなかの情けない姿や行動を描かれてしまっています。今日の聖書でもイエスさまの語られた内容がなんだか怖く、聞きたくない知りたくないという気持ちが先行してしまった弟子たちの様子が描かれます。そして「よくわからなかったのですが」とは言わず、なんとなく聞き流してしまいました。続いて、歩きながらお弟子たちの中で何かを熱心に議論していた様子をイエスさまが知りました。何を話していたのか聞いたところ、「この中で誰が一番偉いのか」ということで熱くなっていたので、恥ずかしくなり黙ってしまった。そうするとイエスさまは幼子を抱き上げてこの幼児のような者を受け入れるのは、神さまを受け入れることになると語ります。お弟子さんたちにとっては、さらに???だったかもしれません。
当時は、幼児や子どもに人格があるとは考えられておらず、子どもに神さまが理解できるはずはない、そして神さまも子どもなど視界に入っていない、というような人間観がありました。かつては「女 子供」といった表現が日本にもあったように、社会の中で「一人前ではない」人々を作り出し、彼らの考えや意見など聞くに値しない、としていた価値観に似ています。
自分は一目置かれるに相応しい人間だと思われなかったらどうしようという不安や、イエスさまのお役に立ち、一目置かれたいという焦りが、やがて「誰が一番偉いのか」という、お弟子さんたちの中での議論になってしまったのかもしれません。
でもイエスさまは、誰が一番偉いかではなく、何かができるからではなく、どう役に立つかでもなく、どんな立派な過去があるかでもなく、徹底して「今、人を愛する」ことに生涯をかけられました。それは、何かができたり社会に貢献したりすることを「どうでもいい」と思っておられるからではなく、神さまの無条件の愛がどんなものであるか、をなんとかして伝えようとされたからです。今日の特祷は「あなたのみ心の思いを喜んで成し遂げることができますように」と祈ります。一番大事な「成し遂げる」ことの中身は、まず神さまの愛に信頼することではないでしょうか。
祈りとは自分を変える覚悟
マルコによる福音書 9:14~29
2024年9月15日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
昔、「エクソシスト」という映画がありました。少女に取り憑いた悪霊が悪さをし、家族も親戚も近所の人々も困り切って、司祭を呼びます。ところがその悪霊は、少女の身体から自分を追い出そうとする司祭の、精神的な弱みを握っていました。過去の思い出したくない傷に触れたり、どうしたらいいのか答えの出ない微妙な問題を突きつけたり、はたまた、亡くなった母親の声音まで持ち出して、なんとかして司祭の祈りをやめさせようとします。この悪霊の目的は、自分を追い出すのは無理だとあきらめさせ、これまで通り、少女の身体に安住することだったのでしょう。
今回の福音書に登場する息子の描写は、てんかんの症状のようにも見えます。父親は、息子の状態について大変心を痛めており、息子のために一生懸命なんとかしてやりたいと願っているのは本当でしょう。しかしこの父親の言動の端々から、「自分には問題がないが、問題を抱えている息子をなんとか“治して”ほしい、もしあなた(イエス)にそのような力があれば」という心中が感じられます。つまり、父親自身は変わる必要はない、しかし息子を変えてくれれば問題がなくなる、という気持ちです。
しかし、イエスさまとのやりとりの中で、変わる必要があったのは息子ではなく、父親本人でした。居心地の良い慣れ親しんだ自分自身に留まったまま、「あなたがなんとかしてください」とイエスさまにお願いしている姿勢を指摘され、この人は叫びます。「信仰のないわたしをお助けください」
お祈りはマジックでも超現象でもなく、また、イエスさまだけが持っている超能力でもありません。わたしたちが祈るとき、「どうか神さま、必要ならばわたしを変えてください」という覚悟が必要な気がするのです。厳しい言い方かもしれませんが、そうでないと、「祈る」というよりは、望む結果のため、自分の言うことを聴くよう神に要求している、という行為が「祈り」にすり替わってしまう危険があると思います。それを避けるために必要なのは、神さまに対する絶対的服従ではなく、信頼です。わたしたち一人一人の幸い以外、何も望んでおられない慈しみと愛の神を、真に信頼して祈る祈りは、変えられないものを変えていく、そんな力が秘められていると信じます。
「上から目線」が「汚れ」となる
マルコによる福音書 7:1〜8、14、15、21~23
2024年9月1日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹
迷惑行為をされたとき、心の中でこっそりと悪態をつくこともしない、という人はひょっとしたらいるのかもしれません。しかし、悪態を口に出して相手に伝え、もっとひどい状態になるよりは、心の中だけに留めて平静を装い、そして安全を保つ。こんなことは、身の回りでしょっちゅうおきていることでしょう。ことに、相手に体力や地位があり、苦情を伝えると、さらなる危害を加えられるだけの場合は、賢明な判断なのでしょう。
今日の聖書の箇所では、ファリサイ派の人々や律法学者が、迷惑行為と思ったかどうかはわかりませんが、「手を洗わない」イエスさまのお弟子さんたちの行動について黙っていませんでした。普段から、イエスさまの言動が気に障っていた彼らにとっては、反撃の絶好の機会だったのかもしれません。
ここで言う「手を洗わない」ことについての問題は、コロナ禍により、しょっちゅう手を洗ったり消毒したりすることに慣れている、わたしたちの感覚とは別のものです。旧約聖書には日常生活の細部にわたることまで、さまざまな約束事が書かれていますが、それでは不十分とばかりに、ファリサイ派や律法学者たちは、その約束事をさらに「解釈」し、長い伝統が背景にある言い伝えとして、人々に強要しました。その一つが、「手を洗う」ことです。それは衛生上の問題というよりは、市場で買い物をするなど、世俗的な物事のために使った手は「不浄」なので、まず水で洗うことが律法に適っている、という解釈です。現代の日本とは違い、当時はワインよりも手に入れにくい水が少量あれば、たとえ喉が渇いていても、まず手を洗うことを優先しなければならない「圧」を、彼らは作り出していました。しかも、「手首まで」「肘まで」といった決まりまで設けていたようです。
ファリサイ派や律法学者たちが、手を洗わないで食事をしたイエスさまのお弟子さんたちを非難したのは、他の人々が必死で守っている言い伝えを守らない現場を押さえたから、というだけではなく、彼ら自身の権威が乱された怒りもあったのでしょう。言い伝えがそんなに大切だと信じるなら、守れない人々を心配し、どうしたら彼らの人生が良くなるかと工夫を凝らすべきでしょう。彼らは弟子たちを見とがめただけではなく、「いったいどういう指導をしているのか」とイエスさまにねじこみました。人間が作った決まりを、神の意志であるかのように、そして彼らが神に成り代わって、上から目線で言ってきたことに対し、イザヤ書29章13節にある「口先で敬う」愚かさと、「人間が決めた戒めを教え」る虚しさを、イエスさまが指摘されます。
身体から出る排泄物、生活するのに必要な作業が「汚れ」を生むのではなく、心の中のつぶやき、口から出る悪意の言葉、そして神に成り代わって他者を下に見据える態度が、「人を汚す」と、イエスさまは言われます。わたしたちもウッカリそのように振る舞っているときがあるかもしれません。でももしそれに気がついたら、その「汚れ」をうまく隠そうとするのではなく、わたしたちを神さまのものとして変えていただくよう、真に祈りたいと思います。
期待を超えて働く神
ヨハネによる福音書 6:60〜69
2024年8月25日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹
「実に酷い話だ」(「酷い話」とは、先週の福音書の箇所で、イエスさまの 肉と血をいただくことで、イエスさまと共に生きることになるという話) と、多くの弟子たちが口に出して言っただけではなく、仲間うちでぼやき合 い、多くがイエスさまを離れていった、そして、もはや共に歩むことはなかったと、今日の福音書は記します。肉や血を持ち出しただけで、イエスさまと決別するなんてと、「肉と血とは聖餐式のこと」とハナから知っているわ たしたちにとっては、この離別はむしろ疑問ですが、当時のユダヤ教の価値 観からすると、「血を飲む」などという表現は、到底ゆるし難いことだった のでしょう。
多くの弟子たちが離れ去ったあと、残った 12 人も去りたいかどうかとイエスさまは聞きます。のちに“鶏が鳴く前”にイエスさまを知らないと口走ったシモン・ペテロが代表して「そんなことはしない、なぜならイエスさまは神の聖者であると知っているし信じている」と答えます。この時、彼はどういうつもりで言ったのか聖書は記しておらず、勝手な想像に過ぎませんが、そんなに深く熟考しての発言だったとは思えません。
人々は、自分が期待することを実現してくれそうだと思い込むと、イエスさまのところに押しかけますが、期待はずれと見ると、「役に立たない」ので、一気に離れていく。そのさまは、まるで現代の人の流れのようでもあります。もちろん世の中には、怪しい宗教も存在しますので、おや?これは変だという違和感を感じたら、離れた方がいい場合もたくさんあると思います。しかし「期待はずれ」の中身が問題です。
自分の思い通りに動いてくれる神、自分に利益をもたらしてくれる神でなければ「期待はずれ」、ということであれば、それは自分の小さな枠の中に神を閉じ込め、ペットのように飼育しうる神、ということになってしまうのではないでしょうか。
わたしたちが信頼し、生き方について真摯に相談したい神は、あれこれと指示を与える神ではありません。また、わたしたちの想定する範囲内に納まる神でもありません。神の豊かさ広さは、無条件の「愛」ということに尽きるでしょう。そのことだけを見つめて歩みたいと思います。
神さまと共に生きる
ヨハネによる福音書 6:53〜59
2024年8月18日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹
聖餐式の中に「近づきの祈り」(祈祷書 181 ページ)と呼ばれるお祈りがあります。信徒であるなしにかかわらず、「なんともグロテスクな表現、なんとかならないの?」と言われることもしばしば。確かに「キリストの肉を食し、その血を飲み」という表現は唐突過ぎ、キリスト教の外から見たら、一体どういうカルト?と恐怖されるかもしれません。しかし今日の福音書(ヨハネ 6:53〜59)では唐突どころか、これでもかというほど繰り返し、肉と血の話をイエスさまはなさいます。
ここまで肉と血について繰り返される理由の一つは、イエスさまの話を聞き議論していたのが、正統的ユダヤ教の指導者であると自負していた人々だったことにもあると思います。彼らにとって人として正しく生き永遠の命を保証されるのは、律法と呼ばれる旧約聖書に書かれた掟を、どれだけきちんと守れるかにかかっている、と本気で信じていました。皆さんも聞いたことがあるかもしれませんが、「血を食べてはならない」(レビ記17:10〜)と書かれた掟は絶対であり、そのタブー視されている掟に、イエスさまは踏み込んででも伝えたいことがあったのではないでしょうか。
また別の箇所で「死んだ者の(ための)神ではなく、生きている者の神」と言われたように、死んだ後もずっと続く「永遠の命」の保証についてここで語っているのではなく、神と共に「今」を生きること。それは繰り返しご聖体をいただくことによって、「(あなたは)いつもわたしの内におり、わたしもまたいつも(あなたの)内にいる」ことを、ぼやっとではなく、なんとなくでもなく、本当にそうなのだと、わたしたち一人一人が確信し、心に留めてほしいと求めておられるのだと思います。
聖餐式においてイエスさまは、ああよかったとホッとする「儀式」を提供されたのではなく、与えられた時間を十全に生きようとするわたしたちを支えるため、たとえその果実を実感できなくても、必ず最後の瞬間まで、神は共にいてくださることを信じて進み続けてられるよう、また、神が「共に生きておられる」ことを、目に見え、手で触ることのできるかたちとして、聖餐式を残してくださったのではないでしょうか。
聖餐式の意味
ヨハネによる福音書 6:37〜51
2024年8月11日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
わたしが食べたものでわたしの身体はできている、これは某食品メーカーのCMだったと思います(あまり正確ではない)が、聖餐式にも当てはまるかもしれません。イエスさまがわたしたちに与えてくださった、究極のおもてなしである聖餐式ですが、そのようには思えない人にとって、パンはただの薄いウェファースであり、ワインは大して美味しくもない「食品」なのでしょう。それらの吹けば飛ぶような食品を、有難がって受ける集団は、外から見ると異様かもしれません。そしてそれをいわばカルト集団のイメージから、「洗脳」や「鵜呑み」「依存」といったことと結びつけられることがあるのかもしれません。
しかしながら、それは現代に始まったことではありませんでした。イエスさまが天に戻られたのち、直接、イエスさまと聖餐式を分かち合った弟子たちは、ことあるごとに「パンを裂」いていた様子が、使徒言行録にも登場します。ユダヤ教の過越の祭りの一部分のアクション(動作)であったとは言え、パンとワインを食する部分のみを抜き出して特化するこの「おもてなし」は、ユダヤ教内部だけではなく、外から見ても、たかがパンとワインで何をしているのか、何をそんなに大切ぶっているのか、ということだったかもしれません。聖餐式に連なる人々にとって、それはたかがパンとワインではなく、「イエスさまと共にいる」ことを実感する唯一のそして最も深い「方法」だったのだと思います。しかし一方で、聖餐式に「依存」し、パンとワインさえあずかっておれば、あとは何もしなくてよい、という考え方もありますが、わたしたち聖公会では、そのようには教えていません。
イエスさまと共に歩みたい、その生涯にならいたいと願うとき、ありとあらゆる方法で、何とか自分の道をまっすぐにしたい、そして自分の弱さや情けなさに直面しても、そばに居ていただきたい、この苦しみをわかっていただきたいと感じます。イエスさまがパンとワインに宿ってわたしたちの胃袋に収まってくださるということではなく、一緒に食卓を囲み、対等の立場で理解してくださろうとする、そのしるしなのだと思います。
まことのパンをいただく
ヨハネによる福音書 6:24〜35
2024年8月4日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
わたしたちの食生活での主食が、ご飯なのかパンなのか、あるいはうどんなのか蕎麦なのか、もはやわけがわからなくなっているところはありますが、食するとは胃袋のためというより、精神的な充足感を求める心と深く結びついているように思います。心身の健康維持のため、昔、医療断食を定期的にしていたことがあるのですが、「何か食べたい」と食卓あたりをうろうろするのは、(私の場合)最初の日だけで、それよりも「食事」という儀式がない長い一日が節目なく続く、そのことの方が、キツかったことを思い出します。
一方、「食べる」ことによってなんとかして身体と心の緊張を解こうとしていることもあるのだと思います。お腹が空いたと感じる前に必要でもない食物を、さらには美味しいとも感じずに、自動的に口に運んでしまう。しかも、気がつくと一袋全部食べてしまっていて、なんとも言えない惨敗感に打ちひしがれる。これは、自分を甘やかしてしまったという後悔もありますが、「疲れただの、苦しいだの言わずに、早く働け」と、カロリーを放り込み、アクセルをふかし続けようとする姿なのではないか、とも思うのです。高価なものを大量に食べても、そこには満たされた心はなく、胃が疲弊するだけという、なんとも寂しい現実です。
そんなわたしたちに、イエスさまは最高の食卓を残してくださいました。疲れ果て消化できない課題が澱のように溜まっているわたしたちの必要を、神さまは覚えてくださっているというメッセージが込められ、心や身体が、どんな状態であってもわたしたちを大切にしたい、受け止めたい、つまりわたしたちの幸いしか求めていない、と語りかけてくださる聖餐式です。神さまはわたしたちがたとえ忘れていても、日々「命のパン」をもって養ってくださり、それを言葉だけではなく、目で見て手で触れることのできるかたちも残して下さった。そのことを覚えながらご聖体を受けて呑み込むとき、わたしたちの心と身体全体は「神さまはわたしと共におられる」という確信が感謝に変わり、今週もう少し頑張ってみようという力を与えられるのではないでしょうか。
<説明:教会の日曜日の礼拝では、「聖餐式」と呼ばれる、信徒の皆さんがパン(と言っても薄いウェファースのようなもの)と、葡萄酒をいただく式を行います。洗礼を受けていない方々には、パンと葡萄酒ではなく、頭に手を置いて祝福のお祈りをさせていただきます。
見当ちがいの中で迷う
マルコによる福音書 6:45〜52
2024年7月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
聖餐式の奇跡
マルコによる福音書 6:30〜44
2024年7月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまは5千人以上の人々を養った。この物語はすべての福音書に登場しますが、マルコでは、イエスさまのお話を聞こうとついて来ている人々が行き倒れたり、暴動をおこしたりすることを防ごうとするお弟子たちが、気をきかせて解散をすすめている様子からスタートします。
確かに人が生きていくためにはまず衣食住が必要。「心の充足」などむしろ贅沢なことだとする考えもあります。お弟子さんたちの言葉から、「いつもまでも人のお世話ばかりしていられない。実際、おなかがすいている人々の優先課題は、まずパンだろう」と言っているような気もします。
わたしたちが毎週捧げている聖餐式の原型は、いわゆる「最後の晩餐」です。イエスさまがお弟子たちと、ユダヤ教の「過越の祭」としての食事を一緒にされた出来事だったと言われていますが、そこでは、十字架上で犠牲となるイエスさまと、食事のために屠られた羊が重なります。そして、「わたしを記念するため、このように行いなさい」と、イエスさまからわたしたちは言われていますが、具体的にどうすることが「記念する」ことになるのか。その答えが、この物語にあるのではないかと思うのです。
イエスさまは、パンと魚を手にとり「天を仰いで賛美の祈りをとなえ、パンを裂いて〜配らせ」た。これは、聖餐式そのものです。大した資金も人手もなく、世の中に痛みと苦悩と不足ばかりが見えるとき、わたしたちは気落ちし、どうせ何もできないと絶望しかけます。しかし、持っているものすべてを神さまの前に差し出す。差し出す内容は、具体的/象徴的両方かもしれませんが、いずれにせよ、考えもしなかった展開を迎える。それは今で言うクラウドファンディングかもしれないし、趣旨に心底賛同する人が手を挙げることかもしれない。そのすべてを包括している聖餐式は、イエスさまが招いてくださる最高最大の歓迎式でありお別れ会であり、そして何よりもおもてなしです。心と魂が感謝で満腹になる最高の食卓です。その大きな恵みをいただき、人々の間でその愛と恵を分かち合うとき、あり得ない程たくさんの人々の疲弊した心は癒され、前へ進む活力がもたらされるはずです。それが奇跡でなくて何でしょうか。それを信じて、今日も5つのパンを差し出していきたいと思います。
ありのままで従う
マルコによる福音書 6:7〜13
2024年7月14日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
40数年前、聖公会神学院の2年生には、臨床牧会訓練というプログラムがありました。それは、約1ヶ月に渡り、来る日も来る日も入院患者さんを訪問し、お話を聞く。途中、たまに医師や看護師などのレクチャーも入りますが、とにかく訪問した時の会話を逐語録にまとめ、それをグループディスカッションの中で、他の参加者から滅茶滅茶に叩かれる(と感じた神学生も多かった)というものです。
そうなると人間、自己防衛に固執します。なんとかして人から突っ込まれないよう、落ち度のないよう、考察まで完璧にしようと、自信満々の会話逐語録を報告するようになります。でもそうすればするほど、「自分第一」がはっきりと透けて見え、頑張れば頑張るほど、弱さが露呈する、そんな悪夢のような訓練でした。向き合いたくなかった自分の歴史、思い出したくない傷、そして自分の足元を見ると「上げ底」以外の何ものでもなかった真の姿が明確になる。しかし、傷に苦しみ、怒りと悲しみに喘いでいる人の傍に立つには、まず自分の傷を受け止める必要がある、それを思い知らされた期間でした。
自分の弱さを認められるようになるのは、諦めではなく成長です。知識を開陳すると歓迎されることもありますが、単に理論武装で壁を作っている場合もあります。完璧を目指せば目指すほど、完璧でない自分は赦せなくなり、存在の価値を疑います。
そんなわたしたちにイエスさまは、「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持た」なくてよい、と命じられる。その意味は、「あなたが生きていることは、わたしが命じたからだ。あなたは、もうそのままで大丈夫だ。自分の付加価値を探してウロウロする必要はない。あなたのそのままが、すでに尊い真価なのだ」とおっしゃっているように思うのです。自分の身を守るための最大限の必要は満たしても、本当に神さまが守ってくださるのかどうか不安になるのではなく、不安に駆られて鎧を身につけ、兜を被り剣を手にして身動きできなくなるのではなく、神さまに信頼し、その姿こそが人を変え、状況を変えていく力となるのではないでしょうか。
弱さとつまずき
マルコによる福音書 6:1〜6
2024年7月7日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
生まれる前から教会の礼拝に出席していると、教会に行っても親戚のおじさんおばさんに囲まれているような気分になります。それは親しんだ環境ではあるものの、折あるごとに「あの頃はおしめをしていた」など、理由もないのに、わざと笑いの種にすることによって、「よく知っている」感を強調される感じ。話の中身は違えども今日の福音書で、イエスさまに対し「石切り労働者なのに」「(父親がわからない)マリアの息子なのに」「兄弟姉妹は極めて平凡なのに」とつぶやく人々と重なる気がします。偉そうなことを言っているけれど、おまえのことなど小さいときから知っている、大したことはないんだと言いたがる人々です。
当時と今の「石切り工」や「シングルマザー」の立場は違うかもしれません。でもこの話の共通点は、こんなもんだと決めつけていたこどもが、いつのまにか変遷し、自分の知らない世界を持っている、それが不安の原因になります。なんとかして不安を払拭するために「自分の知っている昔の」イエス坊やへ引き摺り下ろさずにはいられない。それを聖書は「人々はつまずいた」と記します。自分を変えないで済むために、知らないこと、理解できないこと、わからないことを否定する、その弱さを指しているのでしょう。
これまでの経験や蓄えた知識が脅かされるときも、この弱さが発動するように思います。イエスさまを拒んだユダヤ教の指導者層、ここに登場する故郷の人々も、イエスさまの言動によって、今まで守ってきた何かを壊される不安を感じたのでしょう。そしてイエスさまの伝えようとされている中身よりも、まずこれまで守ってきたものにすがりつく。今保っている安心な日常を変えたくない、それを最優先させたのだと思います。
イエスさまによる「よい知らせ」は、わたしたちを今まで行ったことのない世界へと導きますので、ワクワクするような冒険とは限らず、不安や迷いでいっぱいになることもあるでしょう。不安になること自体がわるいのではなく、その不安の処理の仕方の問題なのだと思います。他を貶めるのではなく、逃げ出すのでもなく、たとえスッキリとした結論が出なくても、神さまの真意の前に立とうとすることができますように。
神の手の中にある
マルコによる福音書 5:22〜24,35~43
2024年6月30日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
この手の奇跡の物語は、なかなか素直には読めないときがあります。人が亡くなることそのものが、果たして「避けるべき悪」なのかどうかという疑問、そしてイエスさまに生き返らせていただいても、必ずいつかは亡くなる。そうするともう一度、別離の痛みと悲しみをやり直す体験も待っている。イエスさまがおられたから甦ったのであって、立ち会うことの叶わなかった人々、戦乱や飢餓によりこの瞬間も命を奪われている人々は、この物語をどう理解すれば良いのか。そんなふうに考えると、死から命へと戻された、この特異な少女の物語を、「良い知らせ」として、わたしたちがどのように受け止め得るのか、難しいと思ってしまいます。
しかしながら、この物語はそもそも「イエスさまのスーパーパワーが効いて、少女が蘇ったというありがたいお話」ではない、という気もしています。わたしたちは大切な人を送ったとき、そうでない場合もありますが、「ああするべきだった」「自分がこうしていたら結果が違っていたのに」「自分が足りないせいで死なせてしまった」という自分を責める声に繰り返し悩まされることがあります。一見、亡くなった人を想う気持ちが、そうさせるということなのでしょうが、この声の危険なところは「命の時間を私は変えることができたかもしれないのにそうできなかった」という想いへの誘惑です。
戦乱の中にある国々の人々は医療へのアクセスも難しく、栄養の行き届かない状況の中では寿命が短い、という現実は確かにあります。しかし、「寿命が長いことが善」「死ぬのは避けるべき悪」というこの世の常識に縛られて生きる必要はない、というイエスさまからのメッセージなのかもしれないと思います。もちろんお別れは辛いし悲しい。それでも、失ったものではなく、預かっているたくさんのものを、明確に認識できるようなわたしたちでありたいと思います。自分自身の命も、親しい方々の命も、そして遠い国で苦悩する命も、身近で深い悲しみから抜け出せない状況にある人々の命も、世の常識を超えて、神の手の中にある。その真実を忘れないでいたいと思う次第です。
目に見えるしるし
マルコによる福音書 4:35〜5:20
2024年6月23日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
ゲラサ(ガダラ)という町にある墓場に住み、自分の身体や心を石で傷つける。山々にこだまするような恐ろしい声で叫び続け、人々が彼の手足をしばって押さえつけようとしても、じきにくさりをちぎり、町の中や外を歩き回る。その情景を想像するだけで、この人の心の痛みが伝わってくるようです。人々を物理的に傷つけたとは聖書の中に書いていませんが、町の人々は彼を持て余し、活かすでも殺すでもなく、その生命が尽きるまで縛り付けておく、そしてかかわらない。そんな対処の仕方だったことが想像できます。どうしたらいいのか途方に暮れていたことでしょう。
一方、その人にとってはどうだったでしょうか。何らかの理由で人とのコミュニケーションスキルを失ったのかもしれないし、町の人々の扱いに傷つき、言葉を用いることを諦めていた可能性もありますが、イエスさまに叫ぶことはできたようです。わざわざ遠くからイエスさまに走り寄り、「おまえは関係ないだろう。神の子イエスよ、わたしを苦しめないでくれ」と大声で叫びます。次の展開で、そうなった理由がわかるのですが、イエスさまはその人と目を合わす前に、彼の中に居る「汚れた霊」に対し、出ていくよう、すでに言っていたからです。そして「主があなたの苦しみをわかってくださったことを他の人に知らせてやりなさい」と伝えます。
なぜ大量の豚を死なせる必要があったのかという疑問は残ります。カトリック教会には、エクソシスト(悪魔祓い)という専門的なお役目がありますが、人間と同様、霊や悪霊にも人格のようなものがあり、また感情もあるようです。彼に取り憑いていたレギオン(軍団)たる悪霊たちは、イエスさまに対抗できないことを悟りつつも、持って行き場のない怒りを持て余します。せっかく得た安住の地(取り憑かれた人)を失い、その人を使って実行しようとした計画を破壊され、行き場のない激怒を向ける矛先として、2千匹の豚の群れを溺死させることに出ました。可哀想ではありますが、そこは豚を食べないユダヤ教文化ではやや冷たいあしらい、豚は飼っておく必要のない動物です。たくさんの収入を生む2千匹の豚よりも、あなたの方が大切というメッセージも、イエスさまは伝えたかったのではないでしょうか。
神の国となるからしだね
マルコによる福音書 4:26〜34
2024年6月16日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「からし種は小さい」という話はよく耳にします。聞くところによると、「種」という印象よりは、「粉」に近いと人は言います。手のひらに載せると、わずかな風が吹いてもあっさり飛び散ってしまう。その形態からすると、いのちが秘められているようには見えず、そして大きな力が潜んでいるようにも見えない。しかしあえて、このからし種が「神の国」のたとえとして用いられていることに、意味があるのでしょう。
まずここでいう神の国ですが、いわゆる亡くなってから行く場所(天国)のことではないと思います。というのは、種を植え、成長したのちは、野菜として収穫するようなイメージが描かれているからです。つまりわたしたちが今、生きている現代という地上に、神の国という野菜を収穫する話ではないかと思うのです。では一体、神の国とは何か。ひとつは、目に見える力に過剰に寄り頼む重圧からの解放された世界でしょう。全然なくても困りますが、まずお金。そして権力、社会での優位性、他人からの期待。これらを得ることに必死になり、これらを得ようとしない人はさらに生きにくくなる。こんな現状の中、種を植えて「神の国」の収穫を待つ。先が見えないだけに、なかなかハードルは高いです。想定した実りが得られないことが続くと、神の力に信頼するより、何が間違っていたのかと振り返りはじめてしまうかもしれません。
種の外側からは見えなくても、その中に命や力が秘められていることを信じるのは第一歩なのでしょう。しかし人間の勝手な思いにより、深く埋めすぎても芽は出ず、水をやり過ぎれば根を腐らしてしまう。太陽の光は不可欠ですが、日照時間が多すぎても枯れてしまう。こちらのやりたい作業を実行して、それを種に押し付けるのではなく、神の計画は何なのか、この種はどうなりたいと思っているか、思い巡らすことは、想像以上に難しいのかもしれません。
月島聖公会の教会報のタイトルは「からしだね」です。種に力と命を与えて下さった神に、本当の意味で信頼するとはどういうことか、これからも探し求めていきたいと思います。
ゆるされない間違い
マルコによる福音書 3:20〜35
2024年6月9日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
初めてこの箇所を読んだときはギョッとしました。父なる神でもイエスさまでもない「聖霊なる神」を、知らないうちに「冒瀆」(ボウトク)していたら、どうなるのかと。それにしても、三位一体の「聖霊なる神」は、人々の間にまだ下ってきてはいないのではなかったかと。
ものの本によると、あの膨大な旧約聖書の中では、イザヤ書に2回だけ「聖霊」に相当する言葉が出てくるとのこと(新約聖書は93回)。しかも元々、風や空気振動を表す言葉だったのに、人間の息や命をも指すようになり、やがて霊魂や神の霊を意味するようになっていったということです。しかも、神ご自身を意味しているのか、それとも神の働きの一部なのかも不明確。同じ「霊」でも、良い行いをする場面がある一方、「サウル王が霊の働きによってご乱心」という記事があるように、霊を神と一体化した絶対神聖なもの、という意味では使っていなかったかもしれません。これが新約聖書になると、超自然的なこと、そして「病」との関係で、「霊」の存在がぐっと出現してくるように思います。
今日の福音書に登場する群衆や身内、そして律法学者たちは、聖霊なる神がどうこうではなく、イエスさまの行状や教えを見聞きして「気が狂っている」「悪霊の力で、人々を癒しているので取り押さえねば」という判断をしています。悪霊の力を使って悪事を働いているのなら、ぜひ取り押さえていただきたいですが、ポイントはそこではないように思います。つまり、彼らにとってのイエスさまは、権威を失墜させる存在。彼らの主張とは異なる視点を持ち込んでくる脅威。情報や知識にアクセスできないたくさんの人々を作り、その状況を強化することで、揺るぎない「正しさ」を保管しようとしてきた彼らの中には、謙虚さや神の前に立っているという畏敬の念はまるでありません。自分たちを「神」の座に置き換え、他の主張は全て間違いという主張に対し、「永遠に赦されない」と言われているのではないでしょうか。イエスさまの教えがどう間違っているか議論しようというのではなく、「あの人は頭がおかしい」というスタンスで、自らを絶対化し、他を裁いていくこと。これに対して警鐘が鳴らされているのだと思います。
何のためか考える
マルコによる福音書 2:23〜38
2024年6月2日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
むかしむかしある修道院では、1日7回の礼拝が捧げられていました。美しい讃美歌と荘厳なお祈り、修道士たちの捧げる礼拝は、とても美しいものでした。ところがある日、修道院に1匹の子猫が迷い込みます。やがて子猫は、修道士たちに慣れ、どこへでもついてきます。食堂や作業小屋、そして礼拝堂も一緒です。お祈りの間は、ゆったりと毛繕いをしたり、聖歌に合わせてみゃあと鳴いたり、みんなもそんな子猫を見て微笑みました。しかし、成長して鳴き声も図体も態度も大きくなった猫は、今度は「礼拝の邪魔になる」と言われ始め、礼拝前にその猫を玄関外に繋ぐことにしたのです。この修道院では、猫が玄関外に繋いであることで「礼拝中」のサインとなり、皆もそれに慣れました。年月が過ぎ、猫を繋ぎ始めた経緯を知らない人も増え、やがて猫も天寿を全うし、繋ぐ必要もなくなりました。しかし「礼拝時間に、猫が繋がれていない」ことに動揺した人々は、今度は「繋ぐための猫」を探しに出かけたということです。
今日の福音書では、麦の穂を摘むお弟子たちを見て、ファリサイ派の人々が非難をします。それは、他人の畑の麦の穂を盗んだからではなく、安息日、つまり神さまの日なのに「麦の穂を摘むという労働をした」ことがルール違反だ、という主張です。なんのために安息日のルールが定められたか、ということは忘れてしまい、マスク警察ならぬ「労働警察」をしているファリサイ人です。ルールを守れることが正義で、何のためのルールだったのかを忘れ、込められたメッセージの核心には興味がない。繋ぐ猫がいない、と動揺する修道士たちの滑稽さを笑ってはいられません。
笑い話のような猫の話も、ファリサイ派の人々の滑稽さも、他人事ではないかもしれません。かたちを踏襲さえしていれば安心という気持ちが、わたしたちの中にもあるからです。何のために今日の命を与えられているのか、どうして今日人々と出会っているのか、そこには神さまにとっての必然があるはずです。たとえすぐには理解や納得ができなくても、わたしたちのすべての言動を、振り返ってみる必要があるのではないか。自分の心の安定に留まるのではなく、イエスさまの愛と慈しみから出発している今日というかけがえのない時間を十分に生きることができますように。
「自分で生きていける」ニコデモ
ヨハネによる福音書 3:1〜16
2024年5月26日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
ニコデモというユダヤ人社会の指導者であり、議員でもあった人は、どうしてもイエスさまに直接会ってお聞きしたいことがあったのでしょう、人目につかない夜を選び、会いに出かけます。
皆さんもご存知のとおり、イエスさまはユダヤ教の「本流ではない」というより、むしろ「異端者」と見なされていた時代です。そんなとき、イエスさまの言動が気になる、ひょっとしたら新しいタイプの預言者かも、いろいろと議論をしたい、お聞きしたい、と思っても、指導者たる者がそんなことを提案しては、全体の秩序が乱れることが目に見えていました。それは忖度ということではなく、ニコデモの立場の人がイエスさまに接近したことを皆が知ったら、思いがけず「それも良い」ということになってしまうかもしれない、そんなことを心配したのかもしれません。
ニコデモとイエスさまの議論は、「新たに生まれる」ことを軸に展開していきますが、ニコデモはあくまでも「母の胎内から生まれる」以外のイメージを持つことができないでいます。それは、ニコデモの立場から来る固執もあるかもしれません。しかしそれは、どんなに組織の中で立派な位置にある人々も、イエスさまが日頃接している貧しく、まるで存在しないかのように扱われている人々も、神さまの前には全く等しいのだと。「愛され大切にされ慈しみ」を受けるに相応しい存在なのだということが、どうしても納得できないニコデモの姿勢が浮き彫りとなっていきます。
そういう意味では、地位や名誉や財産を持っていて、それらを守ろうと必死になっている人よりも、何もかも失った人、最初から何も持たない人の方が、神さまの愛を受け入れやすいのは仕方がないことかもしれません。
「独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得る」つまり、イエスさまの教えを信じることこそが永遠の命へと至ると、明確に伝えています。しかし、そのシンプルな良い知らせは、ニコデモのような人には伝わりにくい。それは、何もかも失った人と自分は違う、そんなことに頼らなくても自分で生きていけると思っているからです。わたしたちの中には、ニコデモとそうではない人とが同居しているかもしれませんが、どちらの声を聞くことにするのかは、わたしたちに委ねられているのではないでしょうか。
「聖霊」がわからない・・・時もある
ヨハネによる福音書 14:8〜17
2024年5月19日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
この世を創造された「父なる神」はわかる。2千年前に、神でありながら完全な人としてこの世に降り、人々の間で生きた「子なる神」イエスさまも、わかる。でも、「聖霊なる神」となるとピンとこない。果たして必要なのか、父なる神とイエスさまで十分じゃないか、こんな声も耳にします。
今日の福音書は復活節第5主日に聞いたばかりなので、聖霊なる神についてはもう2回も聞いた、いまだにわからないけれど、こんなもんだろうと深追いせず、季節の節目としての聖霊降臨日をお祝いすることで、満足してしまっているのかもしれません。
にわかに「聖霊なる神を理解した」となるのも、怪しいかもしれませんが、ひょっとすると「客観的に納得したい」という気持ちが、わたしたちに先行し過ぎているのかもしれません。「理性」を一つの特徴としている聖公会ですから、それもわるくはないのですが、きちんと説明がつかないと気持ちがわるいというだけではなく、どのように聖霊なる神が私の毎日の生活に役に立つのか、利益があるのかないのか、というあたりで「納得」しようとしていたら、それは少し「理解する」こととは違うと思います。
ところでイエスさまは、今日の福音書の中でわかりやすいネーミングをしています。聖霊なる神を「弁護者」(「協力者」という訳もあります)「真理の霊」と呼ばれました。まもなく地上を離れ、肉体を持った人間としては、一緒にいられないご自分の代わりとしての存在、人々と永遠に一緒にいてくださる存在として、聖霊なる神を送ると言われました。その存在は、孤高から神の価値観を基として、人類を裁いたり評価するために居るのではなく、わたしたちの側に立ち、神の栄光が地上に現れるために、人々の間に神の愛が広がるために、真理を分かりやすく示し、共に協働する存在、ということなのでしょう。
わたしたちは、そんな聖霊の働きを邪魔しないためにどう生きるのか、思い込みと偏見を拭いつつ、なんのために神がこの地に教会を立て、何を伝えるよう促されておられるのか、聖霊降臨日が「教会の誕生日」と呼ばれることとともに、思い巡らしましょう。
彼らを守ってください
ヨハネによる福音書 17:11c〜19
2024年5月12日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
ここで言う「彼ら」とは誰のことか、という疑問が浮かびます。聖書の流れとしては、十字架はまだこれから。弟子たちに対して直接にたっぷり語ったのち、今度は、天を仰ぎ、弟子たちの前で、父なる神に向かって祈られた言葉です。一見すると、「彼ら」とは、弟子たちを指しているようにも思えますが、「世は彼らを憎みました」「彼らを〜悪い者から守って下さる」「真理によってささげられた者」と続くと、「それは、まだこれからなのに」と感じるのは、私だけでしょうか。
弟子たちが世間から本格的に「憎まれる」のも、「悪い者」が皇帝やユダヤ宗教者の支配階級を指すのだとしたら本当の迫害も、そして、イエスさまの言葉の意味を、弟子たちが本当に理解し、みことばを伝えるために遣わされていくのも、まだあとのことだと思うからです。それらすべてを、既成事実のように表現されるということは、すでに世から憎まれ、今すぐにでも抑圧者から守られる必要があり、そして人々の目には隠されているが、真実を生きざるを得ない人々、つまり弟子ではなく、当時のもっとも抑圧された人々を「彼ら」と言っているのではないかと思うのです。
つまり、最も身近にいて行動を共にし、苦楽を分かち合った弟子たちを、身内感覚でもって「守ってください」と父なる神に頼んでおられるのではなく、イエスさまが最も心を砕いた、当時の世界では顧みられなかった底辺の人々のことを「彼ら」と呼び、守って下さるようお願いしているのではないかと思うのです。実際の「彼ら」の中には、体制におもねり、仲間を裏切り、利権をむさぼるような者もいたことでしょう。しかし自分の努力や力ではどうすることもできなかった階級社会の中で、底辺に生きざるを得ない人々と共に有ろうとしたイエスさまは、「そこへ行き、一緒に立とう」と、弟子たちを励まされたに違いないのです。
「彼らを守ってください」これは、わたしたちへのイエスさまからの呼びかけでもあり、わたしたちの祈りでもあります。彼らを守ろうとする神さまの働きに手を添えるため、わたしたちは何をしていきましょうか。祈りつつ、来週の聖霊降臨日を迎えたいと思います。
愛の存在を信じる
ヨハネによる福音書 15:9〜17
2024年5月5日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
美しい言葉を思いつかなくても、気の利いたことをしてくれなくても、その人から自分を大切にしている気持ちが溢れてきて、心も魂も温まる。何もしてくれなくても、その人がそこにいるだけで、なんだか心の中があたたかくなる、そんなことを感じられたら、なんと幸せなことでしょう。
もっとも社会一般では、そのような目に見えない力については、存在しないものだ、価値がないのだとする風潮もあります。役に立つ、なんでも同意する、耳が痛いことは言わない、そんな人のことを「あの人はいい人だ」と言っている声を聞くと、何だか残念な気がします。大切にしているからではなく、「都合がいい」から、いい人だと言っているに過ぎないからです。
昔、ある大学でチャプレンをしていたとき、「親が自分の言動について注意してくる、私は嫌われている」と悩んでいた学生がいました。親御さんのモノの言い方にも問題があったのかもしれませんが、この学生は褒められることが愛されることの証であり、批判やダメ出しは悪意の表現だと思っていたのです。どうして彼女がそう思うに至ったかは忘れましたが、相手を大切にしようとするとき、快適で耳障りの良いことばかり並べていては、伝わらないこともあります。相手に嫌われても、また誤解されても、聞きたくないことも伝えねばならないというときもあるでしょう。
そして「愛」の最大の特徴は、見返りを求めないことです。相手から感謝される、認められることも、時には「見返り」に相当します。誰でも感謝されれば嬉しいですが、もし喜ばれなかったことに腹を立てるなら、それは「感謝される」という見返りを期待していないかどうか、自分に聞いてみる必要があります。「愛」に生きることは、「よい子」「理想の人」という評価を得ることを求めていては、なかなか見えてこない到達点かもしれません。しかし、ひたすら神さまのみ旨を探し求めること、それはすなわち、イエスさまが教えてくださった愛に信頼する生き方を選ぶことです。そうしていれば、自然に自分を大切にし、人々を大切にする生き方へと至るのだと、イエスさまは言っておられるのではないでしょうか。
いちばん大事なこと
ヨハネによる福音書 14:15〜21
2024年4月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
早いもので、イースターから数えてもう5回目の復活節を迎えました。この5週間、復活されたイエスさまは、繰り返し弟子たちのところに現れ、十字架の出来事は敗退と絶望ではなく、神さまの愛を伝える道が、まっすぐに備えられた、そのことに信頼するように、と語ります。イエスさまとの再会を果たし、さらに短い3年間の活動中、聞いていたのに悟ることのなかった弟子たちが「愛」の本質を理解できるようになると、もうそろそろ本当のお別れのときが迫っています。
来週には、昇天日(今年は5月9日)を迎えます。復活して肉体を持ち弟子たちと一緒に過ごしたイエスさまは、天に戻っていきますが、別れの前に繰り返し語られる内容は、「神の愛」についてであり、イエスさまが言われる「掟」の内容でもあります。イエスさまの語られる「掟」(愛)はあまりにも大きく、執着や愛着、あるいは情熱といったカテゴリーをとっくに超えていて、さらにはそれこそ把握しきれないほど豊かで遠大なものであることを実感として知ると、いったいどうしたら「愛に生きる」ことになるのか、途方に暮れる気持ちにもなります。
実践不可能な気持ちにもなりますが、しかしそれを自分一人で取り組まなくてよい、ちゃんと「弁護者」(「協力者」「聖霊なる神」ととらえることもある)を、あなたのために遣わすからと約束されます。愛に生きることは、「協力者」がいてくれても、決して簡単な道のりではないですが、それでも愛に生きるよう、招かれているわたしたちです。
神さまは、自分が祭り上げられることは望まず、ひたすらわたしたちの幸いを求める方。わたしたちが救いに至り、人生を取り戻す様子を見て、それだけで満足する神です。わたしたちが不自然に自分を曲げ、社会規範の「よい子」「理想の人」になってみせることが必要なのではなく、愛に生きる地味な努力をひたすら積み重ねることこそが、大切だと思うのです。この地味な努力を重ねることにより、わたしたちは、神の中で生かされていること、神は今もわたしたちの内で働かれていること、を少しずつ見い出していくのではないでしょうか。
あなたをまもる
ヨハネによる福音書 10:11〜16
2024年4月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまは、ご自分と人々との関係を、羊飼いと羊に例えました。今日はまず、イエスさまの時代の羊と羊飼いについて思い起こしたいと思います。
羊は反芻動物。草、樹皮、木の芽、花を食べ、聴力に優れ、視力も周辺視野270–320°あり、頭を動かさずに自分の後ろを見ることができることから、背後の危険も察知します。また、人間や他の羊の顔を何年も記憶でき、顔の表情から、心理状態を識別する知能もあるとのこと。毛の色は、白に始まり、黒、赤、赤褐色、赤黄色、褐色、斑模様など、さまざまです。ところで、危険察知の能力には長けているのですが、気が動転しやすく、群全体が一気にパニックになることも。そうなってしまうと、初心者の手にはおえず、危険行動を止めることも難しいようです。ひとことで言うなら、臆病で、頑固で、自分勝手。
一方、羊飼いです。聖書の中で、「油注がれる」前のダビデが羊の群れの番をしていた、という記述があるように、こどもや老人などの「お留守番」的な仕事から、何百という大きな群れを管理する場合までさまざまでしたが、いずれにせよ、古く(紀元前3000年頃〜)からある仕事の一つでした。羊は家畜ですが、小屋の中で飼うことはできず、常に牧草地へと移動するので、羊飼いも常に移動を強いられる宿命。しかしその存在は、人間が生きていくための生命線なのに、「いなくても大丈夫」とみなされ、共同体の中では軽視され、いつ来ていつ去っていくのか誰も関心がない余所者、というポジションです。
今日の福音書では、狼に羊を奪われても他人の財産だから適当にやればよい、個々の羊には関心がないというスタンスの「雇われ羊飼い」と、羊を守るために命まで捨てる「良い羊飼い」との対比が描かれます。通常、羊は自分の羊飼いを選べませんが、良い羊飼いは、個々の羊を熟知し、声を聞き分ける、そして羊も自分の意志でその声に従っていきます。またイエスさまは、「囲いに入っていないほかの羊」のためにも命を投げ出す、と言っておられます。
羊は私有財産であり生活のためには不可欠、だから守らなければならない、という主張ではなく、羊は臆病で、頑固で、自分勝手だが、それを受け止め理解している本物の羊飼いであるイエスさまは、何があっても命がけで羊を守り、そしてイエスさまと羊のつながりは、どんな力でも破壊することができない。そんな神さまの意志を、なんとかして伝えようとされているのではないでしょうか。
わかってほしい
ルカによる福音書 24:36b〜48
2024年4月14日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまの逮捕と十字架の出来事は、弟子たちにとって、考え得る限りの「最悪」でした。裏切りと嘘、そして信仰の薄さと自己保身が露呈しました。それは見たくなかった己の弱さが明るみで出たこと。我こそはイエスさまに従っている、と思い込んでいたのは、イエスさまの威を借り、あたかも「イエスさまのようになった」気分を味わっていただけだった、何もわかっていなかった。神さまは本当におられるのだろうか、と思っていたかもしれません。対人関係なら、危機に瀕した時に慌てて逃げるような友だちは、二度と信用されないでしょうし、信用を失った側としては、いったいどんな顔をしてお詫びを言ったらいいのか、亡くなったイエスさまの魂の平安を祈る言葉さえ浮かばない、そんな状態だったのだと思います。
そんなどん詰まりでしたが、意気消沈している弟子たちを励ますために、イエスさまはよみがえった後、何度も彼らに現れます。弟子たちの不甲斐なさに小言を言うでもなく、裏切ったことを怒るでもなく、ただ「うろたえる必要はない、わたしはよみがえったのだから」と、一生懸命知らせます。まず謝罪する、まず懺悔する、などしか思い浮かばなかった弟子たちは大混乱したことでしょう。
十字架の出来事は「失敗」だったのではなく、成し遂げられた「完成」の出来事なのだと、イエスさまは教えてくださいます。十字架が失敗でなかったことをまだ信じられない弟子たちのために、その後もイエスさまは何回も現れて、そして肉も骨も伴って復活した実感を弟子たちに感じてもらうため、傷を触りなさいとまで言います。まだ不思議がっている弟子たちの目の前で、魚までバリバリと召し上がります。イエスさまは、難しい解釈や、神学議論でわかるように説得しようとしているのではなく、わたしたちが「信じる」ためなら、何でもする姿です。それは理屈ではない、科学的説明でもない、どんなに神さまがわたしたち一人一人を気にかけていらっしゃるか、そのことだけを受け取ってほしい、という姿です。
地位や名誉や権力によって、神の国を実現するのではなく、わたしたち一人ひとりが神さまの愛を受け入れ、今度はわたしたち自身が、神さまの愛を分かち合う人間に変えられていくことが神の国の実現に他ならないのです。イエスさまに再度出会い、別人のように変わっていった弟子たちが「証人」として派遣されていくように、わたしたちもまた、愛を伝える証人としてこの世に遣わされています。
シャローム
ヨハネによる福音書 20:19〜31
2024年4月7日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
明らかに息を引き取られたイエスさまが、再び肉体をもって「復活された」。それがどういうことなのか、わたしたちの理解と想像を超えます。家の扉という扉、窓という窓すべてに鍵をかけ、ローマ兵士の足音を恐れ、同胞のユダヤ人たちに見つかることを恐れ、息をころして潜伏していた弟子たち。身が安全ではなかったことに加え、生きる理由のすべてだったイエスさまを殺されてしまい、何をしたらいいのかわからない、茫然自失という言葉がぴったりの状態だったに違いないのです。しかしそれだけではありません。イエスさまが仲間を一番必要としている時に、裏切り見捨てて逃げた、という恐ろしい事実がありました。イエスさまがたとえ神の子であっても、背負いきれない重さで呪うだろう、決して赦してはもらえないだろう、生きてはいられないだろう。罪悪感という言葉では表現しきれない重圧に押し潰されていた弟子たちですが、まるで昨日まで一緒にいたかのように、イエスさまが「シャローム」と言って家の中に入ってきます。
まるでサプライズパーティのようでもありますが、呆然としている弟子たちに、イエスさまは釘打たれた傷跡や、槍で突かれた脇腹などを触らせてまで、本人であることをわかってもらおうとします。いつもと変わらないイエスさまの態度に、弟子たちはどうこの事態を受け止めたらいいのか、最初は混乱したことでしょう。
しかしイエスさまは、弟子たちの弱さを指摘するでもなく、嘘までついて保身を図ろうとしたことを非難するでもなく、「信じなさい」とだけ言われる。それは、何かを鵜呑みにする信心ではなく、裏切っても弱さが露呈しても逃げ出しても、神さまは変わることなくあなたを大切にする、愛しておられる。それを「信じなさい」というメッセージだったのだと思います。さらにイエスさまは、この不甲斐ない弟子たちに、大切な役割を委託します。聖霊を受けて、罪を赦す権限を預かり、そして人々の間に遣わされ、主による平和を宣べ伝えるよう命じられます。
わたしたちも、もっと立派な信仰を持つようになったら、内外に主の平和を宣べ伝えてもよろしいということではなく、弱さと不完全さと情けない現実をもったままで、その大切な役割を預かり、この世に派遣されています。ひとりで出来ることには限界がありますが、わたしたちが神さまの愛を共に信じ、一緒に祈るとき、わたしたち自身の小ささを超えて、遣わされていくのではないでしょうか。
イースターの喜びが皆さんとともに!
マルコによる福音書 16:1〜8
2024年3月31日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「クリスマスとイースターでは、どちらが大きなお祭りですか」と聞かれると、思わずペンテコステの話もしたくなりますが、この人は「キリスト教の三大祝日」について情報を得たい訳ではないでしょう。クリスチャンが「重要だ」と力説するイースターは、教会の外から見ると、クリスマスに比べてむしろ地味。せいぜいウサギやひよこ、チョコレートに茹で卵くらいが、明るい楽しいイースターのイメージであり、クリスマスの華麗なイルミネーションや、ホテルのディナショーには負けてる、そう見えるのかもしれません。
ところで、聖書を読んだことのあるわたしたちは、イエスさまが十字架上で亡くなられても、すぐに復活すると知っているので、十字架の死と復活という出来事は、結末を知りながら見ている映画のようでもあり、弟子たちが追い詰められた切迫感は、なかなか感じることが難しい、ということもあるのでしょう。その一方、十字架という処刑方法が、あまりにもむごく、つらいので、意識的に心の距離を置きたい、という事情があるかもしれません。
十字架は、身体的な苦痛に加え、精神的にも「見捨てられ、誤解され、軽蔑され」る刑罰。神さまに信頼していても、本当にこれでよかったのか、何かの間違いではなかったか、という恐怖と捉えどころのない不安に包まれたことでしょう。イエスさまにとって、あえて引き受けられた十字架だったものの、死ぬまで続く苦痛と恐怖は、詩篇22篇を暗唱しなくては正気でいられないようなものだったのでしょう。そして、イエスさまを理解し、その姿勢に賛同して一緒に生活も活動も共に過ごしてきたはずの弟子たちは、一人残らず逃げ出し、イエスさまのどこが「神の子」だったのか、どこに「全能の神」がおられ見守っておられるのか、すべて否定される暗闇に追い込まれていた十字架の出来事でした。
それから3日後、墓の石(蓋)がころがしてあって、イエスさまの遺体が消えていた、そして弟子たちの隠れ家に現れた、と聖書は語ります。弟子たちの中に現れたイエスさまは霊体だったのか実体だったのか、そこは詳しく書かれていません。そして、どうしてそういう展開になったのか、何のためだったのか、わからない部分はありますが、明らかなことが一つあります。イエスさまを捨てて逃げ出し、嘘までついて身を守ろうとした弟子たちが、別人のように変わっていきます。イエスさまは無駄に殺されたのではなく、今も生きて「わたしのために」復活された。そのことを知った弟子たちは変えられていきます。しかも、弟子たちが考えていたような「神の世界の実現」をするためではなく、自分の味方として矮小化された神を確保することでもなく、心の底の底の暗闇まで降りてきて、わたしたち自身が少しずつ変わっていくことに寄り添う神に初めて出会っていきます。それは生前、イエスさまが繰り返し伝えてくれた神の姿と出会うことであり、今までの価値観がひっくり返るような奇跡の物語だったに違いないのです。
わたしたちも時には、教会の華々しい成功物語や、人々の賞賛を受ける信仰生活を妄想するかもしれません。しかし、そこに神はおられず、空っぽのお墓と同じなのだと思います。神さまがもたらす「救い」、それは深い苦悩や悲しみを分かち合うために地上においでになった神、人類一般ではなく、わたしの労苦と孤独と痛みを理解し受け止めるために来てくださった神、そして、変えられることを諦めているわたしたちに対して「奇跡は起こる」と告げてくださっている神、その本当の愛の底力を、わたしたちが真剣に受け止めることができますように!
さあ、そのときが来た
マルコによる福音書 14:32〜15:47
2024年3月24日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまが地上に生まれ、マリアやヨセフに育まれて成長し、家の手伝いや、妹や弟の世話をしながら、「普通の人」として時を刻んできたのは、十字架に向かう人生のプロセスだったと思うと、正直切ない気持ちになります。今日のイザヤ書にあるように「軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負」う人となった。それは、わたしたちの痛みや、密かな裏切りや、神に対する背信行為を変えられない弱さを、「捕らえられ、裁きを受け、命を取られ」ることによって、担ってくださるためだった、と書いてあるからです。
ユダヤ教の世界では、男の子の成人の儀式として、旧約聖書を読み上げ、暗誦する場面があります。イエスさまもそうされた、と聖書に書いてあるわけではありませんが、こどもの頃から立派なユダヤ教徒となるべく、旧約聖書を読まされ、その習慣の中で成長してこられたのだと思います。そして、ご自分が何かとても特別な役目を担っていると感じたとき、救い主としての使命があると確信したとき、イザヤ書のこの言葉を繰り返し、ご自分の胸に留めたに違いないと私は思うのです。それは、悪には近寄らず、遥か離れたところから人々を見下ろし、世界に君臨して罰を与える神ではなく、もっとも「低いところ」つまり、わたしたちの弱さや過ち、見捨てたくなるような暗黒の心さえ切り捨てず、とにかく共に歩いてくださろうとする神。理解されなくても、誤解さえされても、無視され続けても、わたしたちが救いに至りさえすれば、それで「満足する」という神の姿です。
このイエスさまの生涯を知り、そして救いの道を選ぶかどうか、それは、自由意志と責任とを持って、自分の人生を歩もうとするわたしたちひとりひとりに託されているのだと思います。
自分のいのちを「愛する」
ヨハネによる福音書 12:20〜33
2024年3月17日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
ヨハネ福音書は全体の半分以上が、イエスさまの十字架の物語で占められています。今日の福音書は、イエスさまがエルサレムにやって来た、と始まり、ご生涯の最後の1週間が語られる冒頭部分です。エルサレムにやって来たイエスさまに、一目会おうとする人々の中に、ギリシア人もいたというから驚きです。それは礼拝の中に突然、袈裟を着たお坊さんたちが混じっているような光景だったことでしょう。どういう背景の人か、ということに関係なくイエスさまは、「一粒の麦」の話をします。
「自分の命を愛する者はそれを失う」と言われてしまうと、自分を大切にするのはいけないような印象を持ちます。しかし、ここで使われている「愛する」はアガペではなく、どちらかというと「好む」「いつも用いたい」「親しい間柄」という意味で使い、ことに「神を愛する」ときには決して使わない語だそうです。つまり自分の考えやこだわりに執着し、自己中心的な世界から出られない人は、やがて自分で自分を滅ぼす、と言っておられると思います。一方、「この世で自分の命を憎む人は〜永遠の命に至る」も、自分をないがしろにすれば天国へ行く、などと読んでしまうかもしれませんが、この「憎む」は、「選ばない」「軽視する」という意味です。つまりこの世の価値観優先ではなく、常識に縛られている自分を自覚し、神との関係を守ろうとする人は救いを得る、という意味でしょう。
イエスさまは、「わたしに仕える者」は誰であっても父なる神はその人を大切にする、と言われていることに注目しましょう。この話を聞いているのが、冒頭に登場したギリシア人なのか、あるいは取次をした弟子たちだけなのか、詳しくは書いてありませんが、いずれにせよ、イエスさまの言われたことに賛同し、その生き方に倣おうとする人は誰でも(たとえ袈裟を着て頭を剃ったお坊さんであっても)、神はその人を大切にしてくださる、愛してくださる、ということなのではないでしょうか。それは外国人でも他宗教の人々でも、あるいはわたしたちが良い子のときも、悪い子であっても、取り返しのつかない失敗を隠していても、自慢することがあってもなくても、「イエスさまの生き方に倣いたい」それこそが、自分のいのちを真に愛することだ、と言われていると思うのです。
5つのパンと2ひきの魚
ヨハネによる福音書 6:4〜15
2024年3月10日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
5つのパンと2ひきの魚は、わたしたちがそれぞれ、神さまからお預かりしている「タレント」の事だと思うのです。その「タレント」は、神さまの目から見ると、かけがえのない唯一無二の輝くような尊いものですが、世界や社会の価値観では、気にも留めなかったり、評価されなかったりします。軽視されるので、自分でも価値がないような気がして、他人の持っている「タレント」が羨ましく、勝手に妄想を掻き立て、思わず比べて落ち込んだりします。
最初に大麦のパン5つと魚を差し出した男の子は、そんなことは考えていなかったのでしょう。みんなに喜ばれ賞賛されるかどうかあるいは「こんな不味いものなんて!」と馬鹿にされるかも、そんなことは全く心配していない様子です。一生懸命イエスさまのお話を聞いていて気がついたらもう夕暮れ。そしてみんな空腹。この男の子の荷物の中に、貧しい人がふだん食べているボソボソの大麦のパンと干した小さな魚が、たまたま入っていた。それをみんなで食べればいいじゃないかという極めて素直な話なのでしょう。
その男の子が、素朴な食事を差し出すと、それを見ていた大人たちも、自分にできることを思い出したのかもしれません。昔ポケットに入れたのにすっかり忘れていたタレント。自分の利益のためだけに用いようと隠してきたタレント。そして「こんなものじゃ駄目」という烙印を押し、恥ずかしく思ってきたタレントなど。しかし、人々は「そうか!神さまの前では率直にシンプルに、どうかお用いください」と差し出せばいい。そのことをこの男の子から学んだに違いないのです。すると、それらはやがて12のカゴに溢れ,皆が心の充足感を味わった、そんな話なのではないかと思うのです。
神さまは、わたしたちに必要なものをよくご存じで、すでに与えてくださっています。でもそれが「自分だけ」で完結する仕組みなのではなく、お互いに補い合い、支え合ったとき、カゴから溢れるほどの豊かな恵みを知ることになるのではないでしょうか。
不必要さとの対峙
ヨハネによる福音書 2:13〜22
2024年3月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
教会が長い間守り続けてきた制度を、ある日突然、イエスさまがおいでになって壊しはじめたら、“びっくり”を通り越して、恐怖すら感じるかもしれません。制度だけではなく、「利用する人にとってその方が便利」「お互いにたすかる」などの理由をかぶせ、必死に守ってきた習慣や行事、みんなが「あって当たり前」と思ってきた事象なども、そこには含まれるかもしれません。今日の話は、通常のイエスさまのイメージからかけ離れ、読み方によっては恐怖すら感じるような話。一体何を「良い知らせ」としてこの話を読んだらいいのか、少々迷うところです。
それにしても、暴力や腕力の誇示を推奨しているのではなく、また、神殿に供える鳩を売ってやっと生活を成り立たせている庶民や両替商の下働きの今日のパンを奪ってもよい、そういう話ではないでしょう。今日の福音書は、その暴力的な行為が焦点なのではなく、現状に至る長い歴史があるとは言え、いつのまにか人の便利のため、より大きな利益を得るためには、聖なる場所も利用できるだけ利用してもかまわないという意識に対して、イエスさまは否を伝えなければと思われた気がするのです。神殿の境内が商売の餌食になっている状態は、当時の人々にとって当たり前過ぎる情景であり、全く無意識ではあるものの、神さまとの対話を軽んじる無感覚、神さまを無視してもかまわない、という心の表れだったかもしれないと思うのです。
表面だけの「敬虔さ」や「謙遜」を求める神さまではないことは、わたしたちは百も承知です。また、綺麗事やうわべだけの重々しい態度も、神さまは見抜いておられます。そして、わたしたちは「大切にすべきことを大切にしている」と思いたいですが、本当に本質的な事柄なのか、神さまの声を聞こうとしている行動なのか、それは問われることでしょう。
神さまとはかけ離れている言動であるにもかかわらず、変えることができないでいる状態を、もしわたしたちが抱えているなら、羊や牛を追い出し、両替商が得た利益を撒き散らしたように、イエスさまは前に進むことを手伝ってくださる。そしてそれは呪いや裁きではなく、わたしたちを、是が非でも救いへと導きたい、解放したい、という行動の表れではないでしょうか。
いのちを救え
マルコによる福音書 8 :31〜38
2024年2月25日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
大斎節に入って、まだ2回目の日曜日ですが、今日の福音書は、十字架へまっしぐらです。「自分の十字架を背負って、ついて来なさい」と言われるイエスさまの、その十字架とわたしたちのそれぞれの十字架はケタ違いですが、一方で「自分の命を救おうとする者はそれを失う」と言われたそのすぐ後に、「自分の命を損なって何の得があろうか」とも言われる。「いのち」がかかっているだけに、イエスさまはわたしたちにどうしろとおっしゃっているのか、不安にもなります。
「十字架」という現実を耳にしたとき、人の思いとして自然かもしれませんが、聞きたくないことを言うイエスさまを、ペトロは止めようとします。そんなことがあなたの身に起きてはならない、自分の身を犠牲にしてでもそれは回避します、くらいのことを言ったかもしれません。でもそれは、イエスさまを大切にしている人の発言のようでいて、実は「そんなことは聞きたくない」という自分の安心を最優先した、不安感を回避する言動だと、イエスさまは指摘されたのではないでしょうか。
わたしたちもまた、自分の背負いたいものだけを選んで背負い、こんな大変なことを自分は背負わされている、という気分になります。イエスさまを大切にしているようでいて、実は自己保身のための発言や行動をしていることがあります。わたしたちの聖書日課では、「自分の命を救いたいと思う者」とありますが、別の翻訳では「自分自身を救おうとばかり思う人は自分を滅ぼす」となっています。つまり、神さまが優先ではなく、他の人を思いやるためでもなく、(本人は気がついていないかもしれないけれど)自分の立場や気分の安定第一のため、あたかもイエスさまを大切にしているような行動をとって見せること、それに対してイエスさまは「サタンよ、引き下がれ」と言われたと思うのです。自分の命を守ろうとすることがいけないのではなく、命を守るフリをしながら、実は自己保身を優先する欺瞞について、イエスさまは指摘しているのではないでしょうか。このみ言葉に留まり、わたしたちが真に神さまと人々を大切にすることができるよう、願い求めましょう。それこそが、神さまからいただいた「命を守る」生き方なのではないでしょうか。
イエスさまの生涯のはじめ
マルコによる福音書 1 :9〜13
2024年2月18日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
大斎節の最初の日曜日は、イエスさまの洗礼と荒野四十日間の話から始まります。マルコによる福音書では、極めて簡潔に描かれていますが、イエスさまはまずヨハネから洗礼を受け、そして次に、荒野で「サタン」から試みられる四十日間を過ごされた(他の福音書では、3つの誘惑についても書かれています)とあります。
ところで「最後の誘惑」というずいぶん昔の映画がありました。その中でイエスさまにとって、荒野の四十日間の中の最大の誘惑は石をパンに変えることではなく、「十字架は本当に意味があるのか」という悪魔の囁きでした。イエスさまはそれを聞いて、一種の幻覚に陥ります。十字架に向かう生涯を抜け出し、家族を持ち、穏やかな生涯を送り、最後にこどもや孫に囲まれて大往生、というシーンでハッと我に返る、そんなドラマになっていました。
わたしたちには何となく、イエスさまは何の迷いもなく、すべてを見渡しつつ、神さまの計画通りに淡々と、十字架への道を歩んだようなイメージがあるかも知れません。不思議な出生、そのあり得ない展開を受け止めるマリアとヨセフ、そして12歳の時の宮詣などです。しかし、神ではなく完全な「人として」生涯を送られた、ということは、心の中の確信も、目に見える証拠も、また整った環境も最初からあったのではなく、孤独と不安と、時には恐怖と対峙しながら、一歩ずつ進むイエスさまだったに違いないのです。
つまりこれから起きることについて理解はしていても、イエスさまはどうしても洗礼を受ける必要があった、「あなたはわたしの愛する子」という声を聞く必要があった、そして荒野での四十日間を過ごす必要があった、そういうことなのかもしれません。
この四十日間の直後からイエスさまは、福音(良い知らせ)を語り、ご自分とともに働く仲間をつくり、人々を癒し、神の国がどんなところかを伝え、そして最後には裏切られ見捨てられる十字架への道が待っている「公生涯」へと向かいます。
理解できないことの前で固まらない
マルコによる福音書 9 :2〜9
2024年2月11日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
夏にも登場する「変容貌」(姿かたちが変わる)の話で、この物語はヨハネ以外のすべての福音書に登場します。現代のわたしたちにとっては難解でも、当時の人々には、どうしても外せないことだったのかもしれません。それにしても、説明もなしに突然エリヤとモーセが現れ、イエスさまと何事か語り合う。そうかと思うと眩しいほどの白さが強調される。そしてあわてふためくペトロが「小屋を3つ建てる」と口走り、イエスさまの洗礼のときと同じような「これはわたしの愛する子」という声が響く。なんだか疑問や不可解なことばかりが目につきます。
しかし、そもそもイエスさまの誕生も、その死と復活も、客観的には不可解なことです。そしてわたしたちに聖書が与えられているのは、よくわからないことを鵜呑みにするためではなく、その中に込められた「神さまがわたしたち人間に伝えたいこと」のエッセンスを受け取るためです。「不思議なこと」のエピソード一つ一つは文字通りそうだったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。でもわたしたちがすべきことは、よくわからない事柄の前で固まって進めなくなることではなく、神さまが伝えたいことの核心を読みとることなのだと思います。
イエスさまがこの世に来たのは、「十字架にかかる」ためでした。充実した青春を送るためでも、家族との楽しい時間を過ごすためでもなく、十字架の上で死ぬために来たのです。その特別な出来事は、ひとりの人間としては「惨敗」ですが、そこには1ミリのブレもなく、神さまの計画が実行された、何ひとつ間違ったわけではない、とはっきり告げる必要があったのでしょう。
わたしたちの毎日の生活の中でも、何のために起きているのか、よくわからない出来事があるかもしれません。とくに、何故だか事がうまくいかないときは、自分を惨めに感じたり嫌な気持ちになったりします。でもそれは自分の基準だけが大きく支配しているためかもしれません。ずっとあとになってから「ああ、こういうことだったのか」と納得することも含めて、神さまの大きな計画の中で、その出来事が何だったのかと俯瞰する視点を失わないでいたいと思います。
イエスさまの癒し
マルコによる福音書 1 :29〜39
2024年2月4日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
いろいろな病気を抱え困っている人のために、イエスさまが祈ってくださると、病いが治っていく。発熱も、その他の故障も、そして取り憑いた悪霊も去っていく。これが確実に起こる出来事なら、こんなにうれしいことはないでしょう。しかし2千年前とはちがい、今、ここにはイエスさまはおられない。そうなると、どこか遠い昔の話であり、自分とは関係がないかな、という気持ちになります。まして、自分の大切な人が今、病に苦しんでいても、イエスさまが手をさし延べて癒してくださるわけではない、と思うからです。
「病気が治る」奇跡の物語をどのように読むかは簡単ではないでしょう。神のスーパーパワーを悟る、信仰を深めた人にはこのような超能力が与えられる、などという理解もあるかもしれませんが、それで心からの慰めと元気が与えられるのでしょうか。神さまへの愛が深まるでしょうか。石をパンに変える奇跡をたとえ実行いただいても、翌日にはすぐにお腹が空くのと同様に、病いがひとつ治っても、翌日には別の病気がやってくるかもしれないのです。
皆さんもご存知のように、聖書の時代では、病気になること自体が罪の証拠でした。つまり過去に犯した「悪いこと」が、人々の目に見えるようなかたちをとって現れたのが病気だったのです。しかしイエスさまは、そのように受け止めませんでした。イエスさまの「癒し」は、医学的な治癒(場合によってはそれもあったかもしれませんが)よりも、社会が罪人だと決めつけている重圧からの解放、病いを負う人も神からの呪いではなく祝福を受けているのだと告げる「回復」だったのではないかと思うのです。病気や麻痺、痛みや苦しさが増すと、人は誰でもへこたれ、気持ちも下向きになりますが、たとえ不便や辛さと共に生きなければならないとしても、「あなたは神と共に生きる人、神さまにとって大切な人」という福音を、告げた物語なのだと私は思います。
「汚れた霊」の不得意なこと
マルコによる福音書 1 :21〜28
2024年1月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
カトリック教会には、ちゃんと免許を交付されたエクソシスト(悪魔払い師)という人がいるそうですが、今日の福音書のイエスさまはまるでエクソシストです。会堂で教えておられると、汚れた霊の方からイエスさまに近づいてきます。イエスさまを自由にさせておくと、我が身の安全が図れないと察知したのか、「関わらないでくれ」とわざわざ言いに来て、整合性のないことを次々語ります。
電車の中や公共施設でも、こういった人を見かけることがあります。「汚れた霊に取り憑かれている」かどうかは、外見からはわかりませんが、問題は中身です。精神疾患あるいは障害があるということとは別の、しかし本人がどうすることもできない何か大きな力に支配されていて、最初は窮屈だと感じている様子です。しかしながら、怒りや妬みなどのネガティブな支配力にせよ、普段の自分にはないパワーが存在する感じに慣れてくると、今度はそれを手放したくなくなってくる、そしてさらに闇の力に支配されていきます。
イエスさまは「黙れ」と、怒鳴り声で威圧した訳ではなく、悪魔祓いによく用いる「静かになりなさい」という言葉で、汚れた霊に語りかけられた。しかし心を「静かにしている」ことができない悪霊は、そこに居られなくなり出ていってしまったという事の次第なのでしょう。別の聖書の箇所に、部屋の中に悪霊が住みついたので、綺麗に掃除をして出て行かせた。しかし掃除をしただけで、中身については何の対策もしなかったのでそれを見つけた悪霊は、さらにたくさんの仲間を引き連れて住み着き、前よりもっとひどい状態となった、というお話があります。悪霊が居場所を探して、言い方を変えればわたしたちの心の雑音を探して、いつもうろうろしているのは、特殊なことではないでしょう。常にあれもこれも、より便利な、有利な、得する日常をゲットしようと、雑音をたくさん抱えている人は、ひょっとすると大きな危険に晒されているかもしれません。わたしたちに必要なのは、権力や他を圧倒する支配力ではなく、神さまの存在に耳を澄ませ、そこから聞こうとする「静かにしている」心です。
神の目に「人」であること
マルコによる福音書 1 :14〜20
2024年1月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
マルコによる福音書の冒頭部分についてお話しします。ヨハネから洗礼を受け、そして荒野で40日間断食しつつ悪魔の誘惑にさらされたイエスさまは、その直後に子ども時代を過ごしたナザレも含む、ガリラヤ地方から、最後の3年間をスタートします。
「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信じなさい」、この言葉は壮大過ぎて、手に余る気持ちにもなりますが、「イエスさまは何のためにこの世に生まれ、人々の間で生きたのか」という問いに対するまとめ、ではないかと思うのです。人々と共に生きる最初のアクションとして、ユダヤ教に精通した律法学者や祭司ではなく、土地の有力者でもない。字が書けるかどうかも怪しい4人の漁師に「私について来なさい」と最初に声をかけます。
ところでシモンとアンデレは、「人間をとる漁師にしよう」と言われたことになっています。しかし、魚を獲って売りさばく代わりに、営利目的で人を駆り集め、日々の生活を成り立たせよう、というお誘いではないことは明らかです。なぜなら、原文には「人間の漁師」と書いてあるのであって、「人間を獲る」とはどこにも書いていないからです。
では「人間の漁師」とは、どういう意味なのでしょうか。当時の漁師という職業は、あまり好まれない仕事でした。危険を伴う割には収入が良いわけではなく、社会的にも尊敬される対象ではなかった。つまり、神の国を語っても、愛や慈しみを教えても、「漁師ごときが何か言っている、余計なことはしないで、魚だけ獲っておれ」とあしらわれがち。イエスさまは、そんな漁師たちを、まずお弟子さんになさいました。イエスさまの目には、彼らは尊厳あるひとりの人間以外の何ものでもなく、「あなたも神に愛されるのにふさわしい大切な人なのだ」という、神さまの真実を述べ伝える役割を担う者としてふさわしい、と心に決められたのでしょう。
わたしたちもまた、神さまの御用をそれぞれ預かっています。それは、社会的にどうこうとか、知識がどうこうという次元を超えた、神さまの計画の中にあります。「わたしごときが」という声が心の中に響くとき、何を怖れているのか、自分の心に聞いてみましょう。そして、何を大切にして生きるのか、自分とじっくり向き合えるといいですね。
主よ、どうぞお話しください
ヨハネによる福音書 1 :43〜51
2024年1月14日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
サムエル記という書があります。サムエルは人の名前で、ダビデという王さまの時代に活躍した預言者です。元々は1つの書として編纂されましたが、現在は、上・下2巻に分けられて、旧約聖書の中に納められています。サムエル記上は、サムエルの生い立ちから話が始まります。
昔々(紀元前千年頃と推定されています)、エフライム山中にエルカナという一家が住んでいて、ハンナ(「恩恵」という意味)と、ペニンナ(「真珠」という意味)という二人の妻がいました。ハンナにはこどもがいませんでしたが、エルカナからとても大事にされていました。その様子に、社会的優位(こどもが多い)にもかかわらず、自分より尊重されるハンナを妬み、ペニンナは機会あるごとにハンナをわざと傷つけました。シロという場所へ礼拝をしに行く恒例の家族旅行でも、毎年ハンナを苦しめました。ハンナは耐えきれず、会食の席を立って、礼拝所の入口で祈りながら激しく泣いているとき、祭司エリと出会います。ハンナは、男の子が生まれたなら、その子は神に捧げる、と祈りの中で神さまと約束します。
それから数年経って、ハンナに男の子が生まれました。乳離れすると、約束通りその子を連れてシロへ行き、祭司エリに預けます。その幼児がサムエル(「神は聞かれる」という意味)です。祭司エリは神に仕える人でしたが、その息子たちは祭司であるにもかかわらず、ならず者でした。人々からの神への捧げものを横取りし、その他諸々神を軽んじる行動を恥じない人たちだったのです。エリは、口頭での注意はするものの、息子たちから祭司職を剥奪するなどの行動はとりませんでした。
そんなことが常態化し、数年が過ぎた頃の話です。いつものように、神の箱が安置されている主の宮で、夜の眠りについたサムエルを起こす声が聞こえます。サムエルは、祭司エリが呼んだのだと思い、走ってエリの部屋に行くと「私は呼んでいない」と言われてしまい、また自分の寝床に戻ります。そんなことが数回あってから、祭司エリははたと思い当たり、その声がまた聞こえた時は、「お話ください、僕は聞いております」と答えるよう指導します。さて、サムエルがそのように応答すると、その声はエリ一家に対して裁きを下すことを予告します。エリにお世話になっているサムエルとしては、それはとても辛い内容で、伝えることをためらいます。なぜなら、エリの祭司としての苦悩と、息子たちの行状を止められない父親としての苦しみと、しかしそれをどうにも変えられない痛みを知っていたからでしょう。しかしエリに促されてその内容を伝えます。
やがてサムエルは、必ずしも真実を聴きたいとは思っていない人々に対し、聞くこともためらわれ、伝えることもためらわれるような、しかしどうしても神さまが伝える必要のある言葉を預かり、それを告げる「預言者」となっていきます。わざわざサムエルが言葉を預からなくても、直接、本人に伝えればいいのではないかとも思いますが、このエリのように、「わかっていても、どうにも止められない」「このままではいけないと知りながら、どうしても変えられない」状況もあるのだと思います。そんなとき、諦めて放置するのではなく、預言者を用いてでも何とかして伝えようとする神さまのあたたかさを、裁きの中でさえ感じます。
わたしたちもまた、聴きたくないこと、避けて通りたいことは、たくさんあるでしょう。たとえ時が止まったように、そのまま事が流れていたとしても、神さまは決してわたしたちを諦めたり放置したりならさないことを覚えたいと思います。そしてわたしたちにできることはただひとつ。「主よ、どうぞお話ください。しもべは(辛いけれど)お聞きします」と応えることではないでしょうか。
あなたはわたしの愛する子
マルコによる福音書 1 :7 〜11
2024年1月7日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
バプテスマのヨハネと呼ばれる人は、自分の存在理由を「イエスのために道を備える者」であると理解していました。そして「わたしは屈んでその方の履物の紐を解く値打ちもない」と言います。ずいぶん謙遜した言い方だなと思いますが、外出から戻った家人の履物の紐を解き、足を洗うのは、その家の使用人の仕事でした。バプテスマのヨハネは、この世的にはイエスさまの従兄弟なのに、あえてそのような言い方をしています。これは、「親戚だから」とか、「知り合いだから」ということは、ヨハネの行動の根拠ではなく、人の思いとは別次元の存在であるイエスさまが、神から遣わされたものである、とのヨハネの宣言なのでしょう。それにもかかわらず、ヨハネはイエスさまに洗礼を授けました。しかも、洗礼は当時のユダヤ教の伝統的な慣わしではありませんでした。
ところで、わたしたちにとって「洗礼」とはどういう出来事なのでしょうか。神さまは、わたしをかけがえのない存在としてこの世に送り出してくださった、そしてぜひ幸せな生涯を全うしてほしいと心から願っている。そのことを信じているから、自分の持つ「罪」(的外れ)を告白し、弱さも痛みも含めて神さまが受け入れてくださっていることに信頼し、そしてこの世での務めを果たしたい。そんな自分の決意ではあるけれども、迷い、先が見えなくなるときもあるので、教会のみんなとその決断を共有したい、祈ってほしい、そんな意味が洗礼の根幹にあると思います。
イエスさまの洗礼に話を戻すと、改めて決心をしたからヨハネから洗礼を受けた、ということではないでしょう。しかし、伝統的なユダヤ教の教えや習慣や皆が信じている「かたち」ではなく、いよいよその真髄に生きようというスタートを切る決断をするということは、大きな痛みと苦しみが伴うことをご存知だったのでしょう。そしてそれは人々のため、神さまの本当のみ旨を知らせる、という大きな舵切りだった。それは、私欲のためでも、人々の評判のためでも、様々な期待のためでもなく、「召命に応えて生きる」というイエスさまの決意の表れだったのではないでしょうか。
神の本質
ルカによる福音書 2 :15 〜21
2023年12月31日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
学生時代に「一緒に初詣に行こう」と友だちに誘われて、「家族で出かける用事があるから」と、おことわりしたことがあります。神社やお寺に近寄ってはならないと思っていたわけではありませんが、奏楽当番に当たっていたので、変更するのが面倒だったという極めて自己保身的な理由でした。それにしても、「主イエス命名日」という教会の祝日は、降誕日から数えてちょうど1週間。まるで、教会でも元旦のお祝いをしているようにも見え、普段からあまり伝統的な日本の過ごし方をしていない私は、なんて便利な暦だろうと感心したことを覚えています。
ところでイエスさまは、慣習に従って割礼を受けイエスと命名されました。これは伝統的なユダヤ教の習わしに則っており、保たれてきた習慣をこれからも粛々と引き継いでいく生涯を想起させます。しかしながら、これまで慣れ親しんできたかたちを、そのままそっくり真似をすることが「伝統」なのではなく、その時々に今まで出現しなかった事実が明らかになっていくことこそ、「伝統」だと、今日の聖書は言っているように思います。
まずモーセの物語。怒り、裁き、正義を行う神は、その時が来たときモーセと隣り合って立ち、自らその名前を告知します。名前を明かすことは、本質を知らせるということから、「共に在る神」である本質を告げる箇所です。もう一つは、羊飼いの物語。町や村の定住民にとって、羊飼いは当てにならない人種でした。近隣で徘徊していても、すぐにいなくなる。長い間救い主を待っていた正統的ユダヤ教徒には顕れず、律法を守れず、まともに付き合う価値もない羊飼いたちが、まず最初にイエスさまの誕生の場に招かれた。それは、誰に、どんな人々に、神が最も心を砕きたいか、愛したいか、その本質を告げる物語なのではないかと思います。
神が心を砕かれている、神が愛されている証拠は、こちらの希望するように事態が展開したり、あるいは自分の願いが叶うことではなく、伝統や枠の中にありながらも、その形に固執するのではなく、中身というか本質や真の意図を見出し、そして自分自身がさらに変えられていくということなのかもしれません。
マリアの決断
ルカによる福音書 1:26〜38
2023年12月24日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
クリスマスを待つ季節の締めくくりの福音書は、マリアと天使ガブリエルのやりとりです。冒頭でいきなり「六ヶ月目に」と始まりますが、これはマリアの話ではなく、この箇所の直前に天使ガブリエルがザカリアを訪問し、妻エリサべトの懐妊を予告していますが、その出来事から6ヶ月を経た、という意味です。つまり胎児が安定し、生まれることがほぼ確定してから、次にガブリエルはマリアに会いに行きます。神が計画したことなのだから呑みなさい、という一方的な宣告ではなく、多少の行き違いはあっても、段取りを踏んだ丁寧な進め方という印象です。
一方、マリアに対しても神の計画のゴリ押しはしていません。ガブリエルとマリアのやりとりが、どのくらい時間をかけたものなのか、聖書は記していませんが、最終的にマリアが「お言葉どおり、この身に成りますように」と言うまで、ガブリエルは去りませんでした。しかもマリアは、反論の余地なく、恐怖のあまり承諾するしかなかったという筋立てではなく、後にマリアが「マリアの賛歌」で表現するように、何に対してこれから立ち上がることになるか、よく理解した上でその運命を引き受けたことを表しています。これから、人々の無理解と蔑視の視線、そして大きな社会的圧力の中で、戦い続ける人生を覚悟する必要がありましたが、そのことに対しての「お言葉なら」というマリアの返答であったわけです。
彼女は若い女性として、ここに至るまで、どんな祈りを捧げてきたのでしょうか。想像するのは、他国の支配に苦しみ虐げられている人々、孤独な人々に心を痛め、マリア自身もその中のひとりであったにもかかわらず、より良い社会のために何ができるだろうかと、模索する祈りであったかもしれないと思うのです。マリアにとっては、確信とともに「祈りが聞かれた」とはいう気持ちにはなれなかったかもしれませんが、思うところがあって、何が起きても神に信頼しようと腹をくくった。神さまに祈った結実が、マリアの想定していたこととかけ離れていても、マリアは神さまに信頼し、そこに生涯をかけて取り組もうと、彼女自身の意志で決断をしたその瞬間だったのではないかと思います。
召命に生きる
ヨハネによる福音書 3:23〜30
2023年12月17日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今の季節に何故?と少し不思議ですが、毎年クリスマスを迎える前に、バプテスマのヨハネの話を2週続けて聞くことになっています。聖書の話というと、イエスさまと出逢った人が「恵みを受けた」「希望を与えられた」と感謝する一方で、その事を快く思わない人々がつぶやく。そんなイメージが強いですが、バプテスマのヨハネの話は少し毛色が違います。彼の人生はイエスさまと出会って好転してゆくのではなく、あくまでも「衰える」旅路を辿ることが、自らの使命であると公言します。
それにしてもヨハネは、あえて茨の道を選んでいます。お父さんはザカリアですから、普通なら父の仕事を継いで神殿に仕える祭司となり、地位も名誉もある人生が保証されているはずなのに、荒野で寝起きし、食べ物着る物にも無頓着。そしてひたすら洗礼を授けていると、やがてイエスさまが現れヨルダン川の反対側で洗礼を授けるようになる。すると人々は、ヨハネよりもそちらへ流れていく。イザヤ書を引用し自分を「荒野で叫ぶ声」と称したヨハネですが、想像を絶する孤独と不安を味わったのではないかと思うのです。かつてはヨハネから洗礼を受けるために押し寄せた人々も失せ、荒野でいくら叫んでも、虚しい暗闇と荒れ果てた地に、叫びも彼の話も吸い取られていくばかりです。このあと彼は捕らえられ、余興のついでに首をはねられて命を失います。
人のお手本になる人生、生きた意味を実感できる人生を、わたしたちは追い求めますが、それとは真反対のヨハネの人生です。たとえヨハネが「これが自分のお役目」と納得していたとしても、これでいいのだと思えず、何も成し遂げてはいないという不安に苦しめられるときもあったに違いないのです。しかもヨハネは、イエスさまの存在と活動がこれからどうなっていくのかほとんど知ることもなく、「あの方の前に遣わされた者」として生きました。神さまからの召命に忠実に生きたヨハネは、この世的には、決して「恵まれた人」とは言えないでしょう。しかし神さまの目にはどうだったでしょうか。たとえわたしたちには納得できなかったとしても、神さまの計画の中では必要不可欠な人であったのかもしれません。
神さまの愛は注がれる
マルコによる福音書 1:1〜8
2023年12月10日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
バプテスマのヨハネと呼ばれる人物の話をしましょう。その人は、必要最低限の衣食(住まいはなかったかもしれない)を得るだけの毎日に満足し、生活のほとんどの時間を、人々に「悔い改め」を呼びかけ、目に見える赦しのしるしとしての「洗礼」をほどこしていた、そんなふうに聖書は記しています。
もっとも「洗礼」という儀式そのものは、バプテスマのヨハネのオリジナルではなく、この時代のいわば「世直し運動」のような流れの中で、あちこちで行われていたようです。外国人や他宗教の信仰者が、ユダヤ教に改宗する際に「穢れ」を清めるといった象徴的な意味で、また、ユダヤ人共同体から離れていた人々が立ち返る場合、などに洗礼は施されました。
ユダヤ教の律法や掟は、神さまとの関係を健全化するために与えられたものなのに、指導者たちはそれを自分たちにとって都合のよい解釈へと歪め、声の出せない社会的弱者は神の恵みの対象外として潰してもかまわない、律法さえ守っていれば、心の中がどうであれ神の救いは保証される、と強調されるようになります。そんなユダヤ教に対して危機感を持ち、神への信頼に立ち返ることを呼びかけた「洗礼」は、バプテスマのヨハネのオリジナルだったかもしれません。
現代のわたしたちにとっての「洗礼」は、「自分の罪を告白し、悔い改めて罪を赦される」という側面よりは、「神さまはわたしを大切にしてくださっている」と信じて、そのことを命懸けでもたらしてくれたイエス・キリストに信頼し、キリストの薦める生き方に加わりたいと公言する、という要素が強いです。とは言え、バプテスマのヨハネが広めた洗礼と、今、わたしたちが教会の中で行う洗礼式とは、それほどかけ離れたものではないとも思うのです。
ヨハネの時代は、律法を守ることができる恵まれた人が、神さまに愛されるに相応しい者だという理解が横行し、律法学者や祭司たちは、その理解を利用しました。彼らが掌握している力関係をより強固なものにするため、献金や貢ぎ物を強制し、何よりも律法を優先するのがユダヤ教。そんなふうに神さまの愛からは、どんどん離れていく結果となりました。
当時は律法が神にとって代わっていましたが、現代では「人にどう思われるか」が、神の座にいるのではないかと私は思うのです。自分の行動基準の根源に「人から非難されたくない」という無意識の「信仰」が居座っている場合、神の愛はないがしろにされていく危険をはらんでいます。
聖書の言う「罪」とは、「本来の道から外れた、まとはずれな生き方」のことですが、それは、名前がつけられるような犯罪や間違いだけではなく、見当違いの言動や、善意ではあるものの本来の意味や目的を取り違えて、どんどん道からズレしまう生き方も含みます。わたしたちの生活の中心に神さまがおられず、人の目(自分の目も含みます)を一番大切にして、その都度やり過ごすような「的はずれ」な行動を、もしわたしたちがとっていたら「神への信仰に立ち返るように」と、バプテスマのヨハネは呼びかけます。それは、わたしたちが何も貢献出来ない状態でも、どんなに情けなくなくても、あまりにひ弱であっても、神さまの愛は注がれ続けることを信じる信仰です。見かけや言葉化できる善行にすがるのではなく、神さまへの真の信頼を取り戻したいと思います。
目を覚ましていなさい
マタイによる福音書 13:24〜37
2023年12月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
さあ、降臨節が始まりました。玄関外のヒマラヤ杉の電飾は、今夜から1月6日まで毎晩チカチカと点灯を始めます。教会の中も、クリスマスの飾り付けと祭色(アドヴェントまでは紫色)に変わり、すっかり模様替え。世の中の空気はアドヴェントとクリスマスが混在しているようでもありますが、聖書のメッセージは一貫して「罪からの解放」をテーマとしているのではないでしょうか。
罪という単語を聞くと、まず顔を伏せて反省する、そして嫌な自分を見てため息をつく、何も思いつかなくても、とりあえず何かあるに違いないと探るなどなど、心を萎縮させることが先に思い浮かぶかもしれません。でも言いたいのはそこではなくて、「自分の生活を振り返ってみて、もし『道』から外れていたら神さまに立ち返る」ことが、罪からの解放なのではないかと思うのです。
日々の「騒音」に紛れ、追い詰められて自己中心的になり、愛のない言動をして心を傷つけても、「まあ仕方がない」で乗り切ろうとする。人の評価や態度に振り回され、なぜ自分が狼狽えているのか内省せず人のせいにする。そんなわたしたちの日常生活をも、神さまは受け止めてくださいますが、同時に、ハラハラもなさっている。そして「監視」しているのではなく、「見守って」おられるそのあたたかなまなざしに気づくこと。そして、わたしたちはその日その日を神様に「生かされている」ことを知ること。そのことこそが「罪からの解放」ではないかと思うのです。
楽しくない時間を過ごしていても、心に添わない仕事をしていても、そしてしっかり怠けているときにも、もしそれがわたしたちのいのちを繋ぐために必要なら、「神さまはこの時この場を、どう用いろうとされているのだろうか」と思い巡らすことは出来ます。思い巡らした結果、どのような行動を取るかはわたしたちに託されていますので、常に心の目を覚まして、神さまの方を向こうとする、そんな4週間にしていきましょう。
あなたのところに行くからね
マタイによる福音書 25:31〜46
2023年11月26日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
教会の暦の上では、次の日曜日から新しい一年が始まるという、大晦日にあたる今日。読まれる聖書の箇所は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」というお話です。クリスマスが近づくと思い出す絵本や童話というのは、皆さんもたくさん心に浮かぶことと思います。私にとっては、この聖書を聞くと、トルストイの「靴屋のマルチン」が真っ先に浮かんでしまうのです。よく知っておられる方もおられますが、まずそのストーリーをご紹介します。
マルチンは年取った靴屋さん。半地下にある仕事部屋で毎日一生懸命働いています。でも、心の中は悲しい涙でいっぱい。それは、パートナーもこどもたちもみんな亡くなってしまい、マルチンひとりが残されたからです。寂しさと絶望感に、マルチンの心はまるで埋もれた半地下のよう。小窓からの景色は、見えるには見えるけれど関係のない世界でした。ある晩、いつものように聖書を少し読んでから眠りにつくと、なんと夢の中でイエスさまの声が聞こえます。それだけでもびっくり仰天でしたが、その声は「明日行くからね」と言うのです。「行くからね」とは確かに聞いたけれども、単なる自分の願望?いやいやひょっとしたら本当に来られる?どうやって?と落ち着かないマルチンです。
朝になると、今まで興味がなかった小窓の外が気になり始めました。朝から雪かきをしているおじいさんが目に入りました。疲れ果てて寒くて震えています。思わずおじいさんに声をかけてお茶をごちそうします。次に赤ちゃんを抱えて家を飛び出してきた女の人が目に留まりマルチンは自分の上着と朝ご飯の残りを差し出します。そして今度はこどもです。その子は確かに盗みをしたのですが、事情を聞こうともせず愛のない方法で一方的に叱られています。マルチンが割って入り一緒に話をしているうちに、両者がやさしい気持ちを取り戻して帰っていきます。
ここに登場するおじいさんや若いお母さんや男の子にとっては、マルチンこそがイエスさまだったかもしれません。途方に暮れ、世の中の誰も味方になってはくれず、自分は神に見捨てられていると確信したそのときに、必要なものを与え、寄り添ってくれる存在は、まさに神そのものに感じられたことでしょう。しかし、お茶や食事や上着が与えられることが重要なのではなく、途方に暮れているその人々に、イエスさまはすでに寄り添っておられる、その事実にわたしたちが気がついたとき、人生の視点が根こそぎ変わっていくのではないでしょうか。毎日が涙と悲しみと寂しさで手一杯だったマルチンは、夢の中の「行くからね」のひと言で、「すでにイエスさまが寄り添っておられる人々」へと目が開かれていきます。
こども食堂やフードパントリーやその他の活動が行われること、そして互いを理解しようとする輪が広がっていくことは、決して「良い人ぶって」いるのではなく、すでにイエスさまがその人と共に働いている、というとてもシンプルな事実に気付かされていくことです。そしてわたしたちもどんなときでも(ことに人生最悪のとき)、決してひとりぼっちではないことを確信していくのだと思います。あなたにも、「行くからね」というイエスさまの声が届きますように!
タレントはだれのために
マタイによる福音書 25:14〜15、19〜29
2023年11月19日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
またもや「天国」のたとえ話ですが、今度はタラントン(とりあえずここではお金の単位)の登場です。3名のしもべに、主人が財産を託して旅に出ます。最初のしもベには5タラントン、次のしもべには2タラントン、そして三人目には1タラントンです。最後の1タラントンだけを預かるしもべは、なんだか金額が少なくて、かわいそうな気もしますが、それだって、大変な金額です。1タラントンは、現代社会に換算すると、約1億円。一生かかっても、なかなか貯められないような、気の遠くなる大金です。
しかしこれは、お金のことを語っているのではないのでしょう️。神さまからいのちを受けて、この世に送り出された、わたしたちのいのちそのものを言っているのではないかと思うのです。一生努力しても、わたしたちには作り出せない「いのち」を預けられましたが、それだけでも気の遠くなるような恵みです。自分は一体何をお預かりしているのだろうと考えると、体力や能力、感性や才能などが、認識しやすいタラントン(タレント)なのかもしれません。それらを預かっていることを喜び、みんなと分かち合おうとする人がいる一方で、自分のタラントンに不満な人もいます。ことに「タレント」を他人と比較して「自分はこんなにつまらない」と思う。自分は1タラントンしか預けてもらえなかった、こんなものが役に立つはずがない、と思い込み、1タラントンを喜ぶことも、人のために用いることも考えず、なんだかばかばかしくなって、ただ土の中に埋めるようなことをしてしまったのかもしれません。
でも、今あるいのちは、わたしたちが生み出したものではなくまた所有しているものでもなく、一時的に神さまからお預かりしているものです。預けられたいのちは、時が来るまでは、この地上で頑張り続けることが使命ですが、それは、2タラントン預かっている人を羨ましがることではなく、5タラントン預かった人に敵対心を燃やすことでもなく、気の遠くなるほど豊かな1タラントンを人々のために用いるよう、知恵を絞ることではないでしょうか。
油を満たしておく
マタイによる福音書 25:1~13
2023年11月12日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
花婿の到着を待っている間にウッカリ寝落ちし、ずっと到着を待っていたのに、夜中になってから起こされ、予備の油を持っていなかったために、宴席から締め出されてしまう乙女たち。喩え話とは言え、天国も結構冷たいじゃないかと言いたくなります。
ところで登場する5人の賢い乙女と、5人の愚かな乙女ですが、この人々は主役ではなく、花嫁の付き添い人という役割です。また、手に持った「ともし火」に、最初から火が灯っていたのではなく、棒の端に油の付いた布を巻き付けてスタンバイし、花婿が到着したら、すぐに婚礼行列や会場を照らすため、また宴の中で披露する「たいまつの踊り」などのため、朝までずっと灯りを途切れさせない、という担当も兼ねていたのでしょう。
そう考えると愚かな乙女たちは、夜中まで待たされたから、用意した油を使い果してしまったのではなく、最初から予備の油壺どころか、油そのものを持参していなかったことが明らかとなります。布にあらかじめ染み込ませた油はすぐに尽きますが、そのあと、どうするつもりだったのでしょう。最初から「借りればいい」と思ったのかもしれませんが、では花嫁付き添い人としての役割を、いったい何と心得ていたのでしょうか。他の乙女と一緒にたいまつさえ振り回しておれば、誤魔化せると思ったのでしょうか。
共通点があると思うのは、外見以外はあまり気にならない律法学者やファリサイ派の人々の言動です。「油」は、神さまに対する信頼を深め続けることや、愛に根ざした信仰かどうか振り返ること、などに置き換えられるかもしれませんが、目に見えないそれらには関心がなく、たいまつさえ持っていれば乗り切れると考えるあたり、先週の福音書に登場した「長い裾の上着」や「大きな聖句の小箱」の大好きな指導者層のようです。今回の話は、「賢い乙女たちを見習え」と勧めているのではなく、また、天国では準備の良い人が優遇されるという話でもなく、愚かな乙女(=指導者層)のようなうわべを求めてはいけない、むじろ本当の油のために、他ならぬ自分のために「信仰を深めなさい」と伝えているのではないでしょうか。
愛で満たされる
マタイによる福音書 23:1~12
2023年11月5日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の物語では、ユダヤ教の指導者たちの「痛い」振る舞いが記されています。聖書に精通しているしるしとして、聖句を書いた羊皮紙を丸めて箱に納め、それを紐のようなもので額に固定するという習慣がありましたが、これみよがしに箱を大きくして、特別の役割を担っていることを人にわからせようとします。また、裾に長いフサを縫い付けた外套を着て歩き回り、肉体労働者ではないことを誇示します。そして、人がたくさんいる広場で「先生!」と呼び止められ、皆の注意を引きながら丁重な挨拶を受ける、そんな待遇を好むような指導者たちです。滑稽にも感じますが、知識が豊富だったり、祈りの機会に恵まれていたり、知名度がある、ということが、まるで神さまに近い存在なのだと勘違いしていたのでしょう。
しかしわたしたち聖職者も、滑稽だと笑っていられない気がします。有名な聖職者のご家族だったり、学位をたくさん持っていたり、複数の言語に通じていたりすると、なんだか失礼があってはいけないような空気になります。一方で、他の教役者たちを「〜先生」と呼んでいる人から、たいして親しくも無いのに、自分だけ〇〇子ちゃんなどと呼ばれると、ちょっとムカついたりします。つまり軽んじられることには敏感で、持ち上げられても気が付かない鈍感さが心に潜む可能性について、いつも目を覚ましている必要があると思うのです。
イエスさまの時代の人々の常識としては、律法を厳守し、献金や断食の回数が多いことが、救いを保証する目安だったのかもしれません。しかし、イエスさまが教えてくださった救いは、外見ではなく「神と人に仕える」ことによってのみ、わたしたちは限りない恵みを注がれ、究極の「救い」がそこに用意されているという信仰です。人にわかってもらえる信仰が必要なのではなく、ただひたすら「心が、神と人への愛で満たされている」ことが重要なのではないでしょうか。それは見てわかりやすいことではないでしょうが、祈りと行動とに自然に現れてくるでしょう。愛で心を一杯にして生きること、それこそが神さまが望んでおられる生き方なのではないでしょうか。
究極の目的
マタイによる福音書 22:34~46
2023年10月29日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまの存在を、快く思わない人々による反撃のお話が、今週も続きます。先週の福音書の後には、もう一つ別の話があり、そこでイエスさまは、サドカイ派の人々のツッコミもかわしたので、今度は律法の専門家が登場するという構成になっています。「律法の中で何が最も重要か」というその質問は、物理学者が一介の大工に「相対性理論をどう思うか」と聞くようなものかもしれません。「先生」と呼びかけてはいますが、民衆に人気があるだけで、専門家である自分に太刀打ちなどできるわけがないというこの人の魂胆も見えます。
ユダヤ教としては、「十戒」は手を触れられない聖域であり、すべての決まり事の根幹なので、何か別の掟に寄って十戒が成り立つとは、考えにくいことでした。ところがイエスさまは、いとも簡潔にその壁を乗り越えてしまいます。しかし、新しい宗教を産み出そうとしてこう言われたのではなく、抑圧されている人、貧しさゆえに悲しみや苦しみを負っている人と、共に歩もうとされるイエスさまにとっては、十戒のために人間が存在するのではなく、人間のために十戒が存在する、ということが当たり前だったのではないでしょうか。いわば十戒は、目的を実現する方法の具体例であり、その方法を実行したら、その先に何があるのかというと、「神を愛すること」「隣人を愛すること」であると。言い方を変えれば、この2つの目的のために十戒が存在すると言っているわけです。
「あなたは神と人を愛することを最も大切にしていますか」と、わたしたちもまた、イエスさまから聞かれているのでしょう。そうしたいと思っても実際は、自分の欲と他者の視線、諸々のプレッシャーや「こうするべき」という嵐の中で、時々は神さまの声に耳を傾けてみようかと立ち留まる生活、それが現状なのかもしれません。それでも、何のために自分はここにいるのかと迷い、何故こうなったのかわからなくなるとき、ふと立ち返って自分に「今、わたしがやっていることは、神と人を愛するためか」と問うてみたいと思います。そのあとに、わたしたちがどのように決断しても、神は最後まで見守ってくださると信じます。
神は語らせてくださる
マタイによる福音書 22:15~22
2023年10月22日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまがたびたび語る「天国のたとえ」を通じて、偽善と保身と、そして立場の弱い人々に対する搾取を、コテンパンに指摘されてしまった指導者たちが、反撃に出る場面が今日の福音書です。イエスさまに、仕返ししてやろうという魂胆も大人気ないですが、それよりもイエスさまから攻撃されたと感じ、何よりも自分たちの今の立場が危うくなることを、心配したのでしょう。普段は対立しているヘロデ派の人々と結託し、「よい」か「だめだ」の2択で答えざるを得ない質問を用意して、手下の者たちを送ります。イエスさまが「よい」と答えるならば、猛反発を買い民衆は離れていくだろう、「だめだ」なら、ローマ帝国への反逆の証拠として、逮捕へ繋がると。つまりどちらの答えを選んでも、イエスさまにとっては致命的だ、と指導者たちは確信したわけです。
ところがイエスさまは、「よい」でも「だめだ」でもない、別のお返事をされます。下心満載の指導者たちをやり込めるのは、読んでいてスカッとするし、こんな短時間(?)で、どちらともつかない返事を考えつくとは、なんてイエスさまは頭が良いのだろう、と感心するかもしれません。でも、この話はそれだけなのだろうか。さすがイエスさま!とかいうことが、果たしてわたしたちの魂を救うことに繋がるのでしょうか。また神のものは「神に返す」とは具体的に何なのか、という疑問も生まれます。
指導者たちの上を行く、スマートな応答をイエスさまが考えついたということではなく、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。言うべきことは、その時に示される。」(マタイ10:19)という信仰に、徹底して留まられたのではないかと思うのです。つまり、「私が」語る、応答する、というこだわりから解放されて、全てのことは神さまの霊が実現させてくださる。自分を通して必要な言葉が語られ、どのように応答したら良いのか知らせてくださる、ということを、イエスさまが自然に実践された、ほんの一部の物語なのではないかと。
それは、自分で考える必要がないという意味ではなく、わたしたちの普段の祈りの生活へと繋がる物語なのではないかと思うのです。
天国に生きる人は
マタイによる福音書 22:1~14
2023年10月15日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「天国」についての話は、今週はぶどう園ではなく、結婚式のたとえ話として続きます。イエスさまの時代の結婚式は、何日も披露宴が続き、庶民にとっても大イベントだったようですが、このお話は王が主催する婚宴です。惜しみなく資金を注ぎ、たくさんの人々を予め招いていたのでしょうが、さて用意が出来てみると、誰一人参加しようとしません。
王様は家来を送り「さあおいでください」と人々に伝えますが、本来招かれていた人々はそれを無視し、家来をひどい目に遭わせ、殺害さえします。これを聞いた王様は、「見かけた人を誰でも連れてきなさい」と家来に命じます。やがて宴会場は人でいっぱいになりますが、ここでも問題が起きました。せっかく用意された結婚式の礼服(当時の習慣では主催者の責任として、来た人皆に礼服を用意した)を意図的に身につけず、何故か着ないのかと問われても、黙って座っている人がいたのです。
言うまでもないことですが「予め招かれていたが婚宴に来なかった人」とは、ユダヤ教の指導者たちです。彼らは自分たちこそ招かれるのに相応しく、神の目にも叶う相応の生き方をしていると自負しています。そんな指導者たちのところに遣わされた家来とは、旧約聖書に登場する預言者たちなのでしょう。しかし指導者は、自分たちにとって都合のわるいことを言う預言者たちを滅ぼし、そうとは気が付かずに神さまを敵に回します。
そこで神さまは、縁者でも友人でもなかった人や異邦人を招きます。お腹を空かせていた人、心の乾いていた人、孤独な人、そして自分なんか神の国とは関係ないと思っていた人たちは嬉しかったことでしょう。喜んで神さまの婚宴に連なります。しかし中には「礼服を着けず黙って座り、何も答えない人」がいました。礼服を着けることを拒否した人、つまり神さまからの愛や恵みは受け取るけれど、自身では愛に生きることを実行しようとしない人です。
立派な行いや間違いのない生き方を実行できた人のために天国が用意されているのではなく、たとえ最初は招かれていなかったとしても、「愛に生きる」という礼服を用意してくださっているイエスさまの招きに、応える人のために天国はある。礼服を着るかどうかは、わたしたち次第です。
天国はすでに在る
マタイによる福音書 21:33~43
2023年10月8日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
この季節に指定された聖書箇所は、天国をぶどう園に喩える、というイエスさまのお話がしばらく続きます。
ある人が理想的なぶどう園を作ります。整地された畑、遠くまで見通せるやぐら、野獣から作物を守る塀、そして収穫を迎えたときのしぼり場まで備えたところで、ぶどう園の仕事に慣れている農夫たちを雇って運営を任せます。しかしこの農夫たちは、運営を任されたという事実を忘れ、やがて収穫を迎えたときには、所有者から送られたしもべを、侵入者とみなし残酷にあしらいます。ところが所有者は、この農夫たちを断罪せずに根気強くしもべを送り続け、最後に大切な息子を送ります。そして農夫たちは、この息子さえ亡き者となれば、「自分たちの」財産は守られるという勘違いから、息子も殺してしまいます。
皆様もお察しのとおり、この農夫たちは、当時のユダヤ教の律法学者や祭司のことです。 “農夫”としての役目を忘れ、まるで自分が創り出し、所有しているかのように神の言葉を扱う。その振る舞いにより、人々が苦しんでも、自らの立場を守ることを最優先してきたのです。しかし神さまは、彼らを滅ぼすのではなく引き続き預言者を送り、その勘違いを糺そうとされました。しかし、既成の組織や制度にしがみつく彼らは、いくらたくさんの預言者を送られても、一向に考えを変えなかったので、神さまはついに最終手段として、いわば断腸の思いでイエスさまを送ります。しかし、自己防衛をするにはイエスを亡きものとするしかないと、“農夫”たちは十字架にかけてしまいます。
なぜこれが「天国」の話?とお思いになるかもしれません。でも天国は、死んでから行くところではなく、手の届かない理想郷のことでもないのです。むしろ、神さまの優しさと忍耐強さと公平が実現されている「天国」はすでに存在するのに、わたしたちが「天国」を所有しようしたり、利用しようとしたりするとき、見えなくなってしまうというメッセージではないかと思うのです。
イエスさまが教えてくださった「神」は、あなたが幸せに生きること以外、何も望まれない。そして、その実現のための代償や報いは一切求められない。他の人がなんと言おうと、あなたを慈しみ、大切にしたいと切望する。そんな無条件の愛の神です。それは、「天国」という代名詞により、丁寧に創られたぶどう園のように、すでに準備されていることを心に留めましょう。
神への応答
マタイによる福音書 21:28~32
2023年10月1日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
聖書のこの箇所は、「二人の息子のたとえ」というタイトルがついているが、本田哲郎神父訳では「たてまえだけで実行の伴わない指導者たち」となっている。原文にそのようなタイトルがついているわけではないが、「娼婦や徴税人」たる最下層の人々と、彼らを抑圧する権威があると信じ込み、そのような振る舞いをしても一向に恥じない指導者たちとを対比するたとえ話であることは、明らかである。彼らは、自分たちこそ選ばれし者、この世の人生を終えたら必ず天の国に迎え入れられるので、今さら自らの行状を糺す必要もないと考えているようでもある。
先日、ある勉強会で原始キリスト教とローマ帝国の関係について社会学的なアプローチをする本を読んだが、その中で「ただ乗り」の人々が教勢に与える影響が言及されていた。つまり初代教会時代にも、キリストの教えに共感し、神の愛や恩恵には当然のようにあずかるが、共同体に対しては何の貢献もせず、責任を取らない人々がいたようで、それを著者は「ただ乗り」と名付けている。
教会建物や教役者維持に加え、電気光熱費や消耗品の支払いは必須だし、礼拝ひとつ行うにも、さまざまな役割を担う必要がある。静かにお祈りだけしていたいと願う人に対し、時に一種の疲労感が漂うのは、わずかな貢献をしていると自負する人々もまた、神の前には全くの「ただ乗り」である現実を忘れているからではないか。
イエスさまが教えてくださったのは「あなたが幸せに生きること以外、何も望まない」「代償や報いは求めていない」「社会的な貢献の度合いではなく、いのちそのものが大切」という神。無条件の愛、限界のない豊かな世界を共有しようとする神に、わたしたちはお返しをするどころか、単にそれに「ただ乗り」しているに過ぎない。そういう意味では、「ただ乗り」を人々に提供する限り、教会は教会であり得るということなのかもしれない。経済的にも労力的にも決して余裕はなくても、走り続けられるよう祈るしかない。それがわたしたちの神への応答なのではないか。
目が「腐らない」ために
マタイによる福音書 20:1~16
2023年9月24日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
現代社会では、到底受け入れられそうもない「ぶどう園」の話です。天国では、1時間しか労働に従事しなかった人も、まる一日汗水流して働いた人も、1日分の賃金1デナリオン(5千円程度)を受け取ります。もしパートの仕事をいくつも掛け持ちして、必死に生きている人がこれを聞いたら、最初から夕方頃にぶどう園に行く計画を立てるかもしれません。夜はしっかり寝て、朝から一日中別の仕事、そして夕暮れ近くになってぶどう園へ駆け込み、最後の1時間だけ働く。そしてフルタイムで働いた人と同じ金額の賃金を受け取る、それが賢い生き方ということになるのでしょう。
しかしながら、このぶどう園の話は、「神さまと出会って平安が与えられる」という1デナリオンの話であることは明らかです。神さまの悠久の時間に比べ、わたしたちの生涯はほんの一瞬に過ぎませんが、一生をかけて神さまと一緒に歩いてきた人も、散々放蕩の限りを尽くし生涯の最後に駆け込みで神さまと出会った人も、全く同じように永遠の命が与えられ、もれなく天の国に迎え入れてくださる神について語っています。ところが、1日中重労働と酷暑を耐えて働いた人は、同じ扱いでは不満だと言います。「妬むのか」(16節)という語は、「あなたの目は腐っているのか」という意味のギリシア語が使われています。つまり、わたしたちの永遠の命や魂の平安は、神さまから恵みとして無条件に与えられたのに、それを自分の努力の結果だと思い込む誘惑や間違いについて語っているのではないでしょうか。
昔々、病院のチャプレンをしていた時に、一人のホームレスの高齢男性が入院してきました。海辺の公園で何十年と野宿をしてきたので、入院してからも、医師や看護師がベッドに近づくだけで、身体を硬直させて怖がりました。それは、公園に住む彼に近づいてくる人々は、彼に危害を加える存在だったからです。しかし時間が経つとだんだんと表情が和らぎ、人生の夕暮れ時になって人との関わりを平安のうちに受け入れられるようになり、そのあとすぐに洗礼を受けて旅立っていかれました。この方は、社会の片隅に隠れるようにして生きてこられ、「一日中」ぶどう園で働くことはできませんでしたが、まさに日没1時間前に間に合って、思いやりある人々と出会い、平和な心と共に神さまの元へと旅立った。そんな神さまの業を、人々に伝える役割を果たしたと思うのです。
ゆるしについて その2
マタイによる福音書 18:21~35
2023年9月17日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
先週に引き続き、再び「ゆるし」の話が続きます。今日の聖書は少し長いので、皆さんの“気になるポイント”は異なるかもしれませんが、まず冒頭の「7の70倍(回)まで赦しなさい」というイエスさまの言葉に圧倒されます。赦せない内容によっては、たった1回さえ断腸の思いなのに、490回?とは気の遠くなる数字です。
そもそも「赦す」という行動は、人としての成熟度を必要とすることがらで、水に流したり忘れた気分になるということでもない、また相手の行動を容認するのとも違う、そして「こうすれば赦したことになる」という模範解答もない、そんな難易度が高いことがらであることは確かでしょう。
さて今日の福音書です。主君によって膨大な借金の返済を「帳消し」にしてもらった家来が、今度は自分が金を貸している知人に出会うと、貸した金をすぐ返せと要求します。返済できないから待ってくれと懇願する知人を、家来は聞く耳持たず牢獄に入れてしまう。するとこれを知った主君は怒り、赦したはずの家来を牢獄に入れるというストーリーです。
「赦し」の話を、金の貸し借りに絡めるのは、なんとも違和感がありますが、生涯かかっても返せないような膨大な借金(1万タラントン=1兆円)から解放された人が、その恵みの豊かさに触れようともせず、頑張れば返せる程度の貸金(百デナリ=50万円)に固執する、その愚かさを描いているのかもしれません。最終的に家来を牢獄に入れた主君は、「赦す」と言った前言を翻したのではなく、無慈悲な家来の行動に対して「牢獄」に入れるという措置をした展開なのでしょう。
家族も家財もすべて売り払って借金を返せと迫ること、そして期日までに返済できない人を牢獄に引き渡すことは、当時の法律では「合法」だったようです。そういう意味では、家来は犯罪をおかしていません。しかし負債から解放された途端に、自分の負い目は初めからなかったかのように振る舞い、すぐに利害追求に取り掛かる。そんな生き様は「牢獄に閉じ込められた」人のようだと言っている気がするのです。
神さまに愛されているのだから恵みの偉大さに目を留め何でも許容せよ、と聖書が勧めているのではなく、本当の神の寛大さに触れたわたしたちは、その恵みを直視し受け止めるとき、更なる人間的成熟へと招かれていく、と言っているのではないでしょうか。
ゆるしについて
マタイによる福音書 18:15~20
2023年9月10日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
約束を忘れてしまった、他人の持ち物を壊した、そんなときに「ごめんなさい」とわたしたちは言いますが、それは「赦してもらおう」「きっと赦してもらえる」と思うから、口に出すことができるのだと思います。その一方で、相手が赦してくれるか本当にどうかわからないときの「ごめんなさい」は気が重く、断られる覚悟をしないとなかなか言えるものではないでしょう。取り返しのつかないこと、人生を変えてしまうような傷を負わせたときは、「相手に対して赦しを乞う」という考え自体が厚かましいと感じ、「赦してほしい」などとても言えないということに。そんなとき多くの人は、物事の本質を直視するより、法的制裁や相手が矛先を収めてくれる道を探し、それによって自分の出方を測るのかもしれません。
たとえ法律によって「犯罪」と断定されなくても、賠償を要求されなくても、わたしたちはまず「神さまにとっては何が起きたのか」を中心に考える必要があるでしょう。何故このようなことになったのか、自分の何が間違っていたのか、そして取り返しのつかない事実から自分は何を学べばいいのか、祈って祈って向き合う、ということなのだと思います。
今日の聖書は、自分が赦しがたいことをしてしまった場合ではなく、赦しを乞うべき人に対して、どのように願うべきなのかを語っています。それは、過失を犯した人をわたしたちが対岸の火事として眺めるのではなく、火の粉が飛んでこない対策にあくせくするのではなく、自分に同じようなことが起きる可能性をも含んだ話なのだと思います。それは、愛をもって率直に忠告しても、結果的にその人が聞き流すようであれば、あとは神の働きに委ねてみましょうということです。それは外見からは「諦めた」ようにも見えますが、関わりを拒絶するのではなく、その人が回心した時にはいつでも話を聞く心の用意がある状態です。
わたしたちは、ひとりでは「祈る」ことさえ難しいときがあります。でも、神さまを信じる者が二人三人と集まったときにやっと祈ることができるように、「罪」を犯した人に対しても、自分の力ではなく、神さまの働きを信じ続ける人が二人三人と集まって祈るとき、神さまの願いが実現していく、と語られているのではないでしょうか。
よびかけに応える
マタイによる福音書 16:21~27
2023年9月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「そんなことは認めない」イエスさまから、これから起きる出来事の内容を告げられたお弟子さんたちは、こう思ったに違いありません。イエスさまについていけば洋々たる未来が広がっており、礼拝に連なる人の数も増え、教えの正しさが伝わり、いつかはローマ帝国でさえひざまずく、そんな未来を描いていたのでしょう。しかし事態は、思いがけない展開へと滑っていきます。「十字架にかけられて殺され、三日目に甦る」イエスさまが打ち明けた内容は、到底受け入れられるものではありませんでした。これから起きることだと言われても一体何を言っているのだろう、と頭の中が真っ白だったことでしょう。
同列にはできないとしても、予想とあまりに違うことが起きると、わたしたちの頭の中は真っ白になります。重篤な病気の宣告だったり、家族に関するとんでもない予定変更だったり、絶対にこうなると信じていたことが白紙に戻されたりする事態です。受け止め切れないほどの不安や喪失感は、大きな怒りとして表現されることも多いですが、時には、本質とは全く違うことを問題にして、現実に直面するのを避けようとする、そんな自身の弱さや小ささと出会ってしまうこともあります。
現代では、弱さや小ささは退治しなければならない対象ですが、イエスさまはむしろ、「弱さや小ささと共に歩こう」と呼びかけます。十字架刑というご自分に課せられた苦痛よりも、残されていくお弟子さんや民衆を心配されていますが、それは、病人を癒し、魂の渇きを満たす、力ある輝かしいイエスさまだけを見つめてきた人々が心配だからです。イエスさまが示された神は、弱さや小ささを退治してこいと命令する神ではなく、もろさ、弱さを持ったままで、「背負った」まま共に歩こう、と呼びかける神です。お弟子さんや民衆だけではなく、わたしたちもまた、そのように招かれています。良い子のわたしとして神の前に立つのではなく、自分では認めたくないような弱さにも目を覆うことなく真っ直ぐ進むこと、それが神さまへの本当の信頼なのかもしれません。
岩盤まで寄り添う神
マタイによる福音書 16:13~20
2023年8月27日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
ニワトリが鳴けば「あなたのことなど知らない」と言い放ち、急にイエスさまが出現するとビックリして湖に飛び込む。そうかと思うと、「小屋を3つ建てましょう」などと場違いなことも口走る。イエスさまの最も身近にいたのに、思慮深いとは言えないその言動を、聖書にたくさん記されてしまっているこの人を、イエス様は「あなたはペトロ(岩という意味)」と命名します。
シモンというのがこの人の元々の名前ですが、イエスさまの「あなたは岩だ」との言葉により、シモン=ペトロと呼ばれるようになりました。それにしても、なぜこの人が「岩」なのでしょうか。行動や言葉からは想像し難いですが、「実はこの人は、岩のような堅固な信仰を持っているのだ」と、イエスさまが見抜いていたということでしょうか。
この後、皆が安心して教会に集い礼拝を捧げることができる日が来る前に、まずキリスト教徒への「迫害」が数百年続きます。今のように情報網が発達しているわけではなかったので、イエスさまの名を口にすると徹底して同じ処罰を受けるわけではなかったものの、命の危険は常にありました。こんな中では、表面や見た目だけを整えた「信仰」や「教会」では、簡単に「陰府の国」に引き倒されたことでしょう。万人に理解しやすい福音、そして中身は問わずにまず何でも受け入れる、という姿勢は大切ですが、それは他者に目を向けたときのこと。教会のしくみや制度ばかりではなく、自身の信仰や神さまに対する信頼まで、「そのままで問題ない」と放置を決め込むと、それは砂浜の上に立てた信仰、空中に浮かぶ信頼のよう。お天気が良い時は大丈夫でしょうが、嵐が来れば、あっという間に消えるかもしれません。
砂の表面にではなく、心の岩盤に到達する信仰へと導いてくださる神さまは、岩盤とはほど遠いシモン=ペトロに寄り添い、人々を「岩盤」へと導く器として、敢えてこの人を用いられました。わたしたちも、自分の普段の行状から「自分の信仰は薄い」と決め込んでガッカリし諦めるのではなく、シモン=ペトロをも用いられ、わたしたちの頑な岩盤にまで寄り添ってくださる神さまの愛の深さに信頼したいと思います。
信仰は「宗教」を超える
マタイによる福音書 15:21~28
2023年8月20日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
福音書には、さまざまな「部外者」が登場しますが、それはユダヤ教の言う「正統な律法」を守って生活することができない人々への区分でもあり、いわゆる外国人だけではなく、病人や障害を負う人も、そして今日登場するカナン人も、律法に照らし合わせると「部外者」です。
カナン民族の元を辿れば「ノアの方舟」のノアに辿り着くように、「乳と蜜が流れる」と称される土地に、カナン人もイスラエル人も、実際は共存していたようですが、カナン人が持ち込んだとされるバアル神やアシュラなど豊穣をもたらす宗教を、ユダヤ民族は強く警戒しました。宗教への混入を避けるため、カナン人と付き合わないだけではなく、時を経てそれは「正当な差別」となり、何かあっても助け合うというような関係にはなりませんでした。
このような歴史的背景のあるカナンの女性が、かまわず助けを求めてきたのですから、イエスさまがちょっと困惑するもの無理はありません。どう応えたものかと迷っているうちに、お弟子さんたちは「この女を追い払ってください」と追い討ちをかけます。
しかしわたしたちにとって最も気になるのは、「子どもたちのパンをとって子犬にやってはいけない」というイエスさまの答えでしょう。これが「イスラエルにしか遣わされていない」という意味なら、地球上の大多数の人間は、困ったときも「あなたには遣わされていない」と言われてしまうのでしょう。
しかしイエスさまは、この女性をカナン人だからという理由では排除しませんでした。また、この女性の宗教を変えさせようともしませんでした。彼女のひたむきで真っ直ぐな願いを認知し、尊厳ある人間としての求めを聞いた。それは、カナン人だろうと、両民族がどういう歴史を辿っていようと、「他者の痛みに共感して応える」、それこそがイエスさまの「信仰」だったのではないかと思うのです。
わたしたちも常識の範囲を超えた何かと出会うとき、「えっ?!」とまずは絶句するかもしれません。でも心を落ち着けて、イエスさまはどうなさりたいだろうかと思うとき、こちらの宗教を押し付けるのではなく、わたしたちの信じる神はどうなさりたいか考え、まずそこから出発する、それがわたしたちの「信仰」ではないでしょうか。
不安にかられるという誘惑
マタイによる福音書 14:22~33
2023年8月13日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書は、神さまに信頼し切れず、しかしイエスさまが言われるから、こわごわと足を踏み出す、ところが本当に支えてくださるのかどうか不安になり、水の中に沈没しかける、という中途半端なお弟子さんの「信仰」のようすが描かれています。でもこれは、他人事ではないかもしれません。
わたしたちも日常的に、「どうしたら生き残れるか」「どうやって経済的に乗り切るか」と頭を悩ませます。もちろん、客観的な計算や、冷静な事実確認は必要ですが、それだけでは乗り切れないこともたくさん起きます。もうできることは全てやり尽くし、あとは一体どうしたらいいのか途方に暮れる、という状態に直面することも、一度や二度ではないかもしれません。
教会の働きの根本にあるのは、まずはひとりひとりの「信仰」と呼ばれる、神さまへの信頼の深さですし、できれば教会に連なるクリスチャンは、信仰を深め、神さまに信頼して生きていきたいと願っています。今日の話のお弟子さんたちのように、「溺れるかもしれない」「イエスさまはどういう状況か、本当にわかって言っているのか」「本当にわたしを愛してくださっているのか」という疑念と不安をぬぐえず、神さまの力を疑いながら船の外へと、一歩を踏み出す生き方はどうなのでしょうか。しかも「イエスさまがそう言ったから」と、自分のせいではないと言い聞かせながら、前に進もうとするお弟子さんの姿は、わたしたちへの警鐘かもしれないと思います。何も考えないで人の言うとおりに行動することや、周りの圧力に屈することへの警鐘でもあるでしょう。嵐の中、不安になるのは当然です。不安による思考停止もしばしば起きるでしょう。でもわたしたちは、神さまへの盲信ではなく本当の信頼を深める時、冷静に判断できるようになるのではないでしょうか。どういう状況になっても、先が見えにくくても、まず神さまに信頼することから出発しましょう。
イエス様の神性
ルカによる福音書 9:28~36
2023年8月6日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
父なる神さまは、そうそう手が届かない崇高な存在だと感じる一方で、イエスさまはいつもわたしたちの身近にいてくださる存在。人間社会の葛藤や喜怒哀楽を理解し、重荷を分かち合ってくださる、そんなイメージがあります。「神」というよりは、信頼できる友だちのようで、何でもお話しできるイエスさまですが、「人」としてだけでは説明できない一面もあります。そこを何とかしようとして、たとえば一人の人間の身体の「頭」部分が「神性」であり、「首以下の身体」が「人性」であるというような説明をしたり、「そうなると、体の10%が神で、90%が人か?!」「イエスさまの中の神性と人性が対立する可能性は?!」などという大論争を経たのちに、現在では「イエスさまは完全な人間であり、同時に完全な神である。その意志は1つで揺るぎない」ということになっています。
しかし何故そんなややこしいような「イエスさまの説明」が必要なのか、わたしたちを見守ってくださる存在として、素朴に受けとめればよいではないか、という声もあるでしょう。でも、イエスさまを人間の枠だけに閉じ込めてしまうと、今度は「神」(神性)との分離が起きてしまうのではないかと思うのです。神が人間のかたちをとって地上に降り立った。でもそれは、神の化身が降り立ったのではなく、神本人であった、というところが肝なのかもしれません。
今日の福音書ではモーセとエリヤが現れ、イエスさまと三人で話している様子が語られます。でも話の内容は、将来やって来る天国や神の支配についてではなく、「エルサレムで遂げようとしておられる(惨めな)最期」についてでした。讃えられ崇められ、皆が好まれる「栄光」ではなく、誤解され見捨てられ軽蔑される出来事が待っていても、それでも喜んでいのちを差し出す「栄光」を、自ら引き受けられた。それがイエスさまの「神性」だと言っているのだと思うのです。計り知れない大きな愛をもって、わたしたちのかたくなさの闇の中に降りてきてくださるために。
神の国と出会うには
マタイによる福音書 13:31~33、13: 44~49a
2023年7月30日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
からし種は実際、胡麻粒より小さく薄いのだそうですが、土に植えられて芽を出すとやがて枝を張り、鳥が止まるような木に成長する生命力が秘められている、また、パン種(酵母)を粉に混ぜ込み発酵すると、最初の粉の量からは想像もできないほどの大きさに膨らむ。ここまでは、神の国の外からは見えない秘められた力について語っていると思います。
ところが44節以下になると、神の国そのものではなく、神の国をどこに捜すのか、という話になってくるのでしょう。畑に宝が露出して置かれているわけではないが、見た目は真価を感じられないような荒れ果てた土地の中に神の国はあると宣言します。土を掘り、石をどけ、作物を作るのに相応しい土壌を作る過程で、必ず「宝」と出会うと伝えています。
効率ということが最優先の社会に住んでいるわたしたちは、結果が期待できること以外に時間を費やしてしまうと、なんだか失敗した気持ちになりやる気も失せます。荒れ果てた畑の中に宝などあるはずがないと、見向きもしないかもしれません。そこに宝があるという保証もないのに、荒れ果てた畑を耕すのは、かなりの覚悟が必要でしょう。しかしイエスさまは、荒れ果てた土地も労を惜しまず耕しなさい、とだけ言っておられるのでしょうか。
自分が「畑」なのか「耕す人」なのか、どちらに身を置くかにもよるのかもしれませんが、たとえわたしたちが、「自分は、荒れ果て捨てられた畑のようだ」と感じていても、イエスさまはわたしたちの中にある宝を必ず見つけ出してくださる。外見には決して惑わされず、どういう状態であっても宝を見つけ出していのちを回復しよう、と言っておられると思うのです。
貧しい人、困難の中にある人、悲しみや苦しみの中にある人々こそ、神が心を寄せられ、共にいると繰り返し言われるイエスさまは、自分自身でさえまだ出会っていない宝をもすでに知っておられ、いのちを回復しようとしてくださる。そのことを信じて、今日も生きたいと思います。
じっと待つ神
マタイによる福音書 13:24~30、13: 36~43
2023年7月23日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
先週の「たね」に続いて、今週は「麦」の話ですが、ここに出てくる「麦」と「毒麦」とは、そういう別々の植物があるわけではなく、ふつうに畑にタネを撒いても、ある株には細菌のようなものが入り込み、成長中に増殖し、収穫後、知らずに食べると腹痛や下痢、嘔吐などをひきおこしてしまう麦のことを「毒麦」とよんでいたようです。生育途中は外見での区別がつきませんが、穂浪が熟してくると、一見して毒麦かそうでないか簡単に識別できたので、先に毒麦だけ刈り取り、間違って食べないように火にくべて焼き、それから改めて麦の収穫にとりかかる。そんな段取りが、当たり前だったイエスさまの時代の刈入れの様子を、天の国にたとえられたのだと思います。
これがなぜ天の国のたとえなのか、良い知らせなのか、釈然としないかもしれませんが、良い麦だけが生育されている理想郷が「天の国」だとは言っていないのです。天の国とは、神さまが諦めずにタネを撒き続けてくださる場所。しかし同時に「敵意」を持つ存在も入り込み、毒麦をも知らないうちに撒き散らしていく。そして神さまは、それをすぐに成敗するのではなく、何よりも良い麦を一つでも傷つけたり失ったりしないしないために、時が来るまで両者を混在させておく。しかし、やがて最終的な時がきたら、すべてを明らかにしてくださる、そういう話ではないかと思うのです。
「私自身が毒麦かもしれない」そんな不安も頭をよぎるかもしれませんが、私たち自身の中に良い麦と毒麦が混在しているということも、きっとあるでしょう。また、世界に存在するどうにも解決できていないさまざまな悲しみと苦しみ〜戦争、飢餓、人権侵害、不条理〜なども、毒麦のしわざなのかもしれません。だから仕方がないと諦めるのではなく、わたしたちの痛みを一緒に感じながら、じっと耐えて、何よりもわたしたちの魂と命を守り抜こうと決めている、神さまの姿に目を留めたいと思います。
惜しみなく与えられる
マタイによる福音書 13:1~9、13: 16~23
2023年7月17日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
皆様も何度も聞いたことのある「種まき」の話です。良い地に撒かれた種は、百倍もの実を結ぶけれども、落ちどころのわるい不運な種子は、鳥に食べられたり、石地ゆえに根が張れなかったり、太陽が当たらなかったりして、やがてその命が消えてしまう、という切ない話に聞こえます。種子にしてみれば、自分は一方的に「撒かれて」しまう側なので、状況をいかんとも変えられない、なんとか不幸な人生でないようにと祈るばかり、という気持ちになってしまうかもしれません。でも、わたしたち人間をタネに置き換えて、撒かれてしまった運命は変えられない、と言っているわけではない気がします。
一方、わたしたちは生まれた時に「良い地面」か「わるい地面」か、すでに決まってしまっており、せっかく神さまがタネを蒔いてくださっても、地面の状況は変えられない。「わるい」地面にとっては、その状態を変えることは不可能で、タネをどうすることもできない、という話でもない気がします。
神さまは、石地だろうと藪の中であろうと、惜しげもなくタネを撒き続けてくださっている、それはきっと本当でしょう。しかし、撒かれたタネを無駄にするのは、だめな人だと決めつけてはおられないと思うのです。実際、わたしたちの心の中には石地があり、照りつける太陽もあり、藪もあります。それどころか、タネよりもっと大事なことがあると確信したり、「いらないものを押し付けられた」と感じたり、ちょっと齧ってポイと捨てるようなこともしているかもしれません。
そんなわたしたちの行動に、神さまは心を痛めるけれども、だからと言って、わたしたちを嫌いになったり、タネ撒きを諦めたりはしない、何があっても撒き続ける!そのような神さまの決意の物語なのではないかと思うのです。
疲れている人々よ、
マタイによる福音書 11:25~11:30
2023年7月10日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
心身ともに疲弊しているとき、わたしたちはまず「寝たい」と思うことでしょう。やるべきことは目の前に山積みでも、明日のことを心配せず、何もかも忘れて力を抜き、爆睡することができたらどんなにいいだろうかと。
今すぐに休みたいという声をいちいち聞いていては、日常生活が回らなくなる現実があることを知っているからこそ、身体の声に耳を傾けることは、きっと大切なのでしょう。今年2月に国内で行われたある調査によると、常に慢性的な疲れを感じている人は、なんと調査対象者全体の6割。身体の中の部位でも、目疲労や肩こりを訴える人が最も多かったそうですが、次に来るのが「精神的な疲れ」なのだそうです。そして精神的な疲れに対しても、多くの人がとりあえず寝る、スイーツを食べるなど、暫定的お手当をしつつ疲れを抱えたまま、毎日を走り続けているというのが現状なようです。
今日の福音書のイエスさまの言葉は、「(労働で)疲れた者、重荷を負う者」と、心身両方の疲労について言及しておられます。しかし、その解決方法として「このようにしなさい」と指示なさるのではなく、「だれでもわたしのもとにきなさい」と言われます。イエスさまの時代には通勤ラッシュも、人口の過剰集中もなかったと思われるので、その頃の「心の疲労」とはどんなことだったのだろうか、想像するのは難しいです。しかし、他国の支配による不条理や不平等、食べていくことの困難さは、人々を精神的疲労へと追いやったことは間違いないでしょう。そしてユダヤ教では「不条理な目に遭うのは先祖や本人のせい」と教えていたので、こんなひどい目に遭うのは、神が「これがあなたに相応しい人生」と定められたから、と信じる圧力が、さらに精神的な疲労へと追い込んだに違いありません。
イエスさまは、「休み」「安らぎ」を与えると約束されています。それは、何があっても、自分自身がどのような状態になっても、「わたしは神さまにとって大切な存在だと信じ続ける」という、イエスさまが私たちに与えてくださった「くびき」を、わたしたちが身にまとうことによって与えられるのではないでしょうか。わたしたちを能力のない者とみなし、すべての疲労や圧力を除去してしまうのではなく、それをモノともしない生き方へと招き、そして共に歩こう!と言っておられるのではないでしょうか。
人を恐れるな パート2
マタイによる福音書 10:34~10:42
2023年7月2日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまはここで「わたしは〜剣をもたらすために来た」と言われます。少しギョッとする表現ですが、人の心や身体を傷つけ、威嚇するため剣を用いる、と言われているのではないでしょう。何故なら、いかなる暴力も世の中や人を変える力を持たないことを、イエスさまは行動で示してこられたし、権力や暴力の行使には徹底して反対してこられたからです。
あくまでも本からの聞き齧りに過ぎませんが、当時のユダヤ人文化の伝統として、「家族」という単位が、強烈に人々の生活を支配していたようです。そこには様々な理由がありますが、「個人」という単位では生活が成り立たない、自然環境の厳しさ、ということがまず挙げられるでしょう。水を得るのにも、パン一切れを手に入れるのにも、お金で解決できる部分は少なく、人々の善意に頼る必要がありました。万が一、人々の反感を買い、村から排除されてしまうと、生きていくこともできなかった。その上長い間、軍事力を基盤とした諸国の支配下に置かれていたので、ユダヤ民族としてのアイデンティティや文化を守り継承する必要がありました。その結果、「個よりも民族/家族重視」という認識を強調せざるを得ず、全体の利益のためには、個を押さえつけるための脅しも使われたことでしょう。そして、支配する側は、伝統という名の元に過剰な管理や利用をしてきたのでしょう。
ところがイエスさまは、「自分の家族の者たちが敵となる」とも言われます。これは当時の人々にとっては、命を賭けても避けたいワーストシナリオ、「禁句」にイエスさまが触れたことになります。言葉を変えれば、「家族や近隣にいい顔をするために、安全を手に入れるために、他のことに目をつぶるのですか?」とお聞きになっているように思うのです。
そしてこれが2千年前の遠い出来事ではなく、「他人にどう思われるか」強烈に気にする社会に住むわたしたちにも向けられた問いなのではないでしょうか。仲間同志の安泰が最優先、自分はどう考えるかなんて面倒、周りの流れに同調している方が楽、という道を選ぼうとする時、イエスさまは「それは本当にあなたの真意なのですか、望むことですか」と正面切って、お聞きになります。いくら表面を取り繕っても、わたしたちの心の深みをご存知の神は、「わたしに信頼し真っ直ぐに進みなさい」、そう招いておられます。
人を恐れるな
マタイによる福音書 10:16~10:33
2023年6月25日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「不幸な人三選」という話があります。どういう人かというと、①感謝や喜びを生活の中に見いだせず不満ばかりが心にある人、②自分はいつも損をしていると嘆く人、③人にどう思われているか常に気にしている人、それが不幸な人の3つの特徴だ、ということなのだそうです。
日常生活の中には感謝や喜びも必ずあるはずなのですが、それらをカウントせず、出来なかったこと不完全だったことのみに目を留め、記憶に残す不幸です。言い換えれば、神さまに支えていただいているという恵みは認めず、身体は動いて当たり前、ご飯を頂けるのは当たり前、家族が無事に帰ってくるのは当たり前で、期待どおりにいかなかったことを数え上げる生き方でしょう。
②には、すでに③的な要素が入っていますが、他人と比較し、同じ益が自分にないと「損をした」と感じる不幸です。例えば、親切に「してあげた」見返りを期待する、飢えている人に食料が手渡されると、飢えていない自分は「何ももらっていない」と不満を感じることなどです。
③は、他者の価値観に振り回されることが常となってしまい、自分の感じ方は重要ではないと思う不幸です。嫌われないように、非難の対象とならないように生きることが最優先と信じ、本当は価値観や思いは持ってはいるのですが、ないがしろにしてきたので「自分にはない」と思ってしまう人です。
この“三選”の人々に共通する大きな不幸は「神さまがいない」ということだと思います。さしあたりの損得に一喜一憂し、誤解されたらもう世の終わりと感じる一方で、不都合なことは隠しておけば大丈夫と思っています。少しドキッとする言い方ではありますが「隠されているもので知られずに済むものはない」「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と聖書は告げます。さまざまな困難の中でも、まずは「神さまに信頼することが大切」と力説しているのではないでしょうか。窮地に立たされても、誰かの罪を着せられても、不条理を押し付けられても、神さまは知っていてくださる、見ていてくださると。そして、わたしたちの都合や便利に向けて、ではなく、すべてはいつか、神さまのご計画の中で成就していくと、信じられること、それがわたしたちが目指すゴールではないでしょうか。
「収穫」の意味
マタイによる福音書 9:35~10:8
2023年6月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
毎週日曜日に行われる礼拝や、またその他のプログラムに関して、「忙しいのに、わざわざ時間を割くほどの魅力はない」という感想を聞くことがあります。そんな時に、これまで当たり前だと思い込んできたことや、習慣的に行ってきた事柄を、教会として改めて洗い出すのは必要でしょう。その一方、イエスさまとお弟子さんたちは、あの時代、どのように人々のニードに接しておられたのか、別の視点から聖書を読み返すことも役に立つかもしれません。
今日の福音書は、イエスさまが弟子たちを呼び集め、「弱り果て、打ちひしがれている」人々の間に派遣される話です。その時におっしゃったのは「天の国は近づいた」と告げること。具体的には、病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病にかかっている人を清くし、悪霊を追い払う、それがイエスさまの指示の内容です。
亡くなった人を生き返らせるようになど、そんなことはあり得ないし、むしろ「怪しい宗教」とみなされる。イエスさまは無理なことを言われているか、あるいは一部の特別な才能を持った人だけに言われているに違いない、私ではない。そんなふうに感じるかもしれません。
でも、これではどうでしょうか。「あなたが、神の国は確かにあると信じているなら、それを告げなさい。するとあなたは、弱り果て打ちひしがれた人に寄り添い、生きる目的を失って死んだようになった人をもう一度立ち上がらせ、『重い皮膚病』にかかっている人も神に愛される資格があることを宣言し、損得勘定や他人の評価に取り憑かれて身動きできなくなっている人々を自由にする。」
冒頭で出てくる「収穫」を、イエスさまに従う「信者の数」という理解もあるかもしれませんが、それはイエスさまの意図とは違う気がします。「収穫」とは、社会の隅に押しやられ「自分には生きる価値はない」「神がいるならこんな人生を送ることをよしとされるはずはない」という想いにかられている多くの人が、それぞれの「病」のような状況から解放され、自分の足で立ちあがり、与えられた人生を生き切ることです。その先のストーリーとして、キリスト教のメンバーになるのか、仏教に目覚めるのか、あるいは宗教に関係しない生涯を送るのかは、神のみぞ知る。わたしたちに任されているのは、本心で神の国を告げること、それに尽きるのではないでしょうか。
マタイをよぶ
マタイによる福音書 9:9~13
2023年6月11日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
さて今日は、イエスさまの弟子となったマタイという人のお話です。ローマ帝国に税金を納めるために、人々から税金(通行税、人頭税など)を集める仕事をしていましたが、現代の「公務員」とは少しニュアンスが異なったようです。まず、「税を集める権利」をお金で買うことにより、徴税人になることができたので、元手を回収する必要がありました。次に、徴税人というステータスは確保しても、給料は出ないので、一定の税金額に上乗せをして徴収し、差額を生活費に当てていました。中には圧政を強いるローマ帝国の権力を利用し、かなりの私腹を肥やす徴税人もいたので、人々からは距離を置かれ、経済的には安定しているけれど、共同体の構成員としては認められず、神の恵みから漏れた嫌われ人、つまり「罪人」という烙印を押されていたわけです。
このような背景があったマタイですが、イエスさまは、この「罪人」に自分から声をかけ、食事まで共にしています。すると、当時の社会で「神の恵みから漏れた」他の人々も、噂を聞いて次から次へと集まってきます。
それを見た正統派ファリサイ人は違和感を感じ、「どうしてこんな人たちが来ているのか。ましてや一緒に食事をするなど正気の沙汰か」と、弟子たちに詰め寄ります。それがイエスさまにも聞こえたのでしょう。「私が喜ぶのは慈しみ、神を知ることであって、いけにえではない」(ホセア書6:6)と、イエスさまは旧約聖書を引用して答えます。
でもこの話は、神さまは誰でも受け入れてくださる、この中途半端な私さえ仲間に入れてくださる、というところで留まってはならないのだと思います。マタイとその仲間たちとの食事風景を「現代風に訳すと、ヤクザさんが大量に礼拝に来た感じ」とたとえた人がいました。もちろん黒服のイカツイおじさんが大量に教会に現れたら、正直なところ、わたしたちも違和感を感じてうろたえるかもしれません。でもイエスさまは、わざわざそういう方々をも招かれた。それはわたしたちも、思い込みや慣れ親しんだ「あたりまえ」の中で心地よく自己完結するのではなく、神さまがどういう方々に心を砕いておられるか目を向けて欲しい、そんな呼びかけにも聞こえます。
いつもあなたがたと共にいる
マタイによる福音書 28:16~20
2023年6月4日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
十字架で亡くなり、そして復活したのち昇天する際に、イエスさまが弟子たちに、最後におっしゃった言葉です。これを読んだ10年来の知人が、「私はいつも寂しい。イエスさまが私を見守り、寂しくなくなるなら、洗礼を受けたい。こういう動機は不純でしょうか?」と聞きました。
わたしは、ちょっと考えてからこう答えた次第です。「洗礼の動機は不純でかまわない。でも、見守っていただいていると感じたくても、あなたの好きなときや、期待どおりのかたちで、実感できるとは限らない。それでも神に信頼したい、という決意表明が、信仰なのではないかと思う。」
まるで禅問答ですが、わたしはこの人が、「寂しさから守られる」というご利益を与える神なら信じてみる、と言っておられるように感じました。つまり神を、手のひらサイズに納め、自分のコントールの範囲内で、都合よく働くなら認めよう、と言っておられるふうに。
ところで、キリスト教に入信しても、この世的なご利益は、ほとんどないと思いますが、最大の益の一つは、自分の存在を大切にする根拠を「神さまが大切にされているから」と思えることではないかと思うのです。
もし心のどこかが、「こんな私は愛される価値はない、ちゃんとできない私は駄目」という思いに支配されているときは、いのちがある理由も、自己完結しがちです。しかし、存在の根拠を神様に置く人は、たとえ周りから烙印を押されても、社会が認めなくても、そしてもれなくあなた自身も、「何かができる」からではなく、無条件に愛され大切にされることを知っています。それは期待するような順番ではおきず、わかりにくく、実感できないことも多い。客観的根拠や、物理的証拠なしに「わたしは神から愛されている」と信じるのは、なかなか難しいのだと思います。でもイエスさまは最後の最後に「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。この言葉をすぐには呑めなくても、神さまが本当に大切にしたいことは何なのか、じっくり見つめていくことは可能です。
明日から命と成長を表す「緑」の季節に入ります。晩秋までかかってゆっくりと、イエスさまの示された愛と命の軌道を辿っていきましょう。
聖霊を受けなさい
ヨハネによる福音書 20:19~23
2023年5月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
聖霊なる神を「わかろう」とすること、それは自分の持つ限界や弱さを認めることと関係があるのかもしれません。世の中の不具合や、人生で起きる様々な不条理に立ち向かい、少しでも人生をよくしようと努力する。当たり前かもしれませんが、そんな時、限界を越えるような状況にしばしば直面します。自分には越えて行けない、無理だと感じる壁が目の前に立ち塞がったとき、そこで撤退することも多いかもしれませんが、一方で「自分の力」では到底有り得ないような事柄へと導かれることがあります。「こんなことがなぜ出来たのだろう」と驚嘆するような、いわば自分では「所有していない」力が何処からかやって来て、物事が思わぬ方へ展開するような場合です。それは、わたしたちの「所有しているが隠れていた能力」が陽の目を見たからではなく、「必要なものはすべて、神さまがそのつど与えてくださる」ことの証であって、わたしたちを通して働く聖霊なる神の邪魔さえしなければ、必要なことはすべて「為されていく」ということなのだと思います。
イエスさまは息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われました。「聖霊を受ける」とは、すでにわたしたちと共におられる聖霊なる神の存在を認め、その働きに支えられていると、信じることではないでしょうか。
聖霊なる神を受け入れる人には主の平安があります。思いがけない事態に陥っても、期待や予定から大きく外れても、自分にできる努力はしつつ、パニックに陥ることはありません。聖霊なる神が共にいてくださると信じているからです。
聖霊なる神を受け入れる人は罪から解放されていきます。わたしたちがしばしば陥る「罪」(=的をはずす行動)ですが、困った時ほど全部自分でなんとかしようと力みます。それは聖霊なる神をないがしろにすること。自分の弱さを認め、間違いを認知するのは辛いことですが、まずは「的を外している」事実を認めること、そして神さまはどうなさりたいだろうか、謙虚に祈り求めること。それは、自身の「罪」から解放されていく、ということだけではなく、周りの人々にも波及し、罪の束縛から自由になっていく、そんなふうにイエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。
神の愛に生きる
ヨハネによる福音書 17:1~11
2023年5月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまは、十字架で亡くなった後によみがえり、そしてお弟子たちの間に現れて、しばらく一緒に過ごします。そして数十日すると、「神の国」に戻って行かれますが、それを記念するのが「昇天日」(今年は5月18日)です。そういうわけで今日は「昇天後主日」。すでにイエスさまは「天」に帰られてしまっているので、聖卓脇の大きなろうそくも片付けられ、来週の日曜日に「聖霊降臨日」を迎えるまでは、不安や寂しさを少し感じる日曜日なのかもしれません。
ところで、「父よ、時が来ました」という言葉で今日の福音書は始まります。実際の聖書の物語としては、これから十字架にかかるその直前の場面なのですが、それは「絶対に引き返せない地点へと足を踏み出す時が来た」というイエスさまの覚悟であり、また、皆を地上に置き去りにして自分は逝かなければならないという切なさが入り混じった、イエスさまの切なる祈りでもあります。
そんな福音書の最後は、「彼らもひとつとなるためです」という言葉で締めくくられます。これは、イエスさまの十字架が「キリスト者たちが連帯し、結束するのに役に立つ」という話ではなく、一連の出来事が成就し、神さまの愛を人々が本当に知るようになった時が来たら、イエスさまが神さまと一体であるように、人々はもれなく愛を実行して生きるようになる、そういう意味で神さまと人々が一つとなる、という意味ではないかと思うのです。
イエスさまが地上に生まれ、人々の間で30年余の短い生涯を通じて身をもって伝えられたこと、それは「神さまの愛を知って、愛に生きること。それこそが永遠のいのち」ということではないでしょうか。わたしたちは誰ひとり、完璧な人間ではないけれども、少しでも、一瞬でも、神さまの愛に生きようとするとき、神さまが共にいてくださるのを実感するのではないでしょうか。
わたしにつながっていなさい
ヨハネによる福音書15:1~8
2023年5月14日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「つながっていなさい」と言われるとなんだか「束縛」のように感じることがあります。ブドウの木とはイエスさまのことであるとはわかっていても、「あなたは枝だ」と言われると抵抗を感じます。そんな固定的な生き方より、その時の気分で行きたいところにいつでも飛んで行ける方が自由だ、と感じることもあるでしょう。でもイエスさまは、束縛したり支配したりするために「つながっていなさい」と言われるような方ではないことを、わたしたちは知っています。
ユダヤの人々の常識では、「ぶどうの木」や「ぶどう園」は、イスラエルの共同体や神さまの国のたとえだったそうです。人々に約束されたすべてのことが、イエスさまの生涯を通じて果たされた、「神の国」が示されたのだと、聖書の著者は言いたいのかもしれません。父なる神は、不必要なものを取り除き「豊かに実を結ぶ」ために、丁寧にぶどうの木の手入れをする様子ですが、単に収穫量を増やすことが目的ではなく、ぶどうの木もその枝も、本来あるべき姿となるように、つまり神の国が実現されるために作業を絶やさない、そんな神さまの姿が浮かび上がってきます。
ところがわたしたちは、物事がうまく行っている時は、ひとりで何でもできるような気分に陥るのに、どうしたらよいのかわからない窮地にひとたびはまると、「神さまは一体何をしているのか」と詰め寄ったりします。それは、自分の弱さや情けなさと直面するのを避けるにはよい方法かもしれませんが、わたしたちがそうしている間も、淡々とぶどうの木の手入れをなさる神さまです。
つまり、わたしたちが自力では抜け出せないような泥の中にいる時、そこに降りてきて一緒に這い回り、共に居てくださろうとする神さまの姿を表しているのではないかと思うのです。そしてそのことこそが「神の国」の到来なのかもしれないと思うのです。祈りの言葉さえ浮かばない苦しみの中にあるとき、イエスさまはわたしたちに呼びかけ続けてくださいます。「あなたがどう思っていようと、わたしはあなたとつながっている。どんな時も決してあなたを一人にはしない」と。
心を騒がせないがよい
ヨハネによる福音書14:1~14
2023年5月7日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と続くこのイエスさまの言葉は、ご葬儀の福音書として読まれることでも有名です。復活されたイエスさまと、再び会うことができた弟子たちですが、その一方で刻々とお別れの時が近づいています。これから先、何を心の拠り所として、進んでいくべきなのか。イエスさま無しで、果たして本当にやっていけるのか。目標も見えにくく、そして何より心細かった弟子たちへのイエスさまの言葉です。
人と人とのお別れを経験するわたしたちも、同じ気持ちは経験しているでしょう。たとえさようならを言う時間があっても、今まで居たその人がこの世からいなくなる。それは世界が終ったようでもあり、今まで当たり前だった安定と確かさを失う世界。捉えどころのない不安は、まさに落ち着く場所を失った魂のようです。
しかし、こんなわたしたちに、イエスさまは具体的なイメージを残してくださいました。地上の命が完結した「その後」についてはイエスさま自らが場所を用意しているので心配はないと言われるのです。「そこは3LDKか?」と、ある信徒に聞かれたことがありますが、それは分かりません。温泉付きかどうかも、豪勢な食事をいただけるのかどうかも、書いてありません。でもわかっていることは、「イエスさまが、他でもないあなたのために、安心して居られる場所を準備くださっている」と言うことです。イエスさまの示される世界についてわたしたちは、「どういう贅沢が待っているか」ではなく、「必ずどんな時も、一緒にいるから心配はいらない」という約束に心躍らせるべきなのではないでしょうか。
イエスさまの約束を知りながらも、しかしわたしたちは弱く、すぐにこの約束を疑い、あっという間に「心を騒がせ」ます。しかしそれは、一回でも心を騒がせたら駄目、という話ではなく、弱さをご存知のイエスさまは、何度心を騒がせても、またハッと我に帰ることを待っておられると思うのです。このお約束を心の底から信じようと努めることこそが、わたしたちに出来ることなのではないでしょうか。
人のために祈る
使徒言行録6:1~9、7:2、51〜60
2023年4月30日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
日曜日の礼拝の中で、旧約聖書から一つ、新約聖書からから2つ、合計3つの聖書が読まれます。最近は、福音書のお話ばかりが続きましたので、たまには使徒書の内容について、少し触れてみたいと思います。今日の使徒書(2つ目に読む新約聖書)には、ステファノという人が登場します。
弟子たちの中で役割分担が出来た頃のこと。礼拝やお祈りに責任を持ち、イエスさまの教えを人々に伝える弟子たちとは別に、食料の配布など、人々の必要に目を向ける担当者もいた方がよいということになりました。そこで弟子の中から選ばれたうちの一人がステファノだったというわけです️。
ステファノは不思議な力を持っていて、困った人を助けたり、様々な素晴らしい働きで多くの人に勇気を与えましたが、一方で、そんな彼をねたむ人々が出てきます。彼らは、嫌がらせ目的で論争をふっかけたりしますが、ステファノは豊かな知識と深い洞察力によって論点を明確にし、きちんと応答します。また、偽証を元に裁判にもかけられますが、ステファノはその意図を見抜き、伝統に固執するがゆえに神への信頼が薄れ、結果としてイエスを十字架にかけてしまった、と述べました。もはや弁論でステファノを懲らしめることができなくなった人々は怒りにかられ、議会から彼を引き摺り出して町の外に放り出し、殺害してしまいます。
そこまででしたら、普通?の酷い話なのですが、ステファノは石を投げられながら、2つの祈りを残しています。一つは自分のことです。生涯の最後が迫ってきた時、やはり少し怖かったのでしょう「イエスさま、わたしの霊が肉体を離れた時、受け留めてくださいますね」と祈ります。
もう一つは、今まさに自分を殺そうとしている人々のために祈っています。「彼らがこれ以上罪を重ねませんように」と。
ステファノのすごいところは、罪を正当化し残虐行為を重ねるような人々の中にさえ、神が創られた人間の姿を見ていたということではないかと思うのです。自分を破壊しようとする人々も、元々は神さまが愛され大切にされた存在。彼が最後まで怒りを怒りで返さず、嫉みを妬みで返さなかったのは、「善人ぶっていた」からではなく、神さまへの絶大な信頼をすべての基としていたからではないでしょうか。
エマオへの遠回り
ルカによる福音書24:13~35
2023年4月23日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
いわば「お祭り騒ぎ」のようなイースターのお祝いも、わるくはないのですが、イースター(復活節)は1回限りではなく、しばらく続きます。これは、暦の上でそうなっているから、ということだけではなく、神さまがなさろうとした計画全体を理解し、本当の意味で「わかる」ためには、わたしたちの想像を超えた時間や経験が必要なのでしょう。
聖書には、イエスさまの十字架の意味や復活について、腑に落ちていないお弟子さんたちの姿があちこちに描かれていますが、ずっと一緒にいたこの人々でさえ、イエスさまの「十字架と復活」の意味が本当にわかるまで、少し時間が必要だったということなのかもしれません。
今日の福音書は不思議な設定です。時は十字架刑が行われた3日後のこと。お墓に行った女性たちが「イエスは生きている」と言っていると聞かされますがにわかには信じられず、暗い顔をしたまま、何故かエマオへ向かうお弟子たちです。隠れているのも危険だと判断したのか、それともあまりの恐ろしさにエルサレムを脱出したのか、そこは書いてありません。最初は誰が一緒に歩いているのかさえ、全く気がつかなかったお弟子たちでしたが、そのまま夕暮れとなり、宿をとった家で夕食のパンを裂いた時、急に「イエスさまとずっと一緒だったこと」を知るのです。これから何か起きるか、とイエスさまから直接、何度も告げられていたにもかかわらず、全然リアリティがなかった。しかも、自分達の描く「神の子」の行く末とかけ離れていたゆえ、これからどのように生きたものか、途方にくれていたのでしょう。しかしイエスさまは、無理解な彼らを見捨てるのでもなく、わざわざエマオまでやってきて、なんとしてでも励まそうとされる。
それは、わたしたちが「復活は知っている」と思いながら、現実は「暗い顔」をしたまま、魂に喜びがなく、燃えた心もなく、惰性で生活をしているとき、それはエマオへの道を歩いているのと似ているのかもしれません。そして、イエスさまは一見無駄にもみえるエマオへの遠回りにさえ寄り添ってくださり、なんとしてでも「どんな時も一緒にいますよ」と必死になってわたしたちに伝えようとされる。「復活」は、完成した出来事ではなく、頑ななわたしたちの心に、今も静かに、少しずつ染み込んでいるのではないでしょうか。
イエさまによる「平安」
ヨハネによる福音書20:19~31
2023年4月16日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
純粋な気持ちで神さまを仰ぎ見ることは、むしろ幼子から、わたしたちが学ぶ出来事なのでしょうが、現実はなかなかそんなに単純ではありません。自分にとって都合のよい「神」の姿を描き、その通りに「神」が働かないとガッカリしたり、「何故こんなことを放置するのですか」と詰め寄ったりします。ひょっとするとこれは、「神さまを知ろう」としているのではなく、人生がより有利になる方法のひとつとして神さまを利用したい、そのために「神」についての幻想を抱いていたい、ということなのかもしれません。
今日の福音書では、イエスさまに逢う機会を逃したトマスという弟子が、「実際にさわれないなら信じない」と言い放ち、他の弟子たちから顰蹙を買います。本当に信じているかどうかは別として、なんとなくみんなが「イエスさまが来た」と喜んでいる空気の中で、トマスは適当な幻想だったかもしれないことに屈しなかった。皆の顰蹙を買わないために同調する、神さまを利用しているかもしれない自分に蓋をして信じているふリをする、そんなことをしなかったトマスです。このトマスの真摯さ正直さ、そして弱さをさらけ出す信仰に、イエスさまは心を揺さぶられ、もう一度、トマスのために出現します。
イエスさまの十字架によって伝えられたのは、わたしたちのあらゆる欲を満たす上昇志向のための神ではなく、あくまでも心の中の漆黒の闇に降りてきて、「最低」も「最悪」も体験され味わわれ、どんな状況でも共にいて下さる神の姿です。つまり目を背けたくなるような惨めな状況でも、決して逃げ出したり見捨てたりする神ではなく、支配下に置いて束縛する神でもなく、愛のうちに受けとめてくださる神の姿です。
イエスさまが、命と引き換えに教えて下さった「愛」を、心の真ん中に据え、神さまが守ってくださることに信頼し、平安とともに人生を進んでいきましょう。「平安があるように」と挨拶をしてくださるイエスさまと、出逢い続けましょう。イエスさまによる平安が常にあると、自分の弱さも単なる弱さではなくなります。イエスさまによる平安とは、「何があっても私は覚えていただいている」と信頼し続けることです。
イースターおめでとうございます!
ヨハネによる福音書20:1~18
2023年4月9日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イースターというと、エッグハント?うさぎ?チョコレートのお菓子、、、と思い浮かぶ方もおられるでしょう。また、厳しい冬が去り、世界(北半球だけですが)が、灰色から一転し、一斉にあざやかな彩りに包まれる春の訪れと、そして「今年もなんとか冬を乗り切った」「生き残った」という喜びを、実感するのでしょう。
教会にとってのイースターは、「新しい季節がやってきた喜び」だけではなくて、どうしても、「イエスさまの十字架の意味」を自分のこととして、心に留めることと切り離せないのだと思います。つまり、十字架という大変な苦しみを引き受けてくださって「ありがとう。はい次!」ではなく、どうしても十字架なくしては、わたしたちに告げる方法がなかった。世間的には「人生失格」「敗残者」といった烙印を押される十字架刑を通じてしか、わたしたちが理解することができなかった「何か」を伝えようとされた出来事なのではないかと思うのです。
神さまのイメージというと、何かとても崇高で、万人に手の届かないところにおられ、善悪を判断し、悪人には罰を、善人には御褒美を与える、といったイメージがあるかもしれません。しかしイエスさまは、短い活動期間(たった3年!)の間に、徹底して全然ちがう神さまについてお話しされました。
それは、旧約聖書のイザヤ書(53章)に描かれた「苦難のしもべ」と呼ばれる神さまの姿です。堂々とした神らしい風格も、好ましい容姿もなく、人々から軽蔑され、親しい人からも見捨てられる神であると。しかも、そういった対人関係だけではなく、多くの痛みや苦しみを負っておられ、「病に罹る」ということの辛さも知っている神であると。そして、神だからそのうち社会を変えてくれると人々が期待していると、逮捕され、リンチに遭い、いい加減な裁判で有罪判決が出て、あっけなく死刑になる神。
当時の人々は「そんな神ならいらない」ということで、期待は怒りに変わり、喜びは憎しみに包まれます。つまり人々は、自分が期待する「神」を、イエスさまに投影したので、「裏切られた」と、妬みや困惑も相まって、行政側だけでなく、一般民衆もこの憎しみの輪に加わっていきます。そうして、イエスさまは完全に「見捨てられ」て、十字架刑にかかって亡くなります。
ここで話が完全に終わるなら、「ひょっとしたら、イエスという人は単なる惨敗者なのかも」という気持ちが、わたしたちの中にも広がったことでしょう。わたしたちを愛し、わたしたちのためになんでもしてくださる神さまは、さらに一歩、足を踏み出してくださいました。それが「復活」したイエスさまの存在です。
つまり、社会的には「極悪人」として処刑されたイエスさまは、何かに失敗したからそうなったのではなく、その一連の出来事を通じて、神とはどういう存在なのかを、あらゆる方法を用いて、わたしたちに伝えて下さったのが、「イースター」の出来事なのです。言い方を変えれば、「よみがえったから凄い」のではなく、神さまのわたしたちに人類に対する想いを本当に知ること、わたしたちがどんなに神さまに大切にされ、愛されているかを知ること、それがイースターなのではないでしょうか。
「なんだ、そんなことか」と思われるかもしれません。でも、自分が大切にされることを通じてしか、わたしたちは自分で自分を大切にする方法を知りません。また、自分を大切にすることが出来て初めて、他の人を大切にすることができるようになります。生きていくことは、時にはとても辛いです。でも今日の命があるということは、神さまが他でもないあなたに「今日、あなたにやっていただきたいことがある。よろしくね」と、命をお預かりし、生きていくのに必要なものを与えようとされている、ということなのだと思います。生かされていることへの感謝、いのちの喜びを感じられるイースターが、あなたのところにも届きますように!
「都合のいい神」を超えて
イザヤ書52:13~53:12
マタイによる福音書26:36~75、27:1~66
2023年4月2日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
クリスマスイブ礼拝でも、日課の一つに選ばれる箇所ですが、「苦難のしもべ(主の僕の苦難と栄光)」と呼ばれるイザヤ書の52〜53章は、イエスさまの十字架の道をもう一度心に留めるために、聖週の旧約聖書でもおさらいをするようになっているのでしょう。
お弟子さんたちもそうでしたが、ローマ帝国の圧政に苦しめられている多くの人々は、世の中を「あっ!」と変革してくれるカリスマを求めていました。全能の神、必要とあれば山でも動かす方、すべての人の王、そんな期待の中、イエスさまが「救い主」として来られた以上、もうその絶対的な力をもって、社会をひっくり返してくれるに違いない、そう信じたかった。他の宗教を圧して、ユダヤ教の伝統が特別に擁護されるに違いない、という妄想もあったかもしれません。つまり人々は、それぞれ都合のいい勝手なシナリオを組み立て、自分の望む「神」を、イエスさまに投影していた、そんな様子が、福音書の端々から漂ってきます。
ところがイエスさまが目指したのは、それらの期待とは対極を成す「苦難のしもべ」の姿でした。「輝かしい風格も、好ましい容姿も」なく、「軽蔑され、人々に見捨てられ」、「多くの痛みを負い、病を知っている」神。そして社会を変革する前に「捕らえられ裁きを受けて」、あっけなく「命をとられる」。しかも「自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」と。
何故さっさと前向きに社会を変えてくれないのだ、と焦立った人々は逆に怒りや憎しみをイエスさまに向けたことでしょう。でも、イエスさまのプランは、「石をパンに変える」ように、目先の政治体を破壊し、和平状況を一時的に作ることではなく、また誰かを満足させることではなく、人々に神の愛を知らせることでした。そしてそれは、2千年を経た今でも、わたしたちに伝わり続け、そしてわたしたちを導き続けています。
誰でも困った時、「お願いですから、今、助けてください」と祈ることはあります。でもそれがいつのまにか、「自分の言うことを聞いて助けてくれた」神だから信じる、というふうに置き換わってしまわないように、イエスさまが命と引き換えに教えて下さった「愛」を、心の真ん中に据えたいと思います。
生きていること 滅びること
エゼキエル書37:1~7
2023年3月26日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
「私の民よ、私があなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。」 (エゼキエル書 37:13)
この大斎節第5主日の旧約聖書は、いつ読んでも不思議な物語です。谷を埋め尽くす「甚だしく枯れた」(=命と真逆の状態)「人骨」というのも奇妙な光景ですが、神の言葉が放たれると、やがて骨は組み立てられ、筋肉や皮膚組織に覆われて人間のかたちになる。さらにそこに、神の霊が吹き込まれると生きた人となり、自らの足で立ち上がる。しかもおびただしい数の人の群れとなると。
かつては川が流れ、田畑を潤し、人々が活き活きと生活していたかもしれない谷なのですが、それは過去のこと。昔の谷を懐かしがる人さえいなくなった地。命が生まれる希望はなく、抜殻だけが悲しくころがっているような谷。それは誰が見ても、いのちのきざしを感じられない情景です。
しかしながらこれは、「神なら骨も人間に戻せる」ことを伝えるための話ではないでしょう。ある本に、エゼキエルのこの箇所のディスカッションのお題として「あなたにとって、この『骨』は何を意味しますか?」「あなたの教会が命を得るには、どのような望みが必要だと思いますか?」「神の霊が、あなたの教会に新たな命を吹き入れてくださるよう、お祈りを作ってみましょう」などと書いてありました。
つまりこの物語は、わたしたち個人個人に起きることを示唆しているのではなく、教会や共同体などの「神さまが与えてくださった人と、神さまからお預かりしている能力とを持ち寄り、神の国を実現しようとする」営みについて語っているのではないでしょうか。望みがあるとは到底思えない状況に、神がその霊を吹き込んでくださる時、人は自分の足で立ち上がるようになり、神の存在を心の底から知るようになる、と言っているのではないでしょうか。
教会が「枯れた骨」のようになること。それは目には見えるけれども中身のない「かたち」と化し、血も涙も流れないけれど、そして痛みや苦しみを排除できているけれども、もはや「命」が存在しないという状態なのでしょう。「命」がないのは、本当に残念なことですが、しかしその現実を認めること無しには、枯れた骨は、枯れた骨のままなのだと思います。
わたしたちにとっての大きな課題は、「我々の骨は枯れ、望みは失せ、滅びる」(37:11)とは、まだ認めていないことかもしれません。どこかで「まだ何とかなる」「誰かが何とかしてくれる」「自分が生きている間だけ今のままなら、あとはどうなってもいい」等という気持ちが少しあるとき、「滅びるだけだ」という現実を直視する覚悟は、できていないのだと思います。
神さまは、その覚悟がない人々をも見捨てられませんが、神さまの霊を受けたとき、それに気がつかないわたしたちでは、もったいないと思います。墓場のようなわたしたちの心を開き、霊を送り続けてくださる神さまは、わたしたちのかたくなさにまで降りてきてくださいます。
真実を「見る」
ヨハネによる福音書9:1~38
2023年3月19日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書は、おそらくエルサレムでの出来事です。通りすがりにイエスさまは、目の見えない人と出会います。とても長い箇所ですが、要するに目の見えなかった人は「真理を見る人」だったけれども、「私は見える」と思い込んでいた人々は、大事なことを見落とす人たちだった、という話ではないかと思うのです。
イエスさまのお弟子さんたちでさえ、「生まれつき目が見えない」のは罪と関連していると思っていました。また、「罪の子だ」と片付けてきた近所の人々も、その人が急に一人前の「男性」に見えてきたので不安になり、ファリサイ派の人々のところに連れて行き、顛末の解明を求めます。しかしファリサイ派の人々も混乱し、彼の両親に説明を求めたりしますが、彼らは本人に聞いてくださいと返します。仕方なくユダヤ人たち(いつのまにかファリサイ派の人々だけではなく)は、再び本人に聞くことになりますが、彼は最初から一貫して全く主旨を変えてはいません。最終的にはユダヤ人たちはこの人を理解することができず、エルサレム市街地から追い出します。それを聞いたイエスさまはこの人と会い、彼からの「主よ、信じます」という言葉を聞きます。
この物語を振り返ってみると、お弟子たちにしても、近所の人々にしても、そして両親も(息子に物乞いをさせている両親というのも悲しいですが)、またファリサイ派・ユダヤ人たちも、何かしら「失うもの」の多い人々です。それは必ずしも物的な事ではなかったとしても、イエスさまとかかわることによって、生活の安定や社会的地位が揺さぶられることを恐れたのでしょう。そして何よりも恐れたのは、彼らが信じる価値観が破壊されることだったでしょう。理解できないことが起きている、しかも自分たちは神のみ恵みの中にいることが保証されており、そうではない人々は別世界に位置していたはずなのに、立場が逆転してしまう。「罪」ある人を排除することが正義だと信じてきたが、実はそこには“?”が空中に浮かんでいる。でも、人を裁き、上から目線で決めつける事(うっかりやってしまうことはあるかもしれない)の危うさに気づいたら、勇気を持って物事の本質を「見る」。イエスさまが望んでおられるのは、無条件の服従ではなく、真実を見ようとするそんな謙虚さではないでしょうか。
人にどう思われるか
ヨハネによる福音書4:5~42
2023年3月12日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
コロナ前のある夜、非常に混んだ地下鉄の車両の床に、ころっとしたピンク色の財布が落ちているのが目に止まった。人々はそれに気がつきながらも横目で眺めるだけで次々と降りていく。そして新しい人々が乗り込んでくる。拾う人がないままに、財布は床に座っている。やがてわたしは、自分の降りる駅を迎えてしまったので、手を伸ばして財布をつかみ、立ち上がった。ところが驚いたのは、(誰かが拾ってくれて)「ホッとした」ではなく、一部始終を見ていた人々が「あ〜あ、あいつ拾いやがった」という、突き刺さるような視線を、一斉に向けてきたことである。つまり落ちている財布を「自分のものにする」という誤解をされないために、この人々は財布を放置していたのだ。他人の財布を盗る人と思われたことはさて置き、「人にどう思われるか」がこんなにも大切な人々の世界観に驚いていた。
しかしながら、「人にどう思われるか」という視点が培われるのは、実際に受けた、人からのリアクションに加え、自分の中にも行動チェックをする別の自分がいて、むしろそちらの方が強烈な力があるように思います。無意識のうちにしかも素早く「人にどう思われるか」を察知して、身を護るよう警鐘を鳴らしてくる、そんな別の自分です。
今日の福音書のサマリアの女性にとって、イエスさまの行動は、最初は警鐘だらけだったに違いないのです。サマリア人を軽蔑しているユダヤ人の、しかも男性が話しかけてきて、さらに下手に出て何かをお願いする、この女性が不審に思っても何ら不思議はありません。親切に水を呑ませても、絶対に何か別ストーリーがあり、はめられて自分が恥を晒すだけではなく、サマリアの共同体からほれ見たことかと言われるかもしれない。そもそもこの男性と話をしていて、自分は安全なのか、と気が気ではなかったに違いありません。ところが、信じられないことが次々とおきていきます。その町のサマリア人の多くがイエスさまの言うことに耳を傾け、神さまの愛を信じるようになります。ユダヤ民族としては切り捨てた人々なのに、イエスさまはサマリア人の家に泊まり、2日間も一緒に過ごされます。民族や常識や宗教を超えて、また「人にどう思われるか」を超えて、最も優先すべきことを大切にしていくよう、人々が変えられていく、そんな奇跡の物語ではないでしょうか。
真実への探求
ヨハネによる福音書3:1~17
2023年3月5日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
大斎節の2週目となりました。「自分の弱さと向き合う」季節を、皆さんはどのようにお過ごしでしょうか。何も決めずにここまで過ごしてしまったという方も、今からでも遅くはありません。いつでも自らの弱さと足りなさを蔑ろにしないで、まっすぐに神さまに聞きましょう。
今日登場するニコデモという人は、自分の無知や限界をさらけ出してでも、イエスさまから真実を聞こうとした人なのではないかと思うのです。ニコデモは、ヨハネによる福音書では3度登場します。
7章50節では、多くの人々がイエスさまの言葉に耳を傾けるようになっていったとき、伝統的ユダヤ教の存亡の危機を感じたファリサイ派と大祭司の指導者層は、イエスさまを逮捕しようと人を送ります。結果的には逮捕には至りませんでしたが、ニコデモは議員仲間からの反発を受けながらも、闇雲に断罪するのではなく、まず事情聴取が必要だと主張し、その場は収まってしまいます。
19章39節では、ニコデモは議員身分の剥奪や、ユダヤ支配層からの追放も覚悟の上で、十字架刑で亡くなったイエスさまを葬るために、大量の没薬と香料を準備し、そして遺体の引き取りを申し出たアリマタヤのヨセフとともに、丁重にイエスさまを墓に納めます。
ところで今日の福音書では、誰にも知られないよう闇に紛れてイエスさまを訪ねるなんて少し狡い、とする考え方もありますが、イエスさまの解き明かす話には、耳を傾けざるを得ない何かがあると感じているニコデモの姿を伝えています。彼は最高議会の議員であり、ユダヤ社会の指導者の一人でした。ユダヤ教の伝統や習わしを擁護する側にとっては、それらをないがしろにする(ように見える)イエスさまを潰すために行動しても、また真実を知る恐怖から逃れるためにイエスさまを否定しても不思議はないのに、イエスさまに教えを乞う。これだけですでにニコデモは「新たに生まれて神の国を見る」人生が始まりかけているようにも思います。何歳からでも、どんな立場にあっても、何かを失う可能性があっても、イエスさまの助けにより、真実に目を向けることを選んだニコデモです。
「誘惑」との別離
マタイによる福音書4:1~11
2023年2月26日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
2月22日から大斎節(イースターを迎える準備の季節)に入りました。イー スターを迎えるまでの40日間を「大斎節」と呼びます。イエスさまが、荒野で、さまざまな誘惑を退 けたことに倣い、美食や気晴らし事を斥け「自身の弱さに向き合う」期節として 過ごす習慣がありました。昔は「娯楽」や「贅沢」がごく限られていましたので 自分の弱さと向き合うためには、そんな習慣も役立ったのかもしれませんが、 今や、娯楽や贅沢でないことを見つけるのが大変なほど、日常生活は様々な雑音 で満ちています。この現実の中では、40日間だけ何かを我慢したところで、自己満足や達成感を味わうだけとなってしまう危険もあります。具体的な過ごし方 については、個人の判断と考え方にお任せしていますので、まずは、イエスさま が遭われた誘惑について注目したいと思います。
一つ目は、「石をパンに変える」誘惑でした。災害が起きた時に、水や食料 を届けるのは必須ですが、それで「何かやってあげた」という気分になる誘惑も 含むのでしょう。当時、イエスさまだけではなく、多くの人がお腹を空かせていましたが、そんな人々の前で石をパンに変えて見せれば、身体が満足しただけで はなく、神さまの力を信じる人も出てきたかもしれません。しかし、イエスさま が紹介する神さまは、都合よく「物をくれる神」ではなく、また「自立を阻害 する神」でもなく、「愛」の神でした。
2つ目は、「神を試してみる」誘惑でした。目に見えず手で触れることもできない神さまを、悪魔は旧約聖書を引用し、心身が納得する方法で試すよう誘います。イエスさまは神殿の屋根まで連れて行かれましたが、人間の弱さを忘れていませんでした。「試し」た直後だけ神の存在を感じることができるかもしれませんが、 1秒後にはまた試したくなる。それは、いくら飲んでも喉が渇く塩水を呑むのと同じです。永遠に神を試し続け、そして不安しか与えられないというジレンマをよくご存知でした。
3つ目は「世界のすべてを支配する」誘惑でした。でも、神さまの国は、支配や秩序やルールによって守られる国ではなく、「愛」が基盤となり、人々が自由意志と、喜びと自らの責任において生き方を決める国です。そう最終的に心を決めたイエ スさまの道は、ここからはまっすぐ十字架に向かうことになります。
「主と同じすがた」
マタイによる福音書17:1~9
2023年2月19日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
「よくわからない話」と感じる箇所は聖書にしばしば登場し、今日の福音書もまた難解です。光のように白く輝く衣も、イエスさまとモーセとエリヤが語り合う意味も、またこの光景を見ていた弟子たちが最後に口止めをされる様子も、「で? 何が言いたいのだろう」という気持ちになります。もちろん様々な「解釈」はできますが、納得のいく説明を得ることが「聖書を読む」ことではなく、わたしたちにとって今日という日を生きていく「良い知らせ」と出会うこと、それを見つけ出すことが、聖書を読む目的なのだと思います。
今日の特祷でわたしたちは「自分の十字架を負う力を強められ、〜主と同じ姿に変えられますように」と祈ります。「主と同じ姿」になることが、十字架にかかって死ぬことではないと思いますが、では何をもって「主と同じ姿」になるのか。それは、「わたしの愛する子」と呼びかける神さまの声を、イエスさまのようにわたしたちも聞けるようになることではないかと思うのです。
「わたしの愛する子」とイエスさまが告げられているのは、「神の息子」だからではなく、神の愛を信じている「子」という意味ではないでしょうか。それはわたしたちに対しても語られ、しかも常に注がれている言葉なのに、わたしたちは聞けないことも多い。ことに辛い目に遭っているとき、「ほかの人は愛されているのに、わたしはその中に入ってはいない」と疑う。たとえそうでなくても、にわかには信じがたいと思ってしまっているわたしたちがいます。それは、傷ついた心にとって「愛されている」と信じることは、再び裏切られるかもしれないという不安がよぎることだからです。負いたくない十字架、人々からの愛のない言葉、親しい人々の無理解の中で生きなければならないとき、「神さまは、本当にわたしを愛されているのだろうか」と、神への信頼はぐらぐらします。
それでもわたしたちは、「神さまの心にかなって」造られました。目に見えない神さまは、わたしたちを目に見えるいのちとして造り、それぞれ個性溢れる人間として創られました。自分で自分の「個性」が気に入らないときもありますが、それは神さまの目にはすべて尊いもの。「自分がなんとかしなければ」と、りきんでいるときには感じにくいですが、溢れるばかりの愛と慈しみ、そして必要な勇気が与えられていることに心の底から信頼するとき、わたしたちは主と同じ姿に変えられていくのではないでしょうか。
神さまの前に生きる
マタイによる福音書5:21~37
2023年2月12日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
日本では「言葉化する」ことをあまり良しとしない風習があるせいか、言葉以外の表現に対して、許容度が高いように思います。不快な表情や無言の応答など、明らかに表情では苛立っているのに言葉化はせず、「言わなくてもわかるでしょ」といった一種の「会話」が通用する社会なのかもしれません。もし無言のまま表現し合えるのであれば、「会話」として成立するのかもしれませんが、大概の場合はどちらかが察し、会話をする前に終了してしまうことがほとんどでしょう。しかも「言わなくてもわかってほしい」という甘えが混じっていることも多いので、なかなか厄介です。
ユダヤ人社会でも、律法に照らして「間違い」とは認識されないものの、神さまの「愛」に反する行為は見過ごしにされてきました。密かに心の中でつぶやいたり、周りにばれることはないと思って、こっそり考えたり妄想を抱いたりすることは、律法に反したとは明らかにされないので許容されてきたのでしょうが、イエスさまはこういったことに対し、「神さまの目に、だめなことはダメ」とおっしゃいます。
しかも具体的な例を挙げ、心の中で人を罵倒したり、欲望を満たす対象として人を眺めたり、たとえ口に登ることはなくても、神さまの目にはどちらも同じ罪(=的はずれ)であるとおっしゃっています。
しかし「裁きを受け」ないために、何一つ間違うな、とイエスさまが言っているわけではありません。重箱の隅をつつくような詮索をして、何ひとつ悪さをしないように、わたしたちを縛りつけるのが目的ではなく、こっそりと心の中で描いた「悪事」は、他人は気づくことはなくても、実は本人の心と身体と魂の健康を少しずつむしばみ、愛に基づかない判断や自分を絶対化する傾向、そして最終的には神さま不要の生活になってしまう。しかもそれに気がつかない恐ろしさを、心からの憐れみをもってイエスさまは心配してくださっています。神さまの望みはただひとつ。喜びと感謝とともに、十全に与えられたいのちを、わたしたちが健全に生き切ることです。イエスさまを通して示された「愛」が、すべての行動の基盤となるように、日々努めていきましょう。
「人」に伝わるまで
マタイによる福音書5:13~20
2023年2月5日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書もまた、内容てんこ盛りです。文中に登場する「地の塩」「ともし火」「律法を廃する」と、それぞれ別のお話が出来てしまいそうです。でも今日は、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようにしなさい」という、なかなか危険とも思える聖句に注目したいと思います。聖書の常識的なイメージとしては、人に知られなくても、神さまはわかってくださるのだから、人から「立派」という評価を得ることは期待せず、ひたすら善い行いをしなさい、と勧めるのがふつうな気がします。ところがこの聖書の言葉は、「ひっそりと立派な行いをするのではなく、みんなに見えるように実行しなさい」とも聞こえるフレーズ。これではファリサイ人が言ったりやったりしていることと同じではないか。果たしてイエスさまは、こんなことを本当におっしゃったのだろうか、と疑問に思います。
ところで、あるシェフが書いた本によると、コックの長い下積み時代、彼はひたすら鍋を磨く仕事を言いつけられたそうです。彼がどんなに心を込めて鍋を洗っても、料理をつくる調理方は、ただ単に「洗ってあるから使える」としか思わない。しかし、鍋を丁寧に洗い、磨き続けていると、何がどのような影響を及ぼしたのかはわからないけれども、自身も仲間も、何かが少しずつ変化してゆく、そしてそれは体感として、100回繰り返したあとの、とても不思議な変化だ、という話でした。
鍋を洗う事と立派な行いを一緒くたにするのは少し気が引けますが、イエスさまがおっしゃるのは、「人にわかるようなパフォーマンス」をしようという話ではなく、皆が変えられ、自身も変えられるような繰り返しの努力の背後には、100回繰り返された工程がある、ということなのではないかと思うのです。それはつまり、すぐに結果が出なくても、諦めずに神さまに信頼し続けましょうという呼びかけであり、何かが変わるための、日の目を見ない99回の努力は、決して無駄にはならない、ということなのでしょう。
まもなくわたしたちは、大斎節を迎え、自分自身を顧みる季節に入ります。何かがすぐに変わらなくても、その100倍、神さまに信頼し続けましょう。
「幸い」なのはだれ
マタイによる福音書5:1~12
2023年1月30日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
(あとで)慰められるのだから、(今)悲しむ人々は「幸いである」と言われても、正直なところ納得はできない。あとで慰められるのならば、もったいつけずに、今すぐに慰めてくださいと言いたい。あるいは、悲しみの渦中にある人々に対し、貧しくも悲しくもない人が気休めとして、「あとでね」と誤魔化されているような気にもなる。
しかしながら、この「幸い」リストは、実はもっと普遍的なもので、「どうしたら人間は幸せに生きることができるか」という、永遠に繰り返されてきた問いに対して、イエスさまがこたえられたのではないか、と思うのです。
旧約聖書の世界にも、「幸せな人」のたとえが出てきますが、幸せになる大前提として「律法」の存在があります。つまり「律法」を順守することが幸せの鍵で、律法を守れる人は幸せな人、守れない人(病や怪我を負う人、「罪」と定められた生活を余儀なくされる人)は幸せにはなれない人、ということを差別化するために使われていた、と言っても過言ではありませんでした。そして、悲しみや貧しさは、律法を守れない=罪ある人に対する「罰」と考えられていました。
ところがイエスさまは、貧しい人こそ、悲しむ人こそ、神さまの祝福を受けると語ります。挙句の果ては、「あなたがた」と二人称で語り出します。つまり悲しんだり貧しかったりすることは、神さまから見捨てられている証拠ではなく、むしろそういう人々のために、天の国が用意されていることを、そしてそれは一般論ではなく、他でもない「あなたがた」にわかってほしいと語ります。
「幸いである」という表現は、ともすると「よかったね!」と、現状肯定とも捉えられるニュアンスを感じることがありますが、「貧しい」「悲しい」状態が幸いだからそこに留まるように、と言っているのではなく、貧しくても悲しくても、また社会が「罪の存在」と決めつけてきても、「あなたたち」は紛れもなく神さまの国の住人なのだと告げておられるのではないでしょうか。
天の国はすでに近くにある
マタイによる福音書4:12~23
2023年1月22日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
クリスマス物語に登場する「羊飼い」は、人々から少し見下されていた職業だったことは度々お話ししましたが、今回登場する「漁師」もまた同じような職業だったようです。現代では漁師というと、数ヶ月に渡って北の海で漁を行う「たらば蟹」漁などでは、大きな危険ときつい肉体労働が伴うものの、無事に帰ることができれば収入も悪くない、「勇ましい」というイメージもあります。しかし今日の聖書に登場する漁の現場はガリラヤ湖。遠浅で、普段は穏やかな湖ですが、山々に囲まれている地形から突然強風が吹き、船がひっくり返ることもあります。しかし北の海の厳しさとは格段に状況が異なり、魚の種類も多いわけではなく、網を繕ったり船の修理をしたりと手数がかかる割には、地味で資本も不要、尊敬を集めるような職業ではなかったようです。
それは一旦置いておいて、「天の国は近づいた」という言葉を最初に問題にしたいと思います。もしこれを「この世の終わりが近づいている。審判の時がすぐそこに迫っているから、今のうちに良い人になって、天国に入る準備をしておいた方がよい」というふうに読んでしまうと、その情報を手に入れることが出来た「早い者勝ち」のように聞こえてしまいます。しかし原文を見ると、「天国は(すでに)近くにあるのだから、考え直しなさい」とも訳せます。イエスさまから声をかけられたから天国が近づくのではなく、「あなたには関係ない」とされてきた貧しい庶民や社会的地位の低い人々に、「他ならぬあなたの近くに、天の国はある。だから、自分は関係ない、なんていう考えは変えなさい」と、イエスさまが言っておられるように思うのです。
さらに追い討ちをかけるのが、「人間をとる漁師にしよう」という言葉です。読み方によっては、食べるために魚を捕まえるように、商品のように人間を捕まえる、という話に聞こえてしまいますが、こちらも原文を見ると、「私はあなたを人間の漁師にしよう」とあるだけで、狩のように「人間を獲る」とは書かれていません。この方がわかりやすいだろうと言葉を添えたのかもしれませんが、イエスさまがおっしゃりたかったのは、人を獲るという意味ではないように思います。
つまり、社会的に一人前の大人の仕事とも認められていなかった職業の一つである漁師に対し、職業を変えるのではなく「あなたはあなたのままで、すでに一人の人間として神さまから尊重されている。そういう者として生きなさい」とイエスさまは告げておられるのではないでしょうか。
ゆるしへの認識
ヨハネによる福音書1:29~41
2023年1月15日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
アドベントに度々「バプテスマのヨハネ」が登場しましたが、顕現節に入り再びの登場です。水による洗礼のことも、「鳩のように霊が天から降った」ことにも言及していますので、イエスさまに洗礼を授けた後の展開のようです。興味深いのは、ヨハネはイエスさまのことを二度も「神の子羊」と呼んでいることです。
「世の罪を除く神の子羊よ」と、わたしたちは聖餐式のたびに歌いますが、そもそも何故、イエスさまを「子羊」に喩えているのでしょうか。旧約聖書のレビ記には、人が罪をおかしてしまった時、罪を償うために自分で何かするのではなく、「欠陥のない」羊をつれてきて、その頭に手を置き、自分の身代わりにする。そして、その羊をいけにえとして捧げると、人間の方は「罪を赦された」ことになると書いてあります。人間の罪の大きさや種類によって、雄牛や雌羊、あるいは鳩だったりしますが、いずれにしても罪のない動物に罪を負わせて自分が赦される、という展開は、現代のわたしたちには、とうてい理解し難いものでしょう。
しかしながら、動物の犠牲を捧げることは、なかなか大きな負担です。貧しい人ではなくても、牛をまるまる一頭、いけにえとして捧げるのは、とても痛い出費でしょう。しかしもし「牛一頭分と同等の、大きな罪を犯してしまった」ときちんと認めることからしか、再び立ち上がることはできないのであれば、そんな方法も仕方ないのかもしれません。牛を犠牲にする前に「罪を犯した」という認識が持てれば、出費を抑えられたのに、とも考えてしまいますが、痛い思いをしないと真実に出会えない、それが人間なのかもしれません。
わたしたちが神さまの愛を疑わず、自分ではなく神さまによってゆるされ、生かされていることを信じ、喜びと感謝で満ちた生涯を全うしているならば、イエスさまをわざわざ十字架にかけて死なせなくてもよかったのでしょう。使者や預言者を何度送っても、同じ間違いを繰り返す人間に対し、神さまはスッパリと諦めるのではなく、牛や羊とは比較にならない大きな犠牲を払ってでも、あなたに再び立ち上がってほしい、幸せに生きてほしい。そう言い続けておられるがゆえの「神さまの子羊」なのではないでしょうか。
なぜ、イエス様が「洗礼」を?
マタイによる福音書3:13~17
2023年1月8日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
前にもお話ししたかもしれませんが、中世のキリスト教会では、亡くなる直前まで「洗礼を受けること」を引き伸ばす習慣が流行していました。洗礼を受けることによって、それまで犯した「罪」が全部帳消しになると信じていたので、確実に天国へ行く「ノウハウ」として、洗礼によって清廉潔白となる必要があると考えたからです。
しかし、今日の福音書では、罪のない「神の子」イエスが洗礼を受けています。うろたえるバプテスマのヨハネに対し、「今は止めないでほしい。正しいことだから」と答えるイエスさまですが、「罪を帳消し」にされる必要があったとは思えません。また、洗礼の場面なので、つい「水」のことばかり記憶に留まってしまいますが、イエスさまご自身は洗礼を受け、そして続いて「神の霊が鳩のように降っ」たと書かれています。つまり、「水で洗うこと」と「神の霊が降ること」はセットであり、本来は1つの出来事なのですが、さまざまな経緯により、前半を「洗礼」、そして後半を「堅信」とみなすようになりました。
でも、「神の霊が降った」からといって、別にビビビッと電流が流れた訳ではないでしょう。イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、神の霊が降って「愛する子」と宣言されたように、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けたすべての人々は、実はすでに神さまの「愛する子」と宣言されているのではないかと思うのです。それを受け入れるのには、とても大きな勇気を必要とするかもしれません。なぜなら、目に見える確証はなく、音としても聞こえないからです。
現代のわたしたちにとっての洗礼は、これからの人生を神さまと共に歩きたい、イエスさまが示してくださった「愛」に信頼して生きていきたい、その決断を公表することであり、このための努力を自分も続けられるよう、教会の皆さんに祈って支えていただきたいと公言することでもあるでしょう。
しかも洗礼は、依存の対象を人間から神へ転換する、ということではありません。間違えても失敗しても、迷っても怠けても、あるいは良い子でいても悪い子になっても、決して見放すことのない方が、自分をしっかり支え続けてくださる、神さまは自分を「わたしの愛する子」と呼びかけておられる、と信じることなのでしょう。それが、わたしたちが洗礼を受ける時に、神さまと交わしたお約束なのではないかと思うのです。そしてその模範を示してくださるために、イエスさまはわざわざ洗礼を受けてくださったのかもしれないなと思います。
この世を生きるしるし
ルカによる福音書2:15~21
2023年1月1日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
この世に生を受けたとき、わたしたちは皆、名前が与えられます。その子の未来を想像し「こんな人になってほしい」「こんな人生を送らせたい」という祈りを込めて名付けられるのでしょう。わたしが幼児洗礼を受けた教会の牧師さんは、「米男」という名前でした。貧しい家だったので、「一生、米に困らず食べていける」ようにと、切実な願いが込められているとのことでした。一方わたしは「あじゅこ」という変わった名前。同級生からはからかわれるし、大人からは何度も聞き返されるし、もっとわかりやすい名前だったらよかったのにと、何度か思ったものでした。
ところでイエスさまのお名前は、当時どこにでもいる一般的な「イエス」(「ヤハウェは救い」という意味を持つ、ヘブル語の「ヨシュア」のギリシア語音訳)。特別感はひとつもありません。しかも、父親や親戚の中にいる男性の名前をもらってそうなったかというと、そうではなく、天使がイエスと付けるようにと言ったから、この名前になったということになっています。この特別感のない方は、旅の途中の両親が宿に泊まれなかったゆえ、家畜で足の踏み場もないような不衛生な洞窟で生まれ、そして7日目に「イエス」と名付けられました。教会では、クリスマスも入れた8日目に当たる1月1日を「主イエス命名の日」として記念しています。
イエスさまは、誰が見ても「神の子だ」とわかるような、きわ立つ人生が与えられたのではなく、まったく普通の人間としての、短い生涯を全うされました。目立つ存在でもなく、麗しい外見の輝きもなく普通の人として、この世界を生きました。それは、言い方を変えれば、本来神さまが創ってくださったそのままの「人」としてのいのちを、忠実に生きたことに他ならないのではないかと思うのです。わたしたちもまた、この世を生きる印として、名前を与えられ、神さまからお預かりした使命を、今、生きているのではないでしょうか。
ことばは、わたしたちの間に宿った
ヨハネによる福音書1:1~14
2022年12月25日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
言うまでもないことかもしれませんが、神さまは目に見えません。(見える人もいるかもしれませんね)
そのままでは目に見えず、音として聞くことができず、風や香りでもなく、いかなる「かたち」にもなり得ないのが、神という存在です。つまり「ここにいる」「あそこにいる」と言われても、証拠はありません。
しかし「証拠のない」神を信じるためには、人々はしるしを求め、すがる「物」を探し求めます。すると、神と人間の間を取り次ぐ風を装い、これ幸いとばかりに、人々をだます人も現れます。本当は、ひとりひとりが自分の良心と洞察力を駆使し、偽物か本物かを見極めれば良いのですが、実際はなかなかそういきません。神の存在そのものの捉え方があやふやな人間は、神のご意志についても、あれこれと道に迷ってきました。その度に神は、預言者(神の言葉を預かって人々に伝える人)や律法を送ってくださいましたが、苦難も喉元過ぎれば何とやら。すぐにそんな神の苦労も忘れ、再び道に迷う生き方を人々は繰り返してきました。
そんな何千年もの時間を経て、ついに神は人々に対し、目で見ることができ、声を聞くこともできる神に「イエス」と名前を付け、生きている人間として、人々の間に送ります。この神は人間として生きながらも、神の愛と慈しみを人々にわかるような行動や言葉や在り方をもって示しました。闇に包まれていたように感じていた神の存在は、人々の前にはっきりと姿を現し、神が何を大切にされているのか、人間にどのようになってほしいかを、明確に人々に示しました。
「初めに言があった」(ヨハネ1:1)すなわち、世界の初めより『ことば』である方は存在しておられ、初めから神と一体であった方が、肉体をとってこの世に来られた。そのことにより、人の心と魂は真実を知った。つまり、人はどのように生きるべきか示され、その指針は希望の光として、すべての人々に宿った。「イエス」と名前の付く前の存在を、ヨハネは「言(ことば)」と言い表し、神のなさったわざに感動しながら、わたしたちにそのことを伝えています。
神は我々と共におられる
マタイによる福音書1:18~25
2022年12月18日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
降臨節の聖書は、わたしたちが華やかなクリスマスを迎える気持ちとは裏腹に、苦しい物語が続きます。
ローマ帝国の支配下に置かれていたマリアやヨセフを取り巻く社会状況を想像するとき、復帰前/復帰後の沖縄県での諸事件を思い出してしまいます。沖縄県の全ての地域がそうだったわけではないですが、いわゆる治外法権が横行していました。沖縄住人は、米軍基地への立ち入りは禁じられているものの、彼らの居住地には外国人である米兵は自由に出入りし、暴力や性暴力をふるい、時には住居にさえ押し入り、事故を起こしても揉み消され、実際の被害を報道するのは、命懸けだったと言われています。
全ての軍隊がそうだったわけではないとしても、戦争に駆り出され「人を殺す」という任務を強制されることは、人として極限を越えたストレスがあり、結果的に本人が責任をとれないような事件もたくさん発生しました。
マリアやヨセフの生きた世界は、ローマ帝国の支配下にありました。上記の沖縄県に似た状況があったかもしれません。ローマ兵やローマの役人がうろうろし、不正も横行、やりたい放題されても、何があったのか声にすることができない。暴力を奮われても、むしろ被害者が「神の恵みから漏れていた」という烙印を押される、といった社会だったことでしょう。
そんな中で少女マリアは、生涯に渡って「うしろ指」を指されるような妊娠をしてしまいます。マリヤは死ぬほど悩み、どうしていいか途方に暮れたことでしょう。そして「正しい人であった」と言われるヨセフは、一生懸命、律法を守って生きる誠実な人だったから、どんなにか苦しんだことでしょう。彼らの決断が、いつどのように行われたのか、詳細は聖書には書いてありませんが、ふたりは律法を超えて働く、恵みと愛をもたらす神に信頼し、その声に従うことを決心したのだと思います。「神は我々と共に居られる」このことだけを唯一の心の拠り所として、神のご計画に賭けていった物語です。
クリスマスを迎えるということ
マタイによる福音書11:2~11
2022年12月11日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
今週も、バプテスマのヨハネのお話が続きます。このあとの記事によると、ヘロデ王の不正を指摘したかどにより、ヨハネは逮捕され牢獄の中で亡くなります。牢屋で「これで一巻の終わりか」という予感があったのかもしれません。
自分は命がけで神の国について人々に語ってきた、家族や安定した生活も捨てて自分の役割を果たしてきた、それが使命だと信じていたから。なのに人生の終着点が逮捕と死とは。ひょっとしたら、自分は何か思い違いをしたのではないか。そんな考えがヨハネの頭をよぎったのでしょう。イエスさまのことをみんなに知らせるのは、本当に自分の役割だったのか、自分の思い込みだったかもしれない、自分は情けない敗北者か。そう思うと、ゾッとするような冷たい風が、ヨハネの背中を下から上へと駆け抜けました。そして彼は、イエスさまに聞いてみようと思いました。
そこでヨハネは、牢獄から自分の弟子に使いを送り、「これで良かったのでしょうか」と、イエスさまに問います。ヨハネは、「そうだ。あなたは間違っていない。安心して逝きなさい」というイエスさまの答えを期待していたのかもしれません。
でもイエスさまは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と返事します。なんだか肩透かしのようでもありますが、ヨハネの人生だけに限って、当たりハズレを答えたのではなく、イエスさまを通じて人々の間に起き始めていること、常識的に考えて「ありえないこと」が始まった、つまり神の国が地上に展開され始めているのだ、と答えたのです。
イエスさまが挙げた様々な事例は、当時の常識では、ありえないことでした。目や耳や足が不自由な人は、神から見放され、祝福から漏れているからそうなった、と考えられていました。同様に、「死者」は社会復帰するはずはなく、貧しい人への福音なんてあるはずないと信じられていました。困難に遭う人は、神から見捨てられ、愛される資格がない人、と考えられていたからです。ところがイエスさまは、全く正反対のことを人々に告げています。
掟をきちんと守り、清く正しく生活することができる人ではなく、貧しい人たちこそが「福音」、つまり「良い知らせ」を告げられている、というのです。それは、イエスさまが家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたこととも通じるかもしれません。偉大な神として君臨するためではなく、超能力によって人の興味を引くためでもなく、苦しみや悲しみを抱えた人々と、徹底して一緒にいようとする神を伝える。そんなイエスさまの目的を、バプテスマのヨハネも時には忘れ、大きな不安に取り憑かれた、ということなのでしょう。
社会的に言えば、ひとりぼっちで獄中で亡くなったヨハネは、「成功者」ではないでしょう。でも神さまの目にとっては、自分の役割を果たした人。わたしたちはそんな人々に支えられて、クリスマスを迎えていくのではないでしょうか。
実物大の自分と対峙する
マタイによる福音書3:1~12
2022年12月6日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
聖書には、複数のヨハネさんが登場しますが、その中でも異彩を放っているのが、今日の福音書に登場する「バプテスマのヨハネ」と呼ばれる人です。この方も不思議な出生だったようで、おかあさんは年老いた女性、しかもイエスの母マリアの「親戚」だったと、聖書は伝えています。マリアのどういう親戚だったのか、それは書かれていませんが、それにしてもこのヨハネは、順風満帆の恵まれた生涯とは言えなかったようです。
父親は神殿に仕える祭司でしたが、ヨハネはその仕事を継ぐことはせず、成人したのち家を出て、荒野で人々に呼びかけるミッションに身を投じます。ラクダの毛皮を他の動物の皮で身体にくくりつけ、イナゴと野蜜を食べて「悔い改めよ」と叫んで回る。また、当時の権力者に対しても苦言を呈し、支配者層の不正をあばく。そして最後はサロメの舞のご褒美として首を落とされる。考えようによっては、ずいぶんと損な役割を果たした人かもしれません。
「悔い改めよ」という言葉からは、上から目線も感じるので、ちょっと前に進むのが難しい気持ちにもなりますが、他の聖書の訳を見てみると、なかなか幅があることがわかります。
「あなた自身を考え直せ」「罪に背を向けていた自分から立ち返れ」「低みからの見直しをせよ」と。
こんなふうに言われたら、罪のなさそうなヨハネが、罪を抱えながら生活しているわたしたちを非難している、という構図ではなく、普段は見ないことにしている心の深みや叫び、痛みも含めた様々な「とりあえず」脇に置いている苦しみを、神の慈しみのまなざしの中でなら、正面から見つめる勇気が出るかもしれない、と言っているように思うのです。
自分で自分を束縛しているものからの解放、不自由にされたと思っているが実は不自由にしているのは自分だったりする事実、そんな事柄との対峙を思い切ってしてみることを、イエスさまをお迎えする準備の季節に取り掛かってみませんか。
ひとり分を抱きしめる
マタイによる福音書24:37~44
2022年11月27日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
教会の暦の新しい一年が始まりました。日本のお正月ですと、なんとか新しい年を迎えることができて良かった!という意味で、お祝いをもって新年が始まりますが、ユダヤの伝統も引き継いでいるキリスト教では、まず闇の存在を意識することから新年を始めます。クリスマス前の4週間は、1年で最も夜の時間が長い季節。午後の仕事に少しとりかかるだけですぐに夕闇が迫り、なんとも寂しい気持ちになります。でもそれは、単に日照時間が短くなって気が滅入る、ということだけではなく、太陽が燦々と照り輝く昼間には見えなかったものが、闇に包まれると見えてくる、といった暦でもあるのでしょう。言い方を変えれば、心に刺さるような歪んだ社会の構造や、自身の心の陰に潜む弱さや不完全さについて、目をそむけずに向き合ってみましょう、という暦なのではないでしょうか。
弱さや不完全さは克服しなければならない、人に見せてはならない、というモードがとても強い社会に住んでいるせいもありますが、辛いことや面倒なことはなるべく避けたい、話題にせずに済ませたい、と思うのは自然なことかもしれません。人生が順調に進んでいる時はそれでもなんとかなるので、弱さは克服された、もはや向き合う必要もないのだと思い込むことができますが、“逆境”に襲われると、途端に弱さが自分の前に立ちはだかり、不完全な己の存在を思い知らされます。だからといって聖書が、「いつもビクビクして備えなさい」「諦めて限界を受け入れなさい」と勧めているわけではないと思うのです。
「二人の人がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」というこの聖書の言葉は、二人のうち一人しか命が助からない、という意味ではないでしょう。一人分の「わたし」なのにもかかわらず、二人分以上の重荷を背負い潰されそうになりながら、でも現実は見ないようにして進んできても、困難がひとたび襲うと、それを直視することになるという話ではないかと思うのです。しかもこの「直視」は、わたしたちの限界を受け入れ「仕方がないからあきらめましょう」という意味ではなく、実は「ひとり分だった自分」を認めることへのおすすめであり、もしそのことを認識できると、戦い傷つき苦しんでいる、多くの周りの人の姿が見えてくる、ということなのではないかと思うのです。
一年の初めの日曜日は、クリスマスに向かう心の準備の始めの日です。無防備な新生児の姿をとり、この世に来て下さったイエスさまを迎える心の準備とは、思い込みや虚勢の鎧を脱ぎ、肩の力を抜いて、たったひとり分でしかない「わたし」を抱き留めること。それは、わたしたちを愛し、幸せな生涯を送ってほしいと、心から熱望する神さまの意志を大切にすること。そして、そのことを告げるために、命を捧げたイエスさまの声に耳を傾けること。そんな、クリスマスへの準備をしていきましょう。
どうか一緒に居てください
ルカによる福音書23:35~43
2022年11月20日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書は、地上におけるイエスさまの最後の「居場所」、十字架上の話です。そこには、十字架刑によって処刑され、まもなく命を失う3人の人々と、自分の命は危機に瀕していないと思っている人々とが、対比されて描かれます。
十字架刑を見物に来た民衆や議員たち、そして執行人である兵士たちは、揃いも揃って「人を救うと自称するイエスよ、ならば自分を救ってみろ」と、嘲笑います。言葉や行為による暴力をふるっても、仕返しされることはないと確信しているこの人々は、十字架上の3人には人としての尊厳は必要ないと思っているだけではなく、そういう言葉が口から出てくる自身に対しての尊厳も失っています。さらにおそろしいことには、命を与え、また命を取り去る神は、この人々の心の中には不在です。
十字架にかかっている犯罪人のひとりの口からも、「神不在」の発言が続きます。極限に置かれているこの人の気持ちを考えると、極めて人間的な行動なのかもしれませんが、死を免れるためなら何でも利用しよう、としか考えていません。神がおられるかどうか、それはどうでもいいし、イエスがメシアだと信じているわけでもないようです。ダメもとで「救ってみろ」と罵ります。
十字架にかかっているもうひとりの犯罪人は、驚いたことに「この人(イエス)は何も悪いことをしていない」と発言します。これは、ローマ総督の判断も、ユダヤ人議員による裁判も、そして民衆をも、はっきりと敵に回す発言です。しかもこの人は、自分がこれから失う地上の命を奪還しようとはせず、イエスさまのことを(亡くなった後に)「み国」に行く方だと信じて、ただ自分のことを覚えていてくだされば、と告げます。するとイエスさまは、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」と言われます。
教会の暦の最後の日曜日、来週から「新年」が始まる時に、この物語はわたしたちに「救い」の本質を告げます。身体の安全が保証されることが「救い」ではなく、辛さ哀しさが取り去られることが「救い」でもない、またわたしたちの思うように人生が進むことも「救い」ではない。
「救い」とは、イエスさまと一緒にいること。わたしたちの生活の中心に、心のど真ん中にイエスさまをお迎えし、「どうかご一緒にいてください」と、本気で願うこと。イエスさまがおられる「み国」は、死んでから行くところではなく、生きているわたしたちの心にお迎えする「み国」なのではないでしょうか。
どんな窮地でも!
ルカによる福音書21:5~19
2022年11月14日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
今まで遭ったことの無い事態、対応能力を越えるような状況、考えもしなかった事件など、天変地異も含め想像を絶するような出来事に遭うことは、考えるだけでも怖くなります。今日の福音書を読むと、やがてやって来る危機を前に、わたしたちが怯えないため、イエスさまが教えてくださっているようにも感じます。しかしながら、ルカによる福音書がまとめられたのは、十字架の出来事より少なくとも数十年後。すでにキリスト教徒への迫害の真っ只中の時代でした。多数が犠牲になり、国や民族間だけではなく、家族間でも裏切りや騙し討ちが横行し、もう何が真実なのかわからなくなる。そんなとき、「こうすれば大丈夫」といった怪しい宗教も出没。心配でたまらない人々は、真偽を確かめる心の余裕もなくすがりついてしまう、そんな状況が目に浮かびます。
でもこのことを、遠い昔の出来事なのだから、今は大丈夫と思うのも、少し本当ではない気がします。戦争や殺戮が続く国々、自国民を虐げる権力者が、今この瞬間も力をふるっている事実を、わたしたちは知りながら、しかし呆然とするほど無力で、もう何をどうすればよいのかと絶望的な気持ちになりますが、そんな中でも、わたしたちにできる事があります。
それは「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」との約束を、真に受けることです。「もしそれが本当なら、信じてみてもいい。しかし保証はどこにあるのか」と言うなら、この言葉を信じてはいないということでしょうが、イエスさまは、交換条件や取引に応じてほしいと言っているのではありません。むしろ、わたしたちが自分の力だけで窮地を何とかしようと力みながら、絶望感に満たされることについて、そこから救おうとされているのだと思うのです。どんな状況に落とし入れられても、騙されても誤解されても、イエスさまだけはわかっていてくださる。そして必ず、必要な言葉と知恵を与えてくださる。どんな窮地でも「命をかち取る」ために、いたずらに心配を膨張させるのではなく、心をイエスさまに向けること。とてもシンプルなおすすめなのではないでしょうか。
11月、闇と向き合う季節
ルカによる福音書20:27、34~38
2022年11月6日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「死んだあと自分はどうなるのか」これは、古代からずっと皆が心配してきたことでしょう。ピラミッドの壁画には、亡くなったあと、自分はどのように振る舞ったらよいのかという「死後のトリセツ」が描かれているということですし、中世の絵画には、死への恐怖も込めて、「死神」という存在が度々登場します。「死」と「いのち」を巡り、さまざまな芸術表現も含め、人類はこの未知なる闇をずっと心配してきたのでしょう。
この闇が過剰に心を覆うようになった時、人は2つの極端へと走るような気がします。一つは、死を人生から排除し、征服すべき対象としてしまうこと。つまり「死」は、人生のプロセスの一部なのにもかかわらず、あたかも「いのち」と「死」は別物であるかのように位置付ける。しかし「いのち」の終わりは必ず来るので、実際にそれが訪れると「負けた」と感じてしまう。もう一つの極端は、「どうせいつか死ぬのだから」と、今を生きるのも諦めてしまいたくなるようなときでしょう。喜びも感謝も感じにくく、単にいのちを消費しながら、何かしてもらうのを待っているようなときもあるかもしれません。
こんなふうに、心の中が心配で渦巻いている人々に対し、イエスさまはやさしくおっしゃいます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
規則を守り、間違いをせず、なるべく傷つかないことを最優先して生きるのも、また、死を否定しながら怯えて生きるのも、そして諦めの境地でいることも、神さまが期待する生き方ではないようです。「心配しないで生きなさい。どこにいても、何をしていても、あなたを見守り支え、一緒に最後まで歩き通しますよ」と、約束してくださっているイエスさまに、今一度、耳を傾けたいと思います。
「救い」の断片
ルカによる福音書19:1~10
2022年10月31日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
「本当に心がホッとしました」という意味で、「救われました」と言うことがあります。それは、通常の生活の中でも使われる言葉かもしれませんが、教会の中では、どういう意味で「救われた」と表現するのでしょうか。
今日の福音書は、あのザアカイの話。ルカによる福音書だけに納められた力強いこの物語は、「救われた」ということの本質を語るものであり、わたしたちが普段気がつかないように小さい姿に押し込め、しかし心の奥底に確かに住む、「小さなザアカイ」に語りかけられているような気がしてなりません。
ザアカイは徴税人でしたから、とりあえず食うに困らない暮らしは出来ていました。農業のように天候や不作に左右されることもなく、家畜の流行病とも無関係で、ローマ帝国の支配が続く限りは、当面職を失うという心配は、あまりない職業に就いていたわけです。当時の多くの人からすれば、明日どころか来年のご飯に困らない暮らしというのは、羨望の的だったでしょう。
しかしザアカイは、秀でた才能やスキルがあったわけではなく、そもそも尊敬される職種ではなく、そして人々からは「罪深い男」と呼ばれていた。生活は成り立っていたけれど、自分には金はあるというプライド、しかし実は他に何も誇るものがないという現実。そんな自分の虚しさと、この先どうつきあったらいいのか途方に暮れつつ、日々苦しんでいたザアカイは、「イエスという人が町に来る」ことを聞きつけ、胸の中がなんだかざわざわします。自分から話しかける勇気は到底なく、せめてどんな人物か見てみようと思ったザアカイの、登った桑の木の下を一行が通り過ぎようとしたその時、イエスさまは顔を上げてザアカイ(「清い」という意味)の名前を呼び、あなたの家に泊めてほしいと頼みます。ザアカイは、もう何が何だかわかりませんでした。「罪深い」自分が声をかけられるなんて、夢にも思いませんでしたし、自分と口を聞いたイエスさまが、その結果として町の人からどう思われるか、なんて吹っ飛んでいました。ザアカイにとってイエスさまとの出会いは、それこそ宇宙がひっくり返るような出来事に感じたのでしょう、すぐに桑の木を降り、イエスさまとお話しします。そこでザアカイが知った確かなことは、「自分も愛されて良いのだ」ということでした。それまでザアカイは、自分の人生を心の中に閉じ込め、悲しさや寂しさを感じないようにしてきましたが、実は自分もまた、神さまから愛され、そして神さまの大切なこどもであることを思い出したのです。そして自分を愛することを取り戻すと、自分の周りの風景が見え始めます。今日、出会う人も、神さまが愛されている大切な人であることを理解したのです。
自分を底上げしない
ルカによる福音書18:9~14
2022年10月23日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書では、「ファリサイ派の人」と「徴税人」が祈るというたとえ話ですが、まるで勧善懲悪話のような、内容のコントラストに、少しうろたえ気味なのは私だけでしょうか。
イエスさまの時代は、律法をきちんと守って生きるファリサイ派の人々は、お金持ちではなくても「立派で信用できる」と尊敬されていました。ところがこの人は、口に出しては言いませんでしたが「他人を見下し」、祈りの中でさえも「私は不正や略奪や不倫もせず、献金も断食も正しく行い、徴税人のような者ではない」ので、神に感謝したりしています。
一方の徴税人は、不幸で孤独な職業です。誰もが「ああはなりたくない」と思う人生を送っているわけですが、自分は神さまに合わせる顔などないと言わんばかり。顔を伏せたまま「主よ、憐れみたまえ」と祈ります。そしてイエスさまは、神さまが「義(正しい)人である」と認めるのは、ファリサイ派の方ではなく、惨めな徴税人だと、そういう話です。
このファリサイ人のように、掟の実行を自慢し、人としての自分は「上」であるかのような祈りを聞くと、こんなひどい祈りを普通するか?とも思いますが、実はこの人には、このような段取りを踏まないと、祈れない事情があったのだと思います。見下せる対象を探し出し、「この人よりも上等な私なので、神は喜んでくださる」と思わないと、とても不安で神さまの前になど立てないと。つまり何も出来ない何もしない自分では価値がないので、褒めてもらえそうな善行を身に纏うことによって、やっと神に愛される、と考えているからなのでしょう。この人の一番大きなズレはそこかもしれません。
徴税人の祈りは「こんな私ですが、あなたの憐れみをください」と直球です。神さまがこの人を義とされたのは、彼の生涯が苦痛に満ちていたからではなく、自分を底上げしなくても聞いてくださる神を信頼しての祈りだったから、かもしれませんね。
信頼して祈る
ルカによる福音書18:1~8
2022年10月16日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書に登場する「不正な裁判官」は、最初は全く聞く耳を持たなかったのですが、うるさくて迷惑だからという理由で、繰り返し訴えてくる女性の頼みを聞き、裁判をしてやろうと重い腰を上げます。まるで責任逃れの酷い人のようでもありますが、イエスさまのこの時代は、女性は裁判を起こす権利はなく、財産を相続することもできませんでしたから、通常の対応だったのかもしれません。しかもこの裁判官につけられた「不正な」という形容詞は、賄賂を要求したり嘘で固めた判決を渡すということではなく、「神を畏れない」、つまり神様の目には正義のない仕事をしている裁判官という意味です。
この裁判官は、法の範囲では間違いをせず、正しいとみなされる裁判を随時行っていたのでしょう。しかし、飢餓に苦しむ家族と、十分に食事を摂れる家族に、同じ量の食料を渡すことが「平等」ではないように、社会的な地位のある人と羊飼いのように、力関係が明らかに異なる人々を、事務的に右へ左へと同じように裁くことが「平等」であるとは限りません。神さまがどんなに大切にされているかは気にも留めず、社会の中で小さくされている人を「人とも思わず」、非難されない範囲で職務を全うしていれば後ろ指を指されない。そんなふうに、自分の生き方を定めてしまっている人をも、神さまが変えてくださる時が来ると、聖書は語っているのではないでしょうか。
イエスさまは「たくさん祈りなさい」とはおっしゃっていません。「気を落とさずに絶えず祈る」とは、人間的な常識から結果を決めつけたり、あるいはもうダメだと諦めたりせず、神さまを信頼するようにと教えておられるのでしょう。それは、祈り続けた自分の努力に見合うご褒美を要求するような祈り方ではなく、祈りを通じて、わたしたちの心の内の本当の望みを知るような祈りなのではないかと思います。つまり、一番大切なことは何なのか、神さまは何をお望みなのか、それらが明らかになってくるように、祈り続けたいと思います。
神を賛美するために戻ってきた
ルカによる福音書17:11~19
2022年10月10日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
一生治らないと思っていた重い病を、イエスさまに癒やされた10人のうち、喜ばなかった人は誰もいないでしょう。自分には人並みの生涯なんて、死ぬまであり得ないと思っていた、そんな10人が自分の人生を取り戻し、躍り上がって喜ぶ姿が、まるで目に浮かぶようです。
当時「重い皮膚病」を患っている人々は、間違って近寄る人のないように、また感染することのないように、人の姿が見えるやいなや、「皮膚病です!汚れています!」と、大声で叫ばなければなりませんでした。これは、疾病を負って生きる大変さに加え、社会生活をする人権も剥奪され、さらに「病にかかったのは罪の結果」というレッテルも貼られる、とても苦しい人生だったことでしょう。
そんな病いから解放された10人のうち、たった一人だけが、イエスさまのところに戻り、「神を賛美するために戻って来た」者と呼ばれます。この人は、戻って来てイエスさまの足元に辿り着き、神に感謝を捧げた。当時の社会では、感謝することと賛美することは、同義語であったと言われます。しかしながら、「賛美」とは、さすがだと褒め称えられ、祭り上げられ、おそなえが捧げられる、といったようなことではないのは明らかでしょう。
イエスさまが、戻って来たこの人の行動の中に、神さまを賛美する姿を見たのは、「病気を治すとは、すごい神さまだ」と拝んだからではなく、この人が自分もまた「神さまにとって、漏れなく大切なひとりの人間である」と知り、自分も厄介者扱いされるのではなく、愛され大切にされてよいのだという真実を、心の底から信じることができた。そのことこそ、神さまを賛美することであり、神さまが望むことである、と悟ったからではないでしょうか。
わたしたちは聖餐式の中で「感謝と賛美はわたしたちの務めです」と唱えます。わたしたち自身もまた「神さまの大切にしている者」であると、心の底から信じたいと思います。
「信仰」の意味
ルカによる福音書17:5~10
2022年10月2日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
「わたしたちの信仰を増してください」これは、使徒たちだけではなく、教会の中で良く使われるフレーズでしょう。また「自分は信仰が足りない」などと言ったりしますが、よく考えると信仰は、果たして、減るものなのか、「量」で測れるものなのか、そもそも「信仰」の意味をわたしたちはどのように捉えているのでしょうか。
少し話が飛びますが、教皇グレゴリウス1世(AD 540〜604)という人が『牧会規定』いう本を著しました。これは、聖職者を目指す人に向けて書かれたものですが、指南書のようなこの内容、実はグレゴリウス自身が、聖職按手の前日に怖くなって逃亡したことに対する弁解の書なのだそうです。つまり、聖職者は人間には到底到達し得ないような、とんでもない事を要求される(ということを知り、怖くなり逃げた)と。
興味深いのは、この文書は綺麗事のような人生を薦めているのではなく、誰しもが持つ弱さへの向き合い方、また、神に対して真に信頼するとはどのようなことなのか、が克明に描かれている点です。様々な準備をする上で、勉学や実際の経験に加え、「自己実現をしたいという欲求」や「人から認められたいと望む心」の落とし穴があることに、鋭い意識を持つよう薦めます。人々の魂の渇きに耳を傾けるのは、最も大切な務めの一つですが、もし人に聴くだけで、神に聴くことを失する人は、その落とし穴に落ちるというものです。つまり、どうやって人にもっと良く思われようか、もっと人から感謝されるにはどうしたらいいかが、人生の中心となってしまうからです。
「からし種一粒の信仰があれば十分だ」とイエスさまはおっしゃいます。わたしたち全員が聖職者ではなくても、自分の中にある欲望や怖れ、弱さやゆらぎを否定せず、同時に自分の課題を神様に相談しつつ生きることが「信仰」なのではないかと思います。そしてそれは、神さまが決して見捨てないことを確信しながら、自分で考えること、苦しむこと、向き合うこと、なのではないでしょうか。
「神の助け」を邪魔しない
ルカによる福音書16:19~31
2022年9月25日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書の内容はイエスさまの「たとえ話」なので、そこに登場するラザロは、実在の人物だったかどうか、定かではありません。それにしても、ラザロ(ギリシア語)という名前は、ヘブル語だとエレアザル(「神は助けです」の意味)になるというのは驚きです。身寄りもなく、他人の家の門の脇に身を横たえ、雨風にさらされながら、残飯が投げ捨てられるのをただ待っている人生。しかも悠々と過ごしているのではなく、痛みや痒みのある皮膚病で全身が覆われ、それが治る/治すという見込みもない。犬が寄ってきて体を舐めても、それを払い除ける体力も気力もない。「何故、自分は生きているのだろう」と思わなかった日はなかったかもしれません。このような状態にある人を、「神は助けです」として登場させています。
一方「金持ち」は、自宅の門前にラザロがいたことを知っています。名前まで記憶していますが、亡くなってもまだラザロを上から見下ろし使い走りをさせようとします。自分の苦痛を取り除くためにラザロを寄越して欲しいと言い、それが駄目ならせめて身内の役に立つようラザロを使って欲しいと言い、断られても更に食い下がり、それまでは一瞥もしなかったラザロを、自分は利用できると思い込んでいます。
ラザロのような人生が「神は助けです」なのは、お腹を空かせたまま人々から惜しまれることもなく人生を終えても、天上では美味しい食事でもてなされ、アブラハムの歓迎を受けたからではないでしょう。一方アブラハムは「金持ち」に対して「子よ」と呼びかけるものの、この世的な視点で一目置かれた地位や名誉は、神の目には何の力もないことを示します。
わたしたちの住む東京にもそしておそらく教会の門前にも、ラザロは座っているのでしょう。わたしたちがその人々を直接「助け」ることには、たとえ失敗しても、神の「助け」を妨害しないことはできるのではないでしょうか。それは、神が最も大切にしている家族の一人として、この人々をわたしたちが認識し得るかどうかにかかっていると思うのです。
預かった「財産」
ルカによる福音書16:1~13
2022年9月19日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
「不正にまみれた富で友だちを作りない」とは一体、どういうことなのでしょうか。昨今、収賄容疑のある政治家の話も、紙面を賑わせていますが、こういった行為を指すのでしょうか。「友だちを作」ることも、都合よく立ち回る人や利益を与える人を、権力を使って身の回りに配置する彼らの姿が目に浮かんでしまいますが、そんなことを勧めているのでしょうか。
興味深いのは、イエスさまはこの話を、金に執着する「ファリサイ派の議員」の家で、弟子たちに対して語っている、という設定です。招いてくれた人々の家で、その行状を非難するのはどうなのか、ということも気になりますが、つまりは「富を溜め込み執着するような生き方はあぶない」と、言っておられるようなのです。
「富」はお金だけではなく、土地や畑の作物、家畜や商売の収益を含みます。それらが増し加わることで生活の安定を得て、心の安定も得る。しかし少しでも減る兆候があると穏やかではありません。食べていくだけの蓄えがあるのに、さらに資産を溜め込まずにはいられない人々。この人々を斜めに見ながらイエスさまは、「友だち」(助けを必要としている人々)のために役立てるためにこそ、「不正な」(溜め込まれた)財産がある、と言われているのではないでしょうか。
わたしたちにとって「溜め込まれた財産」とは何かと考えたとき、ひとつの答えは「信仰生活」です。自分の心の平安のために、また親から財産を譲り受けるように、キリスト教と出会った方もおられるでしょう。でも、そのことを「自分の心の平安」のためだけに用いたなら、それはイエスさまが警告を発しているファリサイ派の議員たちと同じになってしまうのでしょう。受け継いだ財産そのものに良い悪いはありません。問題は、わたしたちがお預かりしているものを、どう用いるかではないでしょうか。
「99匹の側」の羊
ルカによる福音書15:1~10
2022年9月11日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
ひとり迷子になり、見つかるまで捜索される1匹の羊の話。子ども時代の私のリアクションは「うらやましい」でした。いなくなったことに気づいてもらえ、自分の99倍の人数(羊数)を長いこと待たせた挙句、発見されたら叱られるのではなく、「喜んで」もらえる。一体そんな世界がどこにあるのだろうか、と思っていた次第です。
しばしば人生に「迷ってしまう」厄介なわたしたちなのに、神さまは諦めず、心を込めて探し出し、真っ当な道に連れ戻してくださる。そういうことなのでしょうが、1匹の捜索中に置き去りにされる99匹の安全についてはどうなのだろうか。羊飼い不在のまま野獣に襲われ天候が急変して犠牲が出ても、そちらの羊は「仕方がない」と諦められてしまうのだろうか。何か腑に落ちない気持ちになります。
このモヤモヤを解決するには、自分自身を「1匹」側だけに投影するのではなく、「99匹」側として読む必要があるのではないかと思うのです。つまり、迷子になった羊に対し「迷惑だ」と思っているだけで良いのだろうか、「1匹くらい諦めたらいいのに」と考える態度に、何か深い落とし穴があるのではないだろうかと。
例えば礼拝で、何十年も唱えているお祈りは、もう暗唱してしまって見なくても知っている、ということがあると思います。それはそれでとても豊かなことですが、そこに「初めて」の方がおられる場合、「暗唱ペース」でどんどん先に行ってしまうのは、神さまは決してお喜びにはならない行動だと思うのです。そんな初心者に対する配慮くらいとっくにしてくださっていると信じたいのですが、礼拝も、聖書の学びも、そして日常生活も「ひょっとしたら自分は99匹の立場かも」と心に留めることで、新たな視点が与えられるのではないでしょうか。たった一人でも、「1匹の羊」がそこにいたなら、いやむしろ「1匹の羊はいる」という前提で、心の目を開き続けていたいと思う次第です。
ただしく選ぶ
ルカによる福音書14:25~33
2022年9月4日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「(家族や)自分の命を憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」もし、イエスさまが本当にそうおっしゃったとしても、とても理解に苦しむご発言です。言葉通りとると、親子や兄弟姉妹に敵対し、自分の命まで蔑ろにすることを迫られているようで、ふだんおっしゃっていることと、随分違うなと感じます。
そこで、原文ではどういうことになっているのか、該当箇所を調べてみました。するとその言葉には「憎む」という意味もありますが、同時に「あるものを他より選ばないで退ける」という意味もあるとのことでした。聖書を訳された方々は、様々な文脈も鑑みて「憎む」を選ばれたのだと思いますので、その解釈も尊重する必要があると思いますが、同時に、選択の余地がある状況の中、どちらかを選ぶようなことになったとき、それまでのしがらみや執着を、一旦手離すということなのかもしれないと思いました。カトリック教会の本田哲郎神父の訳でも、「自分自身さえもあとまわしにする腹がなければ、わたしの弟子でいることはできないのだ」という表現になっています。「愛するな」とは言われていませんが、神さまを後回しにして、これまでの長い付き合いや習慣、変えることのできない人間関係や圧力や期待に従属してしまうのは、その人を愛することではないのかもしれません。
今日の特祷では、「肉と悪魔との誘惑に打ち勝つ恵みを与え、〜神に従うことができますように」と祈ります。目に見えない神さまに対して忠実に生きるよりは、あるいは正しい選択をするよりは、毎日目の前にいる家族や友人、知り合いとまず平穏無事に過ごしたいと、思いたい時もあるでしょう。でも、後回しにしようと決断するのは、神さまのことなのか、あるいは自分のことなのか、はたまた他の人の期待なのか、正しく選べるよう祈りたいと思います。
「宗教」の役割
ルカによる福音書14:1,7~14
2022年9月2日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
昨今、さまざまな「宗教」が話題となっています。ことに「カルト」と「宗教」の区別がわかりにくい人々にとっては、自然科学の考え方と相容れない「宗教」の存在そのものが、嫌悪の対象となりうる場合もあるでしょう。いろいろな考え方があると思いますが、ざっくり整理すると、「カルト」は①思考停止を求める ②団体の提示する教えを鵜呑みにすることが「信仰」 ③個人の決断や決定は尊重されない ④優越意識や利益を強調、といった特徴があると思います。一方、真っ当な宗教に共通することは、①自己理解、他者理解を深め続ける ②疑問や異論も歓迎される ③自分の人生は自分が決める ④損得感情に振り回されない、などが挙げられるかもしれません。人がまっとうに生きようとする志を支えるのが、本来の宗教の役割であるはずです。
その中でもキリスト教は、しばしば「負け犬の宗教」と称されることがあります。(キリスト教を信じると)「人より優れます」「こんないいことがあります」などとは語られず、人生の中でも「負けている」と感じるような辛いとき、惨めなときこそ一緒にいてくださる、と強調するからでしょう。でもそれは、「惨めなわたし」に留まろうという意味ではなく、弱さ醜さも持つわたしたちを最後まで見捨てないことを約束される神、その存在を伝えるからかもしれません。
旧約聖書の中のイザヤ書の53章には、とても不思議な「しもべ」の姿が描かれます。「軽蔑され」「見捨てられ」「懲らしめられ」「他の人が犯した罪を全て背負う」、そしてこれらの苦難の結果、人々が人生を取り戻すのを見て満足すると。あまりにも人が良すぎる話だと思ってしまいますが、イエス・キリストは、ここに真の神の姿を見たようで、この「しもべ」として生き、生涯を捧げるのが自分の使命だと理解されたようです。そして、そのようになりました。同胞や一族の者から誤解され軽蔑され、一緒に活動していた弟子たちからも理解されず、死刑の判決が下ると人々は彼を見捨てて逃げ、最後は窒息死をする。それがキリスト教の神です。
今週の福音書の「宴会に招かれたなら、(なるべく)末席に座りなさい」ということの意味は、謙遜ぶって人に上席を譲っていれば、やがて周りが持ち上げてくれる、というノウハウ話ではないでしょう。辛さや悲しみから立ち上がれず「末席」から動けないでいる人々に対し「そんなところにいないでこっちへ来い!」と、上から目線で「上席」から叫ぶのではなく、最も底辺に降りてその苦しみを分かち合ったイエスのように、どん底の苦しみを味わっている人々のところへ、こちらから出向き現実を分かち合う。それがイエス・キリストのなさったことであり、わたしたちにも求められていることであると思うのです。「あなたが大切だ」ということを伝えるために何でもする神は、「負け犬」と称されることも厭わず、誤解されること軽視されることも恐れません。わたしたちの日常生活の葛藤や苦しみ、生きる難しさなどをよく知り、そして2千年前ではありますが、実際にこの世で生きた神。その方は、わたしたちに「負」の部分を切り捨てて無かったことを勧めるのではなく、そこから立ち上がり前へと進む力になってくださる神です。
「狭い門」は待っている
ルカによる福音書13:22~30
2022年8月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
一般的にもよく使われる「狭き門」というこの聖書の言葉は、現在の日本では、倍率の高い学校などを目指し、「人一倍努力する」ことが必要な状況の中で用いられることが多いかもしれません。門に入れなかった“その他大勢”にならぬよう、他の人に追いつき追い越す努力を怠らず、選ばれし者として「狭い門」を突破するといったイメージです。しかしそうなるためには、他の人と比較して抜きん出る必要があります。あるいは、他の人と自分を比較して、とても無理なので諦める、といった判断をすることもあるでしょう。
しかし聖書の中の「狭き門」は、「他の人と比べる」という概念はありません。なぜならばその「門」は、神さまが「わたし」だけのためにつくってくださった特別な門なので、他者と競い合って獲得するということではなく、じっと静かに「わたし」が発見するのを待っている。だから、本人以外は「狭くて」通ることが出来ない門なのではないかと思うのです。
マタイの同じ箇所だともっとわかりやすいですが、多くの人は、誰でも入れて行き来しやすそうな広々とした門に殺到します。みんなが行くからきっと良い門なのだ、と思うのでしょう。しかし、広々とした門を選ぶ人々の本音は、自らの責任でその門を入って行く決断をしたということではなく、別に考えなくても「みんなが行くのだから、たぶんいい門だ」と思っているフシがあります。小事に対してはそれでも良いのかもしれませんが、小さなことを人任せにする習慣がつくと、やがて重要な決断をしなければならない時も、つい周りを見回して「みんなはどうしているか」が気になり、気がつくと「広い門」の方へ流されている、ということにもなるのでしょう。
神さまが創った「あなた」のための門と出会うのは、容易ではないかもしれません。「他の人は入れなかった」と聞くと、さらに不安にもなるでしょう。でも、わたしたちがこの世に命を受けている以上、必ず「わたしの門」が存在し、見つけられるのを待っている。それは「わたし」というかけがえのない存在を認知する人生の入り口でもあるでしょう。「わたしの門」を見つけ、そして自ら通って入る決断をすることができた時、人はもっとも幸福になれるにちがいないのです。
時を見分ける
ルカによる福音書12:49~56
2022年8月14日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「どうして今の時を見分けることを知らないのか」と、イエスさまから言われてしまうと、もっと多くの情報を入手し人の意見も聞いて、冷静に判断できるよう頑張らねば、などと思ってしまいそうです。現代社会の中でどんなニードがあるのか、時を見分けた上で何が正しい行動なのか、専門家でも意見が分かれるところですから、さてどうしたものかと途方に暮れます。でもイエスさまは、さらに情報を得て「見分け」るようになれと勧めているわけではなく、わたしたちは大切なことはすでに知っているのに、その事実から顔を背け、本当のことは知らなくていい、現状は変えたくない、と叫んでいる自分の心と向き合うよう、促されている気がするのです。
私もそうですが、変化は苦手です。言い訳をするとか、まあ後でいいやと思うなど、自分のやり方を変えないで済むために、いろいろな手法を用います。人にもよりますが、一番不得手な「変化」の一つは、人と対立しなければならない状況に追い込まれることかもしれません。今まで穏便に関係を保ってきたのに、家族や友人との関係が崩れてしまうのは避けたい。特に、対立したら困ることになるとわかっている職場では、あえてリスクをおかすよりは「とりあえず穏便」な方法を選択する。それは、身を守る必要のある日常生活の中では、正しいことでもあるでしょう。
少し前の節ではイエスさまが突如、「受けなければならない洗礼」(原文では「私が洗礼を受けなければならないその洗礼」)に言及していますが、これは水に浸る一般的な「洗礼」のことではなく、「十字架にかかって死ぬ」ことを示していると言われています。それは、心身に悶絶する苦しみを受け、仲間から見捨てられ、誰にも理解されない、というイエスさまに与えられた独自の「洗礼」です。「とりあえず穏便」とはほど遠く、出来れば避けて通りたい道であり、その結果は闇の中。ひたすら神さまに信頼するしかない道です。
わたしたちの日常生活でも、現実を直視してしまうと、もう元には戻れないような不安が存在することでしょう。現実と向き合うのは苦しいですが、それを回避するため、「敵対されない」「世間から後ろ指をさされない」ことだけを絶対的価値として、様々な決定をしてしまうと、イエスさまの十字架から遠く離れた人生となってしまうのではないでしょうか。
それではどうすれば良いのか。
イエスさまがこの物語を通じて伝えようとされていることは、こういうことかもしれないと思います。
「不安から逃れるために耳を塞ぎ、本当は知っていることを“わからない”と、自分を言いくるめるのはやめなさい。不安と直面することを避け、心を閉じて、“決められない”と言うのもやめなさい。あなたが不安の真っ只中に投げ込まれ、誰からも忘れられていると感じていても、わたしは一緒に居て最後まであなたと共に歩き通す。なぜならば、それはとても孤独な道だが、わたしと近い道であり、わたしはすでに通ってきた道。そして神さまを信頼しなければ進めない道。だから、さあ勇気を出して、時を見分ける心の目を開こう」と。
「演じる」のではなく
ルカによる福音書12:32~40
2022年8月7日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「わかりやすい結果を出す」これを常に求められる社会に住んでいるわたしたちは、「結果を出さなければ」という声が、身体に染み付いてしまっているかもしれません。それは、実際の行動が正しいかどうかを考える前に、まず人が自分のことをどう見るか、自分の行動がどのように受け止められるか、が最優先となってしまうのでしょう。
たとえば、人が見ているときはゴミのポイ捨てを躊躇する。でもそれは、社会的に「正しい行い」かどうかを判断して、という話ではなく、「ひどい人だと思われたくない」「こんなところに捨ててはいけないと注意されるのは面倒くさい」、そんなことを瞬時に判断しているのかもしれません。
神さまが一緒におられると感じられる時は「正しい行い」を実行するよう頑張るが、もしそれを24時間365日、ずっと求められるのは「堅苦しい」「綺麗事」と感じてしまうならば、本当に神さまの存在を信じているのかどうか、少し心配になります。
この場合の「正しい行い」は、ご自身の根本から変えられて愛に生きる人になろうという思いから出ているのではなく、「神さまの前で正しい人を演じよう」としている可能性があります。きっかけとしては、そんな時もあるかもしれませんが、もし「神さまの前で、正しい人を演じていればいい」ということが固定化すると、それは「わたし自身は変わらなくていい」と考えている可能性があります。でも残念ながらそれは、イエスさまの愛という生き方とは異なります。
「主人が真夜中に帰ってきても」とは、身体に無理をしてでも常に備えよ、と言っているわけではないでしょう。それは、わたしたちが一番眠く疲れているような、人としての品性がまる出しになるような場合でも、わたしたちの最優先事項が愛であるように、根底から変えていただく事。周囲の人の目ではなく、全てを見守っておられる方に信頼すること。それらを伝えているのではないでしょうか。
「自分を幸せにする」には
ルカによる福音書12:13~21
2022年7月31日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
人は誰でも物質的な充足だけでは「幸せ」にはなれないようです。でも、物質以外となると、「心豊か」であるとか、「ゆとり」などの言葉が浮かぶかもしれませんが、一体どうしたら、心や魂を充足させることができるのかは悩むところです。時間が出来たら楽しく没頭できると思っていた趣味も、家の片付けも、時間ができた途端にすっかりやる気が失せたという経験は、どなたにもあるかもしれません。ことに目的が「自分のため」に終始してしまうようなとき、なんであんなに楽しみにしていたのか、わけがわからなくなったりします。
ある社会学者が、被験者に「どのように使っても良い」と言って、1000円相当を渡し、一定時間後に再び集合。そしてドーパミン値を測る、という実験をしたそうです。ある人は前から欲しかった本を買い、ある人は大好きなお菓子を買って家族で分けて食べ、ニコニコ顔で戻ってきました。その人々の値もそれなりに立派だったのですが、お腹を空かせたホームレスの男性に食べ物を買って渡した人、親とはぐれて泣いている子どもに寄り添った人など、「何かを必要している他人のために1000円を使い切った人」のドーパミン値が一番高かったそうです。ドーパミンの分泌=「幸せになる」とは言えないかもしれませんが、神さまは人間をそういうふうに創って下さったのかもしれないと思いました。自分の欲を満たすことより、自分の家族や親しい人々を満足させるより、むしろ見返りを受けることのない「他人」の必要を満たした時、わたしたちは根本的な「幸せ」を感じ、そこに真価を見出すのではないでしょうか。そして、それこそが「神の前に豊かになる」ことなのではないでしょうか。
これは、気前の良い人になろうという薦めではなく、もっと空気を読みなさいというお招きでもなく、「私が幸せになる」ことへの真っ直ぐな回答であると思うのです。もっと幸せを感じたい時は、どんな人が周りに居てどのような必要があるのか、見回してみましょうか。
「祈り」の本質
ルカによる福音書11:1~13
2022年7月24日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「求めよ、さらば与えられん」文語の聖書を読んだことのある方には、こちらの言い回しの方がピッタリくるかもしれませんね。でもここでイエスさまは、「祈り求めれば何でも無条件に叶えてくれる神さま」の話をしているのではなく、「祈る」ことについての本質を伝えておられるのではないかと思うのです。
少し話は逸れますが、相手が赦してくれるという見込みが全くない時、「ごめんなさい」という言葉はなかなか出て来ないものです。また、自分の希望が全く受け入れられそうもない相手に対して、「実はこうしてほしい」とは言いにくいものです。つまり一般的には、言葉化して相手に何かを伝える時は、すでにある程度、自分の希望がかなう見通しがあると確信している、とも言えるでしょう。
しかし、もし「祈る」ことについても、わたしたちが同じように考えると、神さまを矮小化してしまう危険があります。当然ゆるされているという前提で「わたしたちの罪をお赦しください」と主の祈りを唱え、飢えるはずないと思いながら「わたしたちの糧を今日もお与えください」と祈るなら、それは祈りというよりは、安全な生活を確保している、という気休めに近いかもしれません。
神さまはわたしたちが祈る前に、常に最善の道を備えてくださっていますが、わたしたち自身は、神さまの考える「最善」が常に見えているとは限らないでしょう。例えば神さまにあれこれと要求し、結果的に思惑通りに事が進まず「祈りが聞かれなかった」などと呟く時、自分の「最善」を絶対化している危険があると思うのです。わたしたちの願いは、常に正しいとは限りません。正しくないかもしれませんが、門を叩き、求め、探し続けることで、自分を絶対化しない祈りへと招かれるのではないでしょうか。実現される保証を得たら、神が聞くなら祈ろうではなく、「わたし」という存在に、そのまま耳を傾けてくださる神と対話すること、それが祈りではないでしょうか。
マルタとマリア
ルカによる福音書10:38~42
2022年7月17日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
マルタとマリアは姉妹で、イエスさまのお友だちです。この姉妹にはラザロという兄弟もいて、彼らの村に来る時には一行を自宅に招き、おもてなしをしていた様子でした。
マルタはしっかり者で家事を切り盛りし、家族や親戚からも信頼されているお姉さん。この日も、イエスさまとお弟子さんたちが村に立ち寄ったので、彼らを歓迎しようとマルタは張り切りました。旅の疲れをとっていただこう、美味しい食事も準備しようと走り回るマルタ。一方、妹(聖書にはどちらが姉か妹かは書いていませんが)のマリアときたら、お弟子たちに混じってイエスさまの足元に座り込み、食事の手伝いもせずに、平然と話を聞いている。カチンと来たマルタは、「(マリアは)私だけにもてなしをさせていますが、女性の分際で座って話を聞いているなんて恥ずかしい。手伝うよう言ってください」と、イエスさまにも”当時の常識”を押し付けます。
「おお、それは悪かった。マリアは女性としての役割を忘れていたね」という応答を、マルタは期待していたのかもしれませんが、イエスさまの返事は意外でした、「マリアは良い方を選んだ、それを取り上げてはならない」と。マルタのびっくりする顔が浮かぶようです。
当時は、今よりずっと「ジェンダーバイアス(男はこうあるべき、女はこうあるべき)」のキツかった時代ですから、時にはこのようなマリアの行動は命懸けだったかもしれません。でもイエスさまはあっさりとその境界線を越えました。社会の習慣や掟よりも、マリアが自分で選択したことを尊重すると、イエスさまは言われました。
この世に生きている以上、わたしたちも社会の常識や風習に従わざるを得ないことは多いでしょう。時には常識の壁が立ちはだかり、行動や言動を制限されることもあるし、その壁を越えようとすると、越えさせまいとする大きな圧力に、押し潰されそうになることもあるでしょう。イエスさまが「良い」とおっしゃっているのは、食事の支度より勉強の方が優れているということではなく、また、無理をしてでも、学ぶ方を選びなさいと言っているのでもないということです。そうではなく、自分の人生や行動をマリア自身が責任をもって決めている点、そこに「良い方」と言っておられるのではないかと思うのです。つまりマリアは、何かと比較して「良い方」を選んだのではなく、マリアにとって「良い」と信じる道を選んだ。そのことをイエスさまは「良い」と言っておられるのではないでしょうか。
わたしたちにとって何が「良い」道なのか、見えない時も多いです。でも、ひとつひとつ神さまと相談しながら、そして祈りながら、「私の信じる良い方」を選びたいものです。
よきサマリア人
ルカによる福音書10:25~37
2022年7月10日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
聖書には、「よきサマリア人」という言葉はありませんが、絵画や彫刻、絵本で表現されるこの物語には、多くの場合「よいサマリア人」というタイトルがついています。しかしながら「サマリア人は良い人たちだ」という話ではなく、当時の一般的な先入観が厳然とある中で、自分を正当化しようとする律法学者に対し、イエスさまがわざわざサマリア人を持ち出して語った「たとえた物語」と言った方が近いのかもしれません。
元々、イスラエルの民も住んだサマリアの地は、イスラエルの首都が置かれたこともある歴史的な場所でしたが、他国の支配にさらされ、外国からの他民族の植民が行われ、結果的に様々な宗教が入って融合したことにより、イエスさまと同じアラム語を話す人々なのにも関わらず、イスラエルの社会から排除されてきました。
彼らが「聖書」と認めるのは「モーセ五書」のみだったり、過越の祭りは祝うのに別の預言者を求めたりといった、独特な解釈や社会的特質を、ユダヤ人が忌み嫌い、見下す習慣となって行ったようです。そしてそれは、イエスさまがおいでになる700年以上も前から、ユダヤ社会の中に浸透していましたので、それはもう民族に根付いた差別感覚だったとも言えるでしょう。
サマリア人を見下していただけではなく、血を流している人に触れた祭司は、礼拝の司式をすることができませんでしたし、遺体に触れたレビ人は、神殿での奉仕ができないことになっていました。もしこの人々が神殿のお務めに向かう道中であったなら、「命の危機に瀕している人を冷たく見捨てたわけではない。できるなら私だって助けたかったが、お務めができなくなるので」という言い訳ができてしまうわけです。
しかしイエスさまは、彼らが見下しているサマリア人を登場させて、あたりまえの行動をする話をする。それが、「隣人」の定義を求めた律法学者への答えでした。
この物語でイエスさまは、わたしたちが倒れている人を見かけたら「必ず病院に連れて行きなさい」と薦めているわけではなく、食べるに困っている人を見つけたら、2万円(2デナリオン)与えなさいと言っておられるわけでもありません。「隣人とは誰か」と定義を求め、それがわからないと愛することはできない、永遠の命を得ることができないと言い訳をしている、この律法学者のようになってはいけない、と諭されているのではないでしょうか、わたしたちが本当の意味で真の愛と命へと進むために。
身を守る方法
ルカによる福音書10:1~12、16~20
2022年7月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまは、お弟子たちを町や村に派遣するにあたり、「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」と言いながらも、続けて「財布も袋も履き物も持って行くな」と言われます。普通に考えても、オオカミの群れの中に小羊を送り込まなければならない状況ならば、せめて屈強な羊飼いを24時間体制で付けて欲しいものです。そのような群れに、もし自分が放り込まれるならば、履き物どころか、噛みつかれた時のために、ヘルメットや防弾チョッキ、厚手の手袋まで準備したくなるのが、大人の常識というものでしょう。
人を狼にたとえたりしていいのかなという躊躇は残りますが、いずれにせよ、どんな万全な準備をしていても、「保身」を中心に据えた在り方は、最終的には自分の身を守ることができず、本懐を遂げることもできないと、イエスさまが言われていると思うのです。
今日の福音書では、この後「平和」へと話が展開します。つまり、最悪の状況に出向かなければならない時、自分の身が危険に晒される時、必要最低限の準備はしておいて、しかしその後は心の中心に、「主の平和」、つまり神さまへの信頼を据えることこそが、何よりも大切な身を守る方法だとイエスさまはおしゃっているのではないでしょうか。
心の中に「平和」を迎えたお弟子たちは、自分だけが平和になるのではなく、会う人と共に「平和」を分かち合っていきます。しかしその「平和」は一方的に大安売りされるのではないようです。平和を迎える準備のできている人々のところに、「平和」は自然と留まりますが、「平和」を迎える心の準備がまだ無い人々のところには、その人のところに留まることが出来ずに戻ってきてしまう。
「平和」は漠然とそこにあるものではなく、また「平和を!」と叫べば願い求めたことになるのではなく、「神さまに万全の信頼をおこう」と覚悟を決めることなのかもしれません。わたしたちは、そんな気持ちで、互いに「主の平和」と挨拶をいたしましょう。
真にイエスさまの見方は?
ルカによる福音書9:51~62
2022年6月26日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
ひとつの仕事を、チームで成し遂げようとする時、そこにはさまざまな意見や立場、感じ方があって、それを擦り合わせていくのが楽しいと感じる人がいます。その一方で、議論の内容や目的ではなく、「誰と一緒の立場を取るか」を優先する人もいるように思います。時によっては、どちらも功を奏する場合があると思いますが、今日の福音書では、弟子たちが自身の心の在り様は問わずに、ただ自分たちはイエスさまの「味方だ」と思うことで、頓珍漢な言動をする様子が描かれているのではないでしょうか。
十字架の出来事の前に、イエスさまはご自分の身にこれから起きることについて、また良い知らせ(福音)の真髄について一生懸命語りますが、弟子たちはあまり理解していなかったようです。意味があまりよくわからなくても、イエスさまについて行こうと考える弟子たちは、それはそれで立派ですが、イエスさまを理解しようとするより、自分たちは「イエスさまの側の人間」なのでそこに加わらない人々は排除してもかまわない、というふうにも聞こえます。
登場する「サマリア人」というのは、遠い先祖は同じ民族でしたが、異教の地に住み土着の神を信じるようになった人々ですので、ユダヤ人は、付き合いを絶ち、一方、サマリア人も、自分たちが見下されていることを知っていますので、互いを避けていた関係でした。そんな壁を乗り越えて、せっかくサマリア人の村に寄ってやったのに、イエスさま一行を「歓迎しなかった」。そんな輩はやっつけてしまいましょう、と弟子たちは憤ります。
また、弟子かどうかは書いてありませんが、「どこへでも従います」とわざわざ言いに来る人も、イエスさまの言われることを真に理解しようとするよりは、「イエスさまに従う」という雰囲気に酔っているようにも思えます。
わたしたちも例外ではないでしょう。教会に来て礼拝をする、イエスさまのことを知っている、神さまの前に正しい生活をしていると、もし思い込んでいたら、もしそんなわたしたちが「イエスさまの側の人間」であり、そうでない人々に対して一線を引く、というような気持ちがあったとしたら、それは果たして本当の意味で「イエスさまの味方」なのでしょうか。
慢心
ルカによる福音書9:18~24
2022年6月19日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
わたしたちの日常にも山と谷があるように、イエスさまとお弟子さんたちの短い3年間の活動期間にも、きっと山と谷があったに違いないと思うのです。社会から置いてきぼりをくったと感じている人々に、どんなに真摯に寄り添っても神さまの愛が伝わらず、良い知らせを語っても凍りついた人々の心には届かず、人々の魂の渇きが見当違いな方向に暴走する、そんな体験をした村や町もあったことでしょう。
一方、無条件にみ言葉が歓迎され、乾いた地面に水が沁み込むように、人々の生き方がどんどん変化するような出会いもあったことでしょう。そうすると、頭では「イエスさまが目指すのは、権力や名声ではない」とわかっていても、心のどこかで、イエスさまの存在が万人に理解され、やがて一緒に行動する自分たちもまた、社会の構造や体制をひっくり返すような大改革にたずさわった者として、歴史に名を残すことになるかもしれない、そんな考えが心に浮かぶ「絶頂期」も、あったのかもしれないと思います。
そんな時に、イエスさまは弟子たちに言います。自分が来たのは、社会の転覆でも、支配者として君臨することでも、人々の絶賛を受けるためでもない。誤解され、捨てられ、十字架にかかって惨めな死を遂げる、神さまの計画を成し遂げるためであると。大成功を納めて神さまの力を知らしめるためではなく最も弱い人、顧みられることのない人々、言い方を変えればわたしたちの中の目を背けたくなるような醜ささえ愛おしいとされ、それを共に抱きしめ、全てを受け入れてくださる神さまの存在を伝えるミッションであることを、いろいろなことがうまく行き過ぎて、慢心に陥る弟子たちを諭します。
わたしたちにも同じことをおっしゃっているのかもしれません。教会にたくさん人が集まり、縁の下の努力が日の目を見るとき、さらに「教会の力を増す」ことが、あたかもたくさんの人々に受け入れられることと同義語になってしまってはいけないと思うのです。わたしたちは、自分の限界を切り捨てず、弱点だらけの自分も否定せず、しかし神さまの愛を心の真ん中に置いて、粛々とそれを伝え続ける人生を送りたいと思います。
三位一体!?
ヨハネによる福音書16:5~15
2022年6月12日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
先週は「聖霊降臨日」でしたが、今週は「三位一体の神」を覚え記念する日曜日。「聖霊なる神」も理解が難しいですが、「三位一体の神」は、さらにハードルが高いかもしれません。しかもイエスさまは、「三位一体」という言葉を用いませんでしたので、何を根拠に?ということにもなりかねない。しかし、「それゆえあなたがたは行って、〜父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」(マタイ28:19)と聖書に書いてあることもあり、何とかして教会は「父、子、聖霊」の3者の関係を説明しようとしてきました。悩ましいのは、「神が3人いる」ことが三位一体ではないし、「一人の神が何役かを演じ分けている」ということもおかしい。また、「最初から存在した」のは、父なる神だけだったのか、それとも父と子だったのか、という議論なども行われました。朝夕の礼拝で用いられる「使徒信経」は、かなり初期に成立していると言われていますが、ここでは既に、父と子と聖霊は並列されて登場します。後に(紀元後325年)、ニケヤという場所で行われた会議において、「父と子は最初から存在したが、聖霊なる神は、父と子から出て来た」そして、「父、子、聖霊なる神は同等にして一体」という教義に至り、それが、わたしたちが今、毎週日曜日に唱える「ニケヤ信経」に反映されるかたちとなりました。
結論としては、神さまは一人であることに変わりはないのですが、やっぱりよくわからない話です。人間の場合、別の人格であれば、意見も異なり、行動も言動も違ってきますので、何か一緒にやろうとしても、意見が一致するとは限らず、時には一人が他方を制し、渋々ではあっても全体の善のために皆が従うことはあるでしょう。でも神さまの場合は、三位一体のうちの「一体」が他の2体を制する、ということではなく、「一人の方だ」という理解に立たないと、整合性が取れなくなる、ということなのだと思います。たとえ「三位一体」が今は毎日の生活に必要を感じないことであったとしても、何かあった時に役に立つ説明かもしれません。そんな意味も込めて、わたしたちの教会では、「三位一体の神さま」は、わたしたちのためにそのようなかたちをとってくださったと信じている次第です。
聖霊なる神
ヨハネによる福音書20:19~23
2022年6月5日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の聖書箇所は、「罪をゆるす」とか「ゆるさない」という話が出てきますが、そもそも「罪」という言葉は、「悪い行動」という意味の他に、「的はずれ」を指すことも、お聞きになったことがあると思います。つまり、いわゆる「的はずれ」な行動も罪の一種であり、「的がはずれていた」自分の行動に気がついてそれを認め、正しい道に戻ろうと神さまの力を願い求めることが「悔い改め」である、とも言えるでしょう。
罪の中でも大きな「的はずれ」は、聖霊の働きを疑うということではないかと思うのです。困難が道を塞いだとき、神さまに信頼できず、自分の力で全てをなんとかしようとする。この場合、思惑通りに事が運べば有頂天になりますが、うまくいかなければ不必要に
自分を責め続ける、あるいは人のせいにする。こんなときわたしたちは、神さまに「生かされている」のではなく、「私は自分の努力によって生きている」と思い込むような「的はずれ」な生き方をしてしまっているのかもしれません。
聖霊降臨日は、聖霊なる神が共にいてくださることを覚え記念する日です。今日から急に聖霊が降って来るわけではなく、2千年前のイエスさまのお約束から、ずっとわたしたちと共に居て、支え続けてくださる聖霊なる神さまの働きを思い起こす日です。
しかしながら、正直なところ「わかりにくい」と感じることも本当でしょう。「父なる神」はこの世を創造した神、「子なる神」は赤ちゃんの身体をもってこの世に生まれ、人々の間で生きて愛を伝えた神。しかし「聖霊なる神」はピンと来ないと。父なる神と子なる神だけで十分なのではないか、聖霊なる神は必要ないのではないかと感じておられる方もいるかもしれません。ひょっとしたら、本当に少しわかりにくい神さまなのかもしれません。ストンとお腹に落ちるまでは、少しモヤモヤするかもしれませんが、神さまのご計画の中で、「いつも、わたしたちと一緒に居る目的で送られた神」という役割をもった方であることを心に留め、神さまのご計画に信頼してストンと来るのを待ちたいと思います。
愛とともにある生活
ヨハネによる福音書17:20~26
2022年5月29日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
先週登場したリストラの町より、さらに西に進んだフィリピでの出来事が、今日読まれる「使徒言行録」の物語です。
「占いの霊」に憑依させられ、金儲けの道具として利用されていた女奴隷がいました。なぜかその女性が、パウロたちにうるさく話しかけてきたので、彼らはその女性を霊から解放してやります。すると占いによる金儲けができなくなった奴隷の主人は、怒って町の群衆を扇動し、パウロたちを逮捕して暴力をふるい牢屋に投げ込みます。パウロたちが被った災難も痛ましいですが、雇い主の言いなりに生きてきた女奴隷の凄惨な人生、金儲けという大義名分で何でも通用させてきた主人の人生に心が痛くなります。
しかし物語はまだ続きます。牢獄では他にすることがなかったからかもしれませんが、パウロたちが聖歌を歌ったりお祈りを唱えたりして夜を過ごしていると、突然大きな地震がおき、牢屋の鎖や土台が壊れてしまいます。囚人たちが逃げ出したと思った牢屋の夜勤番が、責任をとって死ぬしかないと思い詰めたとき、パウロが声をかけます。すると、そんなこんなで傷を手当てされ、牢屋番の家に行ってもてなされ、家族中が福音を知って洗礼を受け、神を信じる者となったという話で締めくくられます。
女奴隷もそうですが、この夜勤番も決して恵まれた地位にあった人ではないでしょう。複数の担当ではなく、たったひとりで夜勤をさせられるような立場の弱い人です。想定外の事件がおきても上司の代わりに責任を取らされ、おまえの代わりなんぞいくらでもいる、というふうに扱われて来た人だったかもしれません。
彼らのその後の人生については書かれていませんが、この物語が示しているのは、パウロを通じたイエスさまとの出会いにより、人としての尊厳を回復し、一人の人間として自分の人生を歩き出した人々の話ではないかと思うのです。おそらく、こんな苦しい人生をずっと歩むしかない自分は、なんと呪われているのだろう、とずっと思って来た女奴隷や牢獄番が、実は自分もまた、神さまの愛と慈しみから漏れている人間ではないのだと知り、180度生き方が変わる。それはこの人々だけではなく、日々の生活の中でイエスさまを通じて示された「愛」という生き方を求めているわたしたちも、自分を蔑ろにしてしまうとき、蔑ろどころか大切に思ってくださる存在をまず思い起こすようにと、呼びかけられているのではないでしょうか。
おそなえはいらない
ヨハネによる福音書14:23~29
2022年5月22日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日は、使徒書(使徒言行録)の話に触れたいと思います。リストラは、イエスさまが活動されたガリラヤやエルサレムからは遠く離れた内陸の町(現在はトルコ領)です。一緒にいる時はほとんどイエスさまの言うことが理解できなかった弟子たちですが、復活、昇天、聖霊降臨の出来事を通じて、神さまによる平和、真の愛の力がわかると、遠い国々まで福音を広め始めました。
さてこのリストラに、「生まれてから一度も歩いたことのない男」がいました。「生まれてから一度も歩いたことのない」人生とはどういうものなのか。私には乏しい想像しかできませんが、少なくとも当時の社会では、先天性にせよ後天的にせよ身体や精神に不調をきたすのは、何か悪いことをした結果だと信じられていました。つまりこの人は「歩けない」という具体的な不便さに加え、社会的には「恥ずべき人」「神様に見捨てられた男」というレッテルも貼られていたのだと思います。
しかし、イエスさまの事をどこかで伝え聞いていたのでしょう、彼はパウロたちが話を始めると、じっと座って聞きます。そして「癒やされるのにふさわしい信仰」があると認めたパウロが、この人に声をかけると、彼は躍り上がって歩き出します。物理的に立ち上がって歩き出したのかもしれませんが、この人が人間としての尊厳を取り戻し、社会がどう決めつけようとも真っ直ぐ顔を挙げて、神さまが愛してくださっていることを心の底から信じ、神さまに信頼する人生へと踏み出した、そんなふうにも思います。
ところがそれを見ていたリストラの町の人々は、パウロたちを「神だから」この男の人を治癒したと考えます。つまり、自分たちは心を入れ換える必要も、何かを変える必要もない、それよりも偉大な神が自分たちの味方となってくれれば、魔法のようにあらゆる必要を満たしてくれる、という構図です。これに対して弟子たちは、躍起となってやめさせ、雄牛や花輪のおそなえを捧げて、自分たちの都合のいいように神を操作しようとする町の人々の勘違いを指摘します。
わたしたちの知っている神さまは、おそなえもので行動が変わる神さまではないでしょう。そんなことより、何よりも一番、わたしたちが喜びで満たされることだけを望んでおられる神さまです。
キリスト教の「おきて」
ヨハネによる福音書13:31~35
2022年5月15日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
旧約聖書の時代、人々は「律法」と呼ばれる掟を、大切に守ってきました。それは、人々を縛る暗黙の了解といったものではなく、生きていく上で役に立つ人生の道しるべとして、神さまが人類に与えて下さった約束のはずでした。また、その掟を忠実に守ることは、神さまに正しく従うことであり、喜びに包まれた幸福な生涯を送るために不可欠、と受け取られていました。勧める内容や避けるべき事柄が明記されているだけではなく、崇高な助け合いの精神や、神と人への誠実さも盛り込まれていました。
ところが時代が流れ、人々の世代交代が進むと、掟の真髄や精神ではなく、かたちに固執する人々が実権を握るようになっていきます。掟としての総論だけでは伝統は守れないと、不必要なまでに掟の詳細を決めていくことが行われた結果、人々は「掟を守れない人」と後ろ指をさされまいと汲々とし、「マニュアル通りに生活できること」ばかりが先走りするようになります。
そんな時代の中にイエスさまが現れ、すべての掟に優先されるのは、「互いに愛し合う」ことだと教えます。この「愛(アガペ)」は、完全に利他的な生き方です。人によく思われ感謝されるために、親切を尽くすことがありますが、これは「愛」ではないので、親切をした相手に認知されないとガッカリしてしまいます。
一方、たとえ相手に認知されなくても平気!と思っても、相手が必要としていることではなく、「人に尽くしている自分が好き」という状況に酔っている場合も、きっと愛ではないでしょう。また、自己充足というか、自分が安心できる状況を守るために、現状維持に固執するのも愛ではないでしょう。
イエスさまが教えてくださった愛は、無条件で見返りを求めないもの、人を「お大切」にするものです。どうしたら自分をお大切にすることができるのか、どうしたら他者をお大切にすることができるのか、それはおそらく相反するものではなく、ひたすらイエスさまの愛に倣うことなのでしょう。
共感する羊にならう
ヨハネによる福音書10:22~30
2022年5月8日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
教会では、イエスさまを羊飼いに、そしてその生き方に共感するわたしたちを羊にたとえる習慣があります(そういう宗教画も多いですね)。それは、聖書の中で「わたしは良い羊飼い」とご自身で言っておられることもありますが、人々にとっての特別感はなく、身近でわかりやすい喩えを考えたらそうなった、ということかもしれません。都市に住むと、羊や山羊と対面するには動物園に行かなくてはなりませんが、わたしたちが当たり前に電車や地下鉄を利用するように、当時は羊や山羊が生活の一部だった、ということなのでしょう。
数年前に、山梨県の長坂聖マリア教会を訪ねたことがあります。門を入った途端、教会で飼っている大きな山羊が3頭、脱兎の如くこちらに向かって走って来ました。それは歓迎しているのではなく、侵入者をチェックするような威圧的な態度でこちらを睨み、「何か用か?」と迫る山羊の目力。後に聞くところによると、山羊はテリトリーの守備意識がとても強く、飼われているという自覚もないとのこと。一方羊は、心身共に脆弱で、知らない個体がいるかどうか、これから何処へ移動するのかなど、あまり心配したことがなく、ただただ身を守るため、そして自身のメンタルを安定させるために、常に群れの一部として過ごすことが大切とのこと。山羊も羊も個性はあるのでしょうが、(山羊と比較した)羊の特徴を聞けば聞くほど、人間の話をしているような気持ちになってきます。
しかしながら、動物の羊とわたしたちの異なる点は、イエスさまの声を「聞き分ける」ことではないかと思うのです。それは、音声を認識するということではなく、また、言われたことを鵜呑みにするということでもなく、イエスさまの語る内容に納得し共感し、その生き方に心が揺さぶられ、そのように生きたいと自分で決断し従っていくことが、「聞き分ける」内容ではないでしょうか。イエスさまからの声、それは時にはわたしたちの理解を超え、全体像が見えなかったり、落とし処がわからなかったりもします。でも、わたしたちがそれをイエスさまからの声だと確信するときは、大きな計画の中で信頼して前に進も追うという決断ができる羊になりたいと思います。
こころの目が開かれるように
ヨハネによる福音書21:1~14
2022年5月5日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
先週は「疑い深いトマス」のために再び現れたイエスさまの話でしたが、今日の福音書では、さらにガリラヤ湖畔においでになった話を読みます。家の中で誰にも会わず震えていた弟子たちも、永遠にそうしているわけにはいかなかったのでしょう。元々漁師だった彼らは、イエスさまを失い、一体どう生きたらよいのか、途方に暮れていました。しかしある時点で思い立ち、エルサレムから故郷のガリラヤへと戻ってきたのでしょう。そして茫然自失状態のまま、とりあえず出来る事、つまり漁をして正気に立ち返ろう、自分を取り戻そうとしていたのかもしれません。
その夜半過ぎも湖の沖合に仲間たちと舟を漕ぎ出し、深夜から網を下ろして漁をしましたが、収穫もないまま時間だけが経過。結局1匹も獲れずに、夜明けが近づいてしまいました。疲労感と惨敗感の中、ぐったりして漕ぎ戻ると、へんな人が岸辺に立っています。しかもプロの漁師に向かって、網を下ろすポイントを指示したりします。何をド素人が!と思ったかもしれませんが、とりあえず網を下ろすと、網が破けてもおかしくないような大漁。その時に「イエスさまが来てくださった!」と、皆が気付くという展開です。
それは、大量の魚の収穫という利益をもたらす神の話ではなく、奇妙な出来事、普通ならあり得ない出来事の中に、イエスさまがおられた物語です。閉じ籠っていた家ですでに2度もイエスさまにお会いしたのに、その身体の傷や釘の跡に触れたのに、それでもピンと来ず、生きる力が湧いて来なかった弟子たち。その彼らのために、ガリラヤ湖畔で朝食を共にし、魚まで食べたりなさったのは、神の愛を理解してもらうため。そのためなら、何でもしようとする神さまのうしろ姿なのではないでしょうか。わたしたちが神さまに信頼しているときも、信頼したつもりになっているときも、あるいは神さまが何処におられるのか見えなくなっているときも、変わりなく呼び続けてくださる神さまの愛を、説明の言葉ではなく、アクションで「共にいる」ことを約束してくださったのではないでしょうか。
信じられない時もある
ヨハネによる福音書20:19~31
2022年4月25日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
大盛り上がりだった礼拝と盛大なお祝いで過ごしたイースター。その次の日曜日は一転して、とても地味な日曜日、といったイメージがあるようです。さらに何故だか、ABC年のいずれの日課でも、この日の福音書は、お弟子さんのひとりであるトマスの物語が読まれます。
十字架の上で亡くなってから三日目によみがえったイエスさまは、お弟子さんたちのところに出現しますが、「イエスさまはいなくなったのではない、私たちと共におられる!」と皆に言い伝えて怯まない女性たちよりも、息を潜めて恐怖の真っ只中に引きこもっているお弟子たちが気になって仕方がなかったのかもしれません。彼らが鍵をかけて籠る家に、イエスさまが入って行ったとき、トマスは不在でした。そしてあとで、イエスさまの訪問を聞いたトマスは、「いや、実際にイエスさまの傷に触れてみるまでは信じない」と断言します。のちに教会では、このトマスを「疑い深いトマス」などと呼び、なんだか恥ずかしい例と決めつけてきましたが、自分以外全員のお弟子さんが「イエスさまは生きてここに来た」と言っている中で、「いや、わたしは信じられない」と言うのは、なかなか大変なことだと思うのです。心の中でこっそり「いや、あり得ないでしょ」と思っていても、口に出さないでいる方が非難されないし。
このようなトマスのために、イエスさまは再び来てくれます。そしてトマスに直接「さあ、この傷に手を伸ばすように」と語ります。それは、神さまの愛をわかってもらうために、イエスさまが繋いでくださった永遠の命が伝わるために、そのためなら、なんでもしようとする神さまの姿です。
わたしたちも、ひょっとして「信じたつもり」になっていないかどうか、時々自分に問いたいと思います。このトマスの率直さに学びつつ、神さまを信じている時も、信じたつもりになっている時も、そして信じられない気持ちでいる時も、変わりなく呼びかけ続け、そして愛で包んでくださる神さまが共におられることを忘れないでいたいと思います。
あなたが信じることは
ルカによる福音24:1~10
2022年4月17日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「復活」。この言葉は、ずっと教会の中で語られてきました。しかし聖書には、お弟子さんたちがイエスさまの復活を通じて、具体的にこのように劇的に変化しました、というような物語は描かれていません。また、イエスさまの十字架上の死だけではなく、なぜ「復活」が人類の救いにとって必要だったのか、納得のいく説明もなかなか難しいし、最終的には「よくわからないが神さまがなさったのだから、それでいいじゃない」と納めようとするわたしたちがいるのかもしれません。
「復活」という出来事を、一つの超自然的なマジックと理解し、「こんなこともできる、だから神さまはすごい」という展開は問題外ですが、その一方で、「復活とはわからないもの」という神学に埋まってしまうと(分からないことも実際あるのですが)問題です。それは、個々人が理解できることではなく、なんとなくみんなが言う方向に従っていけばいい、ということになってしまう。そうすると、ご自分が何を信じて生きているのか、ぼやけてくるのではないでしょうか。
今日の福音書の中で、婦人たちが「そこで、イエスの言葉を思い出した」という一文があります。それは、イエスさまが語られた言葉そのものを思い出した、という話ではなく、イエスさまが生前語られていたことは、つまりこういうことだったのだと理解した、ということではなかったかと思うのです。わたしたちも、誰かとお話しして、その時は意味がさっぱりわからなかったけれど、のちに思いがけない体験をして初めて、「ああ、こういうことなのかもしれない」と、おなかにストンと来て初めて意味を理解した、という体験があるのではないでしょうか。
一言でいえば、イエスさまの「復活」は、わたしたちひとりひとりが「イエスの言葉を思い出し」て、ストンとおなかに落ちる体験であり、それがいわば「神さまと出会っていく」ことなのだと思います。皆さんもまた、イースターの朝、イエスさまが「生きておられる」ことを信じた女性たちのように、神さまの存在を心から受け止め感謝と喜びに満たされますように!
わたしたちのところまで降りてこられる神
ルカによる福音23:1~49
2022年4月10日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
いよいよ、イエスさまの十字架を記念する「聖なる週」を迎えました。今日の第一日課として登場する、イザヤ書第53章を読むと、わたしたちがどんな神を信じているのか、よくわかる気がします。 それは「君臨」とは対極をなす神。圧倒的な力で相手をねじ伏せ、精神的に人間を支配するようなタイプとは全く違う神です。
この社会に生きていると、どうしても「わかりやすい」ことを求められます。「私を納得させろ」という重圧も感じますし、利益をもたらす片鱗をチラつかせて初めて話を聞いてもらえるという現実があります。そういう意味では、イザヤ書の神は、「神々しい」どころか、まるで押しが効かず、誰にも相手にされないような姿を晒します。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」このような神はあまりにも惨め過ぎて、誰も知り合いになりたくないかもしれません。しかも、「わたしたちの病、痛み」を代わりに負ったのに、「神に懲らしめられている他人」と傍観していたのは、他でもないわたしたちであったと続きます。しかし、神は「わたしたち」に怒りや罰則を下すのではなく、「自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」「自らを投げ打ち、死んで、罪人のひとりに数えられた」と。呆れるばかりの人のよさです。
人に誤解されたり、やっていないことで糾弾されたり、あるいは無視されたり、軽蔑されたりするのは、とても辛いことです。あまりに辛いので、白日の元に事実をあばき「私は間違っていない」と声を大にして言いたくなります。そして深い孤独に襲われます。しかし聖書の物語は伝えます、事実を知る神、心の奥底の深い悲しみや痛みを分かち合う神、わたしたちの惨めさ見捨てられる辛さを理解する神を。
おそらくイエスさまはユダヤ教徒の習わしとして、こどもの時から、このイザヤ書を繰り返し暗唱なさったに違いないのです。そして、ご自分がどんな道を歩むことになるのか、咀嚼しつつ成長され、十字架への道を踏みしめていかれたのではないでしょうか。
もったいない
ルカによる福音20:9~193
2022年4月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
電気をつけっぱなしにしていたり、水の使い方が荒かったり、レストランで食べ残しをしている人を目撃すると「もったいない」と、ひっそり心が痛むことがあります。でもその深層には、「心が痛む」だけではなく、モノを無駄にしていることを非難したいという衝動が潜んでいることがあります。必要のない電気を消費し環境問題に逆行、世界の飢餓にも無関心、自分さえ良ければいいという態度は、明らかに間違っているでしょう。しかしながら、他人の間違いはすぐに認識できるのに、自分がしているもったいないことには、なかなか気がつきません。
神さまは私たちに、「愛に生きてほしい」というメッセージを、諦めることなく送ってくださいました。それは、「律法」であったり、「預言者」であったりと、あの手この手を尽くされました。でもとても「もったいない」ことに、人は喉元過ぎればあっという間に生かされている事実を忘れ、神さまの存在すら疑う。挙句の果ては、神さまの愛は何処にあるのか、恵みや慈しみなんて見えないと、言い出す始末です。
今日の物語に登場する「しもべを虐待し、跡取り息子を殺害して財産を奪う農夫」とは、まさに神の恵みを無駄にする人々のことではないかと思うのです。もっともこれらの人は、神さまの思いを台無しにしようと意図的に行動しているわけではなく、彼らの考える「正しいこと」を貫いているつもりかもしれません。しかし、神さまの愛よりも、自己の正当化を優先し、神さまのみ旨を祈り求めるよりは、目先の利益に固執するとき、わたしたちもまた、この農夫たちのように、神さまの愛や恵みをバサバサと抹殺してしまっているのかもしれません。
イースターまであと2週間。物語はずんずん十字架に向かっていきます。イエスさまが十字架にかかってまでわたしたちに伝えたいこと。それは単純だけれどむずかしい「神と人を愛する生き方」なのでしょう。
迷子になりやすい?!
ルカによる福音15:11~32
2022年3月31日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
実は私は方向音痴なところがあって、右折左折を繰り返すと、もうどっちへ向かって歩いているのか見当がつかなくなります。今日の聖書は「迷子になった羊」そして「家の中で迷子になった銀貨」の話に続いて、「放蕩息子」の話となりますので、この話もおそらく、迷子になった話ではないかと思うのです。
ある家族の中、家督を継ぐお兄さんはしっかり者。家族中が信頼を置いています。一方の次男は「自分はどうせ当てにされない」とばかりにやりたい放題を繰り返し、やがて食うにも困り、はっと気がついて家に戻り、父に赦しを乞う。この次男は、自由や解放ということを履き違えた挙句、生きる目的を見失ってしまいます。そして、生まれて初めて「貧困」という壁に打ち当たったことで、自分が人生の「迷子」になっていることに気がついた。「生きる」ことそのものが、実はとても尊いという真実に気がつき、父親に自分の負の行動を隠すことなく詫び、頭を下げて仕事を与えてくれるようお願いする。すると、父は次男の謝罪を受け入れて、彼が生きて帰ったことをすなおに喜ぶ。
しかし、しっかり者のお兄さんは苛立ちを隠せません。父親が「あのひどい」弟の謝罪をへらへらと受け入れたようで、家に迎え入れたことが面白くありません。自分ももっと自由に生きたかったのに我慢した。自分の希望も願いも犠牲にして、家族一族のために尽くしてきた。それなのに、苦労一つしたことのない弟は歓待される。さんざん迷惑をかけられた兄として、素直に喜べない気持ちは、わたしたちも共感するところ大かもしれません。
でも、このお兄さんも「迷子」になっていると思うのです。最初は家族のため、大切な人々のため、身を粉にする働き尽くめの毎日に、愛する家族のためですから何の不満もなかったことでしょう。しかし、生活が安定し、自分の役割や地位が確定してくると、だんだん「何のために生きているのか」見えなくなってきたのだと思います。
兄パターンかあるいは弟パターンか、わたしたちもきっとそれぞれなのでしょう。でもいのちの輝きと、生かされている事実に気がついたとき、常に大きな腕を広げて待ち続けていてくれる神の存在を忘れないでいたいと思います。
バチが当たる?
ルカによる福音13:1~9
2022年3月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
キリスト教には、「わるいことをすると、神さまが罰を与える」という考え方はありませんが、何か嫌なことが次々と起きると、そんなふうに考えてしまいがちなのかもしれません。
病院のチャプレンをしていた時は、「病気になったのは、私の行いがわるいせいですね」という話をしばしば耳にしました。でも直接関係があるような原因ではなく、何となく「バチを与えられている」といったニュアンス。納得できないことは放置せず、原因と結果を究明するのが現代社会のお約束なのかもしれませんが、「わるいわたし」を取り去れば病気を避けられるかというと、そうでもないでしょう。
病気や怪我も辛いですが、これを自然災害に当てはめる人が出てくると、困ったなと思います。地震や山火事でたくさんの犠牲者が出たときに、「神の怒りが降った」とか「罰を受けるべき民族」などと言う人々がいますが、こういう言い方は、いつのまにか「自分は違うがこの人々に問題がある」という意味で言っている危険があります。
地球温暖化も、動植物の絶滅も、ゴミだらけになりつつある宇宙空間も、そしてトリセツが確立していない原発も、すべて人間の欲望を放置した結果であり、その状況に歯止めをかけなければ、さらに弱い立場の人々が犠牲になるでしょう。でも、それが「神のバチ」に起因しているかというと、お門違いだと思います。
わたしたちが信じる神は、懲らしめのために弱い立場にいる人々を苦しめたりなさらないし、また、見せしめのために誰かを利用するのも拒否なさることでしょう。
今日の福音書に登場する「災難に遭った」人々が、どういう経緯だったのかは詳しく書かれていません。しかしこの事件をイエスさまに報告した人々は、「私よりも」罪深かったから「私より」悔い改めが浅かったから、被害に遭ったという含みを感じます。災難に出会う時、このような考え方をする人こそが「滅びる」のだ、というメッセージではないでしょうか。
狭い門から入る
ルカによる福音13:22~35
2022年3月13日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「せまい戸口(←「門」とも訳される同じ言葉)から入るように努めなさい」
偏差値高めの私立、一流大学、有名企業入社などを目指す人はたくさんいるので、そんな「狭い門」に入れるよう自分を磨きなさい、といった意味で使われることが一般的かもしれませんが、聖書のこの言葉は「人に誇れる人生を手に入れる努力」という意味ではなく、「救いを得るにはどうしたらいいか」という流れの中で登場しています。
ある程度生活が安定し何とかやっていける、という階級の人々に対し、イエスさまは少し厳しいところがありますが、安定がいけないと言っておられるわけではなく、保身志向というか、手に入れた物を失わないためには目も耳も塞ぐ、自分を守るためには他人はどうなってもかまわない、といった姿勢に対しての指摘なのだと思います。不安定な生活を余儀なくされる時、あるいは不安定な心を抱えて苦しい時は、きちんと定収入があり穏やかな生活を送っている人々の人生が、夢のように美しく見えることがあります。そして、そんな生活を手に入れれば、自分も幸福になれるような気がして、みんなが求める広い門、つまり大勢の人が入っていくような安定した広い門に自分も向かおうとする。しかし、そんな広い門の中にいざ入ってみると、心の中に葛藤が生まれます。これが本当に、神さまが私に備えて下さった人生なのだろうか、これが果たして幸せなのだろうか、と。
この大斎節の40日間は、イエスさまの十字架刑がジリジリと迫るのを感じつつ、その物語を、ひとつひとつ噛み締める期節でもあります。わたしたちに「救い」、つまり人生の意義を見い出すこと、他の人と比較する必要のない「わたしの存在」そのものが尊いこと、わたしたちを大切に思う神さまの存在を確信すること、愛の力強さを信じること、をもたらすために、わたしたちのために十字架にかかる決断をしていくイエスさまの姿を追います。
「みんなが行くから」という理由で広い門に流されていき、その中に入って保身や諦めを決め込むのではなく、「狭い門」を見つけそこから安心して入りなさい、とイエスさまはすすめます。何故ならば「狭い門」は、あなただけのために神さまがわざわざ作られた門であって、あなた以外は誰も入れないからです。人と比較したり、争ったりする必要が全くない門でもあります。しかし「狭い門」は、人の賞賛を得られないかもしれず、周りから理解されにくく、価値も認められないかもしれません。でも、自分の門を見つけ出し、その門を入ることが叶うなら、わたしたちは最上の幸せを見出すに違いないのです。
三つの誘惑
ルカによる福音4:1~13
2022年3月6日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
皆さまにとって、いちばん大きな誘惑はなんでしょうか。あまり食料事情がよくなかった時代は、お菓子やお肉といった大好物を「もっと食べた〜い」と囁く誘惑と戦うため、大斎節は「チョコ断ち」や「酒断ち」をする人も多かったと聞きます。今やそれらは、お金さえ準備できれば、ネットでもコンビニでも、たやすく手に入る仕組みになってしまいました。そんな世の中での食欲は、「万人にとって誘惑」と札づけされるような対象には、むしろなりにくくなったのかもしれません。
イエスさまが誘惑を受けつつ荒野で40日間過ごす物語は、マタイ、マルコ、ルカの福音書に登場しますが、3年ごとに三つの福音書を交代で読むことになっており、今年の箇所はルカです。そこに登場する悪魔は、最初の誘惑として「神の子なら、石にパンに変わるよう命じてみたら」と囁きます。村や町を尋ねても、飢えているこどもや職を失った人の痛みがまず目に入るイエスさまにとって、それは大きな誘惑だったかもしれません。貧しい人々がパンを得るため苦しい労働に耐えても、それで手に入る食糧品はほんのわずか。もっとなんとかならないのかという葛藤は、涙なしには語れなかったでしょう。
悪魔の二つ目の誘惑は、「世界中の権力と繁栄を与えよう、もし私を拝むなら」でした。権力と繁栄を手に入れたら、人類全体に「神の愛」を知らしめることも簡単だし、人々を苦しめる悪人たちを懲らしめることも容易なはず。暴力と権力を取り違えている皇帝たちを、その座から追い出すこともできたでしょう。しかし、愛のない権力者を力づくで追放しても、いわば「称賛しておけば、やっておいてくれるイエスさま」を、ただ待っている人間を作ってしまう危険もあるでしょう。下手をすると、それを「信仰」だと思い込む人が出てくるかもしれません。
そして最後の誘惑は「あなたの神は信じるのに相応しいかどうか、試してみたら」というものでした。神を試したその瞬間は、「いのちが守られた」といったような結果を知るのかもしれません。しかし1秒後はどうなのでしょうか。もし別の結果が出たら、2秒後にも試さずにはいられなくなります。そんなふうに、永遠に神を試し続け、そしてひとときも心の定まらない人生を、神さまが望んでおられるわけはありません。
戦争が始まりかけているこの時、神さまの光を探し求める努力をしている中で、安易な結論に飛びつきたくなる誘惑に晒される可能性は、誰にでもあることでしょう。でも神さまがおられるから、たとえ簡単に答が見つからなくても、わたしたちは自分の役割を探し求め、種々の不安に耐えられるのかもしれません。誘惑を振り払いつつ前に進む大斎節でありますように!
大斎節が始まる
ルカによる福音書9:28~36
2022年2月27日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
その時、イエスさまのお弟子のペテロさんはとても眠かったようで、何か大事なことがおきているから、しっかり見ておかなくてはと頑張ったけれども、イエスさまたち三人が話している内容が理解できず、眠気と戦いながらその場を耐えていた。それはちょうど、誰かが議会で答弁をしている間、不本意にも舟を漕ぎ鼾をかく様子がネット配信されてしまう議員たちのよう。2千年たった今も「ペテロさん、あなたはあんな大事な場面で居眠りしてましたよね」と繰り返されるのは、少しお気の毒かもしれません。
いろいろな解釈があるとは思いますが、「夢」とは別に、聖書の中の「眠り」は、その人が不在だということを示すひとつの暗号ではないかと思うことがあります。つまり「心ここにあらず」と言ったりするように、外見はそう見えなくても、心がそこに無ければ、その人はそこには居ないと。ペテロさんは積極的に居なくなろうとしたわけではないですが、その時点では「居られなかった」という話ではないかと思うのです。
先週、ハードルの高すぎる「愛すること」のお話をしましたが、この時のペテロさんも「愛すること」の意味をおそらくわかっていなかったのでしょう。そしてまた、これから起ころうとしているイエスさまの十字架が何故必要なのか、まるで失敗者のように惨めな最後を遂げられることも含めて、わけがわからなかったのだと思います。そして、「小屋を三つ建てましょう」などと口走りますが、まだこの世的な成功、つまり皆から称賛を得ることや、理解され歓迎され喜ばれるイエスさまのイメージしか、思い描いていなかったのかもしれません。
それでも、です。神さまはペテロをはじめとしたお弟子さんたちに、イエスさまの生涯を語り伝える役割を託しました。わたしたちは、この後の聖書の物語を読んでいるので、イエスさまが一番辛いその時に、自己保身のために逃げ出し、言い逃れの嘘もついてしまう彼らであることを知っています。でも「だから駄目」なのではなく、底辺の底辺から180度転換して、イエスさまの伝える「愛すること」を伝える使命に、いのちがけで取り組んでいく弟子たちに変えられた。それは、無力で人の役にはとても立てないように感じるわたしたちも、「愛すること」の真意を受け取る可能性が開かれ、人生が変えられていくということなのだと思います。
今年は、3月2日から大斎節が始まります。わたしたちの本当の心の姿、弱さ、情けなさをすべて受け止めた上で、愛することを教えてくださっている神に、一瞬でも顔を向けることが出来ますように!
「愛すること」への招き
ルカによる福音書6:27~38
2022年2月20日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の3つの聖書の箇所はどれをとっても、ひと言、1行がそれぞれ心にずっしり届くメッセージを含んでいるので、100パターンのお話が出来てしまいそう。何をテーマにしても片手落ちな気持ちですが、今日はあえて、やっぱり「イエスさまが仰りたいことは何か」ということに的を定めたいと思います。
イエスさまがおられたユダヤ教の世界では、旧約聖書の「律法」を基準として、してはいけない事、するべき事がはっきり定められていました。つまり、「してはいけない事」を避け、「するべき事」さえ実行していれば、神さまの目に正しいとされ、人々の尊敬を集められたわけです。たとえそれが、自己保身が目的であったり、律法を守れない人を見下す行為が含まれていても、あまり問題とはされませんでした。
ところがイエスさまは、(だからこそユダヤ教徒に憎まれたのでしょう)それでは不十分だとしたのです。すべての根底にはまず「愛すること」が必要だと言われました。キリスト教徒を憎むだけではなく大切な家族ごと惨殺し滅ぼし尽くそうとする「敵」に対しても、その行動を憎みこそすれ、人としてしての存在を「愛しなさい」と言われます。「目には目を」という教えが旧約聖書にあります(これは、目を潰されたら相手の目を潰すことで我慢せよ、それ以上の仕返しをしてはいけないという意味です)が、その教えさえ超越するように勧めます。何度も過ちを繰り返し、どんなに反省のない人に対しても、上から目線で「あの人は罪人だ」と決めつけることを諌めます。
こうしてみると、「愛すること」は、ハードルが高過ぎて、どんなに頑張っても到達し得ない光のようにも感じてしまいます。しかしながら、普段の生活の中でわたしたちは、「愛すること」の口当たりのよい面しか見ていませんかと、イエスさまがおっしゃるようにも思うのです。人に親切にしたり、優しい言葉で接したり、また思いやりや明るい声、そして感謝に満ちた態度なども、愛から出発する行動でしょう。でもその中には、「愛すること」から出発しているのではなく、人とうまくやっていきたい、自分に非難が向かないように立ち回りたい、和気あいあいというムード作り、といった行動を「わたしは愛を分かち合っている」と考えるのは、イエスさまの意図と少しずれてしまうのではないでしょうか。イエスさまが示される「愛すること」は、本当に簡単ではないです。でも、それをわたしたちに伝えるために、十字架にかかられたのではないでしょうか。
幸いな人は、神から受ける力を見る人
ルカによる福音書6:17~26
2022年2月13日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
宗教と呼ばれる団体の共通の目的は、ざっくり言って「人として幸せに生きる道」を示すことなのではないかと思います。でも今日の物語の中でイエスさまは、貧しかったり飢えていたり泣いている人々を「幸いである」と表現します。「幸いである」と言われても、「泣く人はラッキー」と宣言されているようで、ついていけない気持ちになりますが、果たして「幸いである」という言葉で何を伝えたいのでしょうか。
境遇や経験がちがう時もあるので、いつもそうだとは限りませんが、人とつい比較して「幸いである」かどうかを測ってしまうことがあります。衣食住の心配をしなくてもよい人に「経済的に恵まれていて幸いですね」と言っても、そうですねとなかなか返ってこないのは、謙遜している場合もあるでしょうが、どこかで「上には上がある」ので「もっと上」の人に比べて、自分の幸せ加減はまだ薄い、幸いであると答えるのは憚られる、ということなのかもしれません。「勉強をする機会があって幸せですね」と言われても、「もっと勉強や研究の機会に恵まれている人はいる」と心の声は響き、そんな人々をうらやましく思う気持ちだけが膨らんだりします。そんなふうに、一般的に社会で生きるのに必要な地位・学歴・収入を、他者との比較で捉える限りは、たとえ自分は満足していても「幸いである」と安心して言えないような現実があります。
ここでイエスさまが言われる「幸いである」という言葉ですが、深掘りするような意味合いはなさそうです(新約聖書に50回程使われる普通の単語)が、辞書によると「神々における、不安、労働による苦しみ、死のない至福の状態を示す」意味とのこと。英語では「blessed」〜祝福されている〜と訳すのが一般的で、カトリックの本多哲郎神父は「神からの力がある」と訳します。
誰しも、貧しかったり飢えていたり泣くような人生は避けたいですが、そんな状態にある人こそ神さまを身近に感じる人々だ、と言っておられるのではないかと思うのです。神さまは「貧しかったり飢えていたり泣いている人が特別に好き」という意味ではなく、普段は心に壁を築いて、神さまの愛や慈しみを妨害してしまう人々も、貧しく飢え泣けてくるような節目には、その壁が打ち砕かれ、万人に満遍なくずっと注がれてきた太陽の光のような暖かさの存在を認知するチャンスなのだ、と言っているように思うのです。つまり、律法学者やパリサイ派の人々のように「非の打ちどころの無い自分」と思っている時ではなく、最も無防備な状態で生きるしかない時こそが、神さまが一緒におられることを知る時が来たしるし。それを「幸いである」と言っておられるのではないでしょうか。わたしたちも「神からの力」を望み見たいと思います。
夜明けを待つ
ルカによる福音書5:1~11
2022年2月8日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
夜の闇が幅をきかせる季節になると、昔々ドーバー海峡を渡り列車を乗り継いで、深夜のロンドン駅に、降り立った時のことを思い出します。初めての場所の一人旅、しかもそこから移動できる地下鉄も列車もバスも全部、最終便は出てしまっていました。夜はこれからが本番なのに、いったいどうやって過ごそうかと途方に暮れました。なぜか時計を持っていなかったし、携帯電話もなかった時代なので、時刻もわかりません。気温も少しずつ下がってきて、我慢できないほど寒くなったらどうしよう、と心が震えました。あとどれくらい待ったら太陽が昇るのかがわからない。それが、待つ時間をさらにつらくしました。
2年間を過ぎた「ウィズコロナ」状況は、現在時刻がわからないまま、夜明けを待ち焦がれる様子に似ているかもしれません。変異するウィルスによって、わたしたちの生活が変わり、先は闇に包まれ、今まで通用していたことが出来なくなり、あれも中止これも延期と、人生のたくさんの宝物を奪われた気持ちです。そして、この状況の終焉が見えず、あとどのくらい頑張れば良いのかわからないので、「待つこと」がさらに難しい。それはまるで、時計を持たないまま深夜の駅に着いてしまった自分のよう。時計の針が進むのを確認できれば「もう少しで終わる、もう少し頑張ろう」と思えますが、手がかりがないと、それはもう宇宙を浮遊しているような「時間」感覚。1日24時間の刻みとは別世界です。
時には震えながら夜を過ごし、時にはウトウトしながら過ごし、少しコワイ目に遭いながらも、やがて東の空が少しずつ明るくなってきました。すると朝の光の中で初めて、私は、駅の壁にかかっている時計に気がついたのです。不安解消のために、あんなに知りたかった時計の存在ですが、実は最初からそこで時を刻んでいました。
心に余裕がないとき、壁の時計が目に入らないように、わたしたちを見守ってくださる存在はそこに居るのに、「見えない」ときもあるでしょう。「神さまとは一緒に居てくださる存在」と、頭では考えていても心の底からそう感じられるとは限りません。そして、今のわたしたちに出来ることは、心の不安解消のための証拠集めではなく、今までの人生をゆっくり振り返ってみて、どんなに守られ、導かれ、そして愛に包まれてきたか、その時々の困難の中の、どこに神さまが共におられたか、振り返ってみる事ではないかと思うのです。そのときはわからなくても、あとになって見えてくること、それらがわたしたちの心と身体と霊の成長を促してくれるのではないでしょうか。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
ルカによる福音書4:21~32
2022年1月31日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書の冒頭は、先週の福音書の最後の節(21節)で始まります。イエスさまのことを知るのに、よほど大事な箇所なのか、あるいはわたしたちが繰り返し聴く必要のある言葉なのか、2週続けて福音書に登場するとは、なかなかめずらしいですね。でも、この後の展開を読むと、さらに聞き流せない気持ちになります。会堂でイエスさまが聖書を朗読し、その言葉について話し始められると、人々は一斉にほめたたえ、その「恵み深い言葉に驚き」ます。ところが、その先のお話を聞いているうちに、今度はイエスさまを崖から突き落としたくなる憤慨の塊へと変わってしまうのです。それは、神さまが気にかけている人々が、実は自分たちが軽んじていた人々であることを知ったからです。
恵みの内容は変わらないのに、自分たちに向けて語られていないと知ると怒りに変わってしまう。それは、ユダヤ教の律法を守り、清く正しく真っ当に生きてきた自分たちこそが、神の恵みを独占するのに相応しいはずなのに、自分たちを通り越して、律法など知らない外国人に神さまの恵みが注がれた、ということがゆるせないからです。これは、恵みを注がれる人々をとても羨ましく思ったということではなく、自分たちこそが恵みを受けるに相応しい、むしろ選ばれた者のはずなのに、その価値観を否定されたように感じたショックというか、深い恐怖感がそこにあると思うのです。
これは、人ごとではないかもしれません。神さまの計画より自分の安心を優先したい、今までの慣習や伝統、そして同じことの繰り返しの方が居心地よく、それなら自分はよく知っているし、それを脅かすものには触りたくない、と思う時があるかもしれないのです。
このコロナ禍下で、たくさんの人々が苦しさに喘いでおり、すべてに余裕がなく、人のことなどはかまってはいられない、という空気にも満ちているでしょう。そして、経済的な活動に限らず、人との繋がりが断たれた深い孤独、生き甲斐を見出せない苦しみ、終わりが見えない時間など、ストレスの原因はてんこ盛りです。しかし、その中でまさにこの状況の中で働かれている神さま、辛い毎日を送っている人々の間に一緒におられるイエスさまの姿を見失わないでいたい、と思います。
聖霊に包まれて生きる
ルカによる福音書4:14~21
2022年1月23日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「礼拝の休止」を決断しましたとお知らせすると、数人の方から「またかと寂しい気持ちになりますが、一方でどこかホッとしている自分もあります」とお返事がありました。礼拝がなくなってホッとしている、という意味ではなく、大切な方の命を危険に晒しながら、(ことにオミクロン株は、症状が全然出ない人もおられるので)知らない間に、誰かに感染させてしまっているかも、という不安をずっと抱えながらの「礼拝の再開」だったことを改めて気づかされました。
今日の福音書は、イエスさまが洗礼を受けられて聖霊に満たされ、故郷に帰り(ユダヤ教の)会堂で聖書を読み上げるシーンです。そして、わざと?なのか、それとも現代のわたしたちのようにその日に読まれる聖書の箇所が決まっていたのかは、わかりませんが、よりにもよって「貧しい人に福音を告げ知らせ、囚われている人に解放を、目の見えない人に回復を、圧迫されている人を自由にする」という旧約聖書イザヤ書の箇所が選ばれています。これはまさに、イエスさまの生涯そのものです。つまり、教養人や権力者、また人々から尊敬されている人などは、全く無視されています。それどころか、当時の社会で「神さまの恵みから漏れている」と決めつけられていた貧しい人、病気の人、抑圧されている人こそが、イエスさまから愛を注がれる人であり、神さまがもっとも関心を持つ人々であると告げています。
しかしながらそれは「かわいそう」だから、神さまが豊かに哀れみを下されるという意味ではなく、生きていることが苦しくてたまらない、なんとか自分の生き方を変えようと七転八倒している、努力してもいっこうに事態が改善されない、そんな人々の最も近くに神さまがおられる、その人々の苦しみや悲しさを理解し寄り添ってくださる、そういう神さまである、と告げに来られたイエスさまを、表していると思うのです。
今回のコロナ禍で、できなくなったことがたくさんあります。失ったこともたくさんあるでしょう。未だにどうしたらいいのかわからないことも多いです。でも、今すぐ変えることのできない現状に、圧倒的な無力感を感じて立ち尽くすのではなく、わたしたちは今この瞬間も、神さまの霊に包まれて守られていることを思い出したいのです。自分でなんとかして不都合なことを捻り伏せようと力むのではなく、聖霊が働くのを邪魔しないこと、これもまた、神さまへの大きな信頼ではないでしょうか。
カナの奇跡
ヨハネによる福音書2:1~11
2022年1月16日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書は、カナという村で結婚式があり、そこにマリヤさんもイエスさまも招かれていた、というところから話が始まります。当時の慣わしでは、結婚式は1週間にも及ぶものでした。人々は遠くからやってきて数日間滞在し、その間に食べたり呑んだりします。でも、何人来て何日間滞在するのかは、誰にもわかりません。たくさんのお食事を十分に用意しても、途中で足りなくなってしまうという事態は充分ありうることです。でもそれは恥ずかしいことでした。そんな中で「ワインがもう無い」という事件がおきます。
マリアさんはまず、イエスさまに相談します。これはつまり、マリアさんは台所事情に関わっており、あれこれお手伝いをしていたということなのでしょう。なんだかありそうな情景ですが、結婚式に行っても女性は台所に立ち、男性は座って「お客」をする、というような役割分担があったのかもしれません。話を前へ進めます。やりとりの後、イエスさまは、その家にあった100リットル入りほどの石の水がめ6つに、水を満たすように言います。そして宴会の世話役に、水だった液体の味見をしてもらうと、あまりに美味しいワインだったので驚き、事情を知らない世話役は、主催者である花婿を絶賛した、というところで話は終わります。
さて、この話をどう読むかです。「水をワインに変えるすごい神さま」「奇跡で花婿の窮地を救う親切なイエスさま」というふうにも受けとめられるかもしれませんが、2000年前のこの出来事が、現代のわたしたちにどう関係してくるのだろう、あるいは何が今のわたしたちにとって「良いしらせ」なのだろうと考えると、「すごい」で止まるのは違和感があります。すごいと思われるために奇跡を起こしてみせるイエスさまも、すごいのだから信じなさいと圧をかけるような神さまも、聖書が伝えるイメージとはかけ離れていて、生きる元気を与えられるメッセージではない、と思うのです。
井戸から汲んできた水がすぐにワインに変わったという展開は、客観的に見て無理な話、納得できない話です。でも、たとえばこれが水やワインの話ではなく、人間だったらどうなのでしょうか。例えば、社会の中で隅の方に押しやられている人がいて、あの人の中身は水ばっかりで何の役にも立たない、と思われていたとします。水瓶に満たされた当初は、本当に水だったのですが、イエスさまの働きが介在すると、今、本当に必要としているワインだったことに気がつく。そして、なぜ今まで気がつかずに放置していたのだろうと皆が不思議に思う、というようなことなのではないかと。一方、自分自身にも当てはまるかもしれません。自分の中がいかに空っぽなのか気がついてしまった時、情けなさの波に呑み込まれていると、神さまの目には情けないことではなかったことに気がつかされていく。自分で、自分をないがしろにしてきた部分こそが、実は神さまの目には宝だったことに気がついていく。そんな「奇跡」の物語なのではないかと思うのです。
時が満ちたときに、わたしたちの資質や、変えられない過去でさえ、水からワインへと変えてくださる神さまに、先は見えなくても、説明はつかなくても、その時まで信頼して歩め、という「良い知らせ」なのではないでしょうか。わたしたちを愛してやまない神さまのそんな呼びかけに、耳を傾け応えようとするわたしたちでありたいと思います。
洗礼の意味は?
ルカによる福音書3:15~16、21~22
2022年1月9日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹
クリスマスの季節が終わり、1月6日から顕現(=いろいろなことが明らかになるという意味)節に入りました。そんな顕現後の主日は、バプテスマのヨハネと、イエスさまの洗礼の記事です。それにしても「洗礼」とは何でしょうか。イエスさまにとって、洗礼を受ける前と後では何かが変わったのでしょうか。
信徒ではない方々からはしばしば「洗礼を受けると、不安がなくなるのですか」というようなことを聞かれることがあります。これは「その通り」の部分と、「ちょっと違うかな」という両方の部分があると思います。
「その通り」については、とにかく精一杯、自分の生涯を生き切れば、最終的には神さまがどうにかしてくれる。失敗したり、不十分だったりしても、わたしという存在を否定なさることは決してなく、「よくやってくれたね」という眼差しで迎えてくれるような安心感はあります。
生きている以上、様々な選択や決断をしなければならないことは多いですが、結果が正しかったのか間違っていたのか、ずっと後になってもわからない時もあります。また、その時は我が意を得たりと自信満々でも、だんだんその思いが濁ってくる時もあるでしょう。でも、神さまの時間の中で生かされ、限界や弱さを抱えたまま我々は、自分に出来ることをやればいいし、完全さを自分に強いなくて良い。そのままで神さまが大切にしてくださる、という意味では、「その通り」なのかもしれません。
一方、「ちょっとちがうかも」の部分は、洗礼を受けると嫌な目には合わなくなる、という意味では、ちょっと違うかなと思います。洗礼を受けても、相変わらず迷ったり苦しんだり、悲しいことが起きたり、人に誤解されたり、という、人生の苦しみは避けられないです。
な〜んだ、そんなことなら、洗礼を受ける意味はないじゃないか、ということになるかもしれません。でも、もし「洗礼」ということを、「損か得か」というような視点で捉えてしまうと、イエスさまが伝えようとされた一番大切な核心を見失う気がするのです。礼拝に「慣れて」きたり、聖書の知識が増えたり、キリスト教や教会の伝統やしきたりをたくさん知っていたり、ということは、イエスさまが命がけで伝えようとされたこととは、全く別のことだと思うのです。
そうではなく、神さまの愛に触れること。社会がどう否定しようと、人々が何を言おうと、わたしたちが疑おうと、神さまは揺るぎなく、わたしたちを愛してくださる、そのことを信じること、信じようとすることが、洗礼を受ける、という内容なのだと思います。
わたしたちは礼拝を通じて、神さまの愛に触れます。また、一緒に聖書を読んだり語り合ったりして、ひとりでは気がつかなかった神さまの世界を知ります。それらが、必ずしも都合の良いことばかりとは限りませんが、概念的に頭で理解できたら神さまがわかった、ということではなく、心の一番底にストンと落ちるというか、世界がちがって見えてくるような「神さまの世界」を、本当に信じて生きていきたい、ということが一番、基にあるように思います。
イエスさまは、神さまの愛の中でこの世に送り出された。そして、改めて「神さまの世界」をこの世に伝えるために生かされている、そのことを身体に刻みつけるために、改めてバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのではないでしょうか。
「神の家族」ということ
マタイによる福音書2:1~12
2022年1月2日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日は3つの福音書から1つを選ぶようになっていますが、それでも特祷ははっきりと「聖なる家族」という言葉でまとめています。読み方にもよりますが、「ナザレで生活されたイエスさまのご家族にならい、わたしたちも教会に連なる兄弟姉妹として教会生活を送ろう」とも聞こえます。でもわたしたちが「ならいたい」ような家庭生活を、イエス一家が常時送っていたのかどうかは、甚だ疑問です。
臨月の妊婦マリアと、一緒に住んだこともないヨセフの「家庭生活」は、山や谷を越え100キロ以上に及ぶ旅から始まりました。いざ出産の時が来ても泊まる場所はなく、生まれ落ちたのは糞塗れの家畜小屋。助けを求められる人もいない土地で、わざわざ訪ねてきてくれたのは文化も風習も異なる外国人。挙句の果ては王による殺害命令が下り、急ぎ親子三人は外国へ逃亡。いつまで続くのかわからない避難生活が、彼らの家庭生活の始まりでした。
外からやって来る困難だけでもてんこ盛りですが、困難は外からとは限りません。いきなり始まったマリアとヨセフの同居生活には、何処から来たのかわからない新生児が最初からいました。また、故郷に戻れば戻ったで、ナザレの人々による中傷も様々あったことでしょう。マリアとヨセフが一人の人間として出会い、互いの違いを受け入れて家族となっていくその前に、とにかく生き延びていかねばならない毎日が最初にあり、そこには1ミリの綺麗事もなかったのではないかと思うのです。
この寒い冬を迎えて、諸外国でもそして国内でも、命の危険に晒されている人々がたくさんいることを覚え、祈ります、イエスさま、あなたは生まれたその瞬間から、居場所のないつらさ、雨や風に晒される苦しみ、飢えや乾きによる命の危険の現実へと投げ込まれました。命を守るため生きるために必死でたたかう人々の痛みを、あなたはよくご存じです。あなたは彼らのまっただ中におられ、その人々を家族と呼ばれます。あなたの家族のひとりとして加えていただくために、わたしたちに足りていないことを悟るちからを、どうぞお与えください。わたしたちの全てを受け入れてくださる神の名によって、アーメン
神への信頼という原点へ
ヨハネによる福音書1:1~18
2021年12月26日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
旧約聖書の一番初めに位置する「創世記」は、書かれた年代が一番古いわけではありません。しかも聖公会の教会では、創世記が記すストーリーを文字どおり「こうやって人類が誕生した」とは考えていないのですが、それでもなお、「人が生きるのは何のためだろうか」という問いに応える神話として、含蓄は深いものがあります。
今日の特祷では「(神は)驚くべきみ業によりわたしたちをみかたちに似せて造」り、「さらに驚くべきみ業によりイエス・キリストによって、その似姿を回復してくださ」ったとありますが、この2つが並列していると、以下のように読む人がいるかもしれません。
目に見えない神さまを、そっくりそのまま目に見えるかたちにした被造物がわたしたち人間であり、最初から「完全無欠で完璧な存在」として造られた。しかしその後、人類は途中で道から外れ、神が意図した「完全さ」から離れていった。元の「神のみかたち」に戻すため、イエス・キリストがこの世に送られ、十字架刑によってわたしたちは、神に似た存在へと復帰したと。新約聖書の中にも似た表現があるので、「傷のない神の似姿に復帰した状態が、わたしたちの本来の姿」という認識を強めてしまうかもしれません。でも、本当にそうなのだろうかと疑問にも思います。創世記の「甚だ良かった」という表現は、果たして「傷のなさ」を意味するものなのでしょうか。神さまが望んでおられるのは、わたしたちが失敗を避け汚点を作らないことなのでしょうか。
わたしたちがこの世界で、うまく生きていくためには、失敗を避けることは必須でしょう。しかも人にわからない範囲なら、心の中で何を考えていても自由だし、誰にもバレないと思っています。だから、人に知られるような汚点を持つことや、失敗を指摘されることを非常に恐れている、というのが正直な心中かもしれません。こんな現実の私たちが、イエスさまの十字架によって回復されなければならないのは何なのか。それは間違いをしでかさない強靭な精神力や完璧さではなく、神への混じり気のない信頼なのではないかと思うのです。何をしていても、あるいは何もできなくても、神さまが全てを統治し、無駄なことは何一つないのだと心の底から信じること。それが信仰の核心であり、そして神へのそんな信頼は、わたしたちを本当の意味で自由にしてくれるはずです。今年の最後に今一度、神さまへの信頼があなたを自由にしているかどうか、心に手を当てて問うてみましょう。
ふさわしい「住まい」
ルカによる福音書1:39~55
2021年12月19日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
私は、いわゆる「牧師館」に住んだことがあまりない。アメリカ聖公会では、ほとんどの教会には牧師館はなかったし、日本に来てからも賃貸アパートを転々としていた。入居前に壁と床面の傷、設備の不具合を全部写真に撮り、何かが壊れると言い訳を考え退去時には、敷金を返すまいと難癖をつける家主とバトルを繰り広げていた。牧師館に住まわせていただいている今、それらのストレスからは解放されたが、「教会に住む」のに相応しい役割を果たしているだろうかということについては、常に不安がつきまとう。ひとりの住人として環境整備に努め、地域の活動に協力する、忘れ物管理やスペースの使用調整に努める、そして何より、思いがけない時間に訪ねて来る人や電話に対応する。そういった「管理人」としての業務は大切なことではあるものの、それだけでは「住まい」に合致した働きではないことは明白だ。
今日の特祷では「わたしたちの心に神さまをお迎えするのに、相応しい備えをさせてください」と祈る。ここで言う「相応しい備え」とはなんだろうか。聖書の中に「人から追い出された霊が再び戻ってみると、きれいに掃除がされ空っぽだったので、さらに悪い七つの霊を呼び寄せて住み着く」という話がある。つまり、心の中を整理して不要なものを処分しただけでは何も改善されない、ということのようだ。外見のうるわしさではなく、完璧な掃除をした自己満足感ではなく、誰にも見えない心のどまん中に何を据えるのか、という決断が問われているのではないか。そしてマリアは「思い上がる者を打ち散らし、〜身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たされる」と歌う。心の根底の一番深いところから、マリアは信頼に満たされて歌う。
あなたの「お役目」
ルカによる福音書3:7~18
2021年12月12日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
今週もまた、バプテスマのヨハネの話が続きます。ヨハネのもとには、洗礼を受けようと、たくさんの人が集まって来ましたが、誰でも無条件に洗礼を授けてもらえたわけではなさそうです。どんな人が洗礼を受けることができ、誰がお断りされたのか、物語を読んでいきましょう。
まず、由緒正しい家柄の人たちがやって来ます。自分たちはきちんと伝統を守り、礼拝や献金もしている「アブラハム」の子孫なのだから、他の人たちより優れていると、どこかで思っています。まさか洗礼を受けたいと申し出て、お断りをされるなんて夢にも思っていません。
そんな人々にヨハネは、そのままでは神の国には入れないと伝えます。安定して衣食住が確保でき、生きていく上での様々な必要を心配なく満たせるのは、むしろ特別なこと。伝統を守れず、礼拝に出席したくても出席できない人々を、見下すような心根は、神の国から遠く離れていると指摘します。そして、自分たちが当然と思っている特権を分かち合うよう勧めます。
次にやって来たのは徴税人と兵士たちでした。徴税人は、税を集める仕事ですが、その業務に対しては対価が支払われないので、生活費を上乗せして税を集めざるを得ません。中には法外な金額を要求する裕福な徴税人もいるので、とても嫌われています。一方、兵士は、ローマ帝国に属する下っ端です。命は尊重されず、ある意味消耗品のように使い捨てられ、しかし暴力をふるったり、権力を笠に着たりする兵士もいて、ユダヤの人々にとっては帝国支配者の手下です。できれば口もききたくないし、目も合わせたくない存在です。
ヨハネはこの人たちに対して、洗礼を受けるためには、まず今の仕事を辞めて出直して来なさい、とは言いませんでした。そうではなく、騙したり恐喝したり乱暴をふるったりするのはやめて、まず自分の与えられた場で、役目を果たしなさいと勧めます。それは、その人々にとって簡単ではないにせよ、人としての存在を認める知らせです。
ヨハネが行っていたバプテスマ(洗礼)は、のちのキリスト教へと続く専売特許だったわけではなく、当時の社会で広く行われていました。しかし、気持ちよく生活するために、洗礼を受けてさらに人生のグレードアップを目指しましょう、という話ではなく、余計なものや不必要なものを振り捨て、質素な生活に立ち返り、本来の自分の役割に目を向けるという強調点があったようです。
わたしたちには、それぞれこの世での「お役目」がありますが、気がつくとあまり大事ではない飾りに埋もれて、見えなくなっていることも多いのではないでしょうか。また、時にはそれを不満に思い、損をした、不公平だと感じたり、もっと楽に得をする道を探したくなったりもします。でも、何をしていても、一見幸福なように周りからは見えても、実は自分の「お役目」を見失い、忠実に生きられない人は不幸です。紫の季節、余計なものをまといたくなる誘惑を振り捨てつつ、わたしたち自身の本当の「お役目」に耳を澄ませたいと思います。
「悔い改め」という解放
ルカによる福音書3:1~6
2021年12月5日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
たしか私が高校生だったころ、行っていた教会の礼拝後、紫の季節には「悔い改め」について学ぶディスカッションという時間があったことを覚えています。「食い改め」などの笑えない冗談を言う人もおり、最初から気分はナナメでした。しかしいくら「悔い改め」についての抽象的な話を聞いても、なぜ人類に「悔い改め」が必要なのかはピンと来ず、「信仰があるなら悔い改めなければ」などの発言は、非常にウソっぽく聞こえたものです。その時の落とし所は何だったのか記憶にありませんが、「悔い改めと結びつくことは、自分には思い当たらないな」などと思っただけではなく、そのように発言したことを、冷や汗とともに思い出します。
このような私の行状はそもそも、悔い改めの果実としての心と魂の解放や自由を知らないから、平気で口に出せたのかもしれません。解決できない問題はいろいろあるし、嫌な人は遠ざければいいと思っていただけではなく、「罪のゆるし」や「悔い改め」について語られるときの、何か表面的な威圧感に過剰に反応して、今ひとつ踏み込んで意味を考えることがなかったのだと思います。もったいないと言えばもったいないですが、そもそも悔い改めは、他者に要求するようなものでもないと今は思うのです。
今日の福音書(ルカ3:1〜6)は、ヨハネが人々に悔い改めを宣べ伝える話です。バプテスマのヨハネと呼ばれるこの人は、自分の役割を「イエスさまがこの世に来ることを、荒野にいるみんなにも知らせる声」というふうに表現していますが、バプテスマ(洗礼)は、のちのキリスト教へと続く専売特許だったわけではなく、当時の社会で広く行われていた活動だったようです。でも、イエスさまがやってくるのだから、お会いする前に洗礼を受けて清廉潔白になっておきましょう、という話ではなく、イエスさまが来られるから、「悔い改めても大丈夫」という話ではないかと思うのです。
消化しにくい悲しみや痛みが残ってしまった時は、時間を経て怒りや苛立ちに変わっていくことがあります。それらはエネルギーがありますから、いつか相手にぶつけて思い知らせてやろうと考え、心の中にその怒りを保つことで、自分の中に強さが留まっているように感じたりもします。でも実際は逆で、ネガティブなエネルギーにしがみつくことでかえって不自由になり、怒りを手放せないのではなく、手放さないという選択を正当化する気持ちへと変わっていきます。手放してしまったら何もなくなるという「おそれ」があるかもしれませんが、怒りがその人をどんなに不自由にしているか、その時はわからないものなのかもしれません。
悔い改めは、怒りからの解放だけではありません。後悔や罪悪感、ああすれば良かったこうすればと思うだけで実際は何も変えられない束縛全体からの解放です。悔い改めは、怒りや苛立ち、後悔や罪悪感から、あるいは思い出すのも苦しい諦めからも、解き放たれ自由になりなさいと勧めます。それは逃避ではなく、はっきりと問題に向き合うプロセスであり、向き合うために必要な力を用いるため、備えられた方法なのではないかと思います。強いられてではなく、自分の意思によって、人生に必ずしも必要ではないものをかなぐり捨てて、一番大切なことを大切にする、そんな勇気を持ちたいと思います。
暗闇からはじまる1年
ルカによる福音書21:25~31
2021年11月28日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
前にもお話ししたかもしれませんが、イエスさまがおられたユダヤの習慣では、日没後に一日が始まりました。太陽が西の空に沈むと「今日」が終わり、新たな1日が暗闇から始まるのです。朝は必ず来ると知ってはいても、何も見えない闇の時間は、なんとも長く感じられたにちがいありません。時計を持っていない当時の人にとっては、夜は不安がいっぱい、時には恐ろしい時間だったことでしょう。闇の中で野獣の唸り声が聞こえれば身がちぢみ、遠くの方で雷が落ちて谷にこだますればぎょっとして跳ね起きたかもしれない。そんな「一日の始まり」を過ごしたのでしょう。
今日から始まる新年、そして降臨節は、2つの異なるテーマが同時に存在します。一つは赤ちゃんの姿でわたしたちのために生まれてきてくれたイエスさまを迎える準備のとき。もう一つは、世の終わりが来て、今まで曖昧であった正義と不正義がはっきりするための備えのとき。この2つは、まるで違うようにも感じますが、1日の終わりがまず暗闇から始まる生活習慣を伝統として守ってきた人々にとっては、そんなにかけ離れたテーマではなかったのかもしれません。
都会にいるとなかなかピンと来ませんが、夜のとばりの中では、何か困ったことがおきても、おいそれとは助けを求めにくいものです。危機的状況に直面しても、誰かに知らせるのさえ難しいことがあります。そしてそれは、荒れ野や村はずれに住んでいた聖書の人々の生活状況ということに留まらず、今を生きるわたしたちも、同じような難しさを抱えています。困ったことがずっと解決できなかったり、疲労困憊して何も考えられなかったりすると、本当は助けを求めて動かないければならないのに、どうにも声をあげることさえ難しくなります。また、困り切っている自分の状態を誰も知らず、知らせる意味も見えず、さらに自分を追い込むことになります。そんな時のわたしたちは、自分の弱さをいやというほど思い知らされます。それなりにうまく乗り切っている時は、自分の弱さのことは忘れ、ある意味自分をもうまく誤魔化してやりくりしていますが、ごまかしも底上げも通用しない時がやって来た時、本当の自分の姿を見ることになるのです。その時がいつ来ても大丈夫でしょうか。降臨節のメッセージは、もう一度ご自分を見つめ直し、「今の生き方で大丈夫ですか?」という問いに向き合うよう、招いているのではないでしょうか。
押し迫った「とき」
ヨハネによる福音書18:31~37
2021年11月21日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
気持ちに余裕のある時は、社会人としての良識のある行動をとりたいと、誰しも努力できるものだと思いますが、窮地に追い込まれたときにはその余裕がなくなります。咄嗟にやってしまうのは、非難や被害が自分に及ぶことを避けること。「損をしない」「傷つかない」道を選んでしまうこと。そんなふうになるのは人の常かもしれません。
教会の暦で一年間の終わりを迎える今日の福音書は、なんと十字架前夜の物語。まさにイエスさまが窮地に置かれています。一年の終わりに、なぜこんなつらい物語を読むことになっているのか、最初はピンと来ませんでした。
聖書が描く時代、それはユダヤの人々がローマ帝国の支配と搾取による苦しみと困難の只中にあった時代です。人々に寄り添い、また生き方をもって神の愛を示したイエスさまを、共に歩んできたはずの人々が十字架刑へと後押しするうねりが生じます。それを利用した指導者層が、死刑にするようにと一気に帝国側(ピラト)に詰め寄ります。それを受けたピラトは「十字架刑は妥当かどうか」と、客観的な判断をするために、尽力している風にも見えますが、でも本心は他人事。イエスさまの命に関心はなく、とにかく自分に火の粉が降りかからないよう「尽力」しているのがわかります。
そんな中、ピラトによる尋問の中でイエスさまは、「無駄」とも思えるくらい誠実に、物事の核心だけを淡々と答えています。自分の役割は「王になること」ではなく、真理について証をするために生きること。なぜなら、真理に属する人々はイエスさまの言葉を聞こうとするからであると。
わたしたちは毎日いろいろなことにつまずいていますが、この世に生まれてきたということは、この世を支配しておられる真理の神から、送り出された者であるということでもあると思います。また、真理を見失い、真理から目をそむけてしまうこともしばしばですが、神のご意思によって、この世で真理に向かって今日を生きる命を預かっている者でもあります。そういう意味でわたしたちは本来、「真理に属する人」なのに、あたかも一部の選ばれた人だけが「真理に属する者」のように感じてしまい、情けない自分はとてもじゃないが、「真理に属する者」などではないと勝手に決めつけてしまいがちです。
一年間の終わりを振り返るとき、出来なかったことや失敗したこと、また怠けたことばかりが思い出されるかもしれませんが、同時に、今生きている命は、自分自身の努力で得たものではなく、一方的に与えられ、預かっているものであること。その「真理」を再認識することを薦めているように思うのです。それは、真理を求め続けることをあきらめないでと呼びかけるイエスさまの声でもあるのかもしれません。わたしたちは、自分の限界に辟易することはあっても、その声に耳を傾けることを諦めないで、またひとつ深呼吸をして、新しい年を迎える準備をしたいと思います。
ニセモノとの対峙
マルコによる福音書13:14~23
2021年11月14日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
昔々、「エクソシスト」という映画がありました。かわいい少女に何かが取り憑いたので司祭が呼ばれ、悪霊払いのため四苦八苦するといった内容だったと思います。でもこの映画では聖書にあるような「悪霊による心的身体的異常/疾患」がテーマではなく、主人公の少女の目つき顔つきが別人のようになり、家族を傷つけ罵り続ける、という怖い内容でした。呼ばれた司祭は、その少女の心身の解放を祈り求めましたが、全然効果はありません。また、時間が経つにつれ悪霊もいろいろと策を練ってくるようになります。まず、親しい友や尊敬する先輩の声音を使い、「そんなことをしても意味がない」と説得にかかります。それでは効かないので、今度は亡くなった司祭の母親になりすまし、諦めるよう泣き落としにかかります。
ところで、第二日課の「マルコによる福音書」の時代は、キリストを信じる人々が窮地にありました。迫害を受け、次々と投獄され処刑されるような日常で、誰を信じたらよいのか、何をどうしたら状況を変えられるのか、本当に誰もわからない。少しでもわずかでも、今持っているものを失わないように努力する以外、なすすべがありませんでした。そんなときは、努力しあれこれと決断することが馬鹿馬鹿しくなります。そんな絶望の中では、ニセモノスーパースターであっても、すべて解決してくれる妄想に皆が取り憑かれ、すがりつきたくなります。
わたしたちも、実は似たような窮地に追い込まれることがあります。どうしたものか苦しみ悩んでいるとき、自分のもっとも弱いところを突いてくる悪霊の声に惑わされそうになります。「これが皆にウケる」「こちらがトク」とささやき、思考停止へと誘導します。ニセモノほど本物らしく振舞いますが、様々な苦難を乗り越えニセモノとの遭遇にひるまず、正しい決断をして来た人には、今度はさらに高度なニセモノが接近して来ます。しかし、惑わそうとする声が勝手にやって来るのではなく、私たちの中にある[欲を求める心]に共鳴して引き寄せられて来るのではないでしょうか。そんな時わたしたちは心を奮い立たせ、主のみ心がどこにあるのか真っ直ぐに顔を向け、神が大切になさりたいことを見極めたいと思います。
「見て、評価されたい」欲
マルコによる福音書12:38~44
2021年11月7日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
よく晴れた保育園の一日。「せんせい、見て!見て!」外の泥んこ遊びや室内での創作に没頭しているこどもたちから、こんな嬉しそうな声が挙がります。これはきっと大好きなお母さんやお父さん、おうちの方に対しても、日に何度となく口にのぼる言葉なのでしょう。新しさめずらしさを見つけた喜びを誰かと分かち合いたい、そんな純粋な情熱とともに、「わたしをみとめてほしい」という、微笑ましい気持ちがあるのも本当でしょう。
でも、今日の福音書に登場する「見て見て!」は、そんな可愛い話ではありません。尊大な態度で歩き回り、格好だけの祈りをしてみせ、たくさんの献金をひけらかしながら投げ入れ、特別待遇を受けることを期待する「律法学者」あるいは「先生」と呼ばれる人たちを、イエスさまが非難する場面です。そんな人々の態度は外側から見るとまるでピエロですが、こういう人々を無害なピエロと言い切れないのは、社会的な地位による「力」や「声」を用いて、弱者や貧しい人、声が出せない人々を踏みつけ、都合のいい正義を振りかざして自己正当化する、といったことをしてきたからでしょう。社会構造の中で多少なりとも「力」めいたものを持っている人は、似たようなことをしてしまう可能性はあるわけなので、この話を聞いてヒヤリとすることもあるでしょう、教会の牧師も例外ではありません。
一方「律法学者」の対極として、レプトン銅貨2枚をそっと捧げた女性が登場します。これは本当にわずかな金額で、「50銭」「50円」とも訳されています。レプトン銅貨2つ合わせても100均ですら買い物ができない、つまりほとんど何も買えないような金額です。「生活費の全部」と書かれているので、明日からこの人はどうやって食べていくのだろうと現実的な心配もありますが、イエスさまは「誰よりもたくさん入れた」と表現します。
つまり金額ではなく、「見て見て!」でもなく、権力を行使してでもなく、見返りを求めてでもなく、彼女は生き様そのものを献金に託して捧げた、そのことをイエスさまは察知したのです。下世話な話に聞こえてしまうかもしれませんが、私たちが献金や時間を神さまにお捧げするとき、「他の人と比べて恥ずかしくない金額を」と無理をしたり、「わたしはこんなに頑張っているのに評価されない」と思うのは、何かがスレ違っているということになります。教会は会員制クラブではなく、会費も規制の義務も存在しません。神さまの前で「愛すること」を求め続ける旅路に一緒に歩む仲間の集まりです。「評価されたい」気持ちは、誰にもあることですが、それらを振り捨て振り捨て、真に価値あるものに向かって歩みたいと思います。
いちばん大切なこと
マルコによる福音書12:28~34
2021年10月31日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
こどもの頃から教会に行っていたという人にとっては、慣れ親しんだ教会の礼拝に久しぶりに出席しようという時、多少の不安はあっても大きな違和感はないかもしれません。また、旅行先などで、初めて訪問する教会だとワクワクすると同時に、少し緊張するような気持ちもあるものだと思います。でも、教会とは何をするところなのか謎のまま、とにかく何もよく知らないけれど一回行ってみよう!という「初めての方」が教会に来られたとき、教会でのあれこれにすっかり慣れてしまっている私たちには見えないもの、わたしたちにとっての「盲点」が、あらわになる気がするのです。
そんな事をふと思いつき、だいぶ前ですが(自分の身分は明かさずに)高野山の一泊修行グループに参加したことがあります。参加者は、仏教徒が半分、全くの初心者半分という割合でした。説明をしてくださる僧侶も、フレンドリーな印象を与えようと一生懸命に務めているのが感じとれました。その一方で、役職付らしき仏教徒には、ある種の特別待遇をするような場面もあり、「あれ?!」と感じたことを覚えています。特に説明もないまま「ここから先は信者のみ座ってください」などと言われると、「えっ?!どうしてですか?」という気持ちになりました。そこに是非座りたい、というわけではないのですが、「区別」の理由がわからないと、「あなたは知らなくてもいい」と言われた気分になるものだと。
わたしたちも自分では気がつかないだけで、祈祷書をすばやく開けられるとか、聖書やお祈りを淀みなく唱えられるとか、聖歌をたくさん知っているとか、そんなレベルのことを密かに誇りにしていて、一番大切なこと「神を愛すること」「隣人を愛すること」を、ないがしろにしてしまっている瞬間はないでしょうか。わたしたちの習慣に過ぎないことを、イエスさまの教えよりも無意識にでも優先してしまうと、単なる仲良しクラブになってしまうのではないでしょうか。
最初の話に戻りますが、キリスト教の教会は何をするところでしょうか。それは、世の人々と「神を愛すること」と「隣人を愛すること」が、もっとも大切だということを分かち合うための場所だということです。それはとてもシンプルなのですが、一方、とてもむずかしい。愛することは、効率や損得では示せないし、どんな善意に溢れる行為でも心の中に愛がなければ、イエスさまの教えとは異なるからです。いい人の仮面をかぶろうというのではなく、真に神と人とを愛することを、人生の中心に据えて生きていきたいと思います。
靴屋のマルチン
マルコによる福音書10:46~52
2021年10月24日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
年末が近づく気配がすると、どうしても思い出してしまうのがトルストイ原作の「くつやのマルチン」です。文学としてだけではなく、かわいい挿絵の絵本もたくさん出ていますので、きっと一度はお読みなったことがおありかと思います。マルチンは、年取った靴屋さんですが、息子も妻もだいぶ前に亡くなり、喜びも楽しみもないまま半地下の作業場で靴の修理をしてきました。「心の中には悲しい涙がいっぱい詰まっていました」というくだりがあり、もうすでにここでグッと来てしまいます。作業場にしつらえた小さな窓から見える、行き交う人々の足元だけが、マルチンの外の世界とのつながりでした。でも生きている意味もわからなくなっている彼には、それは目に入りません。
ところがある晩の夢で「マルチン、明日行くからね」というイエスさまの声が聞こえます。半信半疑のマルチンですが、さあ翌朝からは、窓の外が気になって仕方がありません。ふと外を見ると雪かき作業に疲れ果て、呆然としているおじいさんがいます。今まではそんなこと考えたこともなかったのに、お茶をご馳走することを思いつき、作業場の中に入ってもらって暖かなお茶でもてなすと、雪かきのおじいさんは「心もからだも温まって」帰っていきます。しばらくしてまた窓の外を見ると、雪の中なのに薄着の女の人が赤ちゃんを抱いて震えています。マルチンが暖炉の前へと招き、スープとパンの残りでもてなし、自分の上着を差し出すと、朝から何も食べていなかったその人は泣き出してしまいます。でも、マルチンがあげた上着に赤ちゃんをしっかりくるむと、元気を出して帰っていきます。そんなこんながあった1日でしたが、イエスさまは来なかったし、やっぱり幻想だったのかと落胆するマルチンに、再びその声は訪れます。「おじいさんも女の人も、それからあの人もこの人も、あれは全部わたしだった」と。
「不幸」ではないけれど、社会の中で「不便な」状況に置かれた人のところへ、イエスさまは真っ先にいらっしゃる。そして、やがてそのことに気がつくわたしたちを待っている、ということなのかもしれません。不便な状態に追い込まれるのは誰でも嫌ですが、でもそうなったのは、自分の落ち度でも、何かのバチが当たったのでもなく、恥じることでもないと聖書は明言します。それこそマルチン本人もまた、生きる意味を見失い、「涙のいっぱい詰まった心」をどうすることもできず、感謝も感動も喜びもない、言わば屍のような毎日を、とても「不便に」過ごしていた一人でしょう。そんな地下室からもっと広い世界へと、やさしく連れ出してくださるイエスさまの物語です。
「管理したい」欲からの開放
マルコによる福音書10:35~45
2021年10月17日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
季節はすっかり秋へ移りました。保育園の入り口に植えられた桜も落ち葉の季節となり、夜の間にたくさんの葉を落としています。教会の玄関先やお隣さんにまで風で到達した枯れ葉は、自転車の下敷きになると粉々になってお掃除に手間取るので、保育士さんが出勤し始める7時前までが勝負。はじめは朝の空気を楽しんでいたはずなのに、掃いているとやがて地面しか視界に入らなくなり、数軒先の葉っぱまで「回収」することに躍起となる。その一方、作業中の頭は暇なので、期限迫る用事が次々と浮かびあがっては焦りまくり、予定の把握や管理不足の自分に、不必要に苛立ちつつ掃除終了!という情けないパターンが定着しつつあります。
ところで今日の福音書は、イエスさまのお弟子さんの中でも「筆頭」に数えられるヤコブとヨハネが、なんとも情けないボケツを掘る話です。何を思ったのか、「栄光を受ける時が来たら、右大臣左大臣の座をわたしたちに約束してください」などと、イエスさまに直訴してしまうのです。聖書に登場する「栄光」という言葉は、通常は「イエス・キリストが、十字架にかかって死ぬ苦難」を指しますが、その脈絡でヤコブとヨハネが「イエスさまの苦難も共にしたい」と言っていたかどうかあやしいものです。むしろ、すべての不正政治をなぎ倒しローマ帝国の支配を払拭して、新しいユダヤの王としてイエスさまが凱旋する!そうなったら今まで側近として支えてきた自分たちも、それなりの地位をいただきたい、といったイメージでの発言だったかもしれません。
イエスさまの働きを支えようと、一生懸命人々に仕え、蔭となり日向となり苦楽を共にしたお弟子たちであったのに、本当にはイエスさまのことを理解できていなかった、それもなんだか寂しいですが、「自分は十字架にかかって死ぬ」という話を三度、イエスさまから聞いたその直後に、上記の直訴が行われる展開になっています。イエスさまと共に過ごす恵みの中にいるのに、その素晴らしさを味わうよりも、これまでその働きを支えてきた「対価」として、将来の役職を要求した。将来設計のつもりだったかもしれませんが、自分の人生を管理したい、ひいてはその管理のためにイエスさまも利用したい、そんな危険がはらんでいたように思います。
教会の朝の空気を感じながら一日を始めることができる恵みを味わうよりも、先々のことを「管理」することに囚われる自分も、どこかでこのヤコブとヨハネの行動とつながっているのかもしれません。目先の「管理」と「支配」に振り回されることなく、与えられている恵みに目を留めることができますように!
手のひらを開くように
マルコによる福音書10:17~31
2021年10月10日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
小さいときから、清く正しく生きようと、ずっと精進してきた信仰深いお金持ちが、イエスさまに聞きます。
「どうしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか?」この人が聞いている永遠のいのちとはいったい何を指すのか、それも大変気になるところですが、詳細はさて置き、この人はこう言われてしまいます。
「行って、あなたの持っているものを売り払い貧しい人々に施しなさい。」するとこの人はがっかりして悲しみながら立ち去っていきます。たくさんの財産を手放す気はなかったからです。
家族や自分のために一生懸命働いて築いた財産なのに、大切に蓄えておいたのに、それを全部吐き出して、世の中の困っている人々を助けなければ、神さまに顔向けできない、と言っているように聞こえたのかもしれません。財産の全部ではなく、一部だけなら施すとしても、自分の分をとって置こうとするのは、いけないことなのでしょうか。
ところでイエスさまは、この質問をした人を「慈しんで」返事をされた、と書いてあります。この人に対する非難の言葉も発していないし、貧しい人に施せないとは残念な人だとも言っていません。むしろ、たくさんの財産を失わないように管理する重圧に耐え、財産があるがゆえに不自由になっているこの人の心をいとおしむように、「何よりもまず守るべきは財産で、そこは変えないままで、可能なら『永遠のいのち』もほしいと思っていませんか?」と言っているように聞こえます。
それは、たいした財産のないわたしたちに対しても、呼びかけられている言葉なのかもしれません。これはさすがに手放せないと思い込み、万全な管理保管をするために、自己犠牲を強いられている事柄。どうせ変えられないからと、今までどおり我慢している事柄。もう今さら変えられないと思い込んでいる人生。そして、情けなく認めたくないような悲しい自分。それらは、ひょっとしたら「変えたくない」という気持ちがどこかにあって、それをイエスさまに見抜かれているのかもしれません。自分を変えるつもりはないけれど、追加で手に入るなら「救い」も欲しい、という思考経路から自由になるようにというお招きなのではないでしょうか。わたしたちが、人に強いられてではなく、自分の意志で手のひらを開き、心を開くとき、今まで見えなかった恵みがそこにあるのが見えてくるのではないでしょうか。
神をあらわす善い存在
創世記2:18~24
2021年10月3日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
人の元々の本性は善であるという考え方は「性善説」と呼ばれ、どのような善い本質が人間に備わっているか具体的に説明する学説ですが、紀元前300年代の中国でも、「そんなのは理想論に過ぎない」と批判された流れがあったようです。しかし、人の弱さや悪い部分から目をそむけて理想を語る、ということではなく、元々善い心を持って生まれたのが人間なのだから、たとえどんな王であっても、人民を守り正しい政治を行うことが可能なはずである、とすることが、儒教の性善説の目的だったと言われています。
キリスト教も性善説の考えと少し似たところがあるかもしれません。もっとも、王や支配者などについてはあまり関心がないので、抑圧と搾取が続く社会を生き続ける「こんな人生、生きていて何の意味があるのだろう」と苦しむ人々に視点が向いています。「辛い人生は神からの罰だ」という常識が横行していた時代に、「人間は元々善い存在として、神が作られた」ことを根底として、上等な人と下等な人がこの世に存在するのではなく、すべての人が等しく神の姿をこの世に表すものだと、イエス・キリストは強調しました。この世で生きている限り、たとえ人生の意味が見えなくても、神があらかじめ準備した大切なミッションを携えた人であると。
今日の聖書の箇所には、「人がひとりでいるのは良くない」と、人がひとりぼっちにならないよう、神がパートナーを創造する一節が登場します。「人に合う助ける者を造ろう」と
呟いた神は、「人」を深く眠らせて「あばら骨の一部を抜き取り」女を造ったという話に続きます。キリスト教の伝統的な解釈では、「助ける者」を「アシスタント」と理解し、「あばら骨の一部」を「あばら骨一本」と解釈して、人の役割分担を性別によって規制してきた歴史がありました。しかしそれは、一般の人々が字を読めなかったから続けてこられたこと。今や多くの人が自国の言葉を読み書きし、外国語の文献にもアクセスするようになりました。すると、「助ける者」は神を修飾する言葉(神は私の助け、等)として登場することの方がずっと多く、アシスタントという理解はこの箇所だけであること、「あばら骨の一部」は一本ではなく、全体の半分のうちの一方の塊りをさす、ということもわかってきました。つまり、人に優劣があると信じられ、幸か不幸かを分ける理由を「神の罰」としてきた時代でさえ、すべての人の存在は尊いものであり、大切なかけがえのない存在であり、善きものであると説いているということです。社会的な現実の中では、この考えを持ち続けることは難しいかもしれませんが、たとえそうであってもわたしたちは、「神の姿をあらわす存在」として、顔を上げ前を向き立ち上がり続けたいと思います。
小さなもののひとりを
マルコによる福音書9:38〜43、45,47~48
2021年9月26日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
礼拝を見たこともなければ、キリスト教に興味を持ったこともない人々と話していると、(聖書ではなく)神話に出てくる天使の名前が出てくるアニメを語り出し、「だから自分はキリスト教をけっこう知っている」とのたまう大人がいることに正直驚きます。そんな時は「あ、そうなのね」と流しますが、その方々にとっては超越的な力を武器にした戦闘シーンが感動的らしく、この怪物はキリスト教で一番えらい!などと強調されると、多少複雑な気持ちになります。
一方、直接宗教に関わったことのない一般的な日本人にとって、「宗教とはお金目当ての活動」というイメージもあるようです。目に見えない「希望」や「信念」を言葉にするのは、何かを誤魔化すためであり、「その背後に何かある」はずなので、人の弱みにつけ込んで金銭的な搾取をするような「宗教団体」の全貌が明らかになると、逆に、変に納得したりもするようです。いずれにせよ日本で宗教/信仰と呼ばれるものは綺麗事であり、心の弱い人や非科学的な思考の持ち主が飛びつくもの、と相場が決まっています。
こうなってしまった原因のひとつには、1995年の地下鉄(日比谷線、千代田線、丸の内線)サリン事件があると思います。「宗教」に洗脳され思考停止した人々はお金のためなら何でも実行、そして反社会的な行動や破滅も厭わないというイメージを広げた事件なのだろうと思います。そして、あのような酷い事が再び起きないためには、宗教や信仰に近寄ってはならず、ある種の自己防衛からか、目に見えない世界を茶化し、心や精神の存在を軽んじるのが安全、という風潮に繋がっているのかもしれません。
でもだからこそ、なのだと思います。イエスさまは徹底して、声の小さな人、社会の果てに押しやられている人、切り捨てられている人のところに身を置きました。何が得か、役に立つかという話ではなく、徹底して「痛み」を共有し、神の愛こそがわたしたちを解放し、人生を美しくするものだと伝え続けました。お弟子たちの中には、そんなわかりにくく、まどろっこしいことを言っていないで、早く人々を唸らせたいと急いだ人もいましたが、それこそが「小さな者のひとり」をつまずかせる入り口であることを、イエスさまはご存知だったのでしょう。キリスト教の玄関の中にいるわたしたちもまた、効率と結果に心を奪われるとき、玄関の外にいる「小さな」人々をつまずかせる危険を持つものです。もしわたしたちが神さまの愛に信頼していなければ、イエスさまのメッセージをうわべだけで捉え、まちがって伝える危険があります。神の愛によって生かされていることを、まずわたしたちが心から信じているかどうか、自身に問うことから始めていきましょう。
こどもとイエスさま
マルコによる福音書9:30〜37
2021年9月19日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
聖書の記録によると、イエスさまが人々の間で活動したのは、たった3年間でした。その短い生涯に、貧しい人や病気の人の悲しみに寄り添っただけではなく、女性やこどもたちを軽んじたりもせず、何か用事がある時も、誰かに指示して伝えるのではなく、イエスさま自ら話しかけました。「こどもにも人権がある」という意識があたりまえではなかった時代に、あたたかな視線を注ぎ、ひとりの人間としての子どもに、尊厳をもって接したことが記されています。今よりずっと危険だったにもかかわらず、出産は「女/子ども」の範疇にとどまる「穢れ」という理解だったので、男の子が生まれない限り、あまり外からの関与はなかったと思います。しかも無事こどもが生まれても、病気になったり怪我をしたり、幼いうちに亡くなるのは珍しくなく、さらに小さくて力もない「おとな」なので、うるさくて手がかかり、労働力にはならず、途中でいなくなるかもしれない存在。だから成長するまでは、まともに話しかけたり相手にするような対象ではない、というのが常識的な理解でした。お弟子さんたちも、そんな慣習の範囲で行動しようとしたのでしょう、聖書の他の箇所では、近寄ってくるこどもたちを、お仕事の邪魔になってはいけないと追い払い、イエスさまにたしなめられています。
イエスさまのこどもに対する処遇と対極を成す様子が、お弟子さん内での「誰が一番えらいのか」論争です。お弟子さんたちも、こういう話題を熱心に語るのを知られるのは恥ずかしい、と知っていたのでしょう。何を議論していたのか聞かれると皆、黙ってしまいます。損を避け、効率的で、しかも人より一歩も二歩も先んじることが「優秀なおとな」という妄想に取り憑かれるのは、現代ばかりではないようです。物事を効率的にすすめるには、組織やヒエラルキーが便利ですし、そこに私利私欲が加わると、目先の益が先に目に入ります。そういう人々にとっては、「こども」に象徴される様々な便利でない存在は、ペースを乱す障壁以外の何ものでもなくなり、少なくとも自分は「こども」などではない、という主義主張が始まるのでしょう。
するとイエスさまは、ひとりの子どもを抱き上げて、「わたしの名によって、このこどもを受け入れる者は、神さまを受け入れる者だ」と言います。でも「受け入れる」内容は、ペットのように可愛がることではなく、要求を無条件に聞き入れることでもなく、親切な行為を多発することでもないでしょう。それは、小さなこどもの中に坐する神さまを見ること。どんなに力なく見える人の中にも、すでにその存在と共に生きて、その人の中で働かれている神の存在に、尊厳をもって対峙すること。そんな心の準備が出来た時に、わたしたちは神さまと出会うことができる、と言っておられるように思うのです。
わたしたちが神さまに出会うために、こどもたちが目の前に用意されているわけではありません。でもその人々は、わたしたちの計り知れない神のミッションを担う人々。その方々からこぼれる一つの恵みとして、わたしたちが今日、「神さまと出会う」ように助けてくださっているのだと思います。わたしたちも驚きと尊厳を持って、日々こどもたちの中で働かれている神さまと出会いたいと思います。
十字架を背負う
マルコによる福音書8:27〜38
2021年9月12日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
皆さんにとって「自分の十字架」とは何だろうか。自分のことを振り返ると、子ども時代、20代、そして司祭按手までの20年間は、神さまから無理矢理背負わされた「十字架」を負ったつもりになっていた。とにかく何もかも手一杯と信じていた自分は、他者のことなどまるで視野になく、自己中心そのままのような生き方だった。しかも家族が負えないから私が負うしかない、くらいの横柄な気持ちでいたと思う。
しかし当時、不満たらたらで負っていた十字架は、私を支配していた。そこから自由になろうともがくほど、支配の力は増していた。でも私はきっと、様々な節目に恵まれ、無駄にしなかったのだろう。強大な支配力で私を圧迫していたそれらは、気がつくと栄養の一部として消化され、浅薄さと軽率さで勝ち越したつもりが実は逃避であったことを認められるようになると、それらは内省への手がかりとなっていたことに気づく。
だからと言って、今は仙人のように悠々、マイペースで暮らしているとは到底言えない。教会と施設の中を右往左往し、しょっちゅうあちらとこちらを取り違え、緊急の電話がかかってくるかもと怯えつつも、薄氷を踏みながら外出する。鍵と携帯電話があるべきところになくてうろたえ、紛れた書類やメールを発見できず探し物ばかりする。何か頼まれ事をすると、なんだか出来そうな気がして大風呂敷を広げ、それがいくつも同時多発的に重なると、だから言わんこっちゃないと後悔する。もはや自分の十字架が何であったかさえ、見えなくなっている。
できることなら解決して終わりにし、二度と同じ目に遭わないようにしたいような出来事、しかもその重さと圧力に押し潰されそうになりながらも、とりあえずは背負うほかはないような事柄を、人は「自分の十字架」とよぶのかもしれない。そんな十字架は、一刻も早く捨ててしまいたいし、離れてせいせいしたい。またそれがあるから、自分の人生がうまくいかないのだとも思う。しかしそれが本当に「自分の十字架」であったなら、いくら目をそらしても無視しても、存在そのものを消すことはできないし、逃れようとすればするほどあなたを支配する圧力をかけてくるものだ。逃げても、「大したことじゃない」と虚勢を張っても、自分ではなく他の誰かが悪いのだと唱えても、それは相変わらずそこに居る。それが一体なんのためにそこに在り、いつまで居座るつもりなのか、聞いても答えはない。そしてそれがいつまで続くのかもわからない。でも、逃れようとする気持ちに向き合って、本当のところ、自分はそれをどうしたいのかと心を落ち着けて問うとき、流れは変わってくるように思う。すぐに「正解」は出せなくても、逃げるのを辞めた時、何かが変わる。そのように信じたい。
み言葉を行う人
ヤコブの手紙1:17~27
マルコによる福音書7:31〜37
2021年9月5日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
人の心の根底には、ほんとうは正しい行動を選びとりたい、という望みがあるように思います。それは、人から後ろ指をさされたりしないようにうまくやりたいという、やや短絡的な欲望も混じっているかもしれませんが、不条理に傷つけられたり自分の弱さや限界に気落ちしたりしながらも、とにかくひとりの人間として、この世に生まれてきたからには真っ当な人生を歩みたいという、純粋で根源的な望みを、誰しも持っているように思うのです。
ところが、このような素朴かつ崇高な望みを、常に尊重しているとは言い難い現実があります。それは「青くさい」と片付けられたり、現実的ではないと決め付けられた体験がそうさせるのかもしれません。また、正しさを「比較の問題」とし、他の人の基準によっていくらでも変化するものだとする考え方もあるのでしょう。そして、目の前に立ち塞がる日常的な問題解決の役にはたたないと、「望み」に蓋を被せ、存在しなかったことにしているときもあるでしょう。一方、今日の使徒書に登場する「み言葉を行う人」とは、正しい事を完璧に実行する人ではなく、あくまでも正しさを望み見て「諦めない人」のことではないかと思うのです。
特祷では、悪魔の誘惑に打ち勝つ恵みを願い求めます。また使徒書では、自分の心をあざむき世の流れに身を任せる危険に対して警鐘が鳴らされますが、神の正しさに寄り添おうとする生き方は、口で言うほど簡単ではなく、答えのない問いにずっと向き合うことになります。どうしたらいいのか、何が正しいのか、その正解は簡単には得られず、困惑することも、苦しむことも多く、時には投げ出してしまいたくなることさえあるでしょう。そんな時こそ、今日の聖書日課で語られる「悪霊」や「悪魔」の出番です。こんな自分は無価値だと思い込みたくなる誘惑へと背中を押す隙を狙っている存在です。そしてこの誘惑は、外の知らない世界からやって来るのではなく、どっちつかずの自分の中から出て来るのでさらに複雑なのでしょう。
今日の福音書の物語は、聴覚障害のある人のところにイエスさまが近づき、なんとも泥くさい方法で、この人の生き方の軌道修正をします。喋ることも聴くことも出来ないのは不便ですが、ひょっとしたらわたしたちは、このガリラヤ湖畔でイエスさまと出会った人よりさらに、神さまの声が聞こえず、神さまに伝えることができないでいるのかもしれません。いや、むしろ、不都合なのでわざと「聞かず」、そして「話す」資格はないと思い込んでいるかもしれません。そんなわたしたちをも、イエスさまは見捨てず軌道修正をしてくださいます。「エファッタ」(=開かれよ)と呼びかけ続けていてくださいます。
見下すことへの警告
マルコによる福音書7:1〜8、14、15、21~23
2021年8月29日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
昨年の2月以来、コロナ禍は生活をすっかり変えてしまいました。だんだん慣れてきたわたしたちではありますが、手を洗うのも生活の一部となりました。買い物から戻ったら、冷蔵庫に食品をしまう前にまず手洗い、着替える前に手洗い、という毎日です。ウィルスに晒されたかもしれない手や持ち物の表面に、それらを長居させないという衛生上の理由から、一生懸命手を洗うのが当たり前のわたしたちですが、今日の福音書に登場するユダヤ人たちが「当たり前」とした手洗いは、また少し意味が違うようです。
話は逸れますが、イエスさまを「十字架につけよ」と叫んだ群衆を止めることが出来ず、ローマ総督のピラトは手を洗います。彼は死刑執行を許可する権限がありますが、(たとえ死刑は間違いであっても)「自分は無関係」というあかしとして、群衆の目の前で手を洗いました。ピラトにとってこのパフォーマンスは、万が一の場合の自己保身に役立つと考えたのでしょう。一方、福音書のユダヤ人たちは「昔の人の言い伝えを固く守」り、外出から戻った時に、念入りに手洗いをしていたようです。出かけ先と、自宅との境界線をはっきりさせる意味で、手を洗っていたようにもとれますが、衛生概念というよりは、しきたりを守る常識人としての、公衆の目前で行ったパフォーマンスだったのかもしれないと思うのです。
聖書の時代の人にとっても、現代のわたしたちにとっても、共同体の中で生きている以上は、そのようなパフォーマンスに無関係ではいられないでしょう。本当に大切だと信じているから一定の行動を続けているとは限らず、多少の迷いはあっても、「常識のない人」と決めつけられ、困ったハメに陥らないために、一生懸命無理をして、続けていることもあるかもしれません。心にもない美辞麗句を並べたり、嫌だなと思いながら必要以上の犠牲をはらったり、買いたくないものをお付き合いで購入したりなど、避けられないでいることもあるのでしょう。
でもイエスさまが非難しているのは、常識人としてのパフォーマンスそのものではなく、パフォーマンスを他者に強要したり、その「正しさ」に倣わない人を「非常識」と決めつける人々に対して向けられています。そしてそれは、自分の立場が「上」だという前提がないと、おきないことです。
そんな時、イエスさまは心配します。尊敬されている律法学者の中にも、地道なファリサイ派の中にも、自らを義とし、他の人を見下す輩は結構いたようで、現代でもその識別はなかなか難しいかもしれません。常識的に生きようと努力する人々が、そのように実行出来たことを感謝するのではなく、見下す視線で他の人々を見はじめた時、イエスさまは警告を発されるのだと思います。きっと誰にでもその可能性はあるのでしょう、もしファリサイ派の人々のような態度で何かを決めつけ、異なる人々を「見下し」目線で見ている自分に気がついたら、ハッとするわたしたちでありたいと思います。
多くは離れていった
ヨハネによる福音書6:60〜69
2021年8月22日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
8月に入ってからずっと(ただし、今週まで)、ヨハネによる福音書を続けて読む段取りとなっているため、4週間続けて「いのちのパン」のイメージが繰り返し出てきました。わたしたち人間は、食べ物なしでは生きられないのはわかっているとはいえ、神さまからいただく「いのち」のパンとはいったい何を指すのか、ますます謎は深まり、皆が頭をひねるという展開になっています。さらに今日の箇所では、「いのちのパン」も重要だが、誰がイエスさまを裏切り、誰が天国に行くのかはもう決まっているし、神から声がかからなかった人は残念でしたねとも聞こえ、こんな話には耐えられないと、たくさんのお弟子が離れ去っていきます。
わたしたちからすると、じかにイエスさまと一緒に行動し、その働きや言葉に触れたにもかかわらず、イエスさまに見切りをつけて離れていくとは、なんだか「もったいない」気がしますが、離れて行った人々にとっては、期待とは何かが違ったのでしょう。イエスさまと一緒にいれば「奇跡」を起こせるようになり、社会変革ができると期待していた人もいたかもしれません。あるいは、イエスさまがこんなに頼りない人とは知らなかったと、落胆のうちに離れた人もいたでしょう。また、イエスさまの言われることが今ひとつ理解できず、これ以上一緒に居てもラチがあかないと思った人もいたでしょう。それよりもっと重要なことがあると、そちらへ心を切り替えた人もいたかもしれません。
イエスさまから離れた人=神さまから離れた人と置き換えるのは、少し乱暴な気もしますが、でも「今はそれどころじゃない」と、神さまを一旦脇に置いて、「もっと重要なこと」を最優先するような行動をとり、心を神さまから離してしまうような状態は、日常生活では頻繁に起こっているのかもしれません。そういう意味で、イエスさまを見捨てて離れていった元お弟子さんたちの行動は、ひょっとしたら他人事ではないのだと思います。
しかしながら、イエスさまの言葉を聞いて離れて行った人々が、それぞれの機が熟して、恵みと希望に満ちた言葉を再び聞こうと立ち返ってきた時に、その人を拒絶するような神さまではないと、イエスさまは別の場所で伝えておられます。つまりキリスト教の神さまは、わたしたちに「ふられて」も、ひるむような方ではなく、自己都合で離れていった人に、二度と戻って来るな、などと言う神さまではありません。多くの人々がご自分から離れていっても、離れたという事実だけを拡大解釈しないように努めましょう。また、ご自身が神さまから離れても、神さまは見守り続け、待ち続けておられることを心に留めていましょう。
パンを食す人びと
ヨハネによる福音書6:53〜59
2021年8月15日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
皆さんもご存知のように、イエスさまの生き方に共感し、神さまの示す愛を大切なことの中心に置いて生きようとする人が、洗礼を受け教会の構成員となります。もっとも、洗礼を受けても受けなくても、教会の仲間のひとりであることに変わりはないのですが、洗礼を受けると、聖餐式で(頭に手を置いて祈る)祝福ではなくて、「パンとぶどう酒」を受け取ることになります。でもこれは、「会員になると与えられる特権」というよりは、責任の再確認に近く、繰り返しパンとぶどう酒を受けて、イエスさまに倣って生きる決断をしたことを繰り返し思い起こす、という目的を含んでいます。
月島聖公会では現在、聖餐式をお休みするという異常事態ですので、パンとぶどう酒について語れば語るほど、信徒の皆さんは切ない気持ちになるかもしれません。でも今は聖餐式を行うことが出来ないからこそ、そこに込められた意味を想い起こす必要があるのでしょう。そして、どんな状態に在っても、イエスさまはわたしたちと共に歩んでくださると確信することにより、今日も立ち上がり顔を上げて前に進むことができるのだと覚えましょう。また、こんなふうに恵みを受けている者は、目には見えない恵みを、自分ひとりのために消費し完結させるのではなく、ひとりでも多くの人々と分かち合うために、一時的にお預かりしているに過ぎないという点も忘れてはならないことでしょう。一時預りをした恵みを分かち合う機能として、「教会」が存在するということも、心に留める必要があると思うのです。
イエスさまが言っておられる「パン」は、米を主食とするアジアでは「ごはん」と訳した方が良いのかもしれません。(韓国の金芝河という詩人は、聖書に登場するパンを「飯」(めし)と言い換え、「飯が天国だ」という詩を書いています)。物質的な「ごはん」は、食べてしばらくすると、また食べなければならず、そしてそれは何らかのかたちで死ぬまで続きます。一方、イエスさまがくださる天国の「ごはん」も、一回食せば一生やっていけるというものではないのでしょう。それは天国の「ごはん」に力がないからではなく、自分の弱さや情けなさ、あるいは腹黒さと共存しながら、この世で生きているわたしたちには、繰り返し目視確認できる「天国のごはん」が必要だからなのでしょう。でもそれは、欲望に駆られ中毒的に「天国のパン」を欲するということとは異なります。この世で生きて愛して、公共の善のために働くために、わたしたちは繰り返し、神さまの愛に支えられていることを、触れて見えて確認できるかたちを通じて思い出し、心が支えられる、それが命のパンなのだと思います。
自分の心に聴かない人々
ヨハネによる福音書6:37〜51
2021年8月8日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
コロナ禍と並行して、何がほんとうで、何がごまかしなのかを、わかりにくくする病気が流行っているようです。もっともその病気は前からありましたが、コロナ禍の広がりとともに、その姿が見えやすくなってきたのかもしれません。この病気にかかると、その場限りの言い訳で切り抜ける技が上達し、あとで辻褄が合わなくなっても一向に心は痛まなくなります。実際は自分と他人をだましながら生きているのですが、自分では「うまくやっている」という思い込みを駆使して切り抜けることができます。
先日、少し遠くへ出かけた帰りに嫌な光景を目にしました。時刻は夕暮れ。信号が青に変わるのを待ちたくさんの人が交差点で待機していましたが、やがてそこに救急車のサイレン音が近づいてきたのです。救急車は、信号がすでに黄色になりかけていたこともあり、減速しながら交差点に差しかかりました。すると歩行者側の信号がパッと青になったとたん、自転車に乗った中高生の群れ、数組の子ども連れの家族、そして左折を待ってウインカーを出していた車が、一斉に飛び出しました。まるで「青だから私に権利がある」と主張するように。結局、救急車はしばらく停止し、道路を渡り切った人々や車がはけてから走り去って行きました。
この話は嫌というよりは、悲しい話なのかもしれません。こういった行動をとってしまう人々の中には、救急車と自分は一生無縁と決めているか、道路交通法について知らない人もいるのでしょう。また他者の命を危険に晒しても道路を渡る必要があったのかもしれません。悪意なく救急車を止める遊びをしていただけかもしれません。そんな個々の背景は別として、私が気になるのは、「みんな渡っているから」「自分は咎められない」と、救急車の活動を集団で遮ることに躊躇しなかった人たちの心の中です。救急車を止めても、大人のそんな行動を子どもたちが見ていても、「たいしたことじゃない」と自分に言い訳した人たちの将来です。
今日の福音書で「つぶやき合う」人々は、物事の本質ではなく、枝葉に言及することにより、自分も周りも言いくるめることで、その場を乗り切ろうとしています。イエスさまが信仰にかかわる話をしているのに、非難の対象にはならないことを見越して「そもそも大工の息子だし無学なはず」と言う。何の話をしているのか自分の心や頭では受け止めず、無学なイエスから教えを聞くのは不快だし、それを口に出しても、皆の賛同を得られると確信しての言動です。イエスさまから聞く必要はないと判断したのなら仕方がないと思いますが、身の安全を確保した上でのみ、このような言動に至る姿は、夕暮れの中で救急車を止めた人々と重なります。救急車の中ではどんな苦しみや痛みと闘っている人がいるのか、それを想像できないような生き方は、イエスさまは望んでおられないと思います。
欲望と望みの識別
ヨハネによる福音書6:24〜35
出エジプト記16:2〜4、9〜15
2021年8月1日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「幸せになりたい!」これは、万人の望むところなのでしょう。こうしたい、こうなりたいという、自分が幸せになる具体的な事柄を思い描く渇望もあれば、今、苦しんでいる事柄が過ぎれば、今、抱えている辛い問題が解決すれば自分は幸せになれるのに、といった消去法のような望みを持つこともあるのかもしれません。あるいはさらに直接的に、もっとお金があれば、もっと時間があれば、もっと体力があれば幸せになる、と考える時もあるでしょう。
しかし、達成すれば幸せになると信じていた事柄が手に入ってしまうと、急にそれらが色褪せてきて、それでも心は満たされないという現実に直面することになります。それはまさに、以下の本日の旧約聖書の出エジプトの物語そのままです。
イスラエルの人々が元々住んでいた土地がありましたが、そこに大飢饉が襲ったため、食糧のある外国に移住して400年の月日が流れました。当初は外国人であるイスラエル人を快く受け入れていた人々も、何世代も経つと、助け合った歴史や経緯を理解できなくなり、言葉や文化の異なる人々を疎ましく思うようになります。やがて彼らに対する強制労働や嬰児殺害なども法令化され、イスラエル民族は抹殺の危機に晒されます。たとえ生きていても、代々奴隷以外にはなれないことを知った時、皆でエジプトを出ていく「出エジプト」を決断します。
ところが、追手に捕まり逮捕され虐殺される危険が去ると、すぐに人々はこのように言い始めます、「奴隷でいる方が良かった、肉もふんだんに食べられたから」「パンを腹一杯食べられるエジプトで死んだ方がマシだった」と。このあとも長い旅は続き、にんにくや玉ねぎが手に入るエジプトへ戻りたいと不満を訴える場面や、神さまの代わりに拝みたいと、金で仔牛を鋳造させるなどまでして、なんとかして「幸せ」になろうとあがく人々の姿を、聖書は赤裸々に記します。しかし的はずれの欲望は、いくら満たしても幸せに至ることはありません。
わたしたちが「幸せになろう」と努力するのは、決してまちがっていないと思います。こうしたい、ああしたいと尽力することにより、社会や周りの人を助けられることもあるでしょう。ただ、とりあえず心の中にある欲望を満たすことと、これだけはどうしても譲れないという真の望みとを、はっきりと識別する必要があると思うのです。真の望みは、本人でさえまだ気がついていないこともあります。また、気がついてしまったら、社会生活を送る上で不都合なので、なるべく気がつきたくないという場合もあるでしょう。そして、イエスさまが「命のパン」と呼び、決して飢えることがないと約束される「パン」を得ることこそが、わたしたちの真の望みであり、「幸せ」に生きる道であるとも聖書は記します。その「パン」とは何か?イエスさまが教えてくださった道、つまり神さまに信頼し、徹底して愛に生きる生き方を最後まで全うすること。それが真の望みであり、「パン」の中身ではないかと私は思います。
お祈りの目的
マルコによる福音書6:45〜52
2021年7月25日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今週の「特祷」(日曜日〜土曜日に用いるその週の祈り)で、「〜全能の神よ、あなたは常にわたしたちの祈りに先立って聞き、わたしたちが願うよりも多く与えようとしておられます」と祈ります。神さまはわたしたちを理解しておられ、お願いした内容を越えてはるかに豊かな恵みを与えてくださると言っています。でもそれは、わたしたちがいちいち祈らなくても、神さまはお願いの内容をご存知なので、あえて祈る必要はありません、と言っているのではないでしょう。「祈り」の果実は、神さまがこちらの願いどおりに何かをしてくれたかどうかで測るのではなく、わたしたちがおそれおののきつつ、つたない祈りの言葉をもって神さまのみ前に立つ時初めて、自身が抱える痛みと望みに真に向き合うことができる、ということで測るべきなのではないかと思うのです。
またまた自分の子ども時代の話で恐縮ですが、家族や親戚一同けっこう身の周りに、病いを持つ人が多くいました。医者へ行っても不調の原因はわからない、ずっと治らないのかもしれない、とりあえず薬を飲み続けても一向に良くはならないという重圧は、時には人を不機嫌にします。皆が集まった時、病気についての言い争いに加え、「誰が病人の世話をするか」を押し付け合う場面も、幾度となくありました。また、トバッチリはこちらにも飛んできて、「子どもは気楽でいいよね」「どうせ人にはわからない」などと愚痴は続き、その締め括りは「まあ、あなたにはわからないよね」です。真剣に聞いていた(つもりの)自分がバカみたいでとても悔しく「あの人たちの気持ちがわかるようにしてください」などと祈ってもみました。でもこれは、彼らを理解したい、痛みと苦しみに寄り添いたい、などという気持ちとはかけ離れたものであって、頭に来た言葉に一矢報いたかっただけなのです。そして、あれからとても長い時間を経て、人々の心の奥に沈んでいる深い悲しみと痛みに向き合いたいと願うようになり、それは同時に、澱のようによどむ、ひとりではとても手をつけられない自身の傷と向き合うことにもなりました。祈りの出発点は、仕返しのような幼稚な動機でしたが、神さまはわたしを真の願いへと導いてくださいました。
今日の福音書では、イエスさまが「湖の上を歩いた」ことばかりが気になったお弟子さんたちの姿も垣間見えますが、ある意味そのような見当違いの驚きの中にいる、困り悩んでいるお弟子たちの元へ、イエスさまから近づいて行かれたことを記しています。お弟子さんたちが、真の願いや祈りに至るのはまだ先のようですが、イエスさまは諦めることなく、一緒におられました。きっとわたしたちも同じです。たとえ間違った方向で祈り続け、勘違いの願いにしがみつき、神さまにああしろこうしろと迫っても、わたしたちを愛で包み、諦めずに導いてくださる神さまに信頼し、自分の言葉で真摯に祈ってみましょう。
五つのパンと二匹の魚
マルコによる福音書6:30〜44
2021年7月19日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまについて来た5千を越える人々が、5つのパンと2匹の魚をみんなで分けて食べたら満腹になり、余ったパンと魚を集めたら、「12のカゴにいっぱいになった」というこの不思議な物語は、4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)すべてに登場します。「たった5つのパンと2匹の魚だけで、5千人もの人を満腹させた、すごいイエスさまを信じましょう」と言っているような圧も感じますが、でも福音書全体から伝わってくるイエスさまの人柄からすると、特別な力を誇示したり、奇跡を行って皆を唸らせたりすることを目的に、何かをしてみせる人物とは思えないのです。さらに言うと、「深いあわれみ」をもって関わり、彼らのどうすることもできない悲しみや痛みを受け止めたイエスさまなのに、数時間後には再び飢えることを知りながら、この人々のおなかを一時的に満たすことで、結局何をしようとされたのか、そしてそれがどのように現代に生きるわたしたちにとっての「良い知らせ=福音」となりうるのか、よくわからない気持ちになったりもします。
皆さまにとっても、読むたびにいろいろなメッセージをいただく箇所だと思いますが、今回は、私は数字が気になりました。まず「5つのパンと2匹の魚」に登場する「5」と「2」ですが、いずれも「不完全さ」や「何かが足りない状態」のシンボルなのだそうです。ことに「5」は、人間の肉体の持つ限界、またいつか終わるいのちも暗示させます。さらに、「キリストの傷」という意味もあるとのことです。また「2」は、「争い」や「大地」を表す数字。いまだに戦乱に苦しむ国々はありますが、他国の支配に翻弄され、部族間の戦闘に巻き込まれる苦しみが、当時もあったことを思い起こさせます。一方「12」というと、旧約聖書のイスラエル12部族を思い起こすように、「完全に満たされた」状態や、「完成」「自然世界の完成」を表すとのこと。
こんな数字の目をもって、今日の福音書をもう一度おさらいすると、こんなふうに見えてきました。まずイエスさまについて来た「5」千人の人々がいます(人数の表現ですが、ギリシア語ではその場に女性がいても、全体を男性に代表させて「男性が何人」という言い方をします)。この人々は、いろいろな目的で来ていたことでしょう。生きる意味を失った人もいたし、家族の病気を治してほしいと願っている人もいたことでしょう、また単に興味本位の人もいたかもしれません。いずれにしても、手放しでは喜べない現実を抱えたまま、自分の弱さや情けなさ、そして悲しみや痛みを持ったまま、イエスさまの元に集まってきた人々です。
どこから急に出てきたのか、マルコによる福音書には書かれていませんが、当時の庶民が食べる「5」つの大麦のパンと、「2」匹の干した魚が、お弟子さんたちによって確認されます。集まった人々が草の上に座って落ち着くと、イエスさまはパンと魚を手にとり、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」配るように言います。まるで聖餐式です。人々が落ち着いて座るだけでも、かなりの時間がかかったでしょうし、さらに分配にも時間がかかったことでしょう。5千人の群衆の端っこにいた人々には、何のために待たされているのか、ほとんど伝わらなかったかもしれません。中には、「パンと魚を配っている」ことがわかっても、自分のところに回ってくるはずがないと諦めていた人もいたことでしょう。しかし、驚くべきことに食べ物の奪い合いもケンカも起きず、すべての人が食べ物を分かち合い、身も心も満たされ、しかもその恵みは、完全数である「12」のカゴを満たすほどだったと記されています。
わたしたちは、5や2が示す限界を持った存在です。そして、どのように言い訳をしても、取り繕っても、自分の弱さや不完全さは常について回ります。でもイエスさまは、そんなわたしたちの5や2を切り捨てるのではなく、認めてくださり、そしてそれらを祈って、愛で包んでくださる。するとわたしたちの存在は、自分の努力ではどうにもならなかった限界を超え、想像もしなかった豊かな恵みでいっぱいに満たされる。つまり神さまは、不完全さの象徴である「5つのパンと2匹の魚」を用いてでも、わたしたちに愛を伝えてくださろうとしている、という話ではないかと思うのです。そんなわたしたちに出来ることは、草の上に落ち着いて座り、必要以上に不安になったり心配したりせずに、神さまは必ずわたしの心と身体を養ってくださると信じること。そしてそれは、わたしたちが想像する以上に豊かな恵みであること。そんなことを伝える物語なのではないでしょうか。
宣教と言うこと
マルコによる福音書6:7〜13
2021年7月11日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書は、ずばりキリスト教の「宣教」について。宣教の理念やヴィジョンといったことではなく、イエスさまがお弟子さんたちに具体的な指示を出した、まさに「マニュアル」そのものです。旅行の現実的装備に始まり、一人ではなく二人で出かけること、村に到着したらあちこちの家を渡り歩かないこと。一方、聴く耳のない村では「足の裏の埃を払い落として」出ていくようにといった簡潔な内容ですが、旅の理念や目的をも示す素晴らしいマニュアルです。しかしながら、便利で安全な生活に慣れ過ぎたわたしたちにとっては、あり得ない内容です。
旅の行き先は、はっきり決まっていない。村に着いても誰に会えばいいのかわからない。困った時にどこに助けを求めたらいいのかもわからない。そもそもお金も食料も水も持ち歩いてはならず、たとえ何かを盗られてもスペアの下着すらない。そして、自分の身を守るものと言ったら、履物と杖のみ。旅じゃなくて肝試しですかと問いたくなるくらい、不安は募ります。
物質的には何も持たないという、その無防備さの一方で、お弟子さんたちは、汚れた霊に対する権能と、人々を悔い改めへと導く言葉と祈りを与えられています。彼らは、この2つだけを握りしめ、イエスさまへの信頼を唯一の手がかりとして、多くの悪霊を追い出し、多くの病人を癒すという果実が与えられたと、聖書は記します。
わたしたちが「宣教」という言葉を心に思い浮かべる時、聖書の言葉をたくさん使い、ひとりでも多くの人が洗礼を受けたいと思うように道を備える、というようなイメージがあるかもしれません。それはそれで一つの方法なのでしょうが、宣教とはこのように、非常にシンプルなものなのではないでしょうか。イエスさまの言われた言葉をまさに心の真ん中に置き、世界の事柄すべては神さまが治めておられると本気で信じて、人々の真の必要に応えていくこと、それに他ならないのではないでしょうか。イエスさまの言葉を信じるなら、お弟子さんたちと行動を共にするなら、悪霊や病気から解放してあげよう、という交換条件付きの活動ではなく、何のメリットもないのに、感謝さえされないのに、人々が生きていくために尽力するという行動こそが、イエスさまが示される宣教なのではないかと思うのです。杖と履物以外は何も持たずに、神さまに信頼し従っていく。その姿勢が人を変え、状況を変えていく力になっていくのだと思います。
過小評価の難
マルコによる福音書6:1〜6
2021年7月4日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子 自分の話で恐縮ですが、手土産を持参して相手に渡すとき、「つまらないものですが」という言葉を添える大人の情景に、違和感を感じていた子どもでした。本当に「つまらないもの」と思っているなら、相手に差し上げるのは失礼だと思う一方、贈り物について相手が過剰な期待を持たないための配慮?とも思いましたが、でもそれはそれで自己防衛の一環。自分を貶めることにより、相手をいい気持ちにさせたのだとする慣習は、果たして真の「謙譲の美徳」なのかどうか疑問もあり、いまだに不得意分野のひとつです。
そんな「過小評価」の場面は、聖書の中にもしばしば現れます。例えば、旧約聖書の「私は雄弁ではありません。本当に口の重い者です」と何度も食い下がり、神の命令を頑なに拒もうとするモーセの話があります。自分は口下手だからその務めに相応しくない、と言っていたのかもしれませんが、それよりは、神が言ったことを皆に伝えて、「そんなとんでもないことを!」と、馬鹿にされるのを避けたい気持ちがあったのではないかと思うのです。民衆からの「過小評価」が怖くて、先に「私は口の重い者なので」と神さまにお断りすることで、部分的過小評価で済まそうとする自己保身を感じます。一方、今日の福音書では、「この人は大工ではないか。マリアの息子ではないか」(直訳=この人は、石工でもマリアの子でもないって言うのか?!)という言い方がありますが、石工でありマリアの私生児である「イエス」が、知識や見識に優れているはずはないと決めつける、イエスさまが育った村の人々による過小評価の姿が描かれています。
問題なのは、社会的地位のない人や声の小さい人に対しては、あまり考えもせず簡単に「過小評価」をするのに、自分より強い立場にある人と対峙した途端、相手を「過大評価」することで、自分を守った気分になることなのではないかと思うのです。言葉を変えれば、「過大評価」をする人は簡単に「過小評価」もするし、それは相手ときちんと出会わない常套手段にもなります。他人に対しても、自分に対しても過大評価と過小評価を繰り返し、目の前に居る人をそのまま、まるごと受け止めようとしない在り様は、イエスさまの生き方と対極を為すものでしょう。口で言うほど簡単ではないかもしれませんが、わたしたちも、過大評価と過小評価のはざまで、オロオロするだけではなくて、神さまによって創られた唯一無二の存在である自分と他者を、まるごと受け止められるようになりたい、と願っています。
「タリタ、クム」
マルコによる福音書5:22〜24、 35b~43
2021年6月27日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「少女よ、あなたに言う、立ち上がれ」という意味のこのアラム語は、イエスさまが実際に言われたとされる、聖書に残る言葉の一つですが、ギリシア語を話す人には、そのままではわからなかったらしく、原語とギリシア語が併記されています。またこの少女の話は、サンドイッチのパンの部分で、真ん中の具に当たる部分には、「長血を患う女性」の話が存在するのですが、今日の日課からは省かれています。一番大事なエピソードを、作品の中盤に据え、前後を別の挿話で挟むというスタイルは、度々聖書にも登場しますが、それにしても、病気が治り、少女が生き返るなど、現代に生きるわたしたちにとっては、かなり非科学的な箇所。どうしてこれが「良い知らせ」となり得るのか、頭を抱える難所でもあります。
本日の聖書日課から「長血の女性」の物語を省く理由はさて置き、記者は、「治った/生き返った」ことに驚嘆しているのではなく、絶対的に守らねばならなかったはずの「律法」の垣根を、あっさり越えるイエスさまの行動を、伝えたかったのかもしれないと思うのです。亡くなった少女の遺体は、「穢れ」なので、触れてはいけないと「律法」に書かれています。生理中の女性も「穢れ」とされ、触れてはならない対象です。そしてこの女性は、12年間ずっと出血が止まらなかったとあるので、論外の「穢れ」とみなされてきたことでしょう。律法を大切なものとして守り、我こそは神のみ旨に添って生きてきたと自負する人々にとっては、穢れた女性に自分の服を掴まれても全然平気なばかりか祝福まで与え、息を引き取った少女の遺体の両手を直接つかみ、語りかけるといった行動は、ユダヤ人男性としてあるまじき行動に映り、今まで守ってきた文化や秩序を破壊されたと感じたかもしれません。
わたしたちが住む社会でも、こんな「律法」のような働きをする掟が存在すると思います。苦しむ人の存在を知っても、掟を破ると厄介なことになるので、その人とかかわらないことを選ぶことがあります。孤立している人がいても、掟によると自分は非難されないと確認できると、気がつかなかったフリをすることもできます。でもそんなときにこそ、イエスさまだったらどうしていただろうかと、少しだけ考えてみたいのです。それは、言葉を変えれば今日の特祷にもあるように、神がこの世を治めていることを思い出したいのです。いろいろな決まりや掟は、最初は理由があって作られ、人々を守るためにスタートしたはずなのですが、時は流れ流れ、「人を守る」よりも、掟そのものが優先される常識に凝り固まった社会で、イエスさまはその垣根を越えて、本来の目的、つまり「人を守る」ところへ立ち戻られたのでしょう。自分の無力さに絶望することの多い昨今ですが、この世を見守っているのがどなたなのか、忘れないでいたいと思います。
あらしの中でも
マルコによる福音書4:35〜41
2021年6月20日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
40年ほど前、東京教区主催の第一回小笠原キャンプに参加したことがあります。竹芝桟橋から出航、船中2泊を経てやっと東京都小笠原村に到着しました(今はもっと速くなりました)が、伊豆諸島を過ぎたあたりからひどい揺れが始まり、まるで急上下するエレベーターに乗っているよう。夜も眠れないだけではなく、一同はひどい船酔にかかり、大広間で横になることも出来ず、それこそトイレから離れられないような、なかなかの船旅となりました。帰りもまた同じ船で2泊3日を過ごし、東京に戻らねばならないことを思うと、その時はキャンプに参加したこと自体を後悔していました。
距離は全然ちがいますが、イエスさまとお弟子さんたちにとって、活動の拠点だったガリラヤ湖の村々を訪ねるには、徒歩に加え船も移動手段だったようです。周りを山々に囲まれた盆地という地形のゆえ、今でもガリラヤ湖では急に突風が吹き、転覆する船もあると聞きました。それにしても船がひどく揺れ、波をかぶって水浸しとなった船内では、お弟子さんたちは眠るどころではなく、沈むかもしれない心配と、真っ暗な波間に突然放り出される不安とで、パニック状態だったのかもしれません。
嵐のような天候の中で、お弟子さんたちは非難するかのように「私たちが溺れてもかまわないのですか」と言って、眠っているイエスさまを起こします。「危ないですから起きてください」ではなく、わたしが溺死しそうなのに眠っているなんてひどいですよ、ともとれるセリフです。危機的状況に直面した時に、その人の本性が出るとは、よく言われることですが、この発言をしたお弟子さんも、自身の一番弱い面が露呈し、呑気に眠っているなんて!とイエスさまを非難する口調になってしまったのでしょう。
わたしたちも、こんなふうに他人や自分自身を非難の対象にしてしまうことがあると思います。そして、危機的な渦のまっただ中にいるとき、何が問題だったのか、何をこれから変えていくべきなのかを、冷静に判断するのはとても難しいことを知っているのに、なんとか理屈をつけて短絡的に何かのせいにしようとします。でもそれは、自分の小ささの裏返しと、小ささを認めたくないという気持ちの表れなのだと思います。
わたしたちの小ささは、わたしたち自身の弱さです。でもそれを自分だけでなんとかしようとするところに、まちがいの分岐点があるのではないでしょうか。わたしたちの弱さを無きものにするのではなく、神さまは、弱さをも含めてわたしたちを愛してくださることを想い起こし、嵐の中でも大風の中でも、必要以上に慌てふためくことのないように、心を整えたいと思います。
からしだね
マルコによる福音書4:26〜34
2021年6月13日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
月島聖公会の教会報の名称でもある「からしだね」は、新約聖書に登場します。現在の黒ガラシ(マスタード)の種と関係があると言われ、種の大きさは0.5ミリ程度、息を吹きかけると粉のように飛ぶほど小さいとされています。そんな小さな種であるにもかかわらず、成長すると茎がするすると伸びて5mに達することがあり、黄色の可憐な花が咲いた後に採取される種は、絞ると良質の油がとれ、残った茎と殻は家畜の飼料に使用された、そんな便利な植物だったようです。でも聖書は、マスタードの利便性ではなく、指先でつまめないほどの小さな種が、5mもの藪を形成する生命力に目を留め、それを「神の国」にたとえています。
ではいったい「神の国」とは何なのでしょうか。「神の国」は、神さまが清く正しいと認めた「選ばれし者」だけが市民権を得られる国家のようなもの、と考える方もおられるかもしれません。またあるいは、この世の生涯を終えたら、わたしたちを迎え入れてくれる「天国」のようなもの、という感じ方もあることでしょう。何しろ誰も目で見たことがないので、こうだ!と言い切れないところがありますが、私が気になるのは、この吹けば飛ぶような「からし種」が、綺麗な箱に丁重に納められ大事に保管されるという話ではなく、土に植えられて初めて真価と生命力が発揮されるという点です。地面には、動物や虫の死骸や腐った植物、それに人間の排泄物さえ混じっていたかもしれません。また、種が無事に発芽する保証はなく、芽が出ても踏み潰されたり、動物に掘り起こされたりして、その命が断たれる危険にも満ちていたことでしょう。それでも残った種が、土の中で奇跡を起こしていきます。
つまり「神の国」は、はるか遠くの清浄な場所に存在するのではなく、捨てられたものや、人々が不要となったもので構成される、まさに泥の中で、目に見える生命へと転身していきます。それはわたしたちが「清く正しくなったら」近づいてくる国ではなく、まさにわたしたちの混沌と無秩序と的はずれに満ちたこの日常のまっただ中に、神さまは諦めることなく種を撒き続けてくださる。わたしたちが踏み潰しても蹴散らしても、種の命をないがしろにしても、何百倍もの豊かな実を結ぶ生命を播き続けてくださる、ということなのではないかと思うのです。言い方を変えれば、わたしたちが目をそむけたいこと、自分ではとても受け止め切れないような痛みや苦しみ、無かったことにしたいような辛い歴史も、神さまはすべて愛をもって受け止め、それらすべてを用いて、わたしたちが想像もしなかったような豊かな実を結ばせてくださるということなのではないでしょうか。それに対してわたしたちが出来ることは、からし種の存在を認め、その成長を邪魔しないことなのではないでしょうか。
識別するちから
マルコによる福音書3:20〜35
2021年6月6日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまは、当時の社会の中でしばしば「気が変な人」「汚れた霊に取り憑かれている人」と噂されていたようです。それは、正規の教育を受けたわけでもないのに、その道のプロである律法学者や祭司たちと議論したり、神さまはこういう方だと反論したりする行為は正気の沙汰ではないとみなされていたからだと思います。生まれ育ったユダヤ教の文化に順応できる人が「人として能力が高い」とみなされ、順応できないかあるいは違うことを言い出すような人々は、伝統と文化を破壊する「汚れた霊」に属する者と考えられていたことも関係しているのでしょう。イエスさまは、「人として能力が高い」どころか、親戚が身柄を拘束しにくるほどの「気が変になっている人」とみなされていたことを聖書は記しています。
少し話はちがいますが、昔、ある病院のチャプレンをしていた時、内科や外科に加え、精神科病棟も担当していました。週に一回60分くらいのセッションを担当し、聖書の物語をグループで読みながら絵や詩で表現し、それをお互いに分かち合うという時間をもっていました。通院ではなく、入院されている皆さんですから、それなりの精神疾患を背負う方々なのですが、セッションの中の絵や詩で表現された様々な気持ちは、とても共感できるものでした。一方、一般社会の中で特段の不便も感じずに、しかし自分の心をねじ曲げて生きている人々のことを思い浮かべると、いったいどちらが「より健康」なのか、だんだんわからなくなっていきました。たとえば、洗礼は受けたけれど愛のない言葉を発して平気な人々、神さまを信じていると言いながら人を欺いても恥じない人々を見ると、幻聴や幻覚に過ぎない「人の評判」を神とし、真実から目を逸らして生きている人のように思えてくるのです。もちろん、医学的診断による幻聴幻覚はとても苦しいもので、きちんと識別するのは大前提でしょう。でも、ひょっとしたら、この社会に生きるのには不便だから、この社会の秩序にケチをつけたと言われたくないから、都合よく目に見えない魂を捻じ曲げて、これで一生やって行けると思い込んでいるとしたら、それはイエス様を拘束しにやってきた親戚たちと同じ穴のムジナだと思うのです。
「見かけ」や人の「評判」に振り回されずに生きることは、とてもむずかしいかもしれません。でもイエスさまの生き方そのものが、あらゆる事柄の「見かけ」ではなく、本質を見るように、わたしたちを促します。そこには簡単なこたえはありませんが、地に足のついた生き方があります。わたしたちが目に見えない本質を見据えようと心を決めるとき、道なき道もずっと一緒に歩いてくださっているイエスさまの姿に目を開かれることでしょう。
聖霊降臨日を祝う
ヨハネによる福音書14:8〜17
2021年5月23日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
クリスマスやイースターのお祝いはなんとなくわかるけれど、ペンテコステは聞いたことがない。イエスさまお誕生の「クリスマス」、亡くなったけれどよみがえる「イースター」は、お祝いとして認知しやすく(サンタとエッグハント?)ても、ペンテコステは何を祝っているのか、今ひとつわからない。そして、この世界を創造した「父なる神」という設定は理解できるし、イエス・キリスト(子なる神)も聖書を読めばどんな活動をしたのかわかるけれども、「聖霊なる神」は何のために必要なのかよくわからない。広く一般の方々と「聖霊なる神」について話題になると、こんな感じの展開が多いです。
それにしても「聖霊なる神」は何処にいるのやら。お祈りをする時も「イエスさまのみ名によって」と締めくくるので、特段に「聖霊なる神」の助けを借りる必要もなし。更に聖霊なる神は、「父と子から出られ」(ニケヤ信経)と唱えられることからも推測できますが、父なる神と子なる神と同時的に「最初から」存在していたわけではない。そして「聖霊が人々に注がれた」という使徒言行録の記事となると、幻覚だったのではないかと疑うほどの不可解さに満ちています。
誌面が限られているので、一足飛びに結論だけ書きたいと思いますが、聖霊なる神のひとつの特徴は、わたしたちの存在と切り離したところにあるのではなく、誤解を恐れずに言えば「すでにわたしたちの一部として今生きている」存在だということです。わたしたちはもれなく「土の器」ですが、神の息を吹き込まれて命を与えられ生かされ、この地上での役割を果たそうと日々闘っています。そして時には、限界を越えるような状況に直面し、とても自分には無理だと思うような課題が立ち塞がることがありますが、マジックでも魔法でもなく、「自分の力」では到底あり得ないような事柄へと導かれ、「こんなことがなぜ出来たのだろう」と驚嘆するような、いわゆる自分が「所有していない」能力が何処からか湧いて来て、本当にびっくりすることがあります。「わたしたちに必要なものはすべて、神さまは与えてくださる」という表現がありますが、それらはわたしたちが「所有する」ために与えられるのではなく、わたしたちの中で働かれる聖霊なる神を阻害しなければ、必要なことはすべて為されるということなのだと思います。
このあと、イエスさまに従う人々は、ほぼ三百年に亘って迫害されます。逮捕され処刑され家族が引き裂かれる、そんな過酷な時間を耐え忍び、イエスさまの生き方が伝え継がれました。今、わたしたちが「神さまの愛」を知ることができること自体、聖霊なる神の働きなのではないでしょうか。
祈ることについて
ヨハネによる福音書17:11b〜19
2021年5月16日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
あまりにも疲れていると、「休んだ方がよい」ということを思いつかないことがあります。また、ひどくがっかりしたり悲しかったりすると、これからどうしていきたいのか、よくわからなくなります。そして、これまで経験したことのない状況に追い込まれると、神さまに何と申し上げたいのかわからなくなり、祈りの言葉さえ失います。じっと座って祈ろうとしても、お祈りの言葉が何も出てこない、という苦しさも体験します。他のプロテスタント教会に比べると、聖公会の教会では「自由祈祷」をする機会があまりなく、しかも『祈祷書』という強い味方があるので、心が整わなくても気持ちがついてこなくても、とりあえずかたちだけ祈ることができてしまいます。しかしそこに依存し過ぎて、かたちばかりを整えることが優先され、淀みなくスラスラと祈祷書を読み進めることでお祈りをしている気分になったりもします。でもそんな時は、どうしたら本当に祈れるのでしょうか。
今日の福音書は、イエスさまがお祈りをしている場面です。教会の暦の上では、イースターと昇天日が過ぎ、まもなく聖霊降臨日を迎えようとしている季節なので、あたかもイエスさまが復活後にしばらくお弟子さんたちと過ごした後、天に戻るという「昇天日」に因んだ場面のようにも見えますが、実際は十字架刑への逮捕直前の聖書の箇所です。イエスさまご自身は、これから裏切られ磔にされ殺されていくということなのに、ご自分の心配ではなく、残された人々を守ってくださるようにと、神さまに切々と訴えます。わたしには、イエスさまがこれから起きることを想い迷いながら、どう祈ったらよいのか苦しみながら、神さまへの言葉を捜しているようにも思えます。つまり、何を言いたいのか最初から明白で、終始一貫した祈りというよりは、あちこちに引っかかりながら、心に重くのしかかっている事柄を拾いながら、そして紆余曲折しながら、イエスさまにとって「これだけは外せない」こと、つまり、お弟子さんたちだけではなく、貧しい人々、社会的に捨てられた人々を「悪い者から守ってくださる」ようにと、神さまに託す祈りになっています。
わたしたちは祈るとき、先に言葉を選びかたちを整えることを気にし過ぎ、祈祷書に頼り過ぎることに、陥りがちかもしれません。でも、だから駄目なのではなく、それは祈りの入り口なのでしょう。わたしたちは本来「どう祈ったらよいのかわからない」ものではありますが、神さまとお話し(祈り)しているうちに、何を祈りたいのか、何を祈ることを選ぶのか、少しずつ整えられていく気がします。すぐにはイエスさまのように祈れないとしても、迷ったり回り道をしたりしながら、「これだけは外せない」祈りに至りたいと思います。
いのちをかけて伝えられた「愛」
使徒言行録11:19〜30
2021年5月9日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「ステファノの事件をきっかけにして」云々と、今週の聖書日課は始まりますが、ステファノの事件って何でしたっけ、ということになると、そこから前へ進めない気持ちになるかもしれないので、お手元に聖書がない方のために、まずは解説からスタートします。使徒言行録6:1〜7:60にその物語があります。
ステファノは旧約聖書を引用しながら、神の愛のわざを無視し、人間的な欲と野望に従ってきたユダヤ教内の歴史を批判、(イエスの説く愛の福音に耳を貸さなかっただけではなく)ユダヤ教の律法さえ守らなかったと、指導者と民衆に公言します。すると人々は怒り、一斉に彼に襲いかかり殺してしまった。しかしステファノは今際の際に「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで息を引き取ります。
この叫びは「神さま、自分を殺そうとしている人々の罪を赦してあげてください」ということだけではなく、旧約からイエスさまの十字架までずっと、神の愛を悟らず無駄にしてきた「罪」、神の大きなふところを受け止めようともせずに、彼らの思う「伝統」に固執し、その枠に合わないものは排除してきたという「罪」を、これ以上彼らに「存続させないでください」と祈りも含まれていると思います。つまり、神さまが何よりもわたしたち人間に望むことは、お供えものや日々間違いのない生活を守ることではなく、また、人に誇れるような地位や名誉を重んじることではなく、「神に愛されている」という呼びかけを心の底から信じる生き方であり、また、人々の間で愛を実践して生きることをすべての行動の基礎に据えることを、神のみ心として悟れるようお導きください、ということではなかったかと。
今日の日課に話を戻しますが、そんな背景の「ステファノの事件」の後、不思議なことにまるで時を待っていたかのように、あちらこちらの地方で迫害がおき、人々は分断され連絡がとりにくくなります。一方、同時に「福音を語る人々」もあちこちで広がっていきます。しばらくの間、人々は大混乱と先の見えない困惑の中で苦しみ、不安を増大させ、時には何もかも投げ出してしまいたくなる誘惑とも戦い、そして実際に諦めてしまった人もいたことでしょう。でも、その混乱の中で「キリスト者」という概念が生まれてきたと、聖書は記します。それは、イエス・キリストに従う人、愛に生きようとする人、という意味と考えていいでしょう。愛がすべてに優先することに気がつき、それを実践して生きる人々が連帯した時、流れは大きく変化していきます。私利私欲を越えて、人々はお互いに助け合います。このようなプロセスを経て伝えられた神さまの愛。わたしたちはどのように、それを実践しましょうか。
イエスと共に歩む道は
ヨハネによる福音書14:15〜21
2021年5月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
人生を歩む姿を、山登りにたとえることがあるようです。美しい大自然の中に居ながらも、それを愛でる余裕がないほど傾斜が激しい場所もあり、危険や怪我とも隣合わせ。時には人に助けられたり、思いがけない出会いや別れがあったりしますが、粛々と真理や幸福に象徴される「山頂」を目指すものであると。そして才覚があれば、広くて歩きやすい道を見つけることもできるし、不運に見舞われれば予定外の藪漕ぎで時間を浪費したと感じることもある、でも頑張って登り続けるのが人生、といったところなのでしょう。
一方、この山登りのたとえを、一定の宗教を信じる人々に置き換えて語られることがあると思います。神や信仰といった山頂を目指し、それぞれが信じる宗教を唯一の登山道と思い込んで山登りをしていると。どの道を選んでも、結局は同じ場所に着くのだから、いずれも似たり寄ったりなのではないか。言い方を変えれば、何を信じてもあまり変わりはないのだから、ひとつの立場に固執するよりは、適当な距離を保ちつつみんなと仲良く過ごして、上手に行動すれば目的地に到着できるものだ、とも聞こえます。
生きている中で様々な出来事が起こり、判断ができないほど疲れ果ててしまうこともあるし、迫りくる危険を未然に防ぐために、常に気を張り詰めているのもくたびれます。そんな時、偶然出会った人や集団と一緒に行動することで、慰められたり、癒されたりすることもあり、なんという親切な人たちだろうと、感動することさえあるでしょう。なりゆきにまかせてしばらく身を置き、その主張を受け入れるかどうかはわからないけれど、元気を回復するまでしばらく一緒に歩んで様子を見ようとするのは、自然なことかもしれません。
少し強引かもしれませんが、わたしたち教会は、このような「とりあえず」の人々を迎える側なのだと思います。心や魂が乾く苦しみ、日常の様々な疑問あるいは突破口をさがす方々を迎えた時、心の糧になるものを分かち合うお手伝いをして、やがて再び元気を回復して立ち上がる姿を見る。それだけで充分に嬉しいですが、でも、その先が必要なのだと思います。わたしたちは、仲良く和やかに過ごすための集団ではなく、イエス・キリストというルートを選び、イエスさまが示された道を歩もうと、決意しているものです。何故、わたしたちにとってその生き方が大切なのか、元気を回復した人々には伝わらなくてはならないと思うのです。イエスさまご自身は、山を登ろうとした人ではなく、地に降りて来て、社会の中で底辺を這いずり回っている人と一緒に過ごし、痛みを分かち合おうとする人生を選ばれました。イエスさまとともに歩む道へ招かれているわたしたちもまた、いわゆる頂上を目指す道ではなく、地に降りて痛みを分かちあうお手伝いの道を選び続けることができたらと思います。
囲いに入っていない羊
ヨハネによる福音書10:11〜16
2021年4月25日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今年に入ってからずっと礼拝は行われていないので、「礼拝を休止したまま」でいる事への様々な不安が蓄積していると思います。礼拝をしていない教会はまるで呼吸が止まったようだし、聖餐にしばらく与っていない自分の心や魂は枯渇しているし、それにしても教会に連なっていた皆さんはご無事だろうかと心配です。一方、政府の方針もワクチン接種予定も不透明、中途半端な「待機」状態もどれだけ続くのかわからない、そんな言葉にならない不安が大きくわたしたちを覆います。ご商売、殊に飲食/観光等に携わるお仕事をされている方々にとっては不安や枯渇どころか、具体的な危機に直面しておられることを知ると、祈りの中で覚えずにはいられません。またこの隙を利用して利権のための暴挙に出る、命を踏付けにする、といった動きを知ると、自分の身を守り外出を控えているだけでよいのか、と心が痛みます。
まとまりのない前置きでしたが、今日の福音書は「よい羊飼いであるイエス・キリスト」がテーマです。当時の羊飼いという職業は、賃金は安く社会的なステータスも低い「子どもの」仕事。しかしその反面、都市の喧騒を離れ、大自然の中で詩的生活を送るという憧れもあったようです。羊という動物は元来、勝手で頑固で臆病もの。自分勝手な行動をするわりには身を守れず、危険な行動をしても状況を認知せず、指示に従うのを渋り、でも自分が困った時は助けてもらって当然と思っている。まるでわたしたちそのものです。羊飼いは重労働だし割りも合わないのですが、羊のために「命を捨て」「心にかけ」「自分の羊を知る」、そんな「よい羊飼い」たるイエスさまを、聖書は記します。
ここで終わるなら「イエスさまが全部何とかしてくれるから、面倒を見てもらう羊でいよう」ということになりかねないのですが、まだその先があります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも先導していかなければならない」と。「囲いに入っていない」とは、「教会の信徒ではない」とも読めますが、実はもっと広い意味で、民族や宗教や信条を超えた「全ての羊」を示していると言えます。つまり羊がイエスさまを信じても信じていなくても、その羊を知ろうとされ、安全かどうか見守り、たとえ無視されても心にかけ、必要なら命を捨てる、とイエスさまは言います。囲いの中に入りたくない羊や、囲いを認識しない羊も良く知り、心を砕き、時には命を捨てると言われているイエスさまの前で、囲いの中にいるわたしたちが、「わたしたちの面倒だけを見てください」とは言えないのではないでしょうか。礼拝によって励まされる羊は、囲いの外にもおられます。イエスさまは囲いの外の羊も大切にされます。教会は、そのことを伝える責任があるのではないでしょうか。
神様の必死さ
ルカによる福音書24:36b〜48
2021年4月18日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
先週の聖書では、「(亡くなったイエスが現れたなんて)わたしは決して信じない」と言い切るトマスが登場していますが、「信じない」トマスに対するアフターケアとして、イエスさまは再度現れ、「手を伸ばして(十字架上で傷を負った)わき腹に触ってみるように」とうながします。そして今週の聖書では、亡霊が出たとうろたえる弟子たちに、目の前で焼いた魚を食べてみせます。自然科学では説明のつかないことではありますが、「わかってもらえるためなら、何でもする」一連のアクションのようにもみえます。わたしたちに、愛に生き救いの中で生きてほしい、と願う神さまの必死さは、友の傷に「手当て」する、魚を食べる、といった生活の中にある何気ない行動の方が、かえって見えやすいのかもしれません。
十字架の上で亡くなったイエスさまは、他のお弟子さんのところにも、様々なかたちで現れます。他の福音書でもいくつかエピソードがありますが、今日の特祷にある「パンを裂くみ姿」のイエスさまは、ルカによる福音書に登場します。十字架の後、暗い顔をして道を歩いていたお弟子さんは、途中で合流した知らない人に、エルサレムではいったい何があったのですか?と聞かれ、知らないなんておかしいとは思いながら、十字架の出来事をひととおり話します。日が暮れたのでそのまま共に宿泊し食事を始めたところ、その「知らない人」が、実はイエスさまだったことを、パンを裂いて(当時は、包丁で切らずに手で裂いてみんなで分けて食べました)いる時に気がつきます。それは、イエスさまと行動を共にしていた時、毎日繰り返された光景であり、時には多く、時には少なかったパンを皆で分かち合ってきたからです。そしてそれは、生きていらした時も、そして亡くなった後も、いつも共に居て、生きるのに必要なパンを、わたしたちのために常に裂いてくださる「しるし」でもあったと思います。
この世に生きるわたしたちは、ひとりひとりが神の最高傑作であり、神と人とを愛するために、そして愛されることを学ぶために、この世に送られてきました。そういう本来の意味では、わたしたちは「神を思い起こさせる存在」ですが、神そのものではないので、不完全さもたくさん備えています。失敗も繰り返すし、とてもじゃないけれど、自分が「神の作品」とはとても思えない時の方が多いです。でも神さまは、わたしたちをとても大切にしていること、そして特に困難や苦しみの中にある時にこそ心を砕いていること、を伝え続けてこられました。わたしたちが(ラクで得する人生ではなく)真に「幸せ」な生涯を送ることを望み、そのためにずっと呼びかけてこられました。十字架や復活は、神さまがわたしたちと「どんなときでも、今も共に居る」約束のしるしなのだと思います。その神さまの必死さに、わたしたちが少しでも心を向けることができますように。
信じる者になりなさい
ヨハネによる福音書20章19節~31節
2021年4月11日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
何をどうすると、キリスト教を信じていることになるのでしょうか。人によっては、聖書の中の奇跡物語や、病気が瞬時に治った癒しの話などを、文字通り実際に起きた史実として、受け入れることが「信じる」ことだと思う方もおられると思います。また、マリアの「処女降誕」や、イースターの出来事である「死んだイエスさまが生き返る」ことについても、事実だと断言できることが「信じる」証のように感じる場合もあるかもしれません。聖書に書いてあるし、そもそも素直に受け入れられる、という方には、心からの敬意を払いたいと思いますが、「マリアは処女(乙女)だった」とか、「心拍停止していた人が回復した」といった議論については、私はある意味どっちでもよいと思っています。
様々な奇跡は、イエスさまの時代は神秘のベールに包まれていましたが、自然科学的な視点を持つことが一般的である現代においても、論理的に解決しえない事は起き続けています。だから、説明できないことは聖書の時代にあったし、現在も存在するだけのことだと、思考停止するのも一つの手かもしれません。しかしながらもしそこで、論理的説明の難しさを、神さまを神格化するための言い訳にしてしまうと、実はどんどんキリスト教から離れていくのではないかと思うのです。つまり、イエスさまが命がけで伝えようとした神の存在は、わたしたちの理解を超えたスーパーパワーを持ち、何がおきても瞬時に解決してくれるような、支配感あふれ力を振るう神ではないからです。お弟子さんたちも、十字架前夜に至るまで、イエスさまを祀りあげ、支配者権力者のイメージと重ね合わせようとしていた形跡がありますが、わたしたちはそのような間違いを繰り返してはならないと思います。
キリスト教では何を信じているのか、という最初の問いに戻ります。
わたしたちはもれなく「神のイメージを、この世に現わす姿」として造られました。それは疑いもなく神の最高の作品であり、愛すること愛されることを使命の中心に据え、深い喜びと生きることの素晴らしさを分かち合うため、この世に生まれてきました。ところが次第に傷つくことを最も怖れ、それを避けるためなら何でもするようになります。傷つく前に手を打つのが賢いし、そのためには他者を傷つけてもかまわないと思うようになり、人によく思われた方が安全で、一目置かれると安全が保証されるとも思い込みます。このような生き方の問題点は、他人と自分を比較した物差しで「より強くより早くより多く」を目指すため、やがて生きる意味がわからなくなることです。キリスト教の「信じる」とは、何でも鵜呑みにするという意味ではなく、わたしたちは本来「神を現す存在」であり、愛すること愛されることが生きる意味の中心にあると「信じ」ています。それを感じ100%納得する、というのはかなりハードルが高いことでしょう。でも難しいからこそ、ご一緒に考えてみる価値があると思いませんか。
イースター
マルコによる福音書16章1節~8節2021年4月4日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
こんなことは前代未聞でしょう。2年続けてイースターの礼拝が行われないとは、本当にびっくりです。静まりかえった礼拝堂は、まるでイエスさまが甦ったあとの空っぽのお墓のようでもありますが、でも、意気消沈し、茫然と立ち止まっているわけにはいきません。
今、わたしたちそれぞれが、しなければならないことがあると思うのです。それは、神さまが「ひとり子を十字架に架けてまで、伝えようとされた愛と救い」のメッセージが、わたしたちの心と魂に確かに届き、迷うことなく生きる基となっているかどうか、改めて各自がご自身に問うことです。なぜなら信仰とは思考停止ではなく、常にその内容を問い続けられるものであり、神への信頼とは、依存する相手を人から神に置き換えることではないからです。イースターを行事のひとつとして「思考停止」してしまうと、何とかしてわたしたちを救おうとされる、神の切実な想いが埋もれてしまう危険があります。イースターをお祝いするとき、楽しく過ごすことを優先するあまり、茹で卵やご馳走や飾り付けやイベントが「イースターの準備」になってしまっていたとしたら、本末転倒です。
そこで、まずはイエスさまの十字架の意味をもう一度考えましょう。一番優先したいのは、生き難い人、悲しみ苦しんでいる人、自分の辛さなど誰にもわかってもらえないと思っている人々に、神さまのメッセージが届くために、十字架があったということです。自分が苦しみ悶えなくても済むように、遠く離れたところから正論を主張する神ではなく、心の奥深くの痛みを一緒に担おうと、地上に降りて来て、同じ目線に立とうするアクションです。自分には、苦しみが襲ってこないようにと、不幸にして苦しんでいる人を「何かを間違えた人々」というレッテルを貼って遠ざけるのではなく、イエスさま自身が、当時の政治犯に対するのと同じ刑罰を受け、最下層の人々と同じレッテルを貼られ、家族もさんざんな目に遭うことになっても、人々の心の闇まで降りて来て、「あなたのことが大切だ」と告げようとされました。
次に大切なのは、他でもないわたしたちの心の闇に届くメッセージでもあったということです。様々な行き詰まりや困惑は日常茶飯事ですが、いろいろと大人の都合をつけ、毎日がなんとか回っています。ただし、そのために少し目をつぶっている部分、つまりズルをしたり、本当のことを言わなかったり、愛のない行動をしたり、欲にかられたりと、ちょっと神さまには顔向けできないような生活の場面は、大概の場合「無かったこと」にして生きています。もう少し言うと、弱さや情けなさにまみれている自分は切り落とし、そういう自分は存在しなかったことにして、自慢できることや人より優位に立てる部分のみ、陽のあたる場面に置こうとします。そんなわたしたちに、イエスさまはこう言われます。「あなたの全部、まるごとを愛している」
何がおきても、どんなに情けない自分になってしまっても、またたとえ神さまに背を向けたとしても、わたしたちは揺るぎなく、イースターに招かれています。それは、どこか遠くの清く正しい美しい人にだけ用意された救いのプランではなく、自分は清くも正しくもないから、そんなこととは縁がない、と思い込んでいる人々にこそ届けたい、そんな神さまの意志をひしひしと感じます。イエスさまの十字架は必要だったのか。いえ、神さまにとっては必要なかったのです。でもわたしたちが、神さまの愛を知るためには必要でした。イエスさまの復活は不可欠だったのか。いえ、神さまにとっては復活してもしなくても大丈夫でした。でもわたしたちが神さまの愛を信じるには不可欠でした。そうまでしても、わたしたちに幸せに生きてほしい、それがイースターのメッセージの真髄ではないでしょうか。
ゲッセマネ
マルコによる福音書14章32節~15章47節2021年3月28日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の福音書はとても長いですが、イエスさまが十字架にかかる直前の最後の晩なのに、まったく緊張感のないお弟子さんたちの様子がまず描かれています。常に行動を共にし、大事なお話も一番身近で聞いてきたはずなのに、いつか社会の構造をひっくり返してくれるはずと期待しているお弟子たち。イエスさまの最も親しい存在として活動してきたはずなのに、十字架の苦しみの意味と使命については、ぼやけた理解しかないお弟子たち。その晩も、苦しみながら祈っているイエスさまを放置し、眠気に勝てず途中で寝落ちしてしまうお弟子たち。その脇で、これでよかったのか、これが神のご意志なのかと苦しみながら、凍りつくような孤独の中でイエスさまがひとり祈った場所が「ゲッセマネ(の園)」です。
こういう聖書の箇所が続くと、キリスト教は夢も希望もないのか、という気持ちになるかもしれません。十分につらい世界で生きているのだから、聖書くらいせめて明るい話にしてほしいと。でもキリスト教の神さまは、楽しく嬉しく人生がうまくいっている人よりは、生きにくさや不条理さ、辛い目に遭う人や苦しんでいる人、困っている人、悲しんでいる人に、どうも特別の思いやりがあるようなのです。人の助けは不要、自分の力で十分!と信じている人々にとっては、イエスさまの十字架は、励まされ生きていく力を与えられるようなメッセージには、なりにくいのかもしれないと思います。
本日の旧約聖書では、その十字架の本質が語られているようにも感じます。「彼は軽蔑され人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」(イザヤ書52:3)「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」(同52:4)イエスさまは、犯罪をおかしたわけではなく、陰でコッソリわるいことをしていたわけでもないのに、多くの人に誤解され、権力者に利用され、愛を届けてきた人々にさえ憎まれ、寄り添ってきた貧しい人々から遠ざけられ、当時の重罪人が裁きを受ける十字架刑(窒息死)によって、いのちを落とされました。でもこれは、「イエスさまってかわいそう」という話ではなく、わたしたちがたとえ近しい人に誤解され蔑まれ利用され、そして憎まれ孤独のうちに放置された時も、「その痛みを知る神」というメッセージに他ならないのではないでしょうか。本当に辛い時は、自分とかかわりあいになりたい人がいるはずはないと感じます。誰にも言いたくないし、言ったところでわかってもらえないとも思います。多くの場合はそうかもしれませんが、わたしたちの苦しみを高みから見下ろし眺めているのでは神ではなく、自分自身なのかもしれないとも思います。心の暗闇の中を這いずり回っているわたしたちさえ、ひとりぼっちにしない神は、十字架の出来事を通じて、ずっと呼びかけておられると思うのです、「わたしはあなたと共にいる。さあ、ここから一緒に歩もう」と。
回帰不能点
ヨハネによる福音書12章20節~33節2021年3月21日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
「これを過ぎるともう元には戻れない」という、ギリギリの地点あるいは時刻を指す言葉らしいのですが、回帰不能点に来てしまった時に、思わず心が支配されそうになるのは、「この決断は大間違いだったのでは」という、逃げ出したいような恐怖ではないでしょうか。かく言う私も少し身に覚えがあり、忘れもしない三十数年前、「女性は司祭にはなれない」という壁を乗り越えるべく(当時の私としては)あらゆる手を尽くしたのち、弓折れ矢尽きる思いで日本を脱出。皆が気がつく前に逃げ出さないと、誰かが捕まえに来そう(な訳ないのですが)と焦る気持ちと、私の決断に対する非難轟々の嵐はさて置き、「本当にこれでよかったのだろうか」という不安だらけの、いわば“出エジプト”のような出来事がありました。(「出エジプト」記→旧約聖書の最初の方にあります)
その私の体験とは全く比較になりませんが、十字架へと向かう大斎節の聖書箇所は、週を追うごとにイエスさまご自身の意思で、この回帰不能点へと近づいているような印象を受けます。しかも、その先には「一粒の麦として死ぬ」というシナリオしかありません。
先週は「魔法を使ってパンを増やすようなことはしない」神さまのことに触れましたが、不正や悪事を行う人々を、片っ端から退治してくれるような神さまを、もし求めているならば、それはパンを増産する神さまを求めることと、あまり変わらないのではないかと思うのです。つまり漠然とした「ふつうの平和」を求めつつも、何もしなくとも待っていれば、「わるい」人々を征伐してくれるような神さまは、一時的には「平和」をもたらすかもしれませんが、人間の自立を疎外し、自分さえ満足すれば他のことは気にならない、というような人の生き方を増長してしまうのではないでしょうか。私たちが信じようとしているのは、そんな残念な神さまではないはずです。
しかし、聖書の物語を繰り返し読んでみると、イエスさまのお弟子さんたちが軒並み、イエスさまについて思い違いをしている様子が描かれています。イエスさまは繰り返し、ご自分の使命を述べますが、お弟子たちは聞いていないどころか、否定さえしてしまいます。また、十字架の目的を一生懸命分かち合われても、結局のところ、そんなことはあってはならぬ、とさえ思っています。「栄光」の意味も取り違え、いつかきっと、すべての権力を蹴散らして王座に着くような栄光を、イエスさまがもたらし、自分たちもその社会的権威に与れると信じています。それが、イエスさまを信じることだ、とさえ思っています。イエスさまは、弟子たちにも理解されず、孤独のうちに回帰不能点をやがて迎えます。これで本当によかったのだろうかと、不安がなかったはずはありません。お弟子たちを置き去りにしなければならない苦悩もあったことでしょう。それでも、粛々と神さまの計画の中を歩んでいかれます。
「奇跡」の意味
ヨハネによる福音書6章4節~15節2021年3月14日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
5つのパンと2匹の魚しかなかったのに、イエスさまが祝福のお祈りを唱えて分かち合うと、数千人の人がたっぷり食べて満腹し、しかもあまりまで出た、という今日の聖書は、実にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書に登場します。書き手にとって、どうしてもはずせないエピソードだったのでしょうが、このヨハネによる福音書だけが、パンと魚を提供したのは少年だったと記しています。
おなかの空いている人々に食糧が分配されて、みんなが満たされて良かった!とは思えても、イエスさまの「ミラクルパワー」によってパンが増えた、だから神さまはすごい!という論法では、およそ「福音」にはならないでしょう。都合の良い時に世界のあちこちに出現して、パンを増量し回ったりするイエスさまは、なんだか怪しいし、増量されたパンは、その時は口に入るでしょうが、食べたら終わりです。さらに「自分は何もしなくても、パンはやって来るから」というような依存も高めてしまうかもしれません。神さまがそんなひどいことをなさるようには、私には思えないのです。
このお話の理解の仕方は諸説あります。パンが増量されているが、これはパンの話ではなく神の国の話なのだ、とか、この少年はイエスさまを表しており、皆が思いもよらない方法で救いが始まるということだ、とか、親切や慈しみ、思いやりは、分かち合えば合うほど減るものではなく、さらにゆたかになっていくものだ、など。他にもいろいろあって、この限られた誌面ではご紹介にも限界がありますが、皆さんにとってはどういう解釈がストンとおなかに落ちますでしょうか。
私にとっては、この物語のメッセージは、以下のように感じています。
イエスさまのお話を聞こうとついてきた人々もだんだん疲れておなかも空いてきた。でも周りには屈強な大人もたくさんいて、しかも五千人以上。自分が食料を持っていることがうっかり知れたら、取り上げられるか、奪われるか、最悪の場合殺されるかもしれない。暗くなってから、コッソリ自分の腹だけを満たす方が安全と考え、皆、何も持っていないフリをしていた。ところがイエスさまのお弟子さんが困っている様子を見て、純真な一人の男の子は、自分のお弁当を差し出す。それをみんなの真ん中に置いたイエスさまが感謝の祈りを唱え、その小さな食事がどこからやってきたかを紹介すると、大人たちは皆、自分が恥ずかしくなり、持っているものを喜んで差し出し始めた。それを分かち合うと全員が満腹しただけではなく、余りまであった。私たちは皆、必要なものはすでに与えられているのに、それを出し惜しみ、自分だけのために役立てようとするところから悲劇は始まる。私の預かりものは、必要としている人々と分かち合うために、神さまが備え、神さまが授けてくださったものなのではないかと。
かたちと「中身」
ヨハネによる福音書2章13節~22節
2021年3月7日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
本日の聖書(ヨハネ2:13〜)に登場するイエスさまは、穏やかで心優しく、悲しんでいる人や苦しんでいる人にそっと寄り添う、そんな安心できるイメージとは、だいぶかけ離れています。「過越祭」という特別のお祭りゆえ、人がたくさんいた神殿の雑踏の中で、「(商品である)羊や牛を(勝手に)追い出し」「両替人の金を撒き散らし」「台を倒し」、鳩を売っている人にも「出て行け」と言った、と書いてあります。まるで暴徒のようなイエスさまです。
ところで聖書の時代は、神殿に詣でるには、何かとお金がかかりました。日常使う硬貨ではなく、境内で特別な両替をしなければ、献金もできませんでした。家で動物を飼っていても、境内の売店に並べられた動物を生贄として捧げるのが、お約束でした。それらは当然割高でしたから、生活の苦しい人々にとっての神殿詣は高嶺の花、礼拝したくてもとても無理というような構造がありました。しかし、この困った構造も、最初からお金儲けを目的にしたのではなく、「神さまに捧げるならなるべく綺麗なコインで」「傷や病気のない最高の家畜をお捧げしたい」といった気持ちから出発したにちがいないのです。それがいつのまにかエスカレートし、当初の純粋な気持ちは忘れて、「かたち」ばかりがひとり歩き。経済的にも余裕のある階層だけが信仰深いとみなされる、そんなことに対するイエスさまの怒りだったのではないかと思うのです。
「かたち」に囚われ、「かたち」が先行する時に、一番大事なことを忘れたまま進んでいく困った構造が作られるのは、聖書の時代だけではありません。心を込めた本気のお祈りは世界を変えることもありますが、神さまへの信頼なく人前でスラスラ唱えるだけの「かたち」では、人を支えることはできません。何十年も礼拝に欠かさず出席できることは大きな恵みですが、それを“修行達成”のように感じるなら、それは「かたち」への満足感かもしれません。もし“偉い先生”が親戚や知人にいたら、それなりに役に立つかもしれませんが、もし自身の霊的成長に結び付かないのであれば、その方が近くに居ることは「かたち」だけです。
しかしながら、「かたち」がいけないということではありません。かたちがなければ、本質に通じる「中身」は保存しにくく、また客観的に人と分かち合うこともままなりません。福音という、イエスさまが私たちに託した素晴らしい世界、人と人とが尊重しあい、大切にしあう世界の構築を共に担いあうためには、教会という「かたち」を必要としました。聖書は難解で誤記もありますが、神さまが私たちにおっしゃりたい中身を、時空を超えて保つためには、聖書という「かたち」が必要でした。イエスさまは、「かたち」だけで満足してしまうのではなく、その中身に目を向けられるようにと、私たちを招いておられるのではないでしょうか。
「苦しみ」の存在
マルコによる福音書8章31節~39節
2021年2月28日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「もしも神が存在するなら、世界中で起きている様々な苦しみを、どうしてゆるしておくのか」と聞かれることがあります。つまり、あなたが信じる「神」は、人が不幸になるのを止められないような不甲斐ないものであり、そんな非力な神をまだ信じているのか、という意味も含まれているのでしょう。私たちの住む東京にも、そしてもっと近くでも、悲嘆の中で生きざるを得ない人、生きる気力を失いかけている人、あるいは孤独のうちに途方にくれている人、その様々なうめきで、満ち溢れているように感じます。また、貧しい人々の手から食料を取り上げるような社会構造から外れては生きられない罪悪感、暴力に晒されている人がいてもそれを阻止できない無力感もあります。耳を塞がない限り、苦しみの叫びがあちこちで満ちている社会で生活している、そんな現実があるのかもしれません。
一方、聖書にもたくさんの苦しみや悲しみが登場しますが、ひょっとすると現代社会と似ているのかもしれないとも思うのです。それは、苦しみを抱える人は自業自得。「本人や先祖がわるい」のであり、「神の恵みや愛を受けるのにふさわしくない」証拠なので、それらの不幸が自分にも“飛び火”しないよう、困難や悲しみの中にある人々とは関わらない、という風潮です。そして、重荷を抱える人はますます孤立し、さらに困難のハードルが上がっていきます。
しかしながら、イエスさまの行動をみると、困難の中にある人にわざわざ会いに行きます。苦しんでいる人のそばに居て、辛さを分かちあおうとされます。つまり、想定しない災いに遭うのは神からの罰ではなく、その人が苦痛に相応しいわけでもない、というメッセージなのではないでしょうか。わたしたちは素晴らしい出会いをしたら、辛い別れもあることを知っています。喜びがあれば苦痛もあることに対し、「神は、なぜ喜びだけを与えないのか」という問いには、残念ながら説得力のある答はありません。また、苦痛や悲しみに蓋をしても、それが消えて無くなるわけでもありません。でも困難の中にある人々に、イエスさまがあえて寄り添ったように、わたしたちもまた、人々が抱える孤独と辛さを分かちあおうとすること、そして心の底から、恵みと慈しみを受けるのにふさわしい「神さまにとって大切な人」だと信じること、そして、それらを伝え続けることはできるのではないでしょうか。「自分の十字架を負う」と、今日の福音書には記されていますが、たったひとりで、孤独のうちに十字架を担ぐようにとは書いてありません。イエスさまがそばにいて、一緒に重荷を担ってくださるという約束を信じ、辛いことを分かち合いながら、助け合いながら、わたしたちも生きていくことができますように!
「洗礼」を受けたイエスさま
マルコによる福音書1章9節~13節
2021年2月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
先週の水曜日から大斎節(レント)に入りました。復活日(イースター)を迎える前に過ごす「日曜日を除いた40日間」の始まりです。レントは、イエスさまが40日間「荒野でサタンから誘惑を受け」たことにならい、わたしたちは荒野に行かないまでも、お肉や高価な食材を避けたり、あるいはチョコレートや嗜好品を断つなどして(人によります)、改めて自分のいのちの根源に目を向け、生き方について内省する期節ということになっています。大斎節最初の日曜日の福音書の箇所は、イエスさまが「洗礼」を受けるシーンですが、それにしても、「洗礼」とは何なのでしょうか。洗礼を受けると何かよいことがあるのでしょうか。洗礼の前と後では何が変わるのでしょうか。『祈祷書』を見ると、「洗礼を受ける人に必要なこと」は、「罪を悔い改めて悪の力を退け、イエスを救い主と信じ、自分自身をキリストに献げることです」(263ページ)とあります。なんだか大変そうだし、とても自分には無理!と感じるかもしれません。それにイエスさまは、そもそも「罪を悔い改める」必要があったのか?などという疑問も浮かび、アウェイ感(←ちょっと古い!)は増すばかりです。
「洗礼」という分岐点を通過した人と、通過していない人を「区別」するための儀式として洗礼をとらえてしまうと、そのアウェイ感は絶大な力を持ちます。そのような誤解を与えてきた教会の責任はありつつも、でも実際は少しちがうのではないかとも思うのです。
イエスさまが洗礼を受けて水の中から上がると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が天から聞こえてきました。これは、イエスさまが神のひとり子なのだから「愛する子」と呼ばれるのは当たり前!と思ってしまいそうですが、実はわたしたちひとりひとりは、生まれる前からずっと「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と呼ばれ続けている存在なのではないかと思うのです。生まれた時から、そして成長する過程で、そして「良い子」でいる時も「わるい子」の時も変わりなく、ずっと「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と呼ばれている。でも、「罪」(=まとはずれ)な生き方をしているとその声は聞こえず、「罪」の中にいると自分なんて価値がないと追い詰め、「罪」を意識しなくなると何が「まとはずれ」なのかも分からなくなる。「まとはずれ」な生き方のサンプルには事欠かないですが、重要なのは「洗礼を受けるか否か」ではなく、わたしたちは神さまに愛され大切にされ心にかなって生きている存在なのだという事実を知ることなのではないでしょうか。洗礼を受けた「から」愛されるのではなく、いのちが生まれた時からずっと愛され続けてきたことを認めることにより、心の耳が開かれ、そのことを認知していくプロセスを「天からの声」として聖書は記しているのではないでしょうか。洗礼はマジックではなく、自由意志によるひとつの認証ではないかと私は思うのです。
洗礼を受けると自動的に「教会の信徒のメンバー」のひとりになります。そして、今までは「信施」という、教会の外(一般NPOなども含め)の働きを支える献金しかお捧げできませんでしたが、洗礼を受けて信徒になると、教会の運転資金である「月約献金」に参加する権利が生まれ、その他の運営や構成についてかかわる権利が生まれます。洗礼の目的は、「教会のために奉仕する」人を養成することではなく、「教会を通じて世の中の人のために奉仕する仲間」を養成することだと思います。何十年も前に洗礼を受けた人と、受けたばかりの人、そして考え中の方、また洗礼を受けることは予定していない方もご一緒に、教会というツールを通じて、さらに自由で解放された人生へと招かれていきましょう。
栄光から栄光へと、主と同じすがたに
マルコによる福音書9章2節~9節
2021年2月15日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
1959年に発行(改訂)されたいわゆる「文語」祈祷書の聖餐式の中では、「聖なるかな」を歌った後に、「感謝・賛美・栄光・知恵、ほまれ・ちから・いきおい、世々限りなく全能の父なる神にあらんことを」と唱えて、パンとぶどう酒を聖別する祈りへと進んでいきました。(現在用いている祈祷書では、174ページ「天の父よ、〜わたしたちの感謝賛美をお受けください」というあたりです)
わたしたちからの感謝と賛美を、神さまにお受けいただく、という内容のお祈りなら、わかる気がするのですが、何故「栄光」だの「ほまれ」を祈るのか、不思議に思っていました。神さまが、いわゆる栄光や知恵をもっと必要とされていたとは思えないし、ちからや勢いを要求してくるような方にも思えなかったからです。15〜16世紀に活躍したマルチンルターという神学者がいましたが、彼は何人も到達し得ないような遥かかなたの光輝く存在になることが「神の栄光」ではなく、イエス・キリストの受難と十字架が、神の栄光であると説きました。つまり、成功物語としての栄光ではなく、何もかもが無駄だったと後悔するような死、人々に誤解され裏切られ、さらに弟子たちからも見捨てられるという十字架こそが「神の栄光」であると。
今日の福音書では、この「神の栄光」に向けてエリヤやモーセと相談しながら準備を始めたイエスさまに、ペトロはわけのわからないことを言い出します。眩しいほどに光輝いていくイエスさまを見たペトロは、普段聞いている神の栄光ではなく、成功物語のような一般的な「栄光」をイメージして、「すばらしいこと」と口走ります。毎日一緒にいるのに、貧しい人々の痛みを分かち合うイエスさまではなく、理解されなくても小さな人々に仕えるイエスさまではなく、エルサレムに凱旋し、人々をうならせ、支配階級や指導者たちの頂点に立つイエスさまに祀りあげようとします。そして、そういうイエスさまと一緒で良かった、自分にも「おこぼれ」があるかも、という欲さえ見え隠れします。しかし、そういうペトロを、イエスさまは叱りもせず、「今見たことは、皆にふれて回ることではない」とだけ言います。お弟子さんたちが、イエスさまの使命を全く理解できていないばかりではなく、そもそも、この世の名声や地位を求めて自分を見上げていることを感じたとき、イエスさまは寂しかったことでしょう。
もしわたしたちが、「主と同じすがた」へと変えられていくことを、この世での成功物語として望み見ているなら、ペトロと変わりはないでしょう。皆に受け入れられやすい自分を目指すのではなく、神さまが用意されている真の栄光へと向かいましょう。そんなとき、わたしたちもまた「主と同じすがた」となり、輝くような光をはなつのではないでしょうか。
病いといたみ
マルコによる福音書1章29節~39節
2021年2月8日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
イエスさまによって病気が癒された話、またはその人が生きる希望を再び見出した話を読むと、「イエスさまが病気を癒したのは二千年前。現代ではない」と思ってしまうことがあります。どのおうちでもそうだったかもしれませんが、私のこども時代、家族や親戚の中に結構な数の病人がおり、どよ〜んとした暗く重い空気が支配していました。痛みや苦しみを負っている本人はもちろんつらいのに、その人がいることによって周りがどれだけ迷惑しているか、負担に感じているか、という感情を隠さない大人たちもいました。病気になったのは、本人の悪事か先祖の悪行のゆえ、つまり神の祝福から漏れている証という「聖書の時代」の概念そっくりだったのです。そういう方々の多くは、「人間死んだらおしまい」という恐怖の念も持っていて、病気の話や体力が衰えていく兆候なども、なるべく話題にするのを避けていたように思います。
そんなときは、「神さまは私たちを愛してくださっているのに、なぜ病気になるのだろう」「人はなぜ死んでいくのだろう」「苦しい思いをして生き、死んでいくのは何故だろう」という疑問が浮かびます。たとえ、それに対する素晴らしい(?)正解があっても、心身の病いの苦しさや痛みは相変わらず存在しますが、聖書の時代は、痛み止めも気管支拡張剤もなかったので、人々は亡くなるまでの時間をじっと病いに耐えることに加え、天の国で神さまの腕に抱きとめられ、すべての苦しみから解放されることを望むことすら許されませんでした。「神の祝福から漏れている人たち」だったからです。
この世に滞在する時間の長さに大小はあっても、私たち人間はいずれは役割を終え、神さまの国に迎え入れられるものです。イエスさまによって病を癒され、いのちを取り戻した人々が、何事もなかったようにこの世での「役割」に再び戻る。これはいわゆる「奇跡」を誇張する物語ではなく、「今、生きていること」と「役割を終えてあちらへ行くこと」の間には、私たちが不安になるほどの距離や隔たりはないのです、という話ではないかと思うのです。お別れはもちろん悲しいし寂しい。しかし必要以上に恐怖を感じたり、死を否定することによって、今生きているいのちを見逃しにしてしまう、その方がよっぽどもったいない、そういうメッセージなのではないでしょうか。辛さはあっても希望を見出すことのできる私たちでありたいと思います。
魔がさすとき
マルコによる福音書1章21節~28節
2021年2月3日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
聖書には、「悪霊」に取り憑かれた人々が、イエスさまによって解放され、病気その他の問題から癒される物語がしばしば登場します。今のような概念の「医学」が一般的ではなかった時代は、悪霊がその人にとりついたとき、心や身体の不調がおきると考えられていたようですが、それは単に「迷信的」な常識とはあなどれないところがあります。現代でも、西洋医学の発達により様々な症状はかなり取り去ることができますが、根本的な問題が解決されていないと、またいつかは元の木阿弥、というのはよくあることです。聖書の物語は、私たちにあまり分かりやすいようには書かれていませんので、実際にどういう病気が癒されたのか、その人にどういう変化が起きたのかなど、正確なところはわかりませんので、「奇跡を起こせるから、イエスさまはすごい」というような解釈が独走する一方で、「だまされやすい人たちがペテンにかかっただけ」など、眉唾物の話として片付けられてしまったりもします。
でも例えば、甘いものを食べ過ぎるのは身体に良くないと分かっていても、睡眠や生活に必要な時間を削って仕事を続けるのはまずい!と分かっていても、身体を壊すまで止められないときがあります。むくむくと物欲にかられ、美味しい話に乗って大損をすることもあります。手痛い代償を払ったあと、二度とこういうことに心惹かれなければ問題ないのでしょうが、もし何度も同じ失敗を繰り返していたなら、それは「甘いもの」や「物欲」をほどほどに控えたところで、実は何も解決していないのだということがわかります。せっかく我慢してきたのに、目の前に置かれたケーキがわるい、金儲けの話をささやいた他者がわるい、のではなく、それらに手を出さなくてはいられない、私たち自身の心の中の渇きというか痛みが1番の原因です。痛みの存在を認め、渇きに手を差し伸べなければ、苦しみは続いてしまうのでしょう。
そんな時こそイエスさまに心の癒しを必死に求めるときなのに、「こんな自分なのだから、イエスさまに助けを求める資格などない」「耳を塞ぐ方が簡単だ」という声が、案外、内側から聞こえて来ます。それこそが、「魔がさす」声です。思わずその声に聞き従いたくなるときもありますが、とりあえず「黙れ、私から出て行け!」と叫んでみましょう。心を尽くし言葉を尽くして「あなたを救いたい」と言い続けて来たイエスさまを、改めて心に迎え入れられるよう全身で祈りましょう。聖書のいう「悪霊」は、私たちの外からやって来るのではなく、実は内なる「魔がさすとき」の自分の声なのかもしれません。
人間あいての漁師
マルコによる福音書1章14節~20節
2021年1月24日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
昔々、まだ10代だった頃、専門分野の異なる学生で定期的に集まり、勉強会のような集まりを自主的にやっていたことがあります。グループのメンバーはバラエティに富み、物理や文学、建築や栄養学までいましたが、「今、これが面白い。自分はこんなことに興味を持っている」ということをテーマに、交替でプレゼンをするような会でした。面白い話も、全然面白くない話もありましたが、思い返せば、他のどんな専門分野の話を聞いても、どこかで自分の分野(当時の私は音楽)のモノサシに当てはめて、理解しようとして(あるいは「利用しよう」と頭を思い巡らして・・・)いた気がします。
今日の福音書の話は、漁師という専門分野の登場です。「どうやって魚を獲るか」という専門家として、生涯その仕事にたずさわってきたシモンとアンデレに対し、イエスさまが「私と一緒に人間をとる漁師になり、手伝ってほしい」という表現を用いたのは、それがシモンとアンデレにとって「わかりやすい言葉」だったからかもしれないなと思うのです。もっとも、「人間をとる漁師」というと、人間を商品化し売買して利益を得るような気味の悪い商売を連想してしまう、という方もおられましたが、原語を見ると「人の漁師」「人間相手の漁師」という言葉が使われています。そういう意味では、イエスさまや福音書の記者にとって「人間という個体を利用して、ひと儲けしよう」という意図ではなかったように思います。
魚をとる漁師は、当時の職業的ヒエラルキーの中では相当下積み。そして完全な肉体労働でした。怪我をしたり、体調を崩したりすると途端に困る、身体が資本の職業だった(それはどんな職業でもそうかもしれません)一方で、「人間相手の漁師」はというと、貧しく虐げられた人々の生活とまさに向き合う仕事、ということになります。関わりたくないと思ってもイエスさまと共に人の情けなさや弱さ罪深さと真正面から向き合わざるを得ない、そして人々の痛みに触れる、やっぱり身体が資本の肉体労働でしょう。「人間相手の漁師」もきれいごとでは収まらず、「お弟子」となったシモンもアンデレも、できれば知らずに済ませたかった自分の弱点や認めたくないような腹黒さとも向き合うことになります。教会に連なる私たちは皆、「人間あいての漁師」として、イエスさまに招かれました。大切なのは、自分の弱点や腹黒さや情けなさに埋没するのではなく、イエスさまと共に、人々の痛みに触れることなのではないでしょうか。
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」
ヨハネによる福音書1章43節ー51節
2021年1月21日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
「モーセの律法にも書いてある『救い主』、預言者たちも口々に語っている『あの方』に、なんと私たちは今、出会っているのだ。しかもその人は、ナザレから来ている」と、いわば万感の想いを込めて語ったフィリポに対し、ナタナエルという人は、「ナザレなどから良い人物が出るはずがない」と返事をしたのが、今日の福音書にある表題の言葉です。フィリポが言いたかったのは、イエスがナザレ出身かどうかということよりも、「永い間待ち望み、神さまが約束してくださったあの方と今、自分たちは一緒に居る!」という感動を分かち合いたかったように見えますが、ナタナエルは何に引っかかったのか、「出身」についてのみ反応をしています。
スレ違いのようなこういったやりとりは、現実の生活の中では、結構多いかもしれません。家族の中や職場の人間関係でも、「伝えたかったこと」と「聞いたこと」がボタンのかけ違いのようにずれてしまい、なんだかザラザラした空気のまま、収集がつかなくなることがあります。そんな時、相手に伝えることをあきらめたり、伝わらないのは自分のせいではないと切り捨てたり、ついには相手のランク付けまでしてしまうこともあるかもしれません。
それは、神さまと私たちの間にもあるように思います。神さまは、あの手この手で、愛の素晴らしさや、「あなたが大切」であることを伝えようとされますが、私たちは聞きたいことや、聞きやすいことしか受け止めず、都合の良いことは全面的に受け入れても、耳が痛いこと、面倒くさいと思うことについては耳を塞ぎます。しかし、私たちがいくらボタンのかけ違いをしても、神さまは、決してあきらめたり、自分のせいではないと切り捨てたり、私たちをランク付けしたリはなさらないのです。興味深いのは、ナタナエルのこの態度について、イエス様はたしなめるどころか、「この人は正直な人だ」と言っています。
私たちは、自分の無知や不信仰、そして先入観や不安をなかったことにするのは、とても得意です。また、そうしないと現実の世界では身を守れないこともあるでしょう。でも、神さまの前で「わかったフリ」をするのは、私たちにとって障壁となります。事実を隠したり、自分にウソをついたりして自身を傷つけることは、神さまをとても悲しませます。ずっと以前から、そしてこれからも私たちを丸ごと受け止め、愛して止まない神さまが一緒に居てくださることに信頼し、勇気を持って前に進みたいと思います。
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ルカによる福音書6:27~38
2022年2月20日更新
司祭 ロイス 上田 亜樹子
今日の3つの聖書の箇所はどれをとっても、ひと言、一行がそれぞれ心にずっしり届くメッセージを含んでいるので、百パターンのお話が出来てしまいそう。何をテーマにしても片手落ちな気持ちですが、今日はあえて、やっぱり「イエスさまが仰りたいことは何か」ということに的を定めたいと思います。
イエスさまがおられたユダヤ教の世界では、旧約聖書の「律法」を基準として、してはいけない事、するべき事がはっきり定められていました。つまり、「してはいけない事」を避け、「するべき事」さえ実行していれば、神さまの目に正しいとされ、人々の尊敬を集められたわけです。たとえそれが、自己保身が目的であったり、律法を守れない人を見下す行為が含まれていても、あまり問題とはされませんでした。
ところがイエスさまは、(だからこそユダヤ教徒に憎まれたのでしょう)それでは不十分だとしたのです。すべての根底にはまず「愛すること」が必要だと言われました。キリスト教徒を憎むだけではなく大切な家族ごと惨殺し滅ぼし尽くそうとする「敵」に対しても、その行動を憎みこそすれ、人としてしての存在を「愛しなさい」と言われます。「目には目を」という教えが旧約聖書にあります(これは、目を潰されたら相手の目を潰すことで我慢せよ、それ以上の仕返しをしてはいけないという意味です)が、その教えさえ超越するように勧めます。何度も過ちを繰り返し、どんなに反省のない人に対しても、上から目線で「あの人は罪人だ」と決めつけることを諌めます。
こうしてみると、「愛すること」は、ハードルが高過ぎて、どんなに頑張っても到達し得ない光のようにも感じてしまいます。しかしながら、普段の生活の中でわたしたちは、「愛すること」の口当たりのよい面しか見ていませんかと、イエスさまがおっしゃるようにも思うのです。人に親切にしたり、優しい言葉で接したり、また思いやりや明るい声、そして感謝に満ちた態度なども、愛から出発する行動でしょう。でもその中には、「愛すること」から出発しているのではなく、人とうまくやっていきたい、自分に非難が向かないように立ち回りたい、和気あいあいというムード作り、といった行動を「わたしは愛を分かち合っている」と考えるのは、イエスさまの意図と少しずれてしまうのではないでしょうか。イエスさまが示される「愛すること」は、本当に簡単ではないです。でも、それをわたしたちに伝えるために、十字架にかかられたのではないでしょうか。
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ルカによる福音書19:1~10
2022年10月31日更新司祭 ロイス 上田 亜樹子
「本当に心がホッとしました」という意味で、「救われました」と言うことがあります。それは、通常の生活の中でも使われる言葉
かもしれませんが、教会の中では、どういう意味で「救われた」と表現するのでしょうか。
今日の福音書は、あのザアカイの話。ルカによる福音書だけに納められた力強いこの物語は、「救われた」ということの本質を語るものであり、わたしたちが普段気がつかないように小さい姿に押し込め、しかし心の奥底に確かに住む、「小さなザアカイ」に語りかけられているような気がしてなりません。
ザーカイは徴税人でしたから、とりあえず食うに困らない暮らしは出来ていました。農業のように天候や不作に左右されることもなく、家畜の流行病とも無関係で、ローマ帝国の支配が続く限りは、当面職を失うという心配は、あまりない職業に就いていたわけです。当時の多くの人からすれば、明日どころか来年のご飯に困らない暮らしというのは、羨望の的だったでしょう。
しかしザーカイは、秀でた才能やスキルがあったわけではなく、そもそも尊敬される職種ではなく、そして人々からは「罪深い男」と呼ばれていた。生活は成り立っていたけれど、自分には金はあるというプライド、しかし実は他に何も誇るものがないという現実。そんな自分の虚しさと、この先どうつきあったらいいのか途方に暮れつつ、日々苦しんでいたザアカイは、「イエスという人が町に来る」ことを聞きつけ、胸の中がなんだかざわざわします。自分から話しかける勇気は到底なく、せめてどんな人物か見てみようと思ったザアカイの、登った桑の木の下を一行が通り過ぎようとしたその時、イエスさまは顔を上げてザアカイ(「清い」という意味)の名前を呼び、あなたの家に泊めてほしいと頼みます。ザアカイは、もう何が何だかわかりませんでした。「罪深い」自分が声をかけられるなんて、夢にも思いませんでしたし、自分と口を聞いたイエスさまが、その結果として町の人からどう思われるか、なんて吹っ飛んでいました。ザアカイにとってイエスさまとの出会いは、それこそ宇宙がひっくり返るような出来事に感じたのでしょう、すぐに桑の木を降り、イエスさまとお話しします。そこでザアカイが知った確かなことは、「自分も愛されて良いのだ」ということでした。それまでザアカイは、自分の人生を心の中に閉じ込め、悲しさや寂しさを感じないようにしてきましたが、実は自分もまた、神さまから愛され、そして神さまの大切なこどもであることを思い出したのです。そして自分を愛することを取り戻すと、自分の周りの風景が見え始めます。今日、出会う人も、神さまが愛されている大切な人であることを理解したのです。